Month: April 2022

木村次郎右衛門 – Wikipedia

木村 次郎右衛門(きむら じろうえもん、1897年〈明治30年〉4月19日[1] – 2013年〈平成25年〉6月12日[1])は、日本のスーパーセンテナリアン。男性としての歴代最高齢記録を持つ京都府京丹後市在住の日本人男性。 2012年(平成24年)12月17日より死去するまで存命人物のうち世界最高齢者であった。また、同年12月28日にはクリスチャン・モーテンセンの115歳252日の記録を抜いて、死去した人物も含めた年齢が検証済みの歴代最高齢記録の男性となった。死去した時点での年齢は116歳54日(42422日)で、男性では歴代最高齢記録となっている。 同い年の著名人に加藤シヅエ、パウロ6世、大佛次郎、有賀幸作、藤山愛一郎、李垠などがおり、彼が生まれた時点では後藤象二郎、陸奥宗光らが存命中であった。 人物・来歴[編集] 1897年4月19日[注釈 1]、三宅家の6人兄弟姉妹の3番目に生まれ、金治郎と命名される。木村家に跡取りとして婿入りし、9代目・次郎右衛門を名乗るようになった。京都郵便局通信生養成所を卒業後、20歳から65歳までの45年間、郵便局にて勤め、1920年代には日本統治時代の朝鮮において政府の通信部門に勤めた経験も持つ[3]。 歌手三嶋一聲の妹、木村八重(1904〜1979)と結婚。8人の子を育てた。長男は近衛兵であったことが誇りだった。 晩年は孫の妻との2人暮らしで[3]、毎日午前5時半に起床し、午後8時に就寝する生活を送っており、食生活も朝はヨーグルトやサツマイモ、梅干しを食し、夜は牛乳を飲むことを習慣としていたという。好き嫌いはなく、食べる量も自分で決めていた。足腰が弱っているため外出は通院に限られた。 2013年6月の時点で7人の子(5人が存命)、さらに孫が14人、ひ孫25人、玄孫が15人いた[3]。 新聞は天眼鏡を使いながら1時間から2時間、長いときには3時間かけて読む[4]。テレビ番組は国会中継や大相撲を欠かさず視聴するという[5]。また、長寿の秘訣として「食べ物に好き嫌いはない。食細くして命永かれ」「苦にするな嵐のあとに日和あり」などの言葉をモットーにしている[6]。 2009年(平成21年)9月には読売新聞のインタビューに応じ、その中で存命人物のうち日本最高齢の男性になったことについて「責任の重さみたいなのを痛感している。1日でも長く元気でありたい。」と語った。また、テレビの国会中継を見る理由については「時代についていけないようではいけない。」と語った[4]。 2010年(平成22年)に高齢者所在不明問題が発生した際には1896年生まれの国内最高齢の女性長谷川チヨノとならび国内最高齢の男性として確認された。 2012年(平成24年)9月17日の敬老の日、京丹後市長の中山泰が自宅を訪れ、地元の小学生が作成した贈り物を届けた。これに「サンキュー」と答えた[7]。 2012年(平成24年)10月16日、ギネス・ワールド・レコーズの編集長クレイグ・グレンディが京丹後市の自宅を訪れ、ギネス世界記録の認定証を手渡した。 2013年(平成25年)4月19日、京丹後市長の中山が自宅を訪れ、安倍晋三首相(当時)のお祝いのメッセージを吹き込んだDVDなどを手渡した[3]。そのほか国内外から156通もの手紙やメールが手渡され、祝福の言葉に「はい」と応じた[8]。その後肺炎にかかり、5月11日より入院。入院から1か月後の6月12日に老衰のため死去した[9](詳細は死と葬儀の節を参照)。 長寿記録[編集]

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スミス (DD-17) – Wikipedia

スミス (USS Smith, DD-17) は、アメリカ海軍の駆逐艦。スミス級駆逐艦の1番艦。艦名はジョセフ・B・スミス大尉に因む。 スミスは1908年3月18日にペンシルベニア州フィラデルフィアのクランプ造船所で起工した。1909年4月20日にエドワード・ブリッジ・リチャードソン夫人によって命名、進水し、1909年11月26日に艦長D・F・ボイド少佐の指揮下就役する。 就役後スミスは大西洋水雷艦隊に配属され、3年間の現役勤務後、1912年10月に予備役となる。1915年12月に乗員数を減じられたまま限定的に再就役し、マサチューセッツ州ボストン沖での中立パトロールを始める。1915年12月10日にルイジアナ州ニューオーリンズに到着し、海軍補助予備役兵の補充任務に当たった。1916年2月12日にフロリダ州キーウェストに到着、2月15日にニューヨークに到着し、補充任務を継続した。 戦況が切迫したまま、スミスは1917年4月1日にニューヨーク州ノースリバーでの停泊を命じられ、税関長の支援としてニューヨークのドイツ船が逃亡もしくは自沈するのを妨げる任務に当たった。4月4日にニューヨークを出航し、4月10日から5月14日まで東海岸沿いに偵察部隊と共に作戦活動に従事した。4月17日に潜航する潜水艦を確認したと報告、続いて魚雷の航跡が艦首を横切るのを目撃した。しかしながら、双方とも損害は生じなかった。スミスは5月17日から7月16日までチャールストン海軍造船所でオーバーホールを行い、その間現役任務を離れた。 スミスは7月16日にサウスカロライナ州チャールストンを出航し、7月18日から20日までバミューダで停泊した後、7月26日から10月5日までアゾレス諸島で偵察巡航を行った。10月20日にフランスのブレストに到着、その後終戦までスミスはブレスト西方800kmの海域で、東向きおよび西向きの船団を護衛し、潜水艦の脅威からそれらを守った。スミスの護衛任務の大半は何事もなく、幾度か潜水艦と疑われる影を観測したものの、戦闘を行うことはなかった。しかしながら、雷撃を受けた輸送船の救助に2度参加した。1918年5月31日、プレジデント・リンカーン (USS President Lincoln) の生存者240名を救助し、彼らを港へ送る途中、6月1日に潜水艦に対して攻撃を行ったものの成功しなかった。7月1日にはコヴィントン (Covington) の生存者を救助した。僚艦の駆逐艦は2隻を潜水艦の攻撃から守るため高速で囲んだ。 スミスは1918年9月16日から11月3日までイギリスで修理を受ける。終戦後は1919年3月7日から4月2日までブレストに停泊した。1920年2月28日に売却の命令が出されたが、建造・修理局からの駆逐艦、潜水艦、戦艦を爆撃実験に使用するという要請に基づいて6月9日に売却命令は取り消された・9月18日にスミスは試験のため戦艦インディアナ (USS Indiana, Battleship No.

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電話マーク – Wikipedia

☎ 電話マーク(でんわマーク、☎)は、電話機の形をした記号(絵文字)である。主に電話番号の前に電話マークを付け、電話番号が記載されていることを読者に明示的に伝える用途で使用される。 電話番号であることを示す目的で多く使用される。類似した数字とハイフンの羅列としては郵便番号や番地などの表記があり、これらと明示的に区別する手段としての利用である。 〒123-45XX 東京都○×区△□1-23-45-600 ☎0123-456-78XX 日本では、主にダイヤル式の黒電話の形で用いられる。昨今ではプッシュホン型の電話機の絵文字や、受話器の絵文字も使用される。 類似の記号にFAXマークや携帯電話マークがあり、FAXマークはファクシミリの形をした絵文字でFAX番号であることを示すために用いられ、携帯電話マークは携帯電話の形をした絵文字で携帯電話番号であることを示す目的で用いられる。この2つの絵文字はJIS X 0213の制定時にも候補として挙がったが、絵文字の図形で統一された同定可能な図形が存在しなかったことから採用が見送られた経緯がある[1]。これら記号は、携帯電話の絵文字としてUnicodeに提案され、採用された。その他にはフリーダイヤルの記号で0120のロゴ画像が用いられることもあり、これも事実上Unicodeに採用された[2]。プッシュホン式の絵文字については、Unicode 7.0でグリフ位置が定義された。 電話番号であることを示す目的としては、TELの3文字を組み合わせた「℡」も多く用いられる。 符号位置[編集] 記号 Unicode JIS X 0213 文字参照 名称

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小野有五 – Wikipedia

小野 有五(おの ゆうご、1948年2月2日[1] – )は、日本の地理学者(地球生態学・環境地理学・景観生態学)。北星学園大学経済学部教授。北海道大学名誉教授。 人物・来歴[編集] 略年譜[編集] 研究[編集] 中学生の頃より、山に深い関心を持ち、大学院では氷河地形の研究を進める。平川一臣との共同研究である北海道日高山脈の氷河地形とその下流の平野の地形発達の研究は、最終氷期における2回の寒冷期の存在を実証的に示し、かつ氷期/間氷期における気候変化と地形発達を流域スケールで解明した画期的な研究であった。1981年に発行された当時の地形学の知見の集大成である地形学辞典の編集に若くして加わり、その事業に貢献した。また1984年には、フレンチ『周氷河環境』を翻訳し、当時の寒冷地域の地形学に貢献した。大学院生時代に、同世代である平川一臣、岩田修二、小泉武栄らとともに寒冷地形談話会を発足させる。 氷河、周氷河地形研究をすすめるとともに、助手として所属した筑波大学水理実験センターにおいては、河川地形の研究も進めた。このような経験があり、北海道大学に移ってからは、良好な河川環境のための研究もすすめ、その活動の一環として千歳川放水路計画への反対活動に、環境科学者としての立場から関わることとなる。このほか、アイヌ語地名の復活やサンルダム建設に対する反対運動、原子力発電への反対運動、先住民の知恵を活かしたエコツーリズムの推進など、活動内容は多岐に渡るが、これらは小野本人において、「環境ガバナンス」の諸問題として位置づけられている。 活動[編集] 氷河期以来の地球環境変化、地理学的研究をベースにし、1990年以来とくに北海道での自然保護運動を推進、最大の土木公共事業であった「千歳川放水路計画」を中止にさせることに成功した。市民のための科学、現実の環境問題に対処できる科学者をつくるために活動中である。 全国で初めて自治体がつくった「北海道アウトドア資格制度」の創設に関わり、その基本テキストを執筆・編集した。北海道の自然やアイヌ文化をガイドできる若者を養成中である。 2008年には「先住民族サミット」では共同代表をつとめるなどアイヌ民族の権利回復をもとめる運動も積極的に行っている。 家族・親族[編集] 主な所属学会、研究会[編集] 地球圏生物圏国際共同研究計画(IGBP)古環境復元計画(PAGES) 日本代表 北海道の森と川を語る会 代表 北海道のエコツーリズムを考える会 代表 北海道自然保護協会

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下総皖一 – Wikipedia

下總 皖一 1934年頃 基本情報 出生名 下總 覺三 生誕 (1898-03-31) 1898年3月31日 出身地 日本・埼玉県 死没 (1962-07-08) 1962年7月8日(64歳没) 学歴 東京音楽学校 ジャンル クラシック音楽 職業

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