エクトル・バルベラ・バル(Héctor Barberá Vall, 1986年11月2日 – )は、スペイン・バレンシア州バレンシア県ドス・アグアス(英語版)出身のオートバイレーサー。2010年よりロードレース世界選手権MotoGPクラスに参戦中。 125ccクラス[編集] 2002年、15歳の時にホルヘ・マルチネス率いるアスパー・チームからロードレース世界選手権125ccクラスにデビューした。翌2003年、第8戦イギリスGPで初優勝を果たし、シリーズランキング3位に入る活躍を見せた。2004年はセリエA・ACミラン所属のサッカー選手、クラレンス・セードルフがオーナーのセードルフ・レーシングに移籍。何回かの転倒やメカニカルトラブルに見舞われ、年間タイトルはアンドレア・ドヴィツィオーゾに奪われたが、最終戦バレンシアGPでシーズン4勝目を挙げて、シリーズランキング2位を確保した。 250ccクラス[編集] 2005年に250ccクラスにステップアップを果たし、フォルツナ・ホンダチームでホルヘ・ロレンソのチームメイトを務めた。2006年にはフォルツナ・チームはマシンをアプリリアにスイッチし、バルベラは第3戦中国GPでクラス初優勝を遂げた。 2007年にはチーム・トス・アプリリアに移籍。2008年の第6戦イタリアGP、残り1周となったホームストレート上で、バルベラはトップを走るマルコ・シモンチェリからトップを奪おうとしていたが、奪われまいとストレート上で急にコースを変えたシモンチェリのリアタイヤにバルベラのフロントブレーキレバーが引っかかる形となり、バルベラのマシンが宙を舞う大クラッシュとなってしまった。だが奇跡的にもバルベラは怪我らしい怪我を負わずに済んだ。しかしその後第15戦日本GPでフリープラクティス中に転倒し、胸椎を2箇所骨折する重傷を負って宇都宮近郊の獨協医科大学病院に入院[1]、シーズン残り3戦を欠場することになってしまった[2]。 2009年はシト・ポンス率いるぺぺ・ワールド・アプリリアチームに移籍。開幕戦カタールGPではクラス2勝目を挙げ、自らの復帰を勝利で飾った。その後シーズン中盤にかけては青山博一、アルバロ・バウティスタ、マルコ・シモンチェリによるチャンピオン争いには絡めずにランキング4位に甘んじていたが、終盤は2勝を含む5連続表彰台に立つ活躍を見せ、シリーズランキング2位を獲得した。 またこの年、バルベラは写真判定の結果同着フィニッシュとされたレースを2度も経験することになった。一つは第14戦ポルトガルGPで、マイク・ディ・メッリオと2位の座を争って同着となったが、選手権のルール上、「同着と判定された場合は、レース中により速いラップタイムを出した者を上位とする」と規定されているため、ディ・メッリオが2位、バルベラは3位というリザルトとなった[3]。もう一つは第16戦マレーシアGPで、シモンチェリとのバトルの結果2位同着となり、今度はバルベラの方がレース中に速いタイムを出していたため2位、シモンチェリが3位となった[4]。 MotoGPクラス[編集] 2010年シーズン、バルベラはMotoGPクラス初参戦となるアスパー・チームよりドゥカティ・デスモセディチを駆って最高峰クラスにデビューした[5]。全18戦中17戦でポイント圏内完走する安定した走りを見せ、第3戦フランスGPと最終戦バレンシアGPでベストリザルトの8位を記録。年間ランキングではルーキー勢の中ではベン・スピーズ、マルコ・シモンチェリに次ぐ3番手となる12位に入った。 2011年もアスパーに残留[6]、第2戦スペインGPでベストリザルトを更新する6位に入賞、年間ランキングでは1つ順位を上げて11位を記録した。第15戦日本GPでは決勝でのクラッシュで右鎖骨を骨折、再び獨協医大病院に入院し次戦を欠場することとなった[1]。 2012年はプラマック・レーシングに移籍。1000cc化したデスモセディチGP12を駆ってクラス3年目のシーズンに臨む[7]。 2013年はアビンティア・ブルセンスに移籍。チームメイトに2年ぶりにMotoGPクラスへ復帰を果たした青山博一とCRTマシンで参戦する。 ロードレース世界選手権 戦績[編集]
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