Month: March 2022

ICO (ファイルフォーマット) – Wikipedia

ICO は、Microsoft Windowsにおけるアイコンで使用する画像ファイルフォーマット。CUR はマウスポインタ用でICOとほぼ同じフォーマットだが、ヘッダにおける識別バイトとホットスポットの記述が異なる。 ICOファイルには、1つ以上の画像が格納されており、各画像の大きさや色深度は様々である。 IANAによって公式に登録されているICOファイルのMIMEタイプは image/vnd.microsoft.icon である。これが登録される以前、未登録トークンを x- で表すという規則から image/x-icon が使われていた。間違ったMIMEタイプを使っている例がよくあり、image/ico、image/icon、text/ico、application/ico などがある。Webサーバで .ico ファイル用のMIMEタイプを設定していることは稀で、その場合はデフォルトのMIMEタイプとして text/html や text/plain などが使われる。 アイコンの大きさ、色深度、透明部分のデータ[編集]

Continue reading

ホルスの目 – Wikipedia

ホルスの目(ラーの目) ホルスの目(ホルスのめ)[1] は古代エジプトのシンボル。 古代エジプトでは非常に古くから、太陽と月は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの両目(「ホルスの目」)だと考えられてきた。 やがて二つの目は区別され、左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月の象徴、右目(「ラーの目」)は太陽の象徴とされた。 ウアジェト(ウジャト)の目[編集] ウアジェト(ウジャト)は、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神。 「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。 エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した。そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。 また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。 ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。 第一中間期と中王国時代に、「ウアジェトの目」(左目)と「ラーの目」(右目)を左右に合わせた両目が、ミイラを納めた(ミイラは体の左側を下にして納められることが多かった)柩の左側面に描かれたりした。これはミイラを守る護符とも、死者(ミイラ)がこの世(棺の外)を見るための窓とも解釈される。目は太陽の昇る方向である東に向けられていた。 ラーの目[編集] ラーは、エジプト神話の太陽神。 ラーは自らを崇め敬わない人間を滅ぼすため、自らの片目(右目とも左目とも)を雌ライオンの頭を持つ破壊の女神セクメトに作り変え地上に送り、人間界で殺戮のかぎりを尽くさせた。 その他[編集] 処方箋のシンボルであるRxマークとの関連性も指摘される。 脳の断面図の松果体とする仮説がある。 サタニック・サイン(コルナ、日本の狐の影絵のゼスチャー)を横から見たところとする仮説がある。 ^

Continue reading

法帖 – Wikipedia

法帖(ほうじょう)とは、書道において紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存・鑑賞・学書用に供するために仕立てられたもののこと。ほとんどの場合中国の書蹟に用いられる語である。 多くは本人が制作したものではなく、後から紙をつなぎ合わせるなどの加工を行ったり、模写・複製などを行って制作したものである。また俗にはある程度の分量を持った近世以前の書蹟をこう称することもある。 書道を学ぶ、特に臨書の際は、手本となる書蹟が必要である。 日本の書蹟は多くの場合、鑑賞や作品・文献模写を目的とし、学書と比較的近いのに対し、中国、特に唐より前の多くの書蹟は、書道の作品ではなく別の用途をもって書かれたものであった。例えば王羲之の「蘭亭序」は詩集の序文であったし、「十七帖」は尺牘である。また顔真卿の「祭姪文稿」は追悼文、「祭伯文稿」は報告文、「争坐位文稿」は上奏文のそれぞれ草稿である。 また作品として制作されたものでも、非常に大きいなど体裁が学書に向かないことが多い。このような書蹟を個々の手許で学書に供するために、複写して適宜大きさなどを調整し、学書や鑑賞に向くように制作されたものを「法帖」と呼ぶ。 手法による分類[編集] 以下、手法による法帖の分類を述べる。多く「~本」と呼ばれることが多い。 真蹟 本物の書蹟。ただし多くの場合後世に裏打ちが行われたり、巻子から折帖などへと装丁が変更されていることが多い。法帖の中では極めて少なく貴重である。 模書 真蹟の上に紙を敷き、直接なぞり書きしたもの。一番原始的な方法であるが、法帖の制作よりも学書のために用いられる方が多かったと見られている。 臨模 真蹟を横において臨書し模写したもの。真蹟を書いた人物に匹敵する手腕が要求されるため、この制作法による法帖は数があまりない。 搨模(とうも) 真蹟に紙をかぶせて輪郭のみを写し取り、後からその中を黒く塗るという「双鉤塡墨」の方法で模写したもの。あまり高等な技術を必要とせず、極めれば真蹟そっくりの模写を行うことも可能。六朝時代に開発され、北宋代に入る直前まで広く用いられた。 模刻 石に書蹟を転写し、彫りつけて拓本を採るという手法で制作されたもの。拓本であるため白黒が逆転する。北宋代以降多用され、清代に乱用の弊害に対する批判の噴出と印刷術の発達により衰退するまで、法帖制作の主流であった。 形態による分類[編集] 以下、形態による法帖の分類を述べる。このような分類が出来たのは模刻発生以降のことであり、以下の説明も模刻を前提に述べる。 単帖

Continue reading

劉翼飛 – Wikipedia

劉 翼飛(りゅう よくひ)は中華民国の軍人。安徽派、奉天派に属した。旧名は輔庭。字は鑄宇。別号は覚僧、痩侠。後に翼飛と改名した。 鉄嶺県柴河沿村出身。1901年(光緒27年)より私塾で学び、鉄嶺県城第二小学を1905年(光緒31年)に卒業。1908年(光緒34年)、奉天陸軍小学英文班に入学する。在学中の1910年(宣統2年)に中国同盟会に加入した。同盟会員の宋少侠、高子信、王静山らと連絡を取り合い、鉄嶺、開原、法庫、康平等にそれぞれ赴き革命に参加。鉄嶺、開原は一度革命党の手中に収まったが、清軍に奪還され捕らえられる。脱走し山東省煙台に向かう[1]。1914年、奉天陸軍補習所学堂監督の于珍の推薦で北京清河陸軍中学に進学[1]。 袁世凱が皇帝を称すると、陸軍中学内でも生徒がデモを起こし、授業が停止となった。馬海竜、王静山らとともに山東省に赴き、民軍「岱東(中国語版)第二梯隊」司令部代理参謀長。しかし、諸城護国軍副司令劉玉亭の裏切りで司令の宋滌塵とともに逮捕される。ほどなくして釈放されるが、劉玉亭は更に山東将軍張懐芝に誣告、陸軍省は劉玉亭の逮捕命令を出したが、徐樹錚の秘書長で同学であった梁次眉が握りつぶしたため事なきを得、陸軍中学を卒業して保定陸軍軍官学校候補生隊に転ずる[1]。1916年(民国5年)8月、保定陸軍軍官学校第5期歩兵科に入学した。1918年(民国7年)9月の卒業後、北京・黄寺の参戦軍軍官教導団(長:陳文運)で訓練を受け、翌1919年(民国8年)1月に参戦軍第3師第59団第3営第11連排長、中尉。間もなく団の銃剣術主任教官となる。1920年(民国9年)7月の安直戦争勃発後、固城の戦闘で負傷し後送される。しかし、そこの病院では戦闘の影響で治療が滞っていたため、暴動を引き起こして脱走する[1]。 奉天派への参加[編集] 以後は、張作霖率いる奉天派で軍歴を重ね、第7混成旅で軍士軍官教育班戦術教官、のち中東路路警処の第二分隊長。1922年、中校に昇進し奉天鎮威軍司令部参謀処の参謀要員。間もなく勃発した第一次奉直戦争で奉天軍は大敗を喫した。この時、傷心の張作霖に寄り添ったため彼の信任を受け、衛隊団団長。のち総参謀部員。さらに張学良に引き抜かれ、第2混成旅参謀長代理を歴任[1]。 1924年9月の第二次奉直戦争では第1、3聯軍第6混成旅(長:宋九齢)第18団団長。10月27日、宋旅長とともに撫寧九門口(中国語版)に進軍し、10月29日午前4時、突撃を開始、沙河寨の陝西陸軍第2師(長:張治公(中国語版))陣地を攻撃し、更に九門口から東50里の猪熊峪にて撃破した。劉はこれに乗じて更に石門寨まで追撃し、北戴河を占領。1925年10月、奉軍第44旅旅長となり、楊宇霆に従い江蘇省鎮江、丹陽に展開するが、東北に撤退[1]。 1925年11月22日、郭松齢が反乱を起こすと、新編第4補充旅を率いて新民県巨流河駅(中国語版)付近で交戦。1926年(民国15年)4月、馮玉祥の国民軍を迎え撃つべく、北京城内および郊区に展開、昌平県南口鎮(中国語版)に展開する国民軍とにらみ合いを続けた。8月、南口戦役が勃発、劉率いる第4旅は京綏鉄路右側の徳勝口で陣地を確保し、国民軍を迎え撃った。戦役終結後、第4旅は張作霖の激賞を受けた。1927年6月18日、北京で張作霖が安国軍政府を樹立すると、奉軍各旅は師制に改編され、第4旅は第10師となったため、中将、師長[1]。 国民革命軍への参加と下野[編集] 1928年(民国17年)、張作霖死後の張学良による軍の再編において、東北陸軍歩兵第4旅旅長に任じられた。1930年(民国19年)には東三省兵工廠廠長に任じられ、翌年1月、察哈爾省政府主席となり、1932年(民国21年)8月までその地位にあった。1933年(民国22年)2月、長城戦役(中国語版)が勃発すると北平軍分会より華北第二集団軍抗日挺進軍総指揮に任命され、察哈爾省の馮占海、鄧文、李忠義ら東北抗日義勇軍を支援[1]。3月の熱河失陥後、国民政府軍事委員会北平分会委員に任じられ、張学良の下で対日防衛にあたっている。しかし、1936年(民国25年)12月の西安事件により張学良が失脚すると、劉翼飛もまた下野を余儀なくされた。 日中戦争(抗日戦争)勝利後に、劉翼飛は華北先遣軍第1軍軍長として復帰し、後に三民主義促進会に加入した。中華人民共和国成立後は大陸に留まり、天津市政治協商会議委員などをつとめた。 1968年7月28日、病没。享年76(満74歳)。 参考文献[編集]

Continue reading

郷土史 – Wikipedia

郷土史(きょうどし、英: Local history)とは、ある一地方の歴史を調査・研究していく史学観の一つ。 日本語の「郷土」の語自体は『列子』や『晋書』に淵源をもつ漢語である[1]。郷土史の研究をする者のことを郷土史家、郷土史研究家と呼ぶ。 欧州の郷土史学[編集] 教育学者であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチは目的論的立場と方法論点立場の2つの方向性から郷土に関する論じた[1]。 このうち目的論的立場を継承したのがエドゥアルト・シュプランガーであり多義的であった郷土概念に教育学的意義を与えたといわれている[1]。 第一次世界大戦後のドイツでは国家復興の気力の養成として郷土科(ハイマートクンデ(ドイツ語版)、Heimatkunde)が設けられた[1]。郷土科はヴァイマール期初期に設置された基礎学校の科目の一つである[2]。しかし、1960年代後半から1970年代初頭の教育改革論議において、それまでの郷土科教育は非現代的な教育内容、不合理な郷土概念像、貧弱な自然科学との繋りなどが批判を受けた[2]。 日本の郷土史学[編集] 日本の学校教育では1881年(明治15年)の小学校教則要綱地理科で初めて「郷土」の語が使用された[1]。さらに大正時代には郷土科が設置されたが本格的な郷土教育は1929年(昭和4年)に始まった[1]。当時の日本は昭和恐慌の直後でドイツの郷土科を参考に農村の自立更生を目的とした郷土教育が強調された[1]。 戦後、昭和40年代になると高度経済成長とともに客観的な知識の習得が推奨されるようになり、小・中学校社会科『学習指導要領』でも「郷土」が曖昧な概念として避けられ「地域」に置き換えられるようになった[1]。このような動きのほか「郷土」は流動的であいまいな概念で避けるべきという郷土回避論もみられた[1]。 現在、全国各地に「○×郷土史研究会」、「○×地方史研究会」、「○×地域史研究会」と名乗る研究団体が多数存在するが、名称の違いはその会が成立した時期によることが多く、研究内容、目的、手法が違うということはあまりない。また、それらの会の多くは、地方大学の歴史学者が主体となり、その教え子の地元社会科教員、学生、地方公共団体の社会教育担当職員、地方博物館学芸員などが構成員となっていることが多い。また、これらの研究者や研究会が自治体史、小学校の社会科で使用される地域副読本などの編纂、執筆を行っていることが多い。 研究成果の信憑性[編集] 日本の郷土史家は、研究上のルール(盗用剽窃の禁止など)を理解していなかったり、学術研究に必要な能力を欠いていたりする者が多く、その研究成果が疑問視される場合も少なくない。 例えば白峰旬は、ある郷土史家の自費出版物について、「史料原文を誤読している箇所や、史料の内容を現代語訳して解説を加える際に恣意的な拡大解釈をした箇所があり、見解として成立しない点が多くあること」「特に新説を発表する際は、どこまでが先行研究で指摘されていることで、どこからが自身のオリジナルの考え(新説)なのかを線引きして提示する必要があるが、それが出来ていないこと」などの問題点を指摘している[3]。 また富山大学の大野圭介は、日本古代の郷土史研究を例に取り、信憑性のない研究の特徴として「著者が雑誌に発表した論文がない」「著者がその分野について専門的に学んだ経験がない」「やたらセンセーショナルな文句が多い」「論調が攻撃的である」「引用文献がない」といった事例を挙げ、そのような信用できない”研究成果”は単なる「研究ごっこ」に過ぎないとして批判している[4]。大野はこれに加え、「(未熟なアマチュアは)史料を読むための『技術』を習得しないまま、いきなり大それたことをしようとする」「大半のアマチュアは『プロが積んだ努力を軽蔑し、自分勝手なルールを振りかざす』から(プロの学者から)無視される」と述べている[4]。 また、学術的な裏付けがない郷土史研究が「ロマンがある」などの理由から大々的に取り上げられ、地域の宣伝や町おこしのために利用されている事例も確認されている[5][6]。椿井文書研究者の馬部隆弘は、自身の体験談として、かつて大阪府枚方市が発行した小学校副読本の内容に偽史が含まれると指摘したところ、編集担当者に「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」と返答されたと述べた[6]。 関連項目[編集]

Continue reading

東員町 – Wikipedia

東員町(とういんちょう)は、三重県員弁郡に属している町である。2003年(平成15年)には員弁郡の他の4町が合併していなべ市となり、東員町は員弁郡に属する唯一の自治体となった。 町の中央を員弁川が東流し、北部にゆくにつれ標高100m前後のゆるやかな丘陵を形成している。東は桑名市、西はいなべ市、南は四日市市、北は丘陵を経て桑名市多度町に隣接し、東西5km、南北7.3km、総面積22.68km2の行政区域を有する都市近郊農村である。名古屋市への通勤圏に含まれ(名古屋都市圏)、共働きの核家族世帯が多い[2]。 隣接している自治体[編集] 東員町と全国の年齢別人口分布(2005年) 東員町の年齢・男女別人口分布(2005年) ■紫色 ― 東員町■緑色 ― 日本全国 ■青色 ― 男性■赤色 ― 女性 東員町(に相当する地域)の人口の推移 総務省統計局 国勢調査より 町長:水谷俊郎 町議会:議員定数14名

Continue reading

唯是一寿 – Wikipedia

唯是 一寿(ゆいぜ かずとし、1972年 – )は、日本の政策研究者、ロビイスト。一般社団法人インテリジェンス・ネットワーク代表理事[1]。 1972年、北海道小樽市生まれ。小樽市議会初の女性議員だった祖母や国会議員秘書だった父の下で育つ。小学校から高校までは北海道で過ごす。 知人の会社経営者の秘書を務めるために上京。伊藤氏貴(現・明治大学文学部准教授)の勧めで、早稲田大学第二文学部に進学し、日本の政治思想および社会思想を専攻。働きながら卒業する。 早稲田大学大学院社会科学研究科在籍中に比較政治学と公共政策を学び、公共政策の担当教員だった太田和博(専修大学商学部教授)の推薦で日本交通学会に入会。バスターミナルの適正配置および効率的活用に関する論文は、一部の研究者や地方自治体の担当者の間で注目された[2][3]。 大学院在学中から政府系シンクタンクの研究員、道路経済研究所のプロジェクト委員などを務める。同時期に、政策研究フォーラムを立ち上げ、ロビー活動や地域振興コンサルティングを開始。国会議員や首長のブレーンおよびアドヴァイザーを務めた関係上、東国原英夫(後述)、与謝野馨、平沼赳夫らと親交を結んだ。 2009年10月25日執行の川崎市長選挙に、自由民主党川崎市支部連合会から出馬要請を受けたが、最終的に辞退した[4]。 2010年4月5日、たちあがれ日本の結党に伴い、広報部長に就任[5]。10日の結党記者会見で司会を務め、メディア対策を担当した[6]。同年秋以降、政策情報調査機構を主宰し、公共政策の調査・分析に携わりつつ、団体・企業の役員を務めている。2015年、同機構を社団法人化。 官公庁の政策・事業の立案・策定にも参画しており、居住する港区を中心に多数の役職を務める[7][8]。2014年7月、港区行政評価委員会委員に就任(2017年6月、再任)。2015年7月、港区景観審議会委員に就任。同年8月、官産学の有識者による、産業用ドローンの安全啓発と適正利用を促進する団体、一般社団法人日本無人航空機安全協会(旧・日本マルチコプター安全推進協会)の設立に伴い、常務理事に就任、同年12月から副理事長[9]。2019年4月、一般財団法人航空交通管制協会の参与に就任。 国会との関係[編集] ジャーナリストだった祖父・日出彦が昭和初期に国会で描いた絵画が衆議院憲政記念館に保存されている。一部が2004年の「―没後50年―尾崎行雄と議会政治特別展[10]」で取り上げられ、協力者として衆議院から感謝状を授与された。同館所蔵の日出彦の風刺画は、2016年の「普通選挙をめざして―犬養毅・尾崎行雄―特別展[11]」でも再展示された。 2012〜2017年、園田博之の政策研究会「園田博之と日本の未来を創る勉強会」で幹事を務めた。 東国原英夫との関係[編集] 東国原の政界進出のきっかけを作り、政治・政策ブレーンとして東国原のブログやテレビ番組にもたびたび登場した。2003年夏の1ヶ月間、東国原と地方視察のフィールドワークに出かけた。その際、東国原の一番弟子である早川伸吾が「日本列島徒歩縦断」企画の真っ最中で、吉川敏夫(クロマニヨン吉川)と共に主要地点に激励に駆けつけた。平塚潤(城西大学陸上部総監督)の勧めで、20代後半からジョギングを始め、東国原と共に箱根駅伝の合宿に参加したこともある。 2008年9月10日、『芸能界特別授業! 私はこうして生き残りました!』(MBS/TBS系)で、東国原についてインタヴューを受け、松榮大(日本テレビ勤務)と共に思い出話を語った。 2009年6月23日、古賀誠(自由民主党選挙対策委員長)、伊達忠一(同副幹事長)に同行し、宮崎県庁を訪問。東国原国政転出問題で、双方をつなぐパイプ役として奔走したが、東国原の提示した条件が自民党に受け入れられず、合意に至らなかった[12]。

Continue reading

金珠熙 – Wikipedia

金 珠熙(キム・ジュヒ、朝鮮語: 김 주희、英語: Kim Joo-Hee、1986年1月13日 – )は、大韓民国・ソウル出身の女子プロボクサー。初代WBA女子世界ライトフライ級王者。 2001年6月30日、大田で沢井美和と対戦し、4回判定勝ちを収めデビュー戦を白星で飾った。 2002年11月16日、ソウルで李仁栄と韓国フライ級王座決定戦を行い、プロ初黒星となる4回1分20秒KO負けを喫し王座獲得に失敗した。 2003年3月29日、ソウルで李惠琳と韓国フライ級王座決定戦を行い、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2004年12月19日、城南でメリッサ・シャファーとIFBA世界ライトフライ級王座決定戦を行い、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2005年5月6日、ソウルでメイダ・キッド・ソランと対戦し、2回43秒KO勝ちを収め初防衛に成功した。 2005年11月12日、城南でマリアンヌ・チュビルカと対戦し、3-0の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。 2006年4月22日、城南で天海ツナミと対戦し、3-0の判定勝ちを収め3度目の防衛に成功した。 2007年8月24日、ソウルで櫻田由樹とWBA女子世界ライトフライ級初代王座決定戦を行い、7回1分17秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2008年6月28日、安養で李海麗とWIBA世界ライトフライ級王座決定戦を行い、5回TKO勝ちを収め王座獲得に成功した。 2009年6月20日、翌21日に暫定王者のジェシカ・ボップと王座統一戦を行う予定だったが金が対戦を拒否した為、金は正規王座を剥奪され、暫定王者のボップが空位となった正規王座に認定された。 2009年6月27日、ジュジース・ナガワとWIBA王座の防衛戦を行う予定だったが中止となった。 2009年9月5日、安養で空位のWIBF並びにGBU女子世界ライトフライ級王座決定戦としてファープラタン・ルークサイコンディンと対戦し、4回TKO勝ちを収めWIBA王座は初防衛、WIBF王座とGBU王座獲得に成功した。

Continue reading

ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー – Wikipedia

ローシー、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(Giovanni Vittorio Rosi[1] / Rossi[2], 1867年10月18日[1] – 1940年9月6日)は、イタリアの振付師、演出家、教育者である。浅草オペラの源流となる東京・内幸町の帝国劇場歌劇部のオペラを指導し、わずか6年の滞在であるものの、日本のダンス界・オペラ界に深い影響を与えた[1][2]。 日本では姓のみのローシーとして知られる。アルファベット表記は資料により「Rosi」[1]、「Rossi」[2]の両論がある。現代のイタリア語の日本語表記の通例では、前者はロージ、後者はロッシであるが、ヘボン(Hepburn)の例に倣い従来日本で親しまれた「ローシー」で表記した。 人物・来歴[編集] 1867年(慶応3年)10月18日、イタリアのローマ[1]あるいはミラノ[2]に生まれたとされる。 ミラノのスカラ座付属バレエ学校を卒業後、スカラ座に入団した[2]。イギリスに渡り、1901年(明治34年)以降、ロンドンのミュージック・ホール等でコレオグラファー(振付師)として活動した[2]。 『夢幻的バレー』ローシー夫人(妖精)・高木徳子(酒保)(1915年2月 帝国劇場) 1912年(大正元年)、帝国劇場に招かれて来日、同劇場の歌劇部のオペラ指導者に就任[1][2]、ジャック・オッフェンバックの『天国と地獄』を上演[2]、ジャコモ・プッチーニの『蝶々夫人』、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『魔笛』の日本初演を指導・演出した[1]。日本語訳は小林愛雄が行った。1915年(大正4年)2月1日、高木徳子がローシーの振付による『夢幻的バレー(夢幻的バレエ)』で国内デビューを果たしている[3]。 帝劇歌劇部はオーケストラ要員の費用が嵩むことなどから、1914年(大正3年)5月21日から洋劇部と改称して通俗的洋劇の上演に方針転換したが、あまり好評は得られずに1916年(大正5年)5月には解散となった[2][4]。ローシー指導の帝劇歌劇の出身者には、天野喜久代、石井漠、伊藤道郎、岸田辰弥、沢モリノ、清水金太郎、高田雅夫、高田せい子などがいる[1][2][4]。 1916年10月、帝劇との契約満了となったローシーは、小林愛雄も含めた帝国劇場洋劇部出身者を率いて東京・赤坂に「ローヤル館」を創立した。この時、帝劇専務であった山本久三郎は無謀の挙であるとしてローシーを極力止めたが聞き容れず、改装などに私財を投じた[4]。ローヤル館ではジュゼッペ・ヴェルディの『椿姫』等を上演し、田谷力三など、後に浅草オペラで活躍する人材も集まったが興行的には失敗した[1][2]。1917年(大正6年)11月、原信子はローヤル館を去っている。1918年(大正7年)2月には、ローヤル館を解散、ローシー夫妻は帝劇の山本専務などからの餞別を旅費としてアメリカに渡った[1][2][4]。 没年・死没地は不詳であるとされてきたが[1][2]、アメリカに定住した後はダンス教師として活動を続け、1940年に没した[5]。 テキサス大資料[編集] テキサス大学アーカイブ[1]は、彼のバレエ作品「クオバディス」関連資料を保存している。資料によると、姓はRosi。クオバディスは1904-05年に制作された。資料の中には原稿や楽譜に交じって映画「クオバディス」に関する1949年の新聞記事の切り抜きが入っている。テキサス大の調査によると、彼はローマ生まれで1904-08年にはロンドンのアルハンブラ劇場でバレエを担当、ロサンゼルスでも指導者として活動している。

Continue reading

パリ・ブレスト・パリ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “パリ・ブレスト・パリ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年1月) パリ・ブレスト・パリ パリ・ブレスト・パリのポスター広告(1901年) 概要 開催地域 フランス 地域名 Paris-Brest-Paris 形態 ラリー(現在のアマチュア・イベントとして) 歴史 初回開催年

Continue reading