この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年1月) 東武デハ3形電車(とうぶデハ3がたでんしゃ)は、かつて東武鉄道に在籍した電車。1926年(大正15年)に新製されたホハ11形の後身で、当初は後述のホハ12形も含め、全車客車として竣功したものを、1927年(昭和2年)に電車化改造を実施したものである。 本項では本形式ならびに同年に新製された東武初の全鋼製車であるホハ12形、後のクハ2形が属する大正15年系全般について記述する。 1926年(大正15年)当時の東武鉄道においては既に電化区間が存在し、大正13年系デハ1形・大正14年系デハ2形・クハ1形といった電車が運用されていた。しかし、当時の東武の保有路線における電化区間は伊勢崎線浅草(初代・現在のとうきょうスカイツリー) – 久喜間のみであったことから、旅客輸送の主力は相変わらず蒸気機関車牽引による客車列車であった。そのような状況を鑑み、本系列は将来的な電化進捗に際して電車化改造を施工する前提で設計された客車として、ホハ11形51 – 58およびホハ12形59・60の計10両が日本車輌製造東京支店・名古屋本店ならびに汽車製造において新製された[注釈 1]。前述のように後者については全鋼製構造の構体を採用したことによって別形式に区分されたものである。 以上の経緯によって、車体形状や台車その他は全て電車そのものの仕様で落成した本系列は、電化進捗に伴って1927年(昭和2年)に全車が電車化改造を施工され、デハ3形・クハ2形と改称・改番された。その後、戦後に実施された大改番に伴う複雑な改番や機器換装を経て、1966年(昭和41年)まで運用された。 本系列の導入経緯については、前述のように落成当時の東武の保有路線における電化区間割合の低さとそれに伴う電車の所要数に関連して客車として竣功したとの解釈が一般的になされている。しかし一方で、本系列が新製された1926年(大正15年)には鉄道省より2両(デハ43200形43237・43238)、青梅鉄道より1両(デハ1形1)、計3両の電車を借入し、うち鉄道省からの2両についてはその後約1年間にわたって借入期間を延長しつつ運用されており[注釈 2]、東武が当時保有した電車のみでは車両不足をきたしていたことが推察される[1]。また、同3両の借入理由について東武側は「同年竣功予定の車両落成遅延のため」としていることから、本系列が当初客車として竣功したことについては、単純に電装品の手配遅れによる緊急避難的なものであったとの指摘も存在する[1]。 ホハ11形は全長15,940mmの半鋼製車体であり、諸寸法は概ね大正14年系に準じているが、両側妻面が大正14年系の非貫通構造の5枚窓構成から貫通扉を有する3枚窓構成に変更された点が異なる。側面は側窓間柱太さが均等化され、窓配置は大正14年系の1D232D232D1(D:客用扉)に対して1D7D7D1と変化した。側窓は610mm幅の一段落とし窓で、大正14年系の仕様を踏襲している。客用扉は910mm幅の片開扉で、片側に3箇所ずつ設置され、客用扉直下にはステップを有する。本形式においては、同ステップ部を除く車体裾部全周にわたって台枠が露出した設計が採用されたが、車体裾部より台枠を露出させた設計については、その後長きにわたって東武形車両の特徴の一つとして継承された。 ホハ12形は前述の通り東武初の全鋼製車体を採用し、各部吹き寄せ寸法もホハ11形とは異なる。また、屋根部も鋼板となったことで全体的に角張った印象を与える外観となり、側窓が上段固定・下段上昇式の二段窓であったこと、屋根部雨樋がなく水切りのみとされたこと、車体裾部から台枠が露出した構造とはなっていないことなどが特徴であった。もっとも、東武初の全鋼製車体ということで車体修繕等における勝手が半鋼製車体のそれとは異なり、保守面で不評を買ったことから[2]、全鋼製車体の採用は本形式のみに留まり、以降の増備形式においては再び半鋼製車体を採用する結果となった[注釈 3]。 車内はホハ11形・12形ともにロングシート仕様で、トイレは設置されていない。 なお、両形式とも竣功当初より屋根上にパンタグラフ台座ならびにパンタグラフ点検用踏み板(ランボード)が設置されており、車内では運転台に相当する部分にHポールによる仕切りが設置されていた[3]。 主要機器[編集] 主要機器については両形式とも同一仕様である。 台車は住友金属工業製の形鋼組立型釣り合い梁式KS30L(固定軸間距離2,134mm)を装着する。
Continue reading
Recent Comments