ジョヴァンナ・ダラゴーナ (1455-1517) – Wikipedia

ジョヴァンナ・ダラゴーナ(Giovanna d’Aragona, 1455年6月16日 – 1517年1月9日)は、ナポリ王フェルディナンド1世(フェランテ)の2番目の王妃。アラゴン王フアン2世とその2番目の王妃フアナ・エンリケスの間の娘。アラゴン王・ナポリ王フェルナンド2世の妹。スペイン語名はフアナ・デ・アラゴン(Juana de Aragón)。 フェランテ王は父フアン2世の兄アラゴン・ナポリ王アルフォンソ5世の非嫡出子で、フアン2世の末娘ジョヴァンナを後妻として求め、フアン2世に認められた[1]。1476年9月14日に代理結婚式が、10月5日にナバラで婚姻契約の署名式が、11月25日に婚姻契約の批准式が行われた[1]。フアン2世がジョヴァンナのために用意した花嫁持参金は10万金フローリンだった。フェランテ王は王妃化粧料としてソレント、テアーノ、イゼルニア、テーラモ、スルモナ、フランカヴィッラ、ノチェーラなど多くの公爵領・都市をジョヴァンナに贈ったうえ、年額2万ドゥカーティもの高額の年金受給資格を与えた[1]。フェランテ王の長男カラブリア公アルフォンソが1477年6月11日にイベリア半島に向けてナポリを発ち、同年9月1日ジョヴァンナを船に乗せてナポリへ連れ帰った。正式な婚礼が同年9月14日に王妃の同国人であるロドリーゴ・ボルジア枢機卿の司式で行われた[1]。ジョヴァンナは1479年に女児ジョヴァネッラを、1480年に男児カルロを出産したが、男児の方はすぐに亡くなった。 ジョヴァンナはナポリ国政への関与に積極的で、教皇インノケンティウス8世とデッラ・ローヴェレ枢機卿に教唆された領主アントネッロ・サンセヴェリーノ主導の反乱発生後の1485年8月、諸地方の領主の夫君フェランテ王に対する忠誠心を保証させるために、王国の領内各地を旅行している[1]。この反乱の鎮圧後、ジョヴァンナは娘を連れてアブルッツォ州に向かい、同州ラクイラの諸修道院に詣でた[1]。 1494年1月25日、フェランテ王が71歳で死去し、カラブリア公がアルフォンソ2世として即位した。王妃を座を失ったジョヴァンナのショックは大きく、5月8日に行われた継息子アルフォンソ2世の戴冠式にも出席できなかった。彼女はこれ以降、自分の全ての手紙に自分の呼称として「嘆きの女王(la triste reyna)」という表現を使った。アルフォンソ王は継母を気遣い、ジョヴァンナ王太后にナポリ王国総監(英語版)(国王不在時の総督職)の地位を与えた[1]。1495年フランス軍がナポリに侵攻すると、アルフォンソ2世は退位して息子のフェルディナンド2世(フェランディーノ)に譲位した。その際アルフォンソ王は息子に、出来るかぎりジョヴァンナ王太后の助言を受け入れて行動すること、そして王太后の機嫌を損ねないことを訓告して宮廷を去った[1]。フランス軍の退却後、ナポリ王室が1495年10月13日にナポリに帰還すると、ジョヴァンナ王太后は娘ジョヴァネッラと新国王との婚姻を提案、2人の婚礼は1496年2月28日に行われた。しかしフェランディーノは半年後にマラリアのため急死、ジョヴァネッラは17歳で未亡人となり、母親と同じく「嘆きの女王」と手紙に署名するようになる[1]。 王太后として政治的影響力を保ちたいジョヴァンナは、娘ジョヴァネッラを王の後継しようと画策したり、実兄のアラゴン王フェルナンド2世に正統な王位継承権(フェランテの家系は庶子のため)を主張してナポリ王位に就くよう唆したりしたが、いずれも上手くいかず、アルフォンソ2世の異母弟フェデリーコ1世が次の王となった。新王フェデリーコ1世とジョヴァンナ王太后との関係は当初極めて冷淡なもので、ジョヴァンナは新王の即位後すぐに総監職を辞してアヴェルサに隠遁し、フェデリーコの戴冠式にも出席しなかった。1年後、ジョヴァンナは総監職に復帰してナポリ宮廷に戻るが、今度は王妃イザベッラと共同で総監を務める形となった[1]。 1504年再度のフランス侵攻の後、ジョヴァンナは実兄アラゴン王フェルナンド2世がナポリ王を兼ねるナポリ宮廷に帰還し、静かな余生を送った。1517年に病を得てすぐに亡くなった。娘ジョヴァネッラも翌年母親の後を追うように死んだ[1]。 引用・脚注[編集]

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西久保八幡貝塚 – Wikipedia

西久保八幡貝塚(にしくぼはちまんかいづか)は、東京都港区虎ノ門5丁目の西久保八幡神社境内にある縄文時代の貝塚。東京都指定文化財(史跡)。 座標: 北緯35度39分41.41秒 東経139度44分33.38秒 / 北緯35.6615028度 東経139.7426056度 / 35.6615028; 139.7426056 西久保八幡神社(2016年7月2日撮影) 西久保八幡神社は住所表記では虎ノ門といっても虎ノ門の最南端、隣りの施設の住所は麻布台になる場所にあり、六本木から南東方向に延びる台地の上にある[1]。現在は海からは遠いが縄文時代には縄文海進で海面が高かったため海には程近い場所であった[2]。 ほとんどの土地で開発が進んでいる東京の貝塚は人の手による破壊が進み、ほとんど消滅しているが、神社境内にあった西久保八幡貝塚は良い保存状態で残されていた[3]。 西久保八幡神社敷地内に貝塚があることは1933年の調査で判明し縄文時代後半の貝塚として知られていたが[4]、1983年までは詳しい調査は行われていなかった[5]。1983年、東京都教育委員会が国庫補助を受けて実施した東京都心部遺跡分布調査団によって[6]西久保八幡神社社殿裏に幅2メートル長さ10メートルの溝を掘って調査が行われている[5]。 台地の斜面上にある貝層は堀之内Ⅱ期から加曾利BⅠ期のハイガイ、ハマグリを主とする下にある貝層と加曾利BⅡ期から曽谷期のかけてのオキシジミガイ、オオノガイを主とする上に位置する貝層の2層が見つかっている。ハイガイ、オオノガイいずれも海水産の貝である[2][7]。貝層上層と下層の間に貝層形成期の空白があるように見えるが、調査範囲が狭い結果で、出土土器の解析からはこの貝塚の形成は縄文時代後期前葉の堀之内式土器の時代から縄文時代後期後葉の安行式土器の時代まで連続していると考えられている[8]。 出土した貝や動物骨は貝が28種、魚類が23種、両生類3種、爬虫類2種、鳥類2種、哺乳類8種であった[7]。貝層の上下で主となる貝の種類が異なるが、発見される魚骨も上に行くほど種類が少なくなっている[9]。哺乳類はウサギ、タヌキ,キツネ、シカ、イノシシ、ネズミ、コウモリ、モグラなどの骨が見つかっているが、最も多く見つかっているのはイノシシの骨である[10]。 土器は種類多く見つかっている。深鉢形土器、鉢形土器、注口土器など丹念に磨いたり美しい文様をつけた精製土器や比較的単純な粗製土器が多数見つかるほか、石器や牙・骨製品も発掘されている。骨角器作る際に用いられたみられる砥石も見つかっている[11]。 比較的近くにある伊皿子貝塚や丸山貝塚では豊富な貝殻が発掘されるが土器や獣魚骨などは少なくこれらが住居跡ではなく貝の加工場跡であると推察されるのに比べて、西久保八幡貝塚では相対的に貝殻の出土量に比べて土器や石器、牙・骨製品、あるいは獣骨が多く見られる。西久保八幡貝塚はこの付近に住民の住まいがあり、生活に伴うゴミ捨て場であったのだろうと考えられている[12]。 参考文献[編集] 東京都教育庁社会教育部文化課

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シング・イット・ラウド – Wikipedia

シング・イット・ラウド 出身地 アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス ジャンル ポップ・パンクエモポップ・ロック 活動期間 2007年 – 2010年 レーベル エピタフ・レコード ソニー・ミュージック 公式サイト epitaph.com メンバー パット・ブラウンネイト・フラインベン・ピーターソンキエレン・スミスクリストファー・リー シング・イット・ラウド(Sing it Loud) とは、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスで結成されたポップ・パンクバンドである。

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西日本鉄道百道浜自動車営業所 – Wikipedia

百道浜自動車営業所所属車両 百道浜営業所(ももちはまえいぎょうしょ)は西日本鉄道のバス営業所の一つで、主に藤崎・西新・シーサイドももち地区の路線を担当する。営業所表記は○も[1]。2002年5月に西新営業所から現在地に移転と同時に百道浜営業所に改称された。整備場を持たないため、今川整備(西鉄観光バス福岡支社併設)にて整備を行っていたが2010年12月の西鉄観光バス再編に伴い、同整備が廃止され、愛宕浜整備に変更された。 福岡県福岡市早良区百道浜二丁目3番33号 最寄バス停:福岡タワー南口・福岡タワー(TNC放送会館) 市内各所から福岡タワー(TNC放送会館)(6番のみ福岡タワー南口)発着路線が多く設定されている関係で、天神地区などと同様に市内各営業所の車両を見ることができる。 管轄路線[編集] 2022年3月19日現在の路線(太字は終点・始発停留所) 渡辺通幹線[編集] 渡辺通幹線専用塗色の車両 主にシーサイドももち地区・天神と西鉄大橋駅を都市高速経由で結ぶ路線。 那珂川営業所、福岡高速営業所と共同運行。 ■■ W1 (那の津口→大橋駅:■W) 福岡タワー(TNC放送会館) – ヒルトン福岡シーホーク – PayPayドーム –

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超能力少年ダイジ – Wikipedia

超能力少年ダイジ(ちょうのうりょくしょうねんダイジ、1982年3月21日 – )は、日本のピン芸人。 千葉県出身。西口プロレスに所属していた。 経歴・人物[編集] 旧芸名は、「カミナリダイジ」。 身長171センチ。体重70キロ。趣味は、立考える事、夢を見る事、音楽を聴く事。特技は、缶を手につける、豆知識。 過去に、うつのみや八郎と共に漫才コンビ「東京ゴブリン」を結成し、ツッコミを担当していた。 現在参加している西口プロレスでは、身長、体重、出身地は共に不明だがウエストだけは判明している謎のレスラーとして活躍し、超能力でレスラーの動きを自在に操るが、着ている学生服を脱がされたら超能力は使えなくなるという設定がある。 プロレス以外の際は、「ダイジ」という名で活動することもある。ネタには、よくスプーン(曲げやすく加工してある)を使用していた。 得意技・必殺技[編集] 「超能力式ヘッドロック」 途中からブルドッギング・ヘッドロックにもっていく。 「超能力式キャメルクラッチ」 「サイキック」 「超能力投げ」 真空投げとも言う。遠くから相手を回転をつけて投げるような動きをして、相手はその通りに投げられる動きをする。 この他にも、波動砲を使うことや、レフェリーを操るほどの力を発揮することもある。 一部では、出身地の表示が広島県となっている。 カミナリダイジの名で西口のリングに上がっていた頃は、ジェイソンマスクを付けて、虎柄のパンツを履いていた。

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ノック! ノック! ようこそベアーハウス – Wikipedia

『ノック! ノック! ようこそベアーハウス』(原題:Bear in the Big Blue House)は、ディズニー・チャンネルで放送された子供向け番組。制作はw:Mitchell Kriegmanとw:The Jim Henson Company。 この番組はベアーと仲間たちのパペットが自分たちの生活を通して生活に必要なことを教えていくという内容である。 2004年、 The Jim Henson Company はこの番組のメディアフランチャイズ権をウォルト・ディズニー・カンパニーに売った。キャラクターの所有および操作はThe Muppet

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イースタン航空66便着陸失敗事故 – Wikipedia

イースタン航空66便着陸失敗事故(Eastern Air Lines Flight 66)とは1975年6月24日にアメリカ合衆国で発生した航空事故である。事故原因として気象現象のひとつウインドシアが初めて注目された事例でもある。 事故の概略[編集] 1975年6月24日、イースタン航空66便はルイジアナ州ニューオーリンズを出発し、目的地のニューヨークまで目前であった。ジョン・F・ケネディ国際空港の22L滑走路に着陸すべく最終アプローチ中であった。66便の直前に着陸した複数の航空機は雷雨を通過した際にダウンバーストに遭遇したが、無事着陸していた。とはいえ、それらの航空機のなかには一時的に墜落寸前の状況となったイースタン航空のトライスター(イースタン航空902便)もあった。しかし地上の管制塔の気象観測器ではそのような強い風は観測されていなかったことから、滑走路を閉鎖する措置は講じなかった。 しかし66便は、着陸アプローチ中に巨大なウインドシアに遭遇した。まず大きく機体が持ち上げられた後で、雷雲の中心からの強い下降気流につかまっていた。そのため速度の低下と急激な降下率という致命的な状況に陥った。その結果、滑走路の手前2400フィート(約730m)の地点にあった誘導灯に激突し、機体の左翼外縁が引き裂かれた。機体は大きく旋回し大破し炎上した。この事故では誘導灯が航空機が接触した場合に倒れる構造となっていなかったため、66便の機体が引き裂かれる状況となった。この事故で乗員乗客124名のうち12人が救助されたが、そのうち3人が事故から1週間後に病院で死亡した。最終的な生存者となった客室乗務員2名と乗客7名は、いずれも66便の機体後部に着席していた。また、NTSB(国家運輸安全委員会)では事故後7日目以降に死亡した搭乗者は死者数としてカウントしないこととしている。 事故原因[編集] 当初は操縦乗員の操縦ミス説もあったが、気象学者の藤田哲也が、事故原因はダウンバーストに事故機が突入したことによると証明した。66便は高度500mを飛行中にダウンバースト(マイクロバースト)に遭遇し急激に高度を失っていた。この時に操縦乗員は計器ではなく外の対象物の視認に努めていたが、激しい雨のため視界はきかなかった。また機体が地表付近の下降気流により、大きく押し下げられていることに気が付いていなかった。ようやく最後の瞬間になって着陸復行して地表への激突を回避しようとしたが手遅れだった。 また、NTSBはウインドシアの規模から推測して着陸をやり直すのは難しかったとしている。そのため、事故の最大の要因はウインドシアが発生している気象条件の下で着陸しようとしたことであるとした。また藤田がドップラー・レーダーにより事前にある程度予測可能であることを立証したことから、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備される契機となった。 参考文献[編集] デビッド・ゲロー「航空事故」(増改訂版)イカロス出版 1997年 ^ 事故後1週間以内の生存者は12人。 ^ 事故1週間後以降に死亡した者を含めない場合は112人。 関連項目[編集]

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会田弘継 – Wikipedia

会田 弘継(あいだ ひろつぐ、1951年 – )は、日本のジャーナリスト。米国保守思想の専門家として知られる。 関西大学客員教授[1]、共同通信客員論説委員[2]、上智大学メディア・ジャーナリズム研究所客員研究員。米論壇誌American Purpose編集委員[3]、朝日新聞社「報道と人権委員会(PRC)」委員[4]、公益財団法人アメリカ研究振興会理事[5]、同志社大学一神教学際研究センターのリサーチフェロー[6]を務める。2020年3月まで青山学院大学教授[7]。 埼玉県生まれ。1976年、東京外国語大学外国語学部英米語科卒業後、共同通信社に入社[8]。 神戸支局、大阪社会部、外信部、ワシントン特派員(1988年-1991年)、ジュネーブ支局長を経て、2002年8月から2005年7月までワシントン支局長[9]。その後、一般社団法人共同通信社論説委員長・特別編集委員や公益社団法人日本記者クラブ理事[10]、朝日新聞社「編集権に関する審議会」審議委員などを歴任した。 2006年から07年まで東京外国語大学で非常勤講師を務め、上智大学非常勤講師(2008年 – 2010年)[11]、2015年から2020年まで青山学院大学教授を務めた。2010年度トヨタ財団研究助成プログラム選考委員長[12]、米アメリカン・インタレスト(英語版)誌の編集委員を2020年まで務め、同誌休刊とともに後身のAmerican Purpose編集委員となった。 2021年9月より、論壇チャンネル「ことのは」で番組(「会田弘継の新・黒船の時代」)を配信中。 単著[編集] 『戦争を始めるのは誰か――湾岸戦争とアメリカ議会』(講談社現代新書, 1994年) 『追跡・アメリカの思想家たち』(新潮社, 2008年) 『トランプ現象とアメリカ保守思想』(左右社

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光部杏里 – Wikipedia

みつべ あんり 光部 杏里 プロフィール 本名 大竹 杏里 出身地 日本 愛知県豊橋市 生年月日 (1983-04-10) 1983年4月10日(38歳) 最終学歴 東京女子大学卒業 職歴 NHK静岡放送局放送部契約 活動期間 2006年

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