八柳氏 – Wikipedia

八柳氏(やつやなぎし)は姓氏のひとつ。本姓は賀茂氏また平氏とも。家系は出羽国国人領主で、八柳館主。 秋田藩士 八柳氏[編集] 八柳氏はもともと独立した国人領主であったが、戦国大名安東氏の影響を強く受けてきた[1]。檜山安東氏の当主安東愛季が同族湊安東氏の堯季の死後、その遺領である秋田湊を掌握するようになると、周辺の豪族である豊島氏、下刈氏、川尻氏らは、その勢力拡大に危機感を抱き、天正17年2月(1589年)、安東宗家(秋田氏に改姓)と豊島道季をはじめとする大平、新城、八柳氏連合軍との間で湊檜山合戦が始まった。一時、秋田実季を苦境に立たせるものの、やがて越後国の本庄氏を味方につけた実季が逆転し豊島勢を打ち破った。豊島氏に同調した下刈氏や川尻氏のみならず秋田湊の交易によって富を得ていた八柳兵三郎ら八柳氏や大平氏、新城氏らも経済的打撃を受け、八柳館主 八柳平治郎は秋田実季に臣従を余儀なくされ、以後、八柳氏は秋田氏の重臣として仕えた。 関ヶ原の戦いの後、秋田実季は常陸宍戸藩に転封となり秋田の地を離れることとなったが、八柳氏はこれに同行せず、代わりに秋田藩主に封じられた佐竹氏の当主 佐竹義宣に仕え以後、子孫は秋田藩士となった。 八柳氏系図[編集] 秋田氏の家臣から、秋田藩士となった八柳氏に二流ある[2]。 八柳盛次の代にはじめて佐竹家臣となる。家紋は丸三引立。 文化2年(1806年)8月、八柳新左衛門盛保の代に秋田に系図が提出された。 系譜 八柳元盛 ― 元宗 ― 盛広 ― 盛次 ―

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兪作柏 – Wikipedia

兪 作柏(ゆ さくはく)は、中華民国の軍人。国民政府(国民革命軍)、新広西派(新桂系)に属した。字は健侯。 1911年(宣統3年)、中国同盟会に加入している。1916年(民国5年)、保定陸軍軍官学校第3期歩兵科を卒業し、当初は旧広西派の林虎に属した。 1925年(民国14年)から李宗仁らの新広西派に転じて旅長に任命されている。1926年(民国15年)3月、中央軍事政治学校南寧分校校長に任命された。また、新広西派による広西統一でも戦功は大きかった。北伐に際しては国民革命軍第7軍第1旅旅長に任じられた。 しかし、李宗仁・白崇禧・黄紹竑らは、兪作柏が親共的で農民運動に同情的なのを見てこれを恐れるようになる。1927年(民国16年)2月、兪作柏を広西省政府委員兼農工庁長に左遷して、その兵権を剥奪した。さらに、同年4月の上海クーデターを契機にして、兪作柏は広西省から追われてしまい、香港へ逃げ込んでいる。 その後、兪作柏は、新広西派打倒を狙う蔣介石の援助を受けるようになった。1929年(民国18年)1月、国民政府首都建設委員会委員に任じられている。そして蔣介石の援助により兪作柏は広西省へ帰還を図り、反蔣戦争を起こした李宗仁・白崇禧・黄紹竑ら新広西派指導者たちを駆逐した。6月、広西省政府主席に任じられている。 わずか3カ月後の9月、兪作柏は汪兆銘(汪精衛)・陳公博と連合し、反蔣を宣言して護党救国軍南路司令を自称した。しかし、呂煥炎ら部下の軍人たちが蔣介石を支持して兪作柏に背く。呂煥炎らは蔣介石が派遣した粤軍(広東軍)と連合して攻撃してきたため、兪作柏は敗北、下野した。 1936年(民国25年)12月、国民政府から陸軍少将の位を授与され、国民革命軍に復帰する。日中戦争(抗日戦争)に際しては、第3戦区忠義救国軍中将司令となる。また、軍事委員会参議、軍事委員会調査統計局設計委員も歴任した。 1946年(民国35年)、陸軍中将の位を授与されたが、まもなく再び下野し、以後商売で生活を立てている。一時は香港へも移住した。中華人民共和国成立後の1956年に広州入りする。以後、広東省政治協商会議委員、広東省人民政府参事を歴任した。 1959年、広州にて病没。享年73。 参考文献[編集] 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1。 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。

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リサイクル機器試験施設 – Wikipedia

リサイクル機器試験施設(リサイクルききしけんしせつ)(英語名:Recycle Equipment Test Facility、略称:RETF)は、独立行政法人日本原子力研究開発機構が東海研究開発センター核燃料サイクル工学研究所に建設中の再処理研究施設である。 リサイクル機器試験施設は、高レベル放射性物質研究施設(CPF)の研究成果を引き継ぎ、高速増殖炉の使用済み燃料の再処理技術の工学規模(燃料集合体の再処理)でのホット試験(実際の核燃料を使用した試験)を実施する。実施者は「高速炉燃料再処理の実用化に向けた技術課題を洗い出し、再処理機器や化学処理プロセスの高度化を図ることをミッションとしている」と規程している[1]。 実施する試験内容は、高速炉使用済燃料を用いて解体、せん断、溶解、清澄、抽出等の再処理用新型機器及びプロセスの試験を行い、 高速炉燃料再処理プロセス及び新型機器の工学規模試験による技術確認、並びに課題の摘出と改善 将来施設(試験プラント)の建設・運転に必要な工学データの蓄積 を目標とする[1]。 施設概要[編集] 建物:鉄骨鉄筋コンクリート造。地下2階、地上6階建て(約52m幅×約72m長さ×約34m高さ)。 試験セル:建物中央部に大型遠隔セルを配置(約13.5m幅×約53.6m長さ×約22.0m高さ、容積約11,000m3) 試験セル内装置: 30tクレーン、5tクレーン、両腕型マニプレータ2基、燃料一時保管架台、解体試験機(レーザー切断方式)、せん断試験機、精澄試験機、抽出試験機3基、溶媒洗浄試験設備、試験ラック最大8基。 付属施設: リサイクル機器試験施設管理棟(鉄筋コンクリート造、地上4階)、非常用発電機棟(鉄筋コンクリート造、地上3階)。 再処理対象:「もんじゅ」炉心燃料とブランケット燃料、「常陽」ブランケット燃料 再処理方式:湿式再処理(チョップ&リーチ/PUREX法)、乾式再処理も検討。 最大試験能力:10kgHM/h 連続試験能力:炉心燃料で約16時間(160kgHM、炉心燃料集合体3体分に相当)。ブランケット燃料では長期連続運転が可能。 年間最大処理能力(金属ウラン・プルトニウム換算):年間5トン(炉心燃料1.3トン、ブランケット燃料5トン) (出典:動燃技報

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新興郡 – Wikipedia

新興郡(シヌンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道中部、内陸の山岳地帯に位置する郡。 北に咸鏡山脈(赴戦嶺山脈)が走り、明堂峰(1800m)などの山々が聳える。また、郡の東南部には咸鏡山脈の支脈・八峰山脈が横たわる。咸鏡山脈南麓に発する河川は城川江(ソンチョンガン/성천강)となり、郡内を南西(栄光郡方面)へと流れて咸興平野に流下する。 隣接行政区[編集] 行政区画[編集] 1邑・3労働者区・21里を管轄する。 新興邑(シヌンウプ) 発電労働者区(パルチョンノドンジャグ) 富興労働者区(プフンノドンジャグ) 新興労働者区(シヌンノドンジャグ) 慶興里(キョンフンニ) 麒麟里(キリンニ) 吉峯里(キルポンニ) 大洞里(テドンニ) 東谷里(トンゴンニ) 東興里(トンフンニ) 盤石里(パンソンニ) 釜淵里(プヨンニ) 上元川里(サンウォンチョンニ) 西谷里(ソゴンニ) 西南里(ソナムニ)

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谷八郎 – Wikipedia

谷 八郎(たに はちろう、1922年6月16日 – 2020年8月[2])は、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、競走馬調教師。調教師時代にクラシック二冠馬ヒカルイマイなどを管理した。長男・谷潔は現在中央競馬調教師。田島良保、田原成貴、幸英明は、それぞれ門下生である。京都府出身(出生地は神奈川県)。旧姓名・宮代八郎。 1922年、神奈川県中郡二宮町に生まれる[3]。生家は馬車運送業を営みながら、馬主として競走馬も所有しており、幼いころから馬に親しんだ[3]。小学校卒業後、地方競馬の羽田競馬場少年騎手養成所に第1期生として入所、のちに騎手として羽田や八王子で騎乗した[4]。その後、日中戦争の激化と共に地方競馬が休止されていき、全国組織である日本競馬会に移る[4]。当初は馬主に京都競馬場の谷栄次郎を紹介されたが、当時の谷厩舎には繋駕速歩競走用の馬しかおらず、騎手免許交付の要件を満たしていなかったため、東京競馬場の川崎敬次郎厩舎に入門した[3]。1942年に同会で騎手免許を取得。しかし前年末に勃発した太平洋戦争の戦況悪化により徴兵を受け、終戦まで陸軍近衛師団で過ごした[3]。 復員後、兵役前よりの約定に従って京都に移り、一般競走馬を入れていた谷厩舎に所属[4]。翌1946年、栄次郎の姪と結婚、婿養子となり、谷八郎と改姓した[3]。以後は騎手として活動したが、大柄で年を重ねるごとに体重が増加していったため、騎手生活の後半は主に繋駕速歩競走に騎乗していた[3]。騎手成績は通算1264戦98勝[5]。騎手として大競走を勝つことはなかったが、1955年10月22日に行われた阪神第6競走においてタチバナヒメに騎乗した際、単勝オッズ558.7倍という最低人気ながら勝利し、中央競馬における単勝配当の史上最高記録を樹立している。この記録は2014年4月26日に更新[6]されるまで58年半にわたり保持された。 1959年より調教師に転じ、京都競馬場に厩舎を開業。翌1960年春にキンシオーでタマツバキ記念を制し、重賞競走を初制覇。以後散発的に重賞に勝利していたが、1971年、「雑種血統」とも呼ばれた安馬のヒカルイマイで皐月賞と東京優駿(日本ダービー)に優勝し、八大競走制覇を果たした。同馬の主戦騎手は弟子の田島良保が務め、田島はJRAで最も若く、国営時代を含めると史上2番目に若いダービージョッキーとなっている。ヒカルイマイは史上3頭目のクラシック三冠が懸かった菊花賞を前に屈腱炎を発症し、三冠に挑むことなく引退した。また、同馬は後に谷の計らいにより余生を鹿児島県の牧場で送ったが[4]、谷の顧客には九州出身の馬主が多く、一時は管理馬の半数以上が九州産馬で占められるなど「九州産馬の谷」としても知られた。ただしこれは九州産馬を誰も預かりたがらなかったからであるといい、谷自身はこの呼び名を好まなかった[7]。 ヒカルイマイ以後、引退までの重賞勝利は2勝と華々しいものではなかったが、人材の面では田島に加え、通算1000勝を達成し「天才」とも称された田原成貴らを育成した。最後の弟子である幸英明も1000勝を達成している。若い田島を一貫してヒカルイマイに乗せ続けたことに例示されるように、谷は弟子に早くから責任を持たせ、その上で各自の自主性を重んじた[8]。 1998年2月28日をもって定年引退。調教師通算成績は7615戦657勝(うち中央7580戦652勝)であった。 2020年8月に98歳で没したが、それから1年後の2021年8月にかつての門下生だった幸英明がヨカヨカで北九州記念を制した時の勝利者インタビューの席において、初めてその死が公にされた[2]。 通算成績[編集] 騎手時代[編集] 区分 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率

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羽幌炭鉱 – Wikipedia

羽幌炭鉱(はぼろたんこう)は、北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1935年操業開始。羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を産出することで知られ、大変人気があった。 1970年(昭和45年)12月にたて坑の密閉作業や[1]、鉄道の廃止[2]、閉山式を行って完全に閉山した[3]。 特に羽幌本坑には、中国の龍鳳炭鉱(撫順市)、福岡県の志免鉱業所の流れを汲む、ワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれるタイプの櫓が現存している。閉山時の事情・状況については羽幌炭礦鉄道に詳しいので参照のこと。 現存する羽幌炭鉱築別坑のホッパー棟 現存する羽幌炭鉱羽幌本坑の立坑櫓 北海道苫前郡羽幌町築別、曙、三毛別、太陽、上羽幌、旭丘など築別川上流、羽幌川上流地域一帯 会社としての羽幌炭鉱は、その業績もさることながら実業団活動に力を入れ、野球部、男女バレー部、スキー部ジャンプチームは国内トップクラスの実力を誇った。 スキー部[編集] 笠谷昌生などが活躍。また昌生の弟笠谷幸生も練習に帯同していた。他に大内勝蔵(1963年全日本選抜スキー大会70メートル級準優勝)、大森享一、菅野弘二、菊地英一(1963年冬季国体青年の部飛躍5位、同年全日本スキー選手権60メートル級5位)、岸本光夫、竹内賢司、松井孝(1960年スコーバレーオリンピックスキージャンプ代表)佐藤義勝(第41回全日本スキー選手権50キロ優勝)といった選手が所属していた。 また、当時日本では大倉シャンツェに次ぐ規模を持ったジャンプ台も抱え、スキー部の練習はもちろん、大会も行われていた。また、町内にある高校スキー部に与えた影響も大きいことは見逃してはいけない。例えば羽幌高校の沢田久喜、羽幌太陽高校の吉岡世一などがいる。因みに、羽幌炭鉱の閉山に伴い、高校のスキー部は廃部になった。 野球部[編集] 都市対抗野球大会に1959年と1963年の2回出場、日本産業対抗野球大会に1962年から64年にかけて3回連続出場した。ドラフト指名選手も2名所属した。 男子バレー部[編集] 全日本バレーボール選抜男女リーグ1部に所属した。 女子バレー部[編集] 地域リーグで常に優勝を争っていた。 男子卓球部[編集] 日本卓球リーグ2部に所属していた。 往時の町の賑わい[編集] 主鉱は築別鉱と上羽幌鉱で共に羽幌炭礦鉄道が通っており、駅前の商店街には居酒屋、パチンコ店、病院、映画館、50mプールなどがあり大変な賑わいを見せていた。

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井形慶子 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2020年3月) 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2020年3月) 一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2020年3月)出典検索?: “井形慶子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 井形 慶子 誕生 (1959-12-18) 1959年12月18日(62歳)長崎県長崎市 職業 作家・雑誌編集長 国籍

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鉄道チャンネル – Wikipedia

鉄道チャンネル 基本情報 運営(番組供給)事業者 株式会社エキスプレス 旧チャンネル名 ACCESS!(1996年10月1日 – 2001年6月30日)交通情報アクセス(2001年7月1日 – 2002年1月31日)交通情報アクセス plus 天気(2002年2月1日 – 2009年3月31日)ACCESS(2009年4月1日 – 2011年6月30日) 放送(配信)開始 1996年10月1日 HD放送(配信)開始 2012年10月1日

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ヤズミン・リバス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はリバス、第二姓(母方の姓)はエルナンデスです。(Template:スペイン語圏の姓名) ヤズミン・リバス 基本情報 本名 ヤズミン・ロジータ・リバス・エルナンデス(Yazmín Rosita Rivas Hernandez) 階級 スーパーフライ級 身長 165cm 国籍 メキシコ 誕生日 (1988-01-17) 1988年1月17日(34歳) 出身地 コアウイラ州トレオン スタイル

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メンシェヴィキ – Wikipedia

メンシェヴィキ(меньшевики)は、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、社会主義右派である。ロシアで行われるべき革命は民主主義革命であると主張し、ブルジョワ(中産階級)との協力による漸進的革命を主張したマルトフやプレハーノフを指導者とするグループ。1903年のロシア社会民主労働党大会での党綱領決定に際しては勝利したものの、人事問題でレーニンらの派閥(後のボリシェヴィキ)に敗れて「少数派」となったことに由来する。1912年のプラハ大会で両派は党内分派状態から分党になった。1917年の二月革命の勃発当時初はソヴィエト内で優勢であったが、次第に大衆の支持を失った。ボリシェヴィキ主導の社会主義革命である十月革命後は反革命側に立った[1]。 メンシェヴィキとはロシア語で「少数派」の意がある。メンシェビキとも表記される。 分裂の発端[編集] 1903年7月・8月の党大会で党規約を審議したさい、規約第一条の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは党員の資格を「党の組織の一つに属する人のこと」と規定し、もう一つのユーリー・マルトフから提出された規約案では「党の組織の一つの指導のもとに活動する人のこと」という表現がされていた。 記述の上ではそれほど大きな差はないように見えたが、それ以前からレーニンがその著作『何をなすべきか』で組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党を提唱していたことはよく知られたことだったので、党大会は規約第一条に関する議論で感情が高まり、できたばかりの党組織を分裂させることになった。レーニンはマルトフの描く党組織像を大衆に開かれた党であるとともに官憲に開かれた党であると論難した。大会の全投票において、反対28・賛成23をもってレーニン案は否決された。 ところが党指導部の母体となる雑誌『イスクラ』編集部をレーニンが制し、さらに党規約第一条のマルトフ案に賛成したリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(ブンド)の4名が大会を離脱し、レーニン案を支持したものが残った結果としてレーニン支持者が多数派となった。 さらに『イスクラ』の編集部から古参革命家であるヴェーラ・ザスーリチ、パーヴェル・アクセリロード、ポトレーソフを解任することをレーニンが提案し、今や少数派となった「反対派」がそのことに反発し、新編集局と党中央委員会に自派の候補者を参加させることを拒否した。このときからボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の会議を持ち始め、お互いの誹謗中傷に熱中するようになる。 第一次世界大戦まで[編集] メンシェヴィキは党大会で一時少数になっただけで、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得していた。特にドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、レーニンの論文を自分の新聞に掲載することを禁じ、ローザ・ルクセンブルクはレーニンの「超中央集権主義」を非難したのであった。 メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者がいない代わりに、著名な古参革命家を数多く含んでいた。ゲオルギー・プレハーノフとともに1880年代に労働解放団を組織した仲間たちである。彼らはナロードニキからその政治活動を出発しマルクス主義を受け容れることで、農民ではなく工業プロレタリアートが革命の主体である、来るべき革命は「ブルジョア革命」である、との見解をとるようになった。 党の目的は工業労働者の生活改善(労働組合の公認・8時間労働・社会保険)を目指した啓蒙と煽動にとどまり、そこでは陰謀家やテロリストや地下活動家は必要とせず、ブルジョア自由主義者をも巻きこんだ公然たる活動のみが許される。メンシェヴィキは、革命の過程を分析して、それが意識的な活動によって促進できるものではないと信じていたので、本来からして理論家であった。 1905年のロシア第一革命のとき、メンシェヴィキ指導部は権力に参与せず「最も革命的な反対党として」とどまらなければならないとし、有効な活動をおこなうことができなかった。しかし党の下部では分裂が深まっていなかったために、ペテルブルク・ソヴィエトでは立場の違いを無視してボリシェヴィキと一緒に活動し、《北方の声Severnyi Golos》という共同の新聞を3号まで発行した。 1906年にボリシェヴィキとの会議をストックホルムで、1907年にロンドンで開催するが、ロシア帝国議会への対応をめぐって対立した。第一次世界大戦中、1915年のツィンメルヴァルト会議に、マルトフら「イニシャチヴグループ」がメンシェヴィキを代表して出席し、彼は戦争を「民族自決に基づいた、併合と賠償をともなわないブルジョア民主主義的な平和」をもって終わらせるよう主張し、メンシェヴィキの「祖国防衛派」は中央戦時工業委員会で資本家と結んでクスマ・グヴォズジェフやアレキサンドル・ポトレソフらが「労働者グループ」を形成し、ロシア革命のブルジョア性についての教義はまったく変わりなかった。 ロシア革命への対応と評価[編集] 1917年の2月に2月革命が勃発し、ソヴィエトがペトログラードに復活した時点では、メンシェヴィキが優勢であり、グルジア・メンシェヴィキに属するニコライ・チヘイゼがソヴィエトの議長であった。政府にたいする「合法反対派」を形成し、労働者多数派の支持を受けていた。 しかし革命が進行するにつれ、組織のゆるさが災いして統一した政策を打ち出すことができなかった。ロシアが戦争政策を継続するかどうか、レーニンをドイツのスパイとみなすかどうかの問題でもマルトフ率いる「国際主義者」と「社会愛国主義者」であるイラクリ・ツェレテリの一派が分裂してしまった。 10月25日にボリシェヴィキが中心となりペトログラード・ソヴィエトが臨時政府を倒した直後に開かれた会議上、マルトフがボリシェヴィキの「純軍事陰謀」を非難。それに対してトロツキーがこう反駁した。 「 君たちはあわれむべき、孤立した個人である。君たちは破産者だ。君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ。

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