坂井泉水 – Wikipedia

坂井 泉水(さかい いずみ、1967年〈昭和42年〉2月6日 – 2007年〈平成19年〉5月27日)は、日本の女性歌手、作詞家。音楽ユニット・ZARDのボーカリスト。本名は蒲池 幸子(かまち さちこ)。事務所はSENSUI。レコード会社はビーイング、レーベルはB-Gram RECORDS。血液型はA型。

人物

20代前半まではモデルやレースクイーンとして活動していたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年2月、自身によるソロプロジェクト「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。多くのヒット曲を生み出した。

かつてビーインググループでは、女性アーティストのメディア露出を極力抑えるメディア・コントロール戦略[1]がよく取られていたこと、また坂井が極度のあがり症だった[2]ことにより、特に6thシングル「負けないで」で大ブレイクしたあとは、ほとんどマスメディアに登場せず、また、ライブもほとんど行われなかった。

経歴

デビュー以前

1967年(昭和42年)に神奈川県平塚市に生まれ[3][4]、同市および同県秦野市(小学校4年より)で育つ。秦野市立西小学校、秦野市立西中学校、神奈川県立伊志田高等学校卒業。中学時代は陸上部で活動をするかたわら、ギタークラブでも活動していた。高校時代は硬式テニス部に所属。松蔭女子短期大学(現松蔭大学)を卒業後、不動産会社・第一不動産の総務部にて約2年間OLとして勤務した。

モデル時代

歌手として

闘病生活

死去とその後

逸話

  • 坂井が入院中の病院には5月28日に自殺した松岡利勝農林水産大臣(当時)が搬送されたため、病院に運び込まれる様子が集まっていたマスコミにより報道されることとなった。
  • 生前、プライベートがほとんどベールに包まれていたが、大黒摩季はデビューする前から公私ともに親しくしており、分刻みの多忙なスケジュールのなか「ねぇ摩季ちゃん行きたい店があるんだけど」と悪い目をして誘っていたという。そしてプロデューサーに怒鳴られるのはいつも大黒摩季であった[13]
  • 「負けないで」や「揺れる想い」が売れても電車移動であった。レコーディングは夕方にスタートすることがほとんどだった[14]
  • シュークリームが苦手であった[15]
  • 極度のあがり症であった。初めてのテレビ出演が終わり、あいさつ回りに行ったあと、腰が抜けてしまったようになり、メンバーが抱えて楽屋まで連れていった[2]
  • 生前滅多にメディア出演しなかった坂井だったが、同じスターダストプロモーションの先輩であった加藤美樹とは、歌手デビュー前のモデル時代から親交があった。その関係で、加藤がDJを担当する番組(FM802(現在はFM COCOLOに放送局が移行)『SUPER J-HITS RADIO』など)には複数回コメント出演している。[16]

墓地

墓は神奈川県横浜市緑区長津田町にある環境霊園の横浜みどりの里にある。

墓石には「永遠」の字が書かれている。隣には坂井泉水の記念碑がある。

作曲作品

以下は坂井の作曲作品である。すべてZARDの曲として坂井本人が歌っている。

ZARD以外の音楽活動

ZARDとして活躍する一方、同じビーイング系のアーティストのバックコーラスに参加したり、作詞家として多くのアーティストに詞を提供したりしている。活動範囲はJ-POPに限らず、テレサ・テンや森進一などの大物歌手へ作詞を提供するなど、ジャンルの違う歌手との異色のコラボレーションも行った。

ZARDの楽曲のほとんどは自身による作詞であるが、すべてのZARDの楽曲の作詞を担当しているわけではなく、「君がいない」は栗林誠一郎の詞に手を加えたもので、アルバム「Good-bye My Loneliness」に収録された中の2曲は、川島だりあの作詞である(この2曲は作詞に一切関わっていない)(→詳細はZARD#作詞・作曲・編曲のクレジット参照)。

作詞作品

レコーディング参加

脚注

外部リンク