Month: March 2022

まりゑ – Wikipedia

まりゑ(まりえ、1985年7月22日 – )は、日本の女優、歌手。本名および旧芸名、宇野 まり絵(うの まりえ)[1]。ファンタスマゴリックでの活動時は、MARiE。 東京都出身。キューブ所属。祖父は劇作家の宇野信夫。 来歴・人物[編集] 劇団若草附属養成所に入団し、1993年に舞台『塩祝い申そう』でデビュー[2]。子役時代から舞台を中心に活動している。 2011年夏、RiRiKAとともにツインボーカルユニット「ファンタスマゴリック」を結成し、作詞と振付も担当[1]。ファンタスマゴリック活動時の名義はMARiE[3]。 2014年、芸名を本名の「宇野まり絵」から「まりゑ」へ改名[4]。 2017年春に、10年近く所属した東宝芸能からキューブへ移籍[5]。 2017年、宮澤エマ・皆本麻帆・関谷春子・万里紗とともに大人の部活動「女優倶楽部」を立ち上げ、活動。 主な出演[編集] 舞台[編集] ピーター・パン(1994年・1995年) – マイケル 役 アニー(1996年) –

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ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ – Wikipedia

『みんなのアンケートSHOW ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ』(みんなのアンケートショー ホンネのでんどう しんすけにはわかるまいっ)は、2009年5月1日から2010年9月24日までフジテレビ系列で、毎週金曜日の19:57 – 20:54(JST)に放送されていたクイズ番組であり、島田紳助の冠番組。新聞のテレビ欄では『紳助!!ホンネの殿堂』と表記される。ステレオ放送・文字多重放送・ハイビジョン制作。 番組宣伝を兼ねた事前プレ特番を、2009年4月3日の19:00 – 20:54(JST)[1]に放送した。 前身番組の『一攫千金!日本ルー列島』の後期の路線を引き継ぎ、放送時間を2時間繰り上げた(正式には先枠の『金曜プレステージ』との枠交換による)。出演者をせきららチームとぶっちゃけチームに分け、司会陣とのトークを挟みつつ、2チーム対抗のアンケートクイズを繰り広げる。 アンケートクイズ対決に勝利したチームは、獲得した点数に応じて変動する賞品(点数が高いほど、賞金、沖縄旅行1人、沖縄旅行2人、沖縄旅行3人、ハワイ旅行、世界一周旅行と、賞品のグレードが上がっていく)を獲得できる。また、一番ホンネを言った者は、番組の最後に表彰される。 末期はクイズ番組ではなくなり、主にトークバラエティに変化されており、クイズコーナーも週1コーナーあるかないかの状況になっている。 最近では恐妻家イジリと嫁姑のいざこざ問題が中心となっていて、それに対して姑組がイビる図式になっている。 2009年6月26日は、放送当日に急死したマイケル・ジャクソンに関する緊急特別番組を放送することになり、同日午前中には番組予告もされていたが休止となった[2]。 番組の終了[編集] 視聴率は、関東地区での最高視聴率は2009年10月16日放送(2時間スペシャル)の15.2%、関西地区での最高視聴率は2009年7月24日放送の19.2%と高視聴率を記録していた(ビデオリサーチ調べ)。しかし、1ケタに落ち込む回もあるなど、乱高下が激しい状況であった。 末期には、『ペケ×ポン』と交互に2時間スペシャルを行う回が多くなっていた。2010年秋の番組改編で終了することになり、2010年9月24日の2時間スペシャル放送分(一部地域では1時間短縮版)をもって終了した[3]。 司会・アシスタント[編集] メイン司会 サブ司会

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二村雄次 – Wikipedia

二村 雄次(にむら ゆうじ、1943年6月13日 – )は、日本の医師、外科医、医学博士、名古屋大学名誉教授。愛知県がんセンター総長。元日本外科学会会長。 専門は、肝胆膵疾患の外科治療。特に肝門部胆管癌を中心とする胆道癌外科治療に関しては、難度の高い症例への対応、手術数、治療成績ともに世界有数の実績であり、高い評価を受けている。また、柔道家としても有名で、名大柔道部長兼師範も務め、元柔道全日本マスターズ無差別級チャンピオン。 1962年 愛知県立旭丘高等学校卒業 1969年 名古屋大学医学部卒業 1969年 名古屋大学医学部附属病院分院にて卒後研修 1970年 安城市八千代病院 外科 医員 1973年 癌研究会附属病院 外科 研修医

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富山工業高等専門学校 – Wikipedia

富山工業高等専門学校(とやまこうぎょうこうとうせんもんがっこう、略称:富山工専、英称:Toyama National College of Technology、英略称:TNCT)は、富山県富山市にあった日本の国立高等専門学校。2009年10月に富山商船高等専門学校と統合し富山高等専門学校となった。 ワシントンアコード加盟の日本技術者教育認定機構(JABEE)から国際的水準にある高等教育機関であると認定されていた。 富山工専の校章は縁の三本の銀線は富山県の三大河川、庄川・神通川・黒部川を表している。これらの川を流れる清い流れのような澄んだ心をはぐくみ、つきることのない水にも似た情熱と大志を永遠に持ち続けて、学を修めて欲しいとの願いが込められている。 富山工専の校色は若竹色。深雪に曲がっても決して折れない若竹のような活力と粘り強さをもって欲しいとの願いが込められている。 教育理念[編集] 自主自立の精神 真理の探究 科学論理の尊重 教育目標[編集] 工学全般の基礎知識を有し、技術力に優れたグローバルエンジニアの育成 広い視野を有し、将来、研究・開発をリードする能力を備えた人材の育成 人・地球との共生の精神を有した人材の育成 1964年 4月1日 国立高専3期校として開校(機械工学科,電気工学科,工業化学科) 1969年

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偏光板 – Wikipedia

偏光板の機能ワイヤーグリッド偏光子に偏光していない光束を通すと直線偏光したものになる。色付きの矢印は電場を表す。斜めに偏光した波も通過光に寄与する。垂直方向の成分は通過するが、水平成分は吸収される。これは図には明確に表現されていない。 偏光板(へんこうばん、英: polarizing plate[1])とは、特定方向に偏光、又は偏波した光だけに限って通過させる板である。光学での「偏光子」の1つである。 電磁波である光は横波としての性質を持ち、日光のような自然に降り注ぐ光では、その波の揺れは進行方向に向かって360度平均的に混合された振動方向を持つ無数の光から構成されている。偏光板は特定方向に偏波した光以外は遮断してしまい、その背後の光は偏光した光だけで構成される[2]。 詳細は「偏光」を参照 今日、最も多く偏光板が使用されているものに液晶ディスプレイがある[2]。朝日や夕日が水面で反射するギラギラとした光には偏光成分が多く含まれるため、釣りや船上で使用するメガネなどには、偏光板によってギラツキを抑えたものがある。また、写真撮影において、レンズフィルターに偏光板を使用する。 赤外線透明体センサ 通常の光学式センサでは、完全に透明な物体は検知できないが、赤外線透明体センサと呼ばれる偏光板を使用した光学式センサでは、可能である。2枚の直交した偏光板の間に何も物体がなければ、偏光板のさらに外側に置かれた発光部と受光部の間には光信号が通過しないが、透明な物体が2枚の偏光板の間にある間だけ、一度偏光された光が透明物体中で散乱を受け、偏光方向に乱れが生じて、いくらかは受光部に光信号が検知される[3]。 液晶ディスプレイ用[編集] 構造[編集] 液晶ディスプレイで使用される偏光板は、ポリビニルアルコール(PVA)を主体に、ヨウ素(I)化合物分子を吸着配向させて作る。実際の製品では、トリアセチルセルロース(TAC)とポリエチレンテレフタラート(PET)という何層かの裏打ち層によって保護され、各層は PVA 系の接着剤で張り合わせられる。 表面から見た構成は、 TAC 層 40μm 以下 PVA

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賀川光夫 – Wikipedia

賀川 光夫 人物情報 生誕 (1923-01-05) 1923年1月5日 日本栃木県烏山町 死没 2001年3月9日(2001-03-09)(78歳) 学問 研究分野 考古学 研究機関 別府大学 テンプレートを表示 賀川 光夫(かがわ みつお、1923年(大正12年)1月5日 – 2001年(平成13年)3月9日)は、日本の考古学者。

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佐賀県立図書館 – Wikipedia

佐賀県立図書館(さがけんりつとしょかん)は、佐賀県佐賀市にある公共図書館。 1913年(大正2年)には鍋島家によって佐賀図書館が建設された。1929年(昭和4年)には佐賀図書館が佐賀県に移管され、佐賀県立図書館に改称した。 1963年(昭和38年)には現行館が開館した。2013年(平成25年)には佐賀県医療センター好生館内に好生館分室が設置された。2015年度(平成27年度)からは児童図書の全点購入を実施している。 佐賀県立図書館本館[編集] 好生館分室[編集] 所在地 – 佐賀県佐賀市嘉瀬町大字中原400番地 佐賀県医療センター好生館1階 オープンスペースこころざしの森 Wi-Fi環境[編集] 館内全域でWi-Fiを利用することができる、利用者用コンセントは13か所用意してあり、パソコンだけでなく、タブレット、スマホもコンセントを使用することができる。 荷物の持ち込み[編集] 荷物は各閲覧室に持ち込むことができる。ただし、郷土資料閲覧室にバッグを持ち込むことは認められていないため、ロッカーに預ける。 飲食[編集] 1階ホール、こころざしの森では、飲み物だけでなく、食事をとることもできる。2階閲覧室では、蓋付きの飲み物を持ち込んで飲むことができる(郷土資料閲覧室、資料調査室を除く。)。 1階ではデイズキッチンという飲食店が営業している。営業時間は月曜日から土曜日までの「11時半~18時」であり、ラストオーダーは食事は16時、カフェは17時となっている。 建築面積:1,697.68 m²、延床面積:4,277.00 m² 1階には、展示ホール・食堂・児童図書閲覧室・本館第2書庫・事務室・こころざしの森がある。 中2階には会議室がある。

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楊林 (水滸伝) – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個・錦豹子楊林」 楊 林(よう りん)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。 梁山泊第五十一位の好漢で、地暗星の生まれ変わり。背が高く、大きく精悍な顔立ち、恵まれた体格と風体の良い男だったため錦豹子(きんぴょうし)と渾名された。筆管槍(ひっかんそう)という柄が空洞になっているの鉄槍の使い手。流れ者の盗賊であり、各地の情報に通じており、また社交的な性格で顔が広く、鄧飛、鄒淵等各地の好漢と交流があり、その性格と人脈は梁山泊の戦力強化に大いに役立った。また楊林自身も器用な男であり、戦闘から変装、潜入、使い走りまで小粒ながら様々な役目をこなし、かなり頻繁に働いている。また敵の捕虜になる、敵陣に孤立する、疫病にかかるなど度々命の危険に見舞われるが、その度に生還を果たす強運の持ち主でもある。 河南の彰徳出身で流れ者の盗賊だった。薊州にいたころ、帰郷途中の梁山泊の好漢公孫勝と出会って意気投合し、梁山泊への紹介状を書いてもらっていたが、なかなかそちらへ赴けずにいた。数か月の後、道を歩いていると、人間離れした速度でこちらに向かってくる男を見つける。これが公孫勝に聞いた、神行法の術者である梁山泊の戴宗であると直感した楊林は、これを呼び止めると果たしてその通りであった。聞けば戴宗は、里帰りしたきり一向に戻らない公孫勝を探しにやってきたとのことであった。楊林は薊州の道案内を買って出て、戴宗と義兄弟の契りを結んで、そのまま梁山泊に入れてもらうことにした。薊州では飲馬川で山賊になっていた以前組んで仕事をしていた鄧飛と再会、その仲間の裴宣、孟康ともども梁山泊の仲間に引き込むことに成功した。また州府で石秀の丈夫ぶりに感じ入り親しくなるが、結局公孫勝を見つけることはできずに、戴宗と飲馬川の3人とともに梁山泊へ向かい、そのまま正式に仲間に加わった。 楊林との縁を頼って石秀らが梁山泊にやってきたことで起きた祝家荘との抗争では、雲水に変装して道を探りに行くが、梁山泊とばれて捕らえられてしまう。しかしこれまた楊林の知人であった鄒淵が、孫立らとともに梁山泊のために祝家荘に侵入し、楊林ら捕らえられていた好漢を解き放ったため、楊林たちは大暴れして祝家荘陥落に一役買った。また、続いて李家荘の李応を仲間に引き込む計略では、捕り方の役人に化けて貢献した。続く高唐州との戦いでは、知事・高廉の妖術にかかって梁山泊軍が敗走する中、白勝とともに盲滅法に射た矢が高廉の肩に命中し、敵の追撃を退け、しばらくの間寄せ手を封じる殊勲を挙げた。呼延灼が梁山泊に攻め寄せてきた際は、歩兵を率いて迎え撃ち、青州攻めや続く第一次曾頭市攻めにも参加した。晁蓋死後に石勇、段景住らとともに北方に馬を買い付けに行くが、曾頭市の郁保四にこれを奪われてしまい、これが第二次曾頭市攻めのきっかけとなった。 百八星集結後は、騎兵小彪将十六員の15位となり、騎兵としては主に楊志の副将として活動する。高俅が攻め寄せてきたときには、水夫に変装して敵の戦艦に潜入、大将の一人である丘岳を討ち取った。朝廷に帰順した後も、城攻めや埋伏としての潜入、敵の首級を挙げたるなど活躍する。方臘との戦いでも活躍を続けるが、杭州で流行した疫病に罹患、以降、乱の終結まで寝込んでしまう。この病に罹患した他の頭領はみな落命してしまうが、楊林だけが快方に向かい、看病のために居残っていた穆春とともに、方臘を討って凱旋する梁山泊に合流し、事の次第を報告した。都に戻った楊林は、他の頭領同様に官爵を授かるが、これを辞退、裴宣とともに飲馬川に隠棲し、のどかな余生を送った。

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ケーニヒハイム – Wikipedia

ケーニヒハイム (ドイツ語: Königheim、 ドイツ語発音[ヘルプ/ファイル]) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州マイン=タウバー郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。 位置[編集] この町はタウバービショフスハイム南西のブレームバッハ川沿いに位置する。 自治体の構成[編集] かつては独立した自治体であったブレーメン、ギシヒハイム、ピュルフリンゲンがケーニヒハイムに属す。[2] ケーニヒハイムは1149年に初めて文献上に記録されている。1422年に市場開催権を獲得した。1585年まではヴュルツブルク司教領に属したが、それ以降はマインツ選帝侯領に移された。帝国代表者会議主要決議に基づく世俗化により1803年にこの村はライニンゲン侯領の所属となり、1806年にライン同盟によりバーデン大公領に移された。大公国では初めベツィルクスアムト・タウバービショフスハイム(ベツィルクスアムトは当時の地方行政区分)に属した。このベツィルクスアムトは1938年に同名の郡となった。1973年にこの郡は廃止され、ケーニヒハイムは新設されたタウバー郡に編入された。この郡は翌年にマイン=タウバー郡と改名された。 1938年11月の迫害運動の際に、ユダヤ人組織が所有するシナゴーグは突撃隊により破壊された。礼拝の対象物はシュテルン広場において公開で焼却された。シナゴーグ跡であるミュンツガッセ2番地の建物には、この事件を記念するプレートが掲げられている。[3] 1984年6月21日に激しい雨が降りブレームバッハ川が氾濫し深刻な被害をもたらした。雨は昼頃に降りだし、わずか30分後にはギシヒハイム遊水池に54m3/sの勢いで流れ込んだ。流れ込む水量が100 – 120m3/sに達した17時頃に洪水が起き、郡の防災警報機が作動した。ドイツ連邦軍、ドイツ人命救助協会、消防団、技術救助隊が投入された。この洪水の被害額は3900万ユーロに及び、死者9名、負傷者30名、被害家屋130棟、さらには55頭の牛馬や700頭の豚も犠牲となった。 宗教[編集] ケーニヒハイム地区の住民の多くはカトリック信者である。ギシヒハイム地区やピュルフリンゲン地区の住民はほぼ完全にカトリック信者であるが、ブレーメン地区ではプロテスタントが優勢である。 ケーニヒハイム地区とギシヒハイム地区にはユダヤ教組織もあった。ギシヒハイムの最後のユダヤ人は1927年に現在も残るユダヤ人墓地に葬られた。ケーニヒハイムのユダヤ人住民の一部はナチス独裁時代の初期まで見逃されていたが、やがてバーデンの他の町のユダヤ人達と共に初めはGurs収容所へ送られ、そこであるいはその後に連行された強制収容所で命を奪われた。 町村合併[編集] 1972年1月1日: ギシヒハイム、ブレーメン 1973年12月31日:

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青苧座 – Wikipedia

青苧座(あおそざ)は、日本の中世後期に繊維素材である青苧を扱う商人たちで結成された座のこと。主要なものとして越後府中(生産地)・近江坂本(中継地)・京都・天王寺(ともに消費地)が知られている。 成立時期は明らかではないが、南北朝時代末期の永徳3年(1383年)頃に本所が正親町三条家から同族の三条西家に譲渡されており、それ以前より正親町三条家との関連が強い官司と青苧商人のつながりより生じたと考えられている。 本所である三条西家は京都周辺の諸口や丹波・美濃・近江坂本などに関所を設置したり、代官を派遣して同地を通過する青苧に対して公事を徴収した(苧公事)。一方、青苧座は苧公事納入と引換に青苧の独占販売の権限を得ていた。特に天王寺苧座の発言力は大きく、原料が集まる越後府中に赴いて越後苧座から独占的に買上げ、更に坂本苧座・京中苧座に対してこれを独占的に販売し、越後-畿内間の青苧流通を完全に支配し、その維持のために本所である三条西家に対して通過時の苧公事の納入を免除して貰う替わりに年間150貫に及ぶ苧課役を三条西家に納入していた。天文年間には甲斐・信濃など新興の青苧産地からの青苧にも苧公事を賦課している。 ところが、明応6年(1497年)頃に守護代長尾氏が越後の国政を掌握すると、天王寺苧座の購入独占権が否定されるようになる。さらに永正の乱によって長尾氏が守護上杉氏を完全に傀儡化すると、青苧座に対しても支配を及ぼすようになった。大永年間には長尾氏は越後苧座の頭人であった蔵田氏に青苧の公事徴収・流通統制権を認め、三条西家に対してもこれまで天王寺苧座などが納めていた苧課役を50貫に減額させた上で越後苧座による京都への青苧搬入を認めさせた。この傾向は長尾景虎(上杉謙信)が上杉氏宗家を継承した後も強化され、この時代には各地から青苧購入のために訪れる諸国の船に対しても課税を行って、越後-畿内間の青苧流通の支配権を獲得していった。この際に活躍したのが前述の蔵田氏であり、越後の苧商人を統括するとともに長尾氏(上杉氏)の御用商人として景虎(謙信)の軍事活動を経済的な面から支えていた。 青苧座は織豊政権による座の撤廃と上杉氏の移封によって力を失うことになる。そして皮肉なことに、越後の青苧が江戸時代の元禄年間に没落した最大の理由は、上杉氏の移封とともに青苧栽培技術が伝来された会津・米沢両藩産の青苧との競争に敗北した影響が大きかったという[1]。 ^ 林英夫「青苧」(『国史大辞典 1』)。加えて「山形県史」では、最上地方でも苧の栽培が行われ、元禄年間には産地中心地から離れた山形藩の移出役対象分だけで1000駄に達していたとする。 参考文献[編集] 脇田晴子「青苧座」(『国史大辞典 1』(吉川弘文館、1979年) ISBN 978-4-642-00501-2) 佐々木銀彌「青苧座」(『日本史大事典 1』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13101-7)

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