櫻田浩三 – Wikipedia

櫻田 浩三(さくらだ こうぞう、1941年4月19日 – 2016年4月21日[1])は岩手県出身の元騎手・元調教師。

1961年から東京オリンピック馬術競技の日本代表候補生に選出され、出場馬の世話をするために東京で生活した。1965年からは郷里・岩手に戻って繋駕速歩専門の騎手となり、後に平地競走の免許も取得。1969年には高額賞金レースを数多く制し、大舞台に強い騎手として確固たる地位を築いた。1971年には繋駕速歩が廃止となり、1974年に引退して同年からは調教師へ転身。4月13日の水沢第2競走・イセヒカリオーで初出走初勝利を飾り、2年目の1975年にはサカノエミールが南部駒賞を勝って重賞初制覇[2]。鞍上は後に調教師として南部杯2着のバンケーティングを管理する平澤芳三で、櫻田の初特別勝ちとなった同年のIBC杯でも平澤が手綱をとっていた[2]。その後は順調に勝ち星を重ねていき、1984年には佐藤雅彦が所属騎手となり、1988年と2000年にはリーディングトレーナーを獲得。1990年代に入るとアラブの女傑・シバノアマゾネス、2歳世代で地方最強とうたわれたアプローズフラワー、アラブ競馬末期に息長く活躍したタービュレンスらを輩出[2]。遠征での活躍も目立ち、1999年と2000年には2年連続で管理馬(ガッサンヒカリ、ガッサンホワイト)がJRAの3歳特別戦(中山芝1200m・黒松賞)を勝利。2000年代ではダート中長距離戦線の主的存在であったグローバルゴット、マイル・短距離路線で芝・ダートを問わず活躍したトキオパーフェクトらを輩出したほか、ダートグレード競走でも存在感を示す[2]。2003年東京大賞典4着、2004年名古屋グランプリ3着のデンゲキヒーロー、2005年全日本2歳優駿2着のアテスト、2006年にはオウシュウクラウンがジャパンダートダービーで3着に入り、パラダイスフラワーがエーデルワイス賞を制覇[2]。初めてのグレードタイトルを手にし[2]、特にオウシュウクラウンは2006年の岩手競馬年度代表馬にも輝いている。2008年の冬季休業中にはまとまった数の馬を荒尾に遠征させてレースに出ていたため、騎手や厩務員も大挙して遠征して荒尾で住み込むという力の入れようであったが、櫻田が岩手からの遠征馬の監督役となり、現地で長期滞在[2]。朝の調教を終えて朝食という時に率先して料理を作り、厩務員や同行した記者に振る舞った[2]。2010年代もトーホクキング、コミュニティらみちのく大賞典の勝馬、あるいはアスペクト、スペクトル、サプライズハッピーといった2~3歳戦線での活躍馬を送り出し、各世代にまんべんなく有力馬を配しているというイメージを保ち続けた[2]。2015年には6月7日の盛岡第3競走をサプライズハッピーで勝利し、現役最多で歴代2位の1800勝を達成。岩手の調教師歴代最高記録である1914勝にも「あと71」まで迫っていたが[2]、晩年は体調不良で入退院を繰り返すようになり、2016年4月21日に死去[1]。75歳没。

調教師としての通算成績は地方競馬13553戦1843勝、中央競馬34戦2勝[1]

主な管理馬[編集]

その他[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 調教師情報 – 地方競馬情報サイト(地方競馬全国協会)