Month: March 2022

なとりん号 – Wikipedia

なとりん号(なとりんごう)は、宮城県名取市内を運行するコミュニティバス(市民バス)。名取市内を運行していたミヤコーバスの撤退に伴い、運行を開始した。 2008年(平成20年)4月1日 – 運行開始。 2011年(平成23年)7月19日 – 新規路線「植松入生線」の運行を開始。 2013年(平成25年)4月1日 – ミヤコーバス閖上線廃止に伴い、「閖上線」の運行を開始したほか、路線を再編。 2018年(平成30年)4月1日 – 「東部閖上循環線」の運行を開始。一部路線の経路およびダイヤを変更[1]。 運行事業者[編集] 桜交通仙台営業所 – 幹線路線ブロックおよび生活路線ブロック(東部閖上循環線)を担当 仙南交通 – 生活路線ブロック(東部閖上循環線を除く)を担当

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町野主水 – Wikipedia

町野 主水(まちの もんど、天保10年11月25日(1839年12月30日) – 大正12年(1923年)6月9日)は、幕末の会津藩士。 父・町野伊佐衛門閑栄、母きとの子に生まれる。通称は源之助、諱は重安。槍の達人で、弟の久吉(きゅうきち)とともに、鴨居に半紙を吊るし、それをえいっと槍で通すと半紙は少しも動かなかったという。 元治元年(1864年)、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。 慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟・久吉を戦死させたのち小出島まで撤退、さらに攻められて越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に官軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将・萱野長修の命により軍事奉行・樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主・松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。9月7日、母・きと、妻・やよ、姉・ふさ、長女・なを(7歳)、長男・源太郎(3歳)の5人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母・南摩勝子はその二人の男子(9歳、4歳)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。7歳になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである。 開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間、伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。会津松平家が再興を許された際、立藩の地を猪苗代盆地か下北半島かの選択を迫られ、主水は強く猪苗代を推したが、結局、山川浩らが推す下北の地に決定した。斗南藩である。明治3年(1870年)容保の子・松平容大が斗南藩知事となる。明治7年(1874年)、佐川官兵衛中心に300名の旧会津藩士が警視庁巡査として採用される。 明治期主水は斗南へは移住せず、若松北小路52番地に居を構え、当地の復興に全力を傾注した。明治6年(1873年)鶴ヶ城を陸軍省が売りに出し、主水は862円で落札した。しかし翌7年(1874年)城は取り壊しになった。明治9年(1876年)主水は鹿島県(佐賀県)土木課御用掛に就く。 自由民権運動の高まりの中で、主水は明治15年(1882年)6月、諏訪伊助、辰野宗治と連名で会津帝政党を設立、当時福島県令の三島通庸の三方道路建設に寄与、清水屋旅館事件に関わる。翌明治16年(1883年)10月、二番目の妻いし(33歳)を喪う。この二人の間に誕生したのが町野武馬(1875-1968、張作霖顧問、衆議院議員)である。明治17年(1885年)、主水は大沼郡長に登用される。のち正八位に叙される。明治20年(1887年)、梅宮兵三郎の長女マツと三度目の結婚。主水48歳であった。 晩年は大正元年(1912年)、狼藉者を無礼討ちにするなど武弁ぶりを発揮、会津弔霊義会の発起人代表を務めたが、大正12年(1923年)、齢85で没した。最後の会津武士といわれた。墓は会津若松市の融通寺。戒名は武孝院殿顕譽誠心清居士。 久吉の槍 明治30年(1897年)8月、山県有朋の手にあった実弟久吉の槍の件を知った品川弥二郎が主水を訪ね「山県から取り返してやろうか」と言ったが、主水は「戦場で敵に奪われた槍を畳の上で受け取れるか」と言下に断ったという。(この槍は鶴ヶ城内に展示されている) 武士の面目 大正6年(1917年)8月、戊辰殉難者50年祭典の際、式半ばにして降雨。気を遣った市長が天幕を指して「お下がり下さい」と言うと、主水は「武士に向かって下がれとは何だ」と大喝一声、いったん天幕に入った人々も再び外に出て雨の中で式が続行さたという。 大正元年狼藉者退治の真相 ある日町野家の玄関に大男の無頼漢がなにやらわめいて入ろうとしたので、主水が刀を帯びて応対に出た。殴りかかろうとしたのでとっさに刀の柄で暴漢をみね打ちにしたらそのまま死んでしまった。警察が来て大騒ぎになり、急遽北京から帰還した息子の町野武馬も殺人事件だからさすがにあわてたそうだ。しかし暴漢は札付きの悪であった。近所の顔役で元気なのが敢えて身代わりとなり自首して出たりもした。実際家族も持て余していたようなものだったので、また警察も町野主水といえば戊辰戦争の英雄だから困ったようだが結局心臓まひとしてもみ消してくれた。後で主水は「近頃は殺人罪などといって大ごとなのだそうだ」と言って悠然と笑っていた。主水73歳のことだ。 筵で葬送 大正12年(1923年)の葬式では、子の武馬は厳父の遺言どおり、遺体を菰(こも)をかぶせたのみの状態で墓所まで運ぼうとしたが、警察がうんと言わない。仕方なく、棺桶の上からこもをかぶせて運んだ。これは「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい。立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」と主水が常々言い聞かせていたのを武馬が守ったからだという。

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COME ON LET’S GO – Wikipedia

『COME ON LET’S GO』(カモン・レッツ・ゴー)は、1976年(昭和51年)6月21日に発売された日本のアルバムである。近田春夫&ハルヲフォンのファーストアルバムである。 概要・略歴[編集] 1972年(昭和47年)に結成されたハルヲフォンが、前作の企画盤シングル『FUNKYダッコNo.1』(1975年)を経て、本格デビューをしたアルバムが、本作『COME ON LET’S GO』である。 表題曲『COME ON, LET’S GO』は、『ラ・バンバ』(1958年)で知られるリッチー・ヴァレンスの1958年(昭和33年)のデビューシングル『Come On, Let’s Go』(Del-Fi Records)のカヴァーである。原曲は、同年2月発売のヴァレンスのデビューアルバム『Ritchie Valens』にも収録されている[1]。 収録曲中、『シンデレラ』は、1975年(昭和50年)に近田春夫がプロデュースした、クールスのデビューアルバム『黒のロックン・ロール クールスの世界』(1975年)への近田の提供曲であり、収録ヴァージョンはセルフカヴァーである。当時のアナログの同アルバムのB面に収録されている。クールス版は、現在、CDやデジタル音源で入手可能である[2][3]。同曲と、『レインコート』は、前者をA面、後者をB面として、アルバム発売の翌月である同年7月にシングルカットされ、正式デビューシングルとなった[3]。

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この時代小説がすごい! – Wikipedia

ポータル 文学 『この文庫書き下ろし時代小説がすごい!』(このぶんこかきおろしじだいしょうせつがすごい!)は、2009年に宝島社が出版した文庫書き下ろし時代小説のブックガイド。 2012年からは『この時代小説がすごい! 』と改題して、年度版で刊行されている。 目次 1 書誌情報 2 この文庫書き下ろし時代小説がすごい! 2.1 ベスト20 2.2 殿堂入り作家 3 関連項目 書誌情報[編集] この文庫書き下ろし時代小説がすごい! 時代小説愛好会が選ぶベストシリーズ20(2009年4月10日)ISBN 978-4796669160 この時代小説がすごい!

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