Month: March 2022

ロックウッド・スミス – Wikipedia

アレグザンダー・ロックウッド・スミス(英語: Alexander Lockwood Smith、1948年11月13日 – )は、ニュージーランドの元政治家。 ルアワイ高等学校、オークランド・グラマー・スクール卒業。マッセー大学卒業後、コモンウェルス奨学金を得て、オーストラリアのアデレード大学でPh.D.取得(動物科学専攻)。アデレード大学ではボート選手として活躍しボート大会では5度の王者に輝く。 マッセー大学講師を経て、子供向けクイズ番組のテレビ司会者になる。その後、ニュージーランド乳製品評議会(現在のフォンテラ)マーケティング部門に勤務する。 政治活動[編集] 1984年の議会総選挙にカイパラ選挙区より出馬し初当選。1996年に小選挙区比例代表併用制の導入によりカイパラはロドニー選挙区に地区変更。隣接するアルバニー選挙区は国民党の重鎮ドン・マキノンの選挙区であり、保守派支持層の厚い地域であることから1996年の総選挙ではロドニーより出馬し以降、同地区の議席を保持している(マキノンは比例名簿入り)。 1990年に教育大臣に就任(1996年まで)。国民党の教育報道官時代(野党時期)に、大学生の学費引き下げを公約に挙げていたが、大臣就任後は政府から大学への助成金比率を変更、学費は事実上値上げされた。また、学生手当て(家計収入に比例)が大幅に減額されたことから、訪問先のカンタベリー大学では大規模な抗議活動が行われた。 1996年に農業大臣に就任。その後、貿易大臣、観光大臣を務め、1999年のアジア太平洋経済協力(APEC)では貿易大臣としてシンガポールとの経済緊密化提携の交渉に合意(2000年に締結)。1999年の総選挙で当選を果たすもニュージーランド国民党は野党に転落。野党議員として外務、商務、移民担当報道官を務める。 2008年の選挙中、マールボロ・エキスプレス紙とのインタビュー取材で、アジア諸国と太平洋諸島からの季節労働者に対し“(太平洋諸島出身の中には)トイレやシャワーの使い方を教えないといけない者もいる” “アジア系労働者の(果実の)摘み取りが早いのは手が小さいから”と発言。マオリ党からは人種差別主義者と強烈に批判され、ヘレン・クラーク首相(当時)も“馬鹿げた発言”と痛烈に批判した。スミスは発言内容は自らの主張ではなく果樹園経営者たちから聞いた話であるが、不適切で気分を害する発言であったことを謝罪した。ジョン・キー国民党党首もスミスの謝罪は適切であると発言内容を認めた。スミスは次期移民担当大臣への就任が確実視されていたが、キーはこの発言を踏まえスミスを国会議長職へ起用した。 2011年に議長を再任されたが、2012年に国政からの引退を表明。2013年2月に最終演説を行い議会を去る。国政での活動期間は29年。ニュージーランドの政治史では当選回数が最も多い政治家の一人である。2013年3月25日に駐英高等弁務官(駐イギリス大使)に就任。 教育大臣時代に訪問した学校でマッセー大学在学時の交際相手と偶然再会し、その後交際に発展。2009年7月に結婚した。 外部リンク[編集]

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タッジー・マッジー – Wikipedia

『タッジー・マッジー』は、山口美由紀による日本の漫画作品。『花とゆめ』(白泉社)にて1992年から1994年にかけて連載された。コミックスは花とゆめコミックスより全6巻、白泉社文庫より全3巻。 前作『フィーメンニンは謳う』から引き続き主要登場人物としてシルヴィが登場し、地続きの作品であるが、ストーリー上の直接のつながりはない。ジャンルとしては同じファンタジー作品であるが、「フィーメンニンは謳う」は異世界を主な舞台としていたのに対して、本作は人間の世界を舞台としており、対となる関係にあると言える。 あらすじ[編集] 田舎町・モーゲンに引っ越してきたロッテには、人に言えない秘密があった。それは自分が魔女であること。小さい頃からその力のために迫害され、時間は少女のまま止まってしまい、15歳からは一人家を出て隠れるように各地を転々としていたのだった。モーゲンでも早々に大家のカロリーネと孫のリヒトにバレてしまうが、二人はロッテが魔女であることを受け入れる。そんな中、ロッテは妖精の世界からやって来た青年・シルヴィと出会う。彼は人間の世界にやってきた妖精・マリーンを追ってやってきたのだが、そのマリーンは心はロッテの中に入り込んで出られなくなっており、体は行方不明という状態だった。マリーンの体がモーゲンの町にあるらしいことがわかり、ロッテは体探しに協力することになる。 モーゲンにはかつて町に住んでいたという魔女・ルルーの伝説が残っていた。町の住人達とトラブルを起こし殺されたルルーは、眠りについた精霊達とともに復活するという予言を残していた。ロッテ達によるマリーンの体探しと時を同じくして動き出すルルー。ロッテはルルーから町を守るため魔法の修行を始めるが、ロッテがあこがれる数学教師・ザヴィニーとその助手・ルーイにシルヴィは疑いの目をむける。 自らの目的のためルルー騒動を起こし、ロッテ達を利用しようとするザヴィニー。だがルルーの死の真実と予言の意味が明らかになった時、ザヴィニーは救われ、モーゲンはかつてのように人間と精霊達が共存出来る町へと変わったのであった。 主な登場人物[編集] ロッテ 本名はシャルロッテ・グリューン。外見はローティーンの少女だが、これは無意識のうちに魔法の力で時間を止めていた(単に不老なのではなく、髪がのびたりもしない)ためで、本当の年齢は70歳。魔女であることを隠すため、各地を転々としていたところをモーゲンの町に引っ越して来た。モーゲンでの家は町の外れにある一軒家だが、これはかつて魔女・ルルーが住んでいた家だった。 かつて母と暮らしていた時にハーブの使い方を覚え、自家製のハーブ製品を売って生計を立てている。ただし、魔力のせいで効き目が通常のハーブ製品よりも強い。また、ロッテのハーブティーを飲んだ人間が(本来通常の人間には見えないはずの)シルヴィの姿を見ることができるようになったり、ハーブキャンドルで真の姿が映し出されたりと、特殊な効力も発揮する。それ以外にも多くの魔法が使えるが、対象が花柄になるなどの副作用が現れていた。 当初は魔法の力を捨てたがっていたが、ルルーから町を守るために魔法の修行をする。ルルーのことを知る中で魔女の力を受け入れられるようになり、ルルー騒動の解決とともに時間も動き出し、最終回では成長したロッテの姿が描かれた。 シルヴィ ロッテの前に現れた、人間と妖精の血をひくクォーターの青年。「フィーメンニンは謳う」から引き続き登場。元々はマリーンを連れ戻すために人間の世界へやってきた。ザヴィニーがルルー騒動の黒幕であることに早くから勘づいていた。戦いの中でロッテを守りたいという気持ちが芽生える。酔うと脱ぎ上戸になる。 マリーン シルヴィに追いかけて来てもらいたいという気持ちと、シルヴィに人間の世界を見せたいという想いから、人間の世界にやって来た妖精。予想外のダメージを受けたため、心だけロッテの中に入り込んで休養していたところ、今度は逆にロッテの中から出られなくなってしまった。行方不明となった自分の体を探すため、ロッテの寝ている間に体を乗っ取っていたが、自分の存在を知られてからはロッテのウサギのぬいぐるみをベースとした体に意識を移して仮の体として使うようになる。 最初はシルヴィ一筋だったが、後にリヒトに惹かれるようになる。 事件解決後に体を取り戻すが、衰弱が激しかったため、妖精の世界へと帰っていった。 リヒト・ヘルダー ロッテの家の大家であるカロリーネの孫。学校では名うてのプレイボーイでファンも多い。ロッテが魔女であることを初めから受け入れ、協力する。最初のうちはロッテを気に入っていたが、後にマリーンに惹かれるようになる。 本当はカロリーネの実の孫ではなく、チコリに自らの計画を手伝わせようと考えたザヴィニーが、その交換条件として、娘夫婦を亡くして独りぼっちになっていたカロリーネのために作った人形だった。カロリーネを初め町の住人達は、ザヴィニーの術によりリヒトがカロリーネの実の孫であると信じている。この事実を知ったリヒトは一度はマリーンやカロリーネの元に帰るのをためらうが、マリーンの呼びかけに応じ、カロリーネの元に「孫」として帰る。

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上毛電気鉄道デハ160型電車 – Wikipedia

上毛電気鉄道デハ160型電車(じょうもうでんきてつどうでは160がたでんしゃ)[注釈 1]は、かつて上毛電気鉄道に在籍していた電車。1956年(昭和31年)に譲り受けた西武鉄道モハ201形モハ203がその前身で、1960年(昭和35年)に鋼体化改造を施工したものである[注釈 2]。 本項では本形式の他、一連の鋼体化改造によって同一の車体となった(デハ800型・クハ60型・クハ300型・クハ1060型)、もしくは同一の車体で新製された(デハ170型・デハ180型)全ての形式について記述する。 上毛電気鉄道では戦時中から1950年代半ばにかけて、増加しつつあった利用客に対応し輸送力増強を図るため大量の中古車を購入しているが[注釈 3]、その中には従来車よりもはるかに見劣りする老朽木造車が多く含まれていた。しかしこれは資材不足等に起因する車両製造に関する各種制約が厳しい中、急増する需要に対応するためには止むを得ない措置であった。 輸送力増強が一段落した後、それら木造車の更新・鋼体化が計画されたのはいわば必然であり、結果1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)にかけて登場したのが本グループである。鋼体化改造と同時に車体が延長・大型化されたことで更なる輸送力増強に寄与しており、また増備の途上では鋼体化改造車と同一の車体で新製された車両も登場した。なお、本グループの鋼体化改造および新製は全て西武所沢車両工場で行われ、そのためか同時期に製造されていた西武鉄道の通勤形車両との相似点が随所に見受けられる。 車体[編集] 本グループはその出自から、種車の台枠を延長改造した上で車体を新製したものと台枠から新製したものに二分されるが、完成した車体は車体長18,000mm、車体幅2,755mmで統一されている。デハは両運転台車、クハは中央前橋向きの片運転台車で、デハの中央前橋寄り正面とクハの西桐生寄り連結面に貫通扉・貫通路を備え、それぞれ反対側正面は正面3枚窓の非貫通構造とされている。運転台は従来車と同じく右側に設置され、ノーシルノーヘッダー構造の車体に片側3ヶ所の1,100mm幅片開客用扉を備える。また、雨樋が側面から正面まで車体全周に渡って通されており、正面部分の雨樋が緩やかな曲線を描いていること等、西武クハ1411形に類似した設計となっている。窓配置はデハがd1D5D5D1d(D:客用扉、d:乗務員扉)、クハがd1D5D5D2であり、乗務員扉の数を除けば両者の窓配置はほぼ同一である。ただし、西桐生寄り客用扉の引き込み方向がデハは車体中央方向であるのに対し、クハは車端方向である点が異なっていた。側窓は二段上昇式で、全車製造当初からアルミ無塗装窓枠を装備している。ベンチレーターはガーランド型で、うち2個は大型の特殊形状のものを搭載し、その直下に車内送風機としてファンデリアが設置された[注釈 4]。 以降、1962年(昭和37年)に竣工したデハ800型(801)まで、一部の設計変更を除いて同一形態で製造されたが、1963年(昭和38年)に竣工したデハ180型(181)では、当時西武所沢工場にて新製増備中であった西武701系の設計意匠が数多く取り入れられた。車体長・車体幅といった諸元は他車と同一であったが、側面から屋根にかけての断面形状が西武701系と同一となり、雨樋位置が若干上昇したことで印象に変化が生じている。客用扉はアルミハニカム構造の1,300mm幅両開扉で、側窓や戸袋窓、乗務員扉といった部品と併せて西武701系と同一品が使用された。これら仕様変更によって窓配置もd1D3D3D1d(D:客用扉、d:乗務員扉、戸袋窓は省略)と変化している。また、ベンチレーターがグローブ型に変更され、車内送風機はファンデリアに代わって扇風機が搭載された。正面形状については他車と変わりないが、前後正面ともに貫通構造とされたことが特徴であった。 なお、上毛電気鉄道のかつての標準塗装として知られた黄色[注釈 5]一色塗りは、デハ181がこの塗装で竣工したことが起源であり、他車も従来の茶色一色塗りから順次塗装変更が行われている。 主要機器[編集] 単位スイッチ式手動進段制御器[注釈 6]とウェスティングハウス(WH)製WH556J型主電動機[注釈 7]、もしくはWH556J型の国内コピー製品である芝浦製作所(現東芝)製SE132B型主電動機[注釈 7]の組み合わせで、いずれも上毛電気鉄道における標準品である。駆動方式は吊り掛け駆動、歯車比は3.045(22:67)である。ただし、モハ801のみは芝浦製SE139型主電動機を搭載し、歯車比も3.0(20:60)と異なっていた。制動装置はSME直通空気ブレーキで統一されており、本グループ同士はもちろんのこと、従来車との併結も可能であった。台車は形式こそ異なるものの全車釣り合い梁式台車で、鋼体化改造車は種車から引き継いだものを、新製車については西武所沢工場手持ちの台車をそれぞれ装備している。しかし、検査等の際には他車と台車を振替えられることがあり、特に晩年は竣工時と異なる台車を装備していた車両も少なからず存在した。 形式別概論[編集] 前述のように鋼体化改造及び車体新製によってほぼ同一の車体を持つことになった本グループであるが、その出自は様々であった。以下、形式別並びに登場年代順にその概要を述べる。

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サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップ – Wikipedia

サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップ(San Juan Capistrano Invitational Handicap)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンタアニタパーク競馬場で開催されているサラブレッド競馬の平地競走である。日本語ではサンフアンカピストラーノ招待ハンデキャップとして表記されることが多い。 1935年に創設された競走で、1968年より招待競走に指定され、現在の競走名となった。 施行距離14ハロンは、アメリカの芝競走としてはベルモントゴールドカップインビテーショナルステークスに次ぐ長さの競走である。一時期はG1競走に設定されていたが、長距離競走の価値が下落した現在ではG3として施行されるようになった。また、2007年より優勝馬にはオーストラリアの長距離競走メルボルンカップへの優先出走権が与えられるようになった。 過去に5頭の馬が連覇を経験している。そのうちの1頭ジョージロイヤルは同競走において、鞍上のジョニー・ロングデンが一切鞭を使わずに5馬身差をつけて快勝したという逸話がある[1]。 全体の歴史[編集] 施行条件の変遷[編集] 馬場はすべて芝。 1マイル1/16(8.5ハロン・約1710メートル) – 1940年 1マイル1/8(9ハロン・約1811メートル) – 1935年-1938年 1マイル1/2(12ハロン・約2414メートル) – 1939年、1941年、1945年、1946年、1949年、1954年

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曾我佳城シリーズ – Wikipedia

『曾我佳城シリーズ』(そがかじょうシリーズ)は、泡坂妻夫による推理小説のシリーズ。 若くして引退した美貌の女流奇術師・曾我佳城[1]が探偵役となり、事件を解決していく。 小説家でありながら、マジシャンという顔も持つ作者だからこそ成しえたシリーズである。シリーズ全22作は、1980年から20年にわたって執筆され、2000年に完結した。 2000年に出版された『奇術探偵 曾我佳城全集』は『このミステリーがすごい!2001年版』国内部門第1位、2001年版「本格ミステリベスト10」第1位を獲得した。 単行本『奇術探偵 曾我佳城全集』は既刊分と新作をあわせた一冊本で刊行されたが、講談社文庫版は配列を変えて2冊に再編集されたため、『天井のとらんぷ』『花火と銃声』に続く作品を重複なしで入手することはできない。2020年発売の創元推理文庫版(全2冊)は講談社文庫版を底本にしているが、発表順に戻されている。 作品一覧[編集] 数字は、その短編集の収録順番。 題名 初出誌 天井のとらんぷ 花火と銃声 奇術探偵曾我佳城全集 奇術探偵曾我佳城全集秘の巻 奇術探偵曾我佳城全集戯の巻 奇術探偵曾我佳城全集上 奇術探偵曾我佳城全集下 備考 収録話数

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スモルト – Wikipedia

スモルト(英語:Smolt)とは、サケ・マス類でパーマークなど特有の体色が薄くなると共に銀色になった個体のことで、「銀毛」(ぎんけ)「シラメ」とも呼ばれる。また、海水への適応が完了した稚魚のこと。ヒポキサンチンやグアニンなどの色素量の増加が外観上の変化を起こす。ヤマメでは「肥満度の低下」「背ビレや尾ビレの先端の黒化」などの形態的変化を併せて発現する。 その現象を「銀化変態」[1]、「スモルト化」[2]、「スモルト変態」[3](parr-smolt transformation)[4]と呼び、海水耐性(適応力)が発現していることを示す変化である。 海水耐性(適応)を獲得した魚では、鰓のATPアーゼ活性が高まり「血中ナトリウム濃度の調整」が出来るようになる。つまり、海水中で浸透圧調節が可能となることから、直接海水へ投入された場合でも高率で生存する。降海の目的は、河川と比較し圧倒的に豊富な海洋の餌を得る事にあるとされている。海洋生活では豊富な餌と、スモルト化に合わせて分泌される成長ホルモンの効果もあり、河川残留型の2-4倍の体長へと成長する。 ヤマメの体色変化、上が銀化パー 甲状腺ホルモンや成長ホルモン、コルチゾルなど数種類のホルモンが関与している。自然界で発現を左右させる要素は、環境の青色や生息密度と餌の量が強く関係しているとされ、魚種毎に一定の体長(重量)に達した個体がスモルト化していると考えられている[5][6]。スモルト化する時期は同一魚種でも地域差がある。また、ヤマメ、アマゴでは性別により有意な差があり、北海道ではメスのほぼ全てがスモルト化する。また養殖でスモルトを増やすために青色の水槽で飼育すると発現率が高まる。 北海道に生息するヤマメの例では、2月頃に銀化兆候が現れ「銀化パー」と呼ばれる状態になる。4月頃には背ビレ先端部の黒化が認められるようになると共に、グアニン色素量が増し[1]パーマークは薄れ「前期スモルト」となる。5月には更に銀色が強く背ビレの黒化が進み「中期スモルト」となる。6月には体色は銀白色となりパーマークは消失する、また背ビレは完全に黒くなり「後期スモルト」となりスモルト化は完了する。銀化が完了すると体の厚みが薄くなり肥満度が減少する。血中のチロキシン濃度は銀化の始まりと共に上昇し、銀化の最盛期に最大値となるが8月以降は減少していく。降川は群れで行われるが、スモルト化の進行と共に攻撃性は弱くなる[7]。 実際の降川(降海)のきっかけは、降雨による増水の刺激や天体の月の満ち引きが影響し、新月によって誘発され[8][9]、群れで川を下り海に向かう。浮上後すぐに降海を始めるシロザケでも、淡水から直接海水に入った場合は生存率が低下する、従って、汽水域で一定時間順応し海水生活に移るものと考えられる。実際に稚魚の観察結果からは、約12時間で海水対応能力を身につけている事が判明している。 類似現象 「無斑」と呼ばれる模様の欠如した個体が発生する現象がある[10]。これは突然変異により外見の変化を起こしている物で、メラニン色素の欠如したアルビノと似た現象である。ニジマスに於いては、無斑個体を選抜養殖し固定系統のホウライマスとして商品化されている[11]。 スモルト化決定の主要因[編集] 性差と遺伝的な影響を排除する為、遺伝異変を持たないアマゴのメスを使用した実験を行った桑田(2017)は下記の様に報告している[12]。 成長率とは関係無く、初秋のスモルト決定期に閾値体重を超えた個体がスモルト化する。 決定期以後に、閾値体重を超えてもスモルト化しない。 決定期に閾値体重を超えていた場合は、決定期以後の成長を抑制しても大部分がスモルト化する。 決定期に閾値体重を超えなかった場合は、早く成長させてもスモルト化しない。 結果、主要因は体サイズであるとしている[12]。 養殖において[編集] 養殖の目的により銀化に対する捉え方は異なる。 資源増殖の為の養殖

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インザーギ (ミュージシャン) – Wikipedia

INZ(本名、生年非公開[1][2]、10月17日[3] – )は、日本の歌手、俳優。音楽ユニットFUZのボーカルであり、かつてはインザーギとしてヴィジュアル系ロックバンドであるメガマソのボーカルとしても活動していた。愛称はギ様、ザギ様、ザギちゃん、インザギ、イソザギ(涼平が冗談でつけた)、ザギさん等。 元々はR&Bやダンスミュージックの活動をしていたが[4]、2006年に知人から偶然手渡されたインザーギのデモ音源を聴いた元・彩冷えるのギタリストである涼平がその声に惚れ込み(涼平曰く、「全部が僕に惚れさせるだけの要素をもってる人[5]」とのこと)熱烈に誘われ、ヴィジュアル系ロックバンドメガマソのボーカリストとして活動を始める(尚、メガマソとして活動するまでは一切のバンド経験がなく、インザーギという名前も涼平が名付けたものである)。 その後、2009年4月にはフルアルバム『INZARGI』をリリースしてソロデビューを果たし、2014年10月には舞台「Club SLAZY The 3rd invitation~Onyx~」に[6]、そして2015年8月にはスマートフォン用ゲーム『ソウルシーカー』に声優として出演した[7]。 2015年12月16日に新宿ReNYで行われた9周年記念公演をもってメガマソがおよそ1年間の少し長めの冬眠(活動休止)に入り[8]、その後、2016年5月27日に新しいバンドVanity Sicksを結成すると発表[9][10]。さらに2017年3月8日にはTAMATE BOXとのユニットFUZを始動させた[11]。(尚、Vanity Sicksは2016年7月22日より活動していたが、ちょうど1年後の2017年7月22日のライブをもって解散した[12]。) 2017年11月23日、約11年間活動していたメガマソがライブ「MEGAMASSO FINAL LIVE “世界が正しい夜に、ここにいて。”[13]」をもって解散し、2018年2月11日からはメガマソのインザーギとして最後のツアー「インザーギ"LAST"with MM.tour」を開催することが決定した[14]。 名前の由来[編集] メガマソを結成するにあたり、自身は当初本名っぽい名前で活動しようと考えていたが、関係者と「涼平のバンドだから、インパクトのあるものだといいね」と話していると涼平は「僕考えてきます!」と一晩考え、次の日に「いいものができたよ、かなり僕のイチオシだ」と前置きをして「インザーギってどう?」と言った。自身の第一印象は良くなかったが、涼平は理由として「これはイタリアの名前なんだけど、もし外人のバンドのボーカルが、顔は外人なのに名前が山田だったらかっこよくない?」と話した。それでもあまり理解はしていなかったが「涼平が言うなら」と了承し、その約10分後に行われた取材で「初めまして、インザーギです」と名乗ると相手から大爆笑が起こり、そこで初めて「ヴィジュアル系でもイケてない名前なんだな」と思ったが、その後涼平が「例えば、君がめちゃめちゃかっこいい名前だったとする。じゃあ、それは名前がかっこいいのか、君がかっこいいのかどっちなんだ?」「でも、そのインザーギっていう名前をこれから君がかっこいいイメージに変えていけばいい」と話し、その時のインザーギは「なんていい奴なんだ!なんていいこと言うんだこいつは!」と思ったという(そのことについてベースのGouは「マインドコントロールですね」と語っている)。もう一つ理由として涼平は、「ヴィジュアル系って、例えばGouとか涼平も多分、字とか違うかもしれないけど他のバンドマンさんでいると思うんです。でも、僕向こう10年はインザーギって名前被りないと思うんですよ」と語っている。インザーギという名前から、初対面の人に「サッカーやってたんですか?」と聞かれることが多いが、サッカー選手のフィリッポ・インザーギやシモーネ・インザーギとは関係なく、インザーギ自身も「サッカー自体は好きだけど、サッカー選手にそういう名前の人がいるのは知らなかった」と話している[15]。

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大川寛 – Wikipedia

大川 寛(おおかわ ひろし、1933年2月21日 – 2011年3月22日)は、日本の元プロボクサー。本名は小川 寛(おがわ – )。戸籍上の出生地は千葉県山武郡片貝町であり、出身地は東京都台東区浅草[2]。元日本フェザー級(2度獲得)・ライト級、OBF東洋ライト級・ジュニアライト級王者。現役時代は共栄ジム(後の極東ボクシングジム、現在の極東ボクシングクラブ)所属[2]。大川ボクシングジムを開設し、その初代会長を務めた。 脚が長く均整のとれた体を持ち、左右のフックやスピードのある右ストレートを武器に3階級5王座を制覇した技巧派である[3]。 極東ジムが秋山政司、大越利晴といった日本王者らを抱えて全盛期を迎えていた当時、後に精密機械と言われる世界王者沼田義明を育てた小高伊和夫会長の愛弟子であった大川が本名の小川を変えて戦ったのは、心臓が小さいのは名前からきていると小高会長が案じたためであった[3]。 試合経験が豊富でピストン堀口、花田陽一郎、辰巳八郎、秋山政司に次いで100戦あまりを戦ったが、ボクシングがやや消極的な代わりにクリンチ技術に長け[1][3]、23敗のうちKO負けは3度にとどまった。 プロ[編集] 1948年1月31日、プロデビュー戦で判定勝利を収めた。 1954年3月13日、田中昇に3RKO勝利を収めて日本フェザー級王座を獲得。中西清明に判定負けを喫して7度目の防衛に失敗したが、約8か月後の1957年4月19日、中西との通算4度目の対戦で王座を奪い返した。 1956年6月28日、金子繁治の持つOBF東洋フェザー級王座に挑戦したが、判定負けを喫して唯一の王座挑戦失敗となった。 東京都世田谷区松原に所在した大川ボクシングジムの外観。京王線高架化工事に伴う立退きにより、2013年12月27日をもって閉鎖された 1957年8月4日、小林秀人を判定で下して日本ライト級王座を獲得。9日後の8月13日、OBF王座挑戦のために同王座を返上した。 同年11月20日、オムサップ・ラエムファバーに9RKO勝利を収めてOBF東洋ライト級王座を獲得。1度防衛後の翌1958年3月2日、フィリピンの英雄と言われたフラッシュ・エロルデに判定負けとなって同王座を失い、同年6月17日、高山一夫に判定負けを喫して日本フェザー級王座を失った。 1960年6月30日、東洋(後の東洋太平洋)ボクシング連盟が新設したジュニアライト級の初代王座を決定戦勝利により獲得。1961年5月4日、キリサク・バーボスの右フックを顔面に受けて2度目の防衛に失敗。この試合を最後に現役を引退した。 引退後[編集]

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レディー・ガガのディスコグラフィ – Wikipedia

レディー・ガガのディスコグラフィ(Lady Gaga discography)はアメリカ合衆国のポップ歌手レディー・ガガがリリースしてきた音楽作品、関連作品に関する一覧である。 彼女のデビュー・アルバム『ザ・フェイム』はヨーロッパ、カナダ、アイルランド、イギリスなどで1位を獲得し、アメリカではアルバム・チャートでは2位、Top Electronic Albumsチャートで1位になった。アルバムは現在までに世界中で1500万枚以上のセールスを記録している[1]。アルバムからのシングル『ジャスト・ダンス(feat.コルビー・オドニス)』はアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、アイルランド、オランダのシングルチャートで1位を獲得し、2009年のグラミー賞でベスト・ダンス・レコーディング賞にノミネートされた[2]。続いてリリースされた『ポーカー・フェイス』は、世界中のチャートでトップに入り、Billboard Hot 100のダンスチャートで1位になった。 アルバムからの3枚目のシングル『エイ、エイ (ナッシング・エルス・アイ・キャン・セイ)』は選ばれた市場で発売されてオーストラリア、ニュージーランド、スウェーデンのチャートでトップ20位内に入った。『ラヴゲーム』はオセアニアとイギリスで4枚目のシングルとしてリリースされ、ヨーロッパと北アメリカでは3枚目のシングルとしてリリースされた。同曲は2009年7月に全米シングル・チャートでは5位に、エア・プレイ・チャートでは1位になった。このことから彼女はデビュー・アルバムから3曲をエア・プレイ1位に送り込んだ史上3組目のアーティストとなった[3]。ガガはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、ブリトニー・スピアーズ、クロード・ケリーといった他のアーティストとも協力した。ラッパー、ワーレイの『チリン』にも参加している。 アルバム[編集] スタジオ・アルバム[編集] 年 タイトル アルバム詳細 チャート最高位 認定 US[4] AUS[5] AUT[6]

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