ニコメディア(Nicomedia、:[1]ギリシア語: Νικομήδεια、Nikomedeia、現:イズミット)は現在のトルコ共和国領内に存在した古代ギリシアの都市。286年に(東の正帝ディオクレティアヌスによって)ローマ帝国東部の実質的な首都となった。この都市の地位は複数の皇帝(正帝と副帝)がローマ帝国を治めるテトラルキア(四帝統治)体制(293年-324年)が継続している間維持された。 テトラルキア体制の崩壊後、は324年のクリュソポリスの戦い(英語版)(現:ユスキュダル)でコンスタンティヌス1世がリキニウスを打ち破り単一の皇帝となった。330年、コンスタンティヌス1世は自らの名前をボスポラス海峡のヨーロッパ側にあるビュザンティオン市に与えコンスタンティノープルと改称した(現:イスタンブル)。後にこの都市が事実上のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都となり、ニコメディアの実質的な首都としての地位は失われたが、その後も重要な都市であり続けた。 この都市は紀元前712/711年にメガラ人の植民市として建設され、元来はアスタコス(英語版)(、 古代ギリシア語: Ἀστακός、Astacus、エビの意)として知られた[2]。リュシマコスによって破壊された後[3]、この都市はビテュニア王ニコメデス1世(英語版)によって前264にニコメディアという名前で再建され、それ以来小アジア北西部で最も重要な都市の1つとなった。カルタゴの偉大な将軍ハンニバル・バルカは、彼の生前最後の年にニコメディアを訪れ、近郊にあるリビュッサ(Libyssa、現:ゲブゼのディリスケレシ(英語版)港)で自殺した。また、歴史家アッリアノスはこの地で生まれた。 コンスタンティウス2世とファウスティナを称えるメダリオンのあるこのベルトの一部分。これはニコメディアで鋳造された[4]。ウォルターズ美術館蔵 ニコメディアはローマ帝国のビテュニア属州の大都市・首都であった。ビテュニア総督を務めていた小プリニウスがその任期の間トラヤヌス帝に捧げた作品『頌詞(英語版)』ではこの都市は繰り返し言及されている[5]。ディオクレティアヌス帝はテトラルキア(四帝統治)を導入すると共に、この都市をローマ帝国の東の都とした。 大迫害[編集] ニコメディアはキリスト教徒に対するディオクレティアヌスの大迫害(英語版)の中心であった。この迫害はディオクレティアヌス帝と彼の副帝ガレリウスの下で行われた。303年2月23日、異教の祭典テルミナリア(英語版)の日、ディオクレティアヌスは新築されたニコメディアの教会を破壊し、聖書を焼き、宝石を没収するよう命じた[6]。翌日、彼は『キリスト教徒に対する第一勅令(First Edict Against the Christians,)』を布告した。これは帝国全土の教会に対して同様の処置がとられるべきことを命じていた。 このニコメディア教会の破壊は市内でパニックを引き起こし、月の終わりには火災がディオクレティアヌスの宮殿の一部を破壊し、続いて16日後にも別の火災が発生した[7]。火災の原因についての調査が行われたものの、公式に訴追されたグループはなかった。しかしガレリウスはキリスト教徒を罪有りとした。ガレリウスは2名の宮廷の宦官がキリスト教徒と共謀して火災を起こしたと主張し、この宦官たちの処刑を監督した。続いて303年4月の終わりまでさらに6人を処刑した。直後、ガレリウスはニコメディアが安全ではないと宣言し、この都市の死者をローマで晒し者にした。ディオクレティアヌスもまたすぐそれに続いた[7]。 後期ローマ帝国[編集] ニコメディアは並立皇帝リキニウスがコンスタンティヌス1世に324年のクリュソポリスの戦い(英語版)(現:ユスキュダル)で敗れるまでローマ帝国の東の(そして上級の)首都であった。コンスタンティヌス1世はビュザンティオン(コンスタンティノープルと改称された)に新たな都市を建設した後も、ニコメディアを拠点していた。彼は337年にニコメディア近くの離宮で死亡した。コンスタンティノープルはその後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都の地位を確固たるものとしていくが、ニコメディアはコンスタンティノープルに繋がるアジアの交通路の収束地点という立地によって、その後も重要性を維持し続けた[8]。 しかし、358年8月24日の大地震とそれに続く火災がニコメディアの大部分を破壊した。ニコメディアはより小規模な都市として再建された[9]。6世紀、皇帝ユスティニアヌス1世の下で、新たな公共建築群が建設されニコメディアは拡張された。首都コンスタンティノープルへと続く街道上に位置するこの都市は主要な軍事拠点であり続け、イスラーム勢力に対するビザンツ帝国の遠征において重要な役割を果たした[10]。 451年、現地の主教座はコンスタンティノープル総主教庁管轄下の府主教座(英語版)に昇格した[11]。このニコメディア府主教座はNotitiae Episcopatuumにおいてコンスタンティノープル総主教庁に属する府主教座の中で序列第7位とされていた[12]。8世紀、皇帝コンスタンティノス5世は746年から747年にかけてコンスタンティノープルでペストが流行して首都にいられなくなった際、しばらくの間ニコメディアに宮廷を置いていた[13]。840年代から、ニコメディアはテマ・テマ・オプティマトイ(英語版)の首都となった。この頃までに、古い海岸部の町の大部分が放棄されており、ペルシア人地理学者イブン・フルダーズベはニコメディアが廃墟の中にあり居住地は丘上の城塞部に限られていると説明している[10]。1080年代、ニコメディアはアレクシオス1世コムネノスによるセルジューク朝に対する遠征で重要な軍事拠点として機能し、第1回十字軍と第2回十字軍がこの都市で宿営した。
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