深沢紅子 – Wikipedia

深沢 紅子(ふかざわ こうこ、1903年3月23日 – 1993年3月25日)は、日本の洋画家。岩手県盛岡市出身。夫深沢省三も洋画家・童画家。戦前戦後を通じ、堀辰雄や立原道造らの本の装幀のほか、童話の挿絵なども多く手がけた。深沢夫妻は作品を描き続ける一方、絵画指導を通じて児童教育にも熱心に携わった。 1903年(明治36年)3月23日、父四戸慈文・母キヌの一人娘として盛岡に生まれる 1909年 – 岩手師範附属小学校(現・岩手大学教育学部附属小学校)入学 1919年 – 盛岡高等女学校(現・岩手県立盛岡第二高等学校)卒業。12歳より日本画を学んでいたことから、東京の女子美術学校(現女子美術大学)日本画科へ入学 1921年 – 同油絵科へ転科、岡田三郎助門下生となる 1923年 – 卒業の年、同郷の画家・深沢省三と結婚 1925年 –

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月刊アッコちゃん – Wikipedia

月刊アッコちゃん(げっかん-)は、1986年5月から1997年9月までの間月刊カドカワにて138回に渡り掲載された、矢野顕子による連載企画。 月刊カドカワ時代[編集] 連載開始当時はモノクロ2ページ見開きで湯村輝彦がイラストレーションを担当。第3号(第3回)から上田三根子がイラストレーションを務め、第7号からは目次裏に移動、フルカラーとなり、「色付き壁新聞」のキャッチフレーズがついた。編集者は松山加珠子。 冒頭の特集では、矢野と当時夫婦であった坂本龍一の日常生活、矢野の音楽活動のレポートのほか、矢野自らが社会科見学に訪れる「シティ・ウォーク・シリーズ」や、各界の著名人からのコメントを集めた「考えるシリーズ」などがあった。 また、連載内企画として、読者からの質問に答える『アッコちゃんの質疑応答』、こぼれ話コラム『アッコちゃんのひ・み・つ』などがあった。 その後[編集] 1999年1月から12月の間、HMVフリーペーパー「the music master」にて「月刊アッコちゃん」が復活した。 2009年には、矢野顕子オフィシャルサイトで「復刻版・月刊アッコちゃん」の連載が再開。 第一回「はんぺんの将来を考えると、やのの将来が見えてくる?」 第二回「This is a pen?」 第三回「その人の人間の部分が出ちゃう企画が好き」 第四回「復活「月刊アッコちゃん」はちょっと社会派で行きます」 第五回「ニホンゴワカリマスカ?」 第六回「天才バカボンを探せ! x

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牧之原警察署 – Wikipedia

牧之原警察署(まきのはらけいさつしょ)は、静岡県牧之原市にある静岡県警察が管轄する警察署。 管轄区域[編集] 1877年(明治10年)5月1日 – 掛川警察署相良警察分署として開設。 1886年(明治19年)10月16日 – 掛川警察署相良警察分署を廃し、相良警察署を開設。 1898年(明治31年)4月1日 – 相良警察署川崎警察分署設置。 1914年(大正3年)5月6日 – 相良警察署川崎警察分署を廃し、川崎警察署新設。同時に、相良警察署は、巡査部長派出所に変更。 1948年(昭和23年)3月7日 – 旧警察法の施行により、国家地方警察静岡県榛原地区警察署、自治体警察が川崎町、旧・相良町、吉田村(現・吉田町)、地頭方村に設置される。 1951年(昭和26年) 9月30日 –

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ジョージア・ホワイト – Wikipedia

ジョージア・ホワイトJeordie White 2015年 基本情報 出生名 ジョージア・オズボーン・ホワイト 別名 トゥイギー・ラミレズ 生誕 (1971-06-20) 1971年6月20日(50歳) 出身地 アメリカ合衆国ニュージャージー州ポンプトンレイク ジャンル オルタナティヴ・ロックインダストリアル・ロックオルタナティヴ・メタルインダストリアル・メタルヘヴィメタル 担当楽器 ベースギターシンセサイザー 活動期間 1989年 –

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欧州議会の政治会派 – Wikipedia

この項目では、欧州議会内における政治会派について説明しています。ヨーロッパで横断的に活動する政党については「欧州規模の政党」をご覧ください。 この記事は更新が必要とされています。この記事には古い情報が掲載されています。編集の際に新しい情報を記事に反映させてください。反映後、このタグは除去してください。(2019年6月) 欧州議会の政治会派(おうしゅうぎかいのせいじかいは)では、欧州議会の院内において国内で活動する政党や欧州規模の政党などで形成される政治会派について概説する。欧州議会は超国家的な会議体としては独特なものであり、院内では国ごとではなくイデオロギーが近似している議員で構成される政党やグループが形成されている。会派は単一の欧州規模の政党を中心に形成されたり、あるいは複数の欧州規模の政党や国内で活動する政党、および無所属の政治家で形成される連合体で作られている。 欧州議会内の会派は必ずしもひとつの政党を作っているのではなく、連合体を形成していることが多い。しかし各会派には基本的な原理があり、そのようなものがなければ会派は解散することになる。 要件・特権[編集] 会派を形成して活動することで、欧州規模の政党は有利な点が得られる。たとえば、欧州自由連盟は5議席を、欧州緑の党は48議席を有しており、このほかにも数名の議員が参加して計55議席を有する会派「欧州緑グループ・欧州自由連盟」を形成することで、別々に行動するよりも強い影響力を持つことになる。また会派を形成して協力することにつながる背景には、議会から財政面での支援が受けられたり、無所属議員には割り当てられないような委員会の委員の席が得られるようになったりする[1]。 会派が議会において正式に認められるためには、議院規程の第30条[2]の定めに従わなければならない。これによると、議員の出身国の構成が全加盟国の4分の1以上であり、議員の合計が25人以上でなければならない。さらにいずれの議員も複数の会派に所属してはならず、また会派に属する議員は共通の政治理念を持たなければならないともされている。これらの条件を満たせば、理論上はどのような会派でも議員は結成することができる。このような条件は一部の議員が極右会派「独立、伝統、主権」の結成にあたって真価が問われた。「独立、伝統、主権」の結成は議論を呼び、極右会派に欧州議会の予算を与えるべきかということに関心が集まった[1]。結局のところ新会派の結成阻止はならなかったが、すべての会派に与えられるはずの委員会での委員長ポストを与えることについては阻止することができた[3]。 従来はこの会派成立要件について、議員が20名以上で、議員の出身国の構成が全加盟国の5分の1以上と規定されていた。しかし一部の議員、とくに2大会派からこの要件の引き上げを求める声があがった結果、上述のように変更された。ただこの変更にあたっては多くの議員から民主主義に反するという意見が出された。これに対して賛成側からは、議員全体の2.5%の人数で会派を結成することができ、また極右系会派が欧州連合の予算を要求することがこの変更によって困難なものにすることができるという反論がなされた。しかし、改定された規定では既存の少数2会派が存亡の危機に立たされることとなった[4]。 会派の構成[編集] 各会派は単一の欧州規模の政党、または複数の欧州規模の政党や国内で活動する政党および無所属の議員で形成される[5]。 それぞれの会派は「党首」、「書記長」、「議長」といった代表者を選出し、議会における採決で会派が賛成・反対のいずれに投票するかを決める役割を担う。各会派の代表者は「代表者会議」に出席して定例議会でどの議題を扱うかを決めている。各会派は決議採択を求める動議や報告書に対する修正案を提出することができる。 議会内での勢力[編集] 政党との関係[編集] 欧州議会では議院内閣制のように政権与党が形成されるということはなく、政治的な運営も対立的なものではなく会派間での話し合いを重視してなされてきた[7]。またこれまで特定の会派が欧州議会で単独過半数を形成したことはない[8]。このうち2大会派とは保守・キリスト教民主主義系の欧州人民党グループと社会主義系の社会民主進歩同盟で、いずれも欧州規模の政党を中心に形成されており、前者は欧州人民党、後者は欧州社会党が中心となっている。両会派は欧州議会が設置されてから優勢な立場にあり、両者が獲得してきた議席数をあわせると全体の50から70パーセントを持ってきた。欧州社会党系会派は1999年まで最大会派であったが、この年の選挙で欧州人民党系会派が逆転した[9]。 1987年に単一欧州議定書が発効して協力手続が導入されたことにより、欧州議会はその影響力を最大限行使するために多数派を形成する必要が出てきた。そのため欧州人民党グループと欧州社会党グループは議会内で一定の協力をするということで合意に至った[10]。この合意は「大連立」とも呼ばれ、1999年の選挙後の議会を除いて[11]、その必要性にかかわらず議会を主動した。この大連立による協力の例として、5年間の欧州議会の任期で議長職の任期を分け合うという合意がなされており、選挙の結果にかかわらず、前半は欧州社会党系の議長を、後半は欧州人民党系の議長を選出するということが行なわれてきた[7]. 自由主義系の立場[編集] 欧州自由民主同盟グループ元代表のグラハム・ワトソンは2大会派による大連立を批判している。また、「われわれにとっての挑戦とは、テーブルからパンくずをくすねる社会主義のプードルが無能な欧州人民党を支えるような大連立の特有的な保守性を打破するということだけではなく」、2大会派のあいだでの、他会派を排除しようとするような取り決めによって欧州委員会委員長、欧州連合理事会議長国、欧州議会議長、共通外交・安全保障政策上級代表のポストがやり取りされるようなことがあってはならないと示していくこともあるとして、自由主義系会派の狙いを述べている[12]。 1999年から2004年にかけて、2大会派による大連立に割って入ったのは欧州自由民主改革党であり、このとき同党は欧州社会党グループを排したかたちで欧州人民党グループとの連携に踏み切った[11]。つまり、従来のように欧州人民党グループと欧州社会党グループで分け合ってきた欧州議会議長のポストを、欧州人民党と欧州自由民主改革党とのあいだで分け合うということが合意されたのである[13]。2004年から2009年にかけて、自由主義系会派は「欧州自由民主同盟グループ」を結成して、議席数も88にまで伸ばした。この議席数は過去の欧州議会の第3会派としては最多であった[12]。 連携の解消[編集] ところが自由主義系会派による介入が大連立解消の唯一の理由ではなかった。実際に左右が連携して政策執行にあたっていたサンテール委員会が総辞職したことが最大の原因であった。当初、欧州委員会の財務に対する調査が行なわれていたが、これはおもに欧州社会党系のエディット・クレッソンとマヌエル・マリンを対象としていたものであった。欧州社会党はサンテール委員会を支持しており、この問題を1999年の選挙に向けた欧州人民党による欧州社会党への攻撃と見ていた。欧州議会が委員会による予算案を否決しそうになると欧州委員会委員長のジャック・サンテールは、予算案に対する反対は委員会に対する不信任決議の採択に等しいと述べた。欧州社会党グループ代表のポーリン・グリーンは欧州委員会に対する信任決議の採択を試みたものの、欧州人民党は不信任決議案を提出した。このやり取りがなされた期間は、両会派が与野党に分かれたかのようなかたちで争われた。つまり欧州社会党が執行機関である欧州委員会を支持し、欧州人民党がそれまでの連立関係を破棄して欧州委員会が提出した予算案を否決したのである[14]。

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プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍 – Wikipedia

プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍(シェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツかいほうぐん、アルバニア語:Ushtria Çlirimtare e Preshevës, Medvegjës dhe Bujanocit; UÇPMB)は、ユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国から、プレシェヴォ(Preševo)、ブヤノヴァツ(Bujanovac)、メドヴェジャ(Medveđa)の3自治体を分離し、将来的に独立国となったコソボへと統合することを目的としたゲリラ組織である。3つの自治体は、コソボ域外のセルビア本国において、民族的にアルバニア人の住民の多い地域である。UÇPMBの制服や紋章、行動や戦略は、1999年に解体されたコソボ解放軍と同一のものであった。UÇPMBは1999年から2001年まで活動を続けた。 1999年にコソボ紛争が終結すると、国際連合のUNMIK統治下となったコソボと、それ以外のセルビア本国との間に幅5キロメートルの地上安全地帯(Ground Safety Zone; GSZ)が設定された。ユーゴスラビア連邦軍はこの地域の警備を禁じられ、軽武装の警察部隊のみとされた[1][2]。この地上安全地帯にはアルバニア人の村ドブロシン(Dobrosin)は含まれていたが、プレシェヴォは含まれていなかった。 コソボ解放軍の元成員たちは、直ちにこの安全地帯に基地を作り、セルビアの警察は待ち伏せ攻撃を受けて地域の警備は不可能となった。攻撃は、セルビア人のみならず、コソボ解放軍と対立するアルバニア人の政治家にも向けられ、スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア社会党のブヤノヴァツ支部の副支部長であったゼマリ・ムスタフィ(Zemail Mustafi)の暗殺などが引き起こされた。 1999年6月21日から2000年11月12日までの間に、294回の攻撃が記録され、うち246回はブヤノヴァツで、44回はメドヴェジャで、6回はプレシェヴォで引き起こされた。攻撃によって14人が殺害され(うち6人は民間人、8人は警官)、37人が負傷(2人の国連職員、3人の民間人、34人の警官)、5人の民間人が拉致された。この攻撃では、UÇPMBはアサルトライフル、機関銃、迫撃砲などのほか、RPG、手榴弾、対戦車地雷、対人地雷も用いられた[3] 地域の情勢が統制不能となっているとみた北大西洋条約機構(NATO)は、ユーゴスラビア連邦軍に対して、地上安全地帯への再進駐を2001年5月24日に認め、また同時にUÇPMBにはKFORへの投降を呼びかけた。KFORは、武器を回収し成員の名前を控えた後に釈放することを約束した。 450人を超えるUÇPMBの成員がKFORによる「検査と釈放」の施策の恩恵を受けた。その中にはUÇPMBの指揮官であったシェフケト・ムスリウ(Shefket Musliu)もおり、5月26日の深夜にKFORに投降している。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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アイファー・ジェームズ – Wikipedia

ポータル クラシック音楽 アイファー・ジェームズ(Ifor James、1931年8月30日-2004年12月23日)はイギリスのホルン奏者。 目次 1 略歴 2 使用楽器 3 主な作品 4 その他 1931年、イギリスのカーライル生まれ。父はコルネット奏者、母はソプラノ歌手という家庭に生まれ育つ。 4歳の時、ブラスバンドでコルネットを始める。7歳の時には、劇場で日雇いのトランペット奏者を務めていた他、カーライルの大聖堂でオルガンを弾いていたこともある。 1951年、ロンドンの王立音楽アカデミーに入学、オーブリー・ブレインにホルンを師事する。その間、ロンドンで度々ソロ活動を行う。 1952年から1960年の間、ハレ管弦楽団とロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団に所属。その後、ロンドンに移り住み、様々なオーケストラや室内オーケストラの首席ホルン奏者を務めた。 室内楽活動では、1966年から1980年の間、フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルに所属、少なくとも30回以上のレコーディングに参加している。 ソロ奏者としては、イギリス内外で積極的にツアー活動を行った。日本でも、1979年に来日した際、千葉県八千代市民会館にてソロ曲集を収録している。 ソロと室内楽に重点を置き、世界の名だたるオーケストラと数多く共演すると共に、多くの作曲家が彼のために曲を捧げている。 教育者としても名高く、王立音楽アカデミーやマンチェスターの王立ノーザン・カレッジで教授職を務めた他、アバディーンにあるスコットランド音楽学校では27年間の長きに亘って後進の指導にあたった。1996年、ドイツのフライブルク国立大学を最後に教職を引退。2003年には、アバディーンのロバート・ゴードン大学から名誉教授の称号が贈られた。

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ニコメディア – Wikipedia

ニコメディア(Nicomedia、:[1]ギリシア語: Νικομήδεια、Nikomedeia、現:イズミット)は現在のトルコ共和国領内に存在した古代ギリシアの都市。286年に(東の正帝ディオクレティアヌスによって)ローマ帝国東部の実質的な首都となった。この都市の地位は複数の皇帝(正帝と副帝)がローマ帝国を治めるテトラルキア(四帝統治)体制(293年-324年)が継続している間維持された。 テトラルキア体制の崩壊後、は324年のクリュソポリスの戦い(英語版)(現:ユスキュダル)でコンスタンティヌス1世がリキニウスを打ち破り単一の皇帝となった。330年、コンスタンティヌス1世は自らの名前をボスポラス海峡のヨーロッパ側にあるビュザンティオン市に与えコンスタンティノープルと改称した(現:イスタンブル)。後にこの都市が事実上のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都となり、ニコメディアの実質的な首都としての地位は失われたが、その後も重要な都市であり続けた。 この都市は紀元前712/711年にメガラ人の植民市として建設され、元来はアスタコス(英語版)(、 古代ギリシア語: Ἀστακός、Astacus、エビの意)として知られた[2]。リュシマコスによって破壊された後[3]、この都市はビテュニア王ニコメデス1世(英語版)によって前264にニコメディアという名前で再建され、それ以来小アジア北西部で最も重要な都市の1つとなった。カルタゴの偉大な将軍ハンニバル・バルカは、彼の生前最後の年にニコメディアを訪れ、近郊にあるリビュッサ(Libyssa、現:ゲブゼのディリスケレシ(英語版)港)で自殺した。また、歴史家アッリアノスはこの地で生まれた。 コンスタンティウス2世とファウスティナを称えるメダリオンのあるこのベルトの一部分。これはニコメディアで鋳造された[4]。ウォルターズ美術館蔵 ニコメディアはローマ帝国のビテュニア属州の大都市・首都であった。ビテュニア総督を務めていた小プリニウスがその任期の間トラヤヌス帝に捧げた作品『頌詞(英語版)』ではこの都市は繰り返し言及されている[5]。ディオクレティアヌス帝はテトラルキア(四帝統治)を導入すると共に、この都市をローマ帝国の東の都とした。 大迫害[編集] ニコメディアはキリスト教徒に対するディオクレティアヌスの大迫害(英語版)の中心であった。この迫害はディオクレティアヌス帝と彼の副帝ガレリウスの下で行われた。303年2月23日、異教の祭典テルミナリア(英語版)の日、ディオクレティアヌスは新築されたニコメディアの教会を破壊し、聖書を焼き、宝石を没収するよう命じた[6]。翌日、彼は『キリスト教徒に対する第一勅令(First Edict Against the Christians,)』を布告した。これは帝国全土の教会に対して同様の処置がとられるべきことを命じていた。 このニコメディア教会の破壊は市内でパニックを引き起こし、月の終わりには火災がディオクレティアヌスの宮殿の一部を破壊し、続いて16日後にも別の火災が発生した[7]。火災の原因についての調査が行われたものの、公式に訴追されたグループはなかった。しかしガレリウスはキリスト教徒を罪有りとした。ガレリウスは2名の宮廷の宦官がキリスト教徒と共謀して火災を起こしたと主張し、この宦官たちの処刑を監督した。続いて303年4月の終わりまでさらに6人を処刑した。直後、ガレリウスはニコメディアが安全ではないと宣言し、この都市の死者をローマで晒し者にした。ディオクレティアヌスもまたすぐそれに続いた[7]。 後期ローマ帝国[編集] ニコメディアは並立皇帝リキニウスがコンスタンティヌス1世に324年のクリュソポリスの戦い(英語版)(現:ユスキュダル)で敗れるまでローマ帝国の東の(そして上級の)首都であった。コンスタンティヌス1世はビュザンティオン(コンスタンティノープルと改称された)に新たな都市を建設した後も、ニコメディアを拠点していた。彼は337年にニコメディア近くの離宮で死亡した。コンスタンティノープルはその後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都の地位を確固たるものとしていくが、ニコメディアはコンスタンティノープルに繋がるアジアの交通路の収束地点という立地によって、その後も重要性を維持し続けた[8]。 しかし、358年8月24日の大地震とそれに続く火災がニコメディアの大部分を破壊した。ニコメディアはより小規模な都市として再建された[9]。6世紀、皇帝ユスティニアヌス1世の下で、新たな公共建築群が建設されニコメディアは拡張された。首都コンスタンティノープルへと続く街道上に位置するこの都市は主要な軍事拠点であり続け、イスラーム勢力に対するビザンツ帝国の遠征において重要な役割を果たした[10]。 451年、現地の主教座はコンスタンティノープル総主教庁管轄下の府主教座(英語版)に昇格した[11]。このニコメディア府主教座はNotitiae Episcopatuumにおいてコンスタンティノープル総主教庁に属する府主教座の中で序列第7位とされていた[12]。8世紀、皇帝コンスタンティノス5世は746年から747年にかけてコンスタンティノープルでペストが流行して首都にいられなくなった際、しばらくの間ニコメディアに宮廷を置いていた[13]。840年代から、ニコメディアはテマ・テマ・オプティマトイ(英語版)の首都となった。この頃までに、古い海岸部の町の大部分が放棄されており、ペルシア人地理学者イブン・フルダーズベはニコメディアが廃墟の中にあり居住地は丘上の城塞部に限られていると説明している[10]。1080年代、ニコメディアはアレクシオス1世コムネノスによるセルジューク朝に対する遠征で重要な軍事拠点として機能し、第1回十字軍と第2回十字軍がこの都市で宿営した。

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川井氏 – Wikipedia

川井氏(かわいし)は日本の武家のひとつ。複数の系統が存在する[1]。 藤原北家流 – 勧修寺家傍系上杉氏の庶流。 藤原南家流 – 今川氏の家臣にあり。 藤原北家流 – 佐竹氏重臣(後述)。 藤原北家利仁流 度会氏流 壬生氏流 – 山城国北野天神社社家。 河内源氏流 – 吉見氏の庶家。 中原氏十市氏流 –

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