キッド・カディ – Wikipedia

キッド・カディ(英: Kid Cudi, 本名: スコット・ラモーン・セグロ・メスカディ、1984年1月30日 – )は、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド出身のラッパー、歌手、ソングライター、音楽プロデューサー、俳優。 2008年にカニエ・ウェストが主催するレーベル GOOD Music と契約。ヒップホップにエレクトロニカ・サウンドを融合させた新しいスタイルで話題となる。2009年のデビューシングル「Day ‘n’ Nite」は、米 Billboard Hot 100 で最高3位のヒットを記録した。その後も数々の作品を発表し、2020年にはトラヴィス・スコットとの楽曲「The Scotts」が全米1位を記録している[1]。 また、2010年からは本名のスコット・メスカディ名義で俳優としての活動を始め、映画やテレビシリーズなどに頻繁に出演している。 学生時代からラップ活動を行っていたキッド・カディは、20歳になると共にニューヨークへ移住し、本格的にプロを目指すようになった。その後、自身初となるミックステープ『A

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オーヴェルニュの歌 – Wikipedia

カンタル県のグランヴァル湖 『オーヴェルニュの歌』(フランス語: Chants d’Auvergne)は、ジョゼフ・カントルーブが1923年から1930年にかけて、故郷であるオーヴェルニュ地方の民謡を管弦楽伴奏歌曲の体裁に編曲した歌曲集である。ソプラノ独唱で歌われることが圧倒的に多いが、ジェラール・スゼーもレパートリーに入れていた。歌詞はオック語のままである。最初の録音は、抜粋版ながらも、早くも1930年にマドレーヌ・グレイの独唱によって行われ、初の全曲録音は1962年頃に行われたダヴラツ盤である。 オーヴェルニュの東南端の山地、アンノネ(英語版)に育ったカントルーブは、パリに上京してヴァンサン・ダンディに師事、ダンディ風の色彩感豊かな管弦楽曲を得意とするようになるとともに、早くから故郷の民謡の収集・研究にはげみ、1907年に「オーヴェルニュ高地とケルシー高地[注釈 1]の民謡」(2巻)を発表、その後も「5つの農民の歌」、「続農民の歌」、「オーヴェルニュ高地の宗教歌」などを刊行し、オーヴェルニュからバスク地方にかけての南仏一帯の民俗音楽の権威と目されるようになった。そのカントルーブが1924年に発表したのがこの「オーヴェルニュの歌」である。オーヴェルニュ地方の民謡は、歌謡だけのグランド(Grandes)と踊りを伴うブーレーから成り、羊飼いか貧しい農民、特に前者の生活を主題とするものが大半を占める点に特徴がある。原曲は羊飼いの笛やハーディ・ガーディ、バグパイプといった単純な楽器を伴奏とするが、カントルーブはその特色を残しながらも、上述したダンディの影響の下、色彩感あふれるオーケストレーションを施して編曲している。 ピュイ・ド・ドーム 『ラルース世界音楽事典』では「地方の豊かな民衆音楽の収集と言う点で、中央ヨーロッパでバルトークが行ったものに比肩される。フランスでは稀な試みのひとつである。カントルーブはフランス各地の民衆音楽集を発表したが、ここでは本来単旋律で全音階的な民謡に、簡潔で古風な旋法的な和声付けではなく、ドビュッシーに近い複雑で洗練された書法によって伴奏をつけている」[1]と解説している。 濱田滋郎によれば、本作の管弦楽には「たいへん適切な楽器用法、筆致の確かさをそなえた美しいものである。-中略-半音階風の動き、不協和音などのアイディアが随所に散りばめられて、効果を上げる。オーヴェルニュ地方の風光、そこに伝わる歌の魂が、カントルーブという音の詩人の感受性を通して、生き生きと再現されているのである。この意味で『オーヴェルニュの歌』は単なる古謡の編曲ではなく、立派な創作として賞味できるだけの内容を備えているのである」[2]。 初演と出版[編集] 初演は1924年のコンセール・コロンヌの演奏会で、同年にユージェル社(フランス語版)から最初の2集(8曲)が出版され、少し遅れて第3集(5曲)が、1930年に第4集(6曲)が、死の2年前の1955年に第5集(8曲)が出版され、全27曲の構成となった。 ヴィックを流れるセール川 中でも第1集の《バイレロ》が名高く、第4集の《牧歌》は《バイレロ》に関連付けられている。 第1集[編集] 野原の羊飼いのおとめ “La pastoura als camps (La

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バダホス王国 – Wikipedia

バダホス王国 طائفة بطليوس バダホス王国、1037年頃 バダホス王国(阿: طائفة بطليوس‎)は、中世のイベリア半島に存在したイスラム系の国であるタイファの一つ。現在のポルトガル中部とスペイン最西部の一部を国土としていた。現在のスペインのエストレマドゥーラ州に位置するバダホスを首都とした[1]。イスラーム系の王朝としては1022年〜1094・95年に渡り独立して存在したアフタス朝バダホス王国が最も長期間存続し得た。 他のイベリアのタイファ諸国と同様に、バダホスも後ウマイヤ朝末期の混乱に伴って誕生した。 建国者のサブールはもともとはサカーリバと呼ばれる(おそらくスラブ系の)奴隷だった[2]。 領土としては、古代ローマの属州ルシタニアに相当する地域の大半を支配していた。ローマ時代からの要地であるメリダ (スペイン)とリスボンもその中に含まれていた。 1022年にサブールの後を継いだのは、8世紀以来のベルベル豪族であり彼の宰相であるアブダラー・イブン・アル=アフタス(英語版)(バダホスのアル=マンスール)であり、彼はアフタス朝バダホス王国の建国者となった。サブールの息子達はリスボンに逃れ、そこで短命なリスボン王国(英語版)を建てたが、バダホスによって間もなく再征服された。バダホスのアル=マンスールは隣国にして強国であるアッバード朝セビーリャ王国とも争っており、ベージャなどをめぐり戦争が生じた。タイファ諸国の中で抜きん出た国力を持つセビーリャ王国に対し苦戦を強いられたバダホス王国であるが、バダホスのアル=マンスールは1034年に北方キリスト教国へ遠征途中のアッバード朝軍に奇襲をかけ、敗走させている[3]。 バダホスのアル=マンスール死後、1055年にはバダホスがカスティーリャ王国に押されて貢納するようになった。 また、領土のうち、重要なモンデゴ川以南の地域(コインブラより南の地域)のかなり部分をタイファのセビーリャ王国に奪われた。また1064年には要衝コインブラがカスティーリャ王フェルナンド1世により征服される。 バダホスのアル=マンスールの息子ムハンマド(アル=ムザッファル)の死後、1068年には彼の息子であるヤフヤーとウマル(アル=ムタワッキル)が争い内戦となったが、ウマルが勝利した[4]。 1086年のサグラハスの戦いでは、バダホス近くまで攻め込んできたカスティーリャ王国相手に、ムラービト朝と共同で戦って勝利した。しかし、ムラービト朝の強大さを恐れ、アル=ムタワッキルは敵対関係にあったアルフォンソ6世 (カスティーリャ王)と同盟した。 1094年、ムラービト朝はバダホスを占領し、アル=ムタワッキルと二人の息子を殺害した。生き伸びた息子はひとまずモンタンチェス(英語版)に逃れ、そこからさらにアルフォンソ王の下に亡命した。 王国は滅び、その領土は様々な国(ムラービト朝、ムワッヒド朝、ポルトガル等)の支配下におかれた。 ムラービト朝の支配力が弱まると、バダホスは1144年に独立状態になるが、すぐに1150年ムワッヒド朝に再征服されて滅ぶこととなった。

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アイム・アライヴ (セリーヌ・ディオンの曲) – Wikipedia

「アイム・アライヴ」(英: I’m Alive=私は生きている)は、セリーヌ・ディオンのアルバム『ア・ニュー・デイ・ハズ・カム』からの2枚目のシングル。2002年8月12日発売(日本未発売)。映画「スチュアート・リトル2」の主題歌である。 作詞・作曲・プロデュースはクリスティアン・ランディンとアンドレアス・カールソン。カールソンは1999年にもセリーヌ・ディオンのシングル「ザッツ・ザ・ウェイ・イット・イズ」を手がけている[1]。 ミュージックビデオは2002年3月24日から25日にかけてデーヴ・メイヤーズの監督で撮影され、6月から各メディアで放映された。ビデオはそこにスチュアート・リトル2のシーンを織り交ぜたバージョンとの2つのバージョンが存在する。 シングルは多くの国でトップ10にランクインするなど世界中でヒットし、ベルギーでプラチナ(5万枚)、フランスでゴールド(25万枚)に認定された。 リミックスはジョー・ベルムデス、ジョニー・ロックス、リック・ウェイクが手がけ、中でもウェイクは1979年のブロンディのヒット曲「ハート・オブ・グラス」のサンプルを使用した。 またディオンはラスベガスのシーザーズパレスで4年にわたり週5夜連続公演されたステージ「A New Day…」でこの曲を歌い、その模様は2004年発売のライブCD『ア・ニュー・デイ…ライヴ・イン・ラス・ヴェガス』と2007年12月発売のライブDVD『ライヴ・イン・ラスベガス』に収録されている。 ディオンが2008年から2009年にかけて行ったライブツアー「Taking Chances Tour」ではこの曲の新たなリミックスバージョンが披露された。 2008年10月にはアルバムバージョンがベストアルバム『マイ・ラヴ:エッセンシャル・コレクション』(日本未発売)にも収録され、フランスではその宣伝用にローラン・ヴォルフの新リミックスバージョンがシングルリリースされた[2]。その後2009年1月、モーリス・ジャシュアによるクラブ用の新たなリミックスがアメリカ国内でリリースされ、翌月の「ホット・ダンス・クラブ・チャート」で48位、最高35位に達した[3]。 ヨーロッパ版CDシングル 「アイム・アライヴ」(Humberto Gatica mix) – 3:28

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三輪 (長野市) – Wikipedia

三輪(みわ)は、長野県長野市の市街地北東部にある地域。 【最狭義】三輪一 – 十丁目の範囲。長野市役所三輪支所管内。 【狭義】1.に大字三輪(荒屋・三輪田町)および1937年(昭和12年)に大字三輪から分かれた柳町を加えた区域。 【広義】2.に桐原・中越・上松および西和田の一部を加えた区域。旧・上水内郡三輪村域。 本項では2.を中心に、かつて3.の区域に所在した上水内郡三輪村(みわむら)についても述べる。 なお、2.のうち三輪一 – 十丁目(住居表示実施地区)は三輪支所、荒屋は古牧支所、三輪田町は(本庁)第二地区、柳町は(本庁)第三地区の管内である。郵便番号は三輪・荒屋・三輪田町にそれぞれ個別に設定されている。また、3.のうち桐原・中越は吉田支所、上松は(本庁)第二地区、西和田は古牧支所の管内である。 地区の中央部を長野電鉄長野線と旧北国街道(相ノ木通り)が並行して東西に横切り、ほぼ中心に本郷駅(三輪三丁目)、西端に善光寺下駅(三輪七丁目)がある。南縁にはしなの鉄道北しなの線・北陸新幹線が通るが、駅はない。周囲は以下の地区[1]と接する。 ほぼ全域が、市街地外縁の住宅密集地となっている。 「三輪」という地名は古くから見られ、美和・三和とも書いた。古代に美和氏が住んでいたことが地名の由来といい、三輪八丁目(本郷)には美和神社がある。 近代は北国街道沿いを中心に発展してきたが、戦後はSBC通り沿い・北長野通り沿いなどが発展している。 沿革[編集] 現在の三輪地区は、水内郡三輪村・宇木村、同郡古野村の一部、同郡古牧村の一部にあたる。 旧・三輪村の歴史 長野市三輪の歴史 三輪(住居表示実施地区)[編集] 三輪1・3・4・5丁目交差点。信号機横の交差点名標識が、独特の表記となっている。

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小林宏 (工学者) – Wikipedia

小林 宏(こばやし ひろし、1966年8月29日[1] – )は日本のロボット研究者。東京理科大学博士(工学)、同大学工学部機械工学科教授。腰に特化した運動支援を行う「マッスルスーツ®」を開発・販売するベンチャー企業イノフィスの創業者。アクティブ歩行支援機「ハートステップ」にも取り組んでおり、受付ロボット・先生ロボットであるSAYAの開発者でもある。肌の画像診断や食事支援ロボットでも実績がある。 来歴・人物[編集] 静岡県立沼津東高等学校を経て[要出典]、東京理科大学工学部機械工学科卒業。同大学院工学研究科機械工学専攻修士課程修了、同博士課程修了。1992年より3年間、日本学術振興会特別研究員。1995年より東京理科大学工学部機械工学科助手(1996年3月まで)、1996年より2年間、日本学術振興会海外特別研究員(於:AI Lab, Dept. of Computer Science, Univ. of Zurich)、1998年に東京理科大学工学部機械工学科講師、1999年に東京理科大学工学部機械工学科助教授、2001年に科学技術振興事業団 さきがけ研究21「相互作用と賢さ」領域研究員。2008年に東京理科大学工学部機械工学科教授。2013年東京理科大学発ベンチャー株式会社イノフィスを創業。取締役CTO[1]。当初パワードスーツのようであったマッスルスーツは[8]、リュックサック型で空気圧ゴム人工筋(英語版)により腰部をサポートする「マッスルスーツ®」として実用化され、介護現場や農作業従事者に活用された[10]。 主な受賞歴[編集] 文部科学大臣表彰 – 2006年平成18年度科学技術分野

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オニオンスープ – Wikipedia

フランス風オニオンスープ オニオンスープ(英語:onion soup)とは、タマネギを主な素材とした西洋料理のスープの総称である。日本ではタマネギスープともいう。日本でオニオングラタンスープとも呼ばれるフランスのスーパ・ロニョン・グラティネが最も有名である。他にはドイツのツヴィーベルズッペ、イタリアのズッパ・ディ・チポッレ・アル・フォルノ、カラバッチャなどがある。 フランスのオニオンスープ[編集] フランスのスーパ・ロニョン(フランス語: soupe à l’oignon)は、タマネギをバターや油できつね色になるまでじっくりと炒め、ブイヨンを注いでことことと煮込んだものである。かりっとトーストしたフランスパンの輪切りを一切れスープ皿に入れ、スープを注ぎ、おろしたエメンタールチーズ、グリュイエールチーズまたはパルメザンチーズをふりかけて食べる。家庭ではブイヨンの代わりにポトフの煮汁を転用することもある。 耐熱性の器にスープを注いでからフランスパンを浮かべ、チーズをふりかけてからオーブンに入れ、焼き色がつくまで焼くとスーパ・ロニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)となる。フランスでは二日酔いに効くと言われる。 ドイツのオニオンスープ[編集] ツヴィーベルズッペ(ドイツ語:Zwiebelsuppe)は、ドイツ料理の定番スープである。 一般的な材料はタマネギ、水、調味料のみ。まずタマネギを短冊切りまたはみじん切りにし、油をひいた鍋できつね色になるまで炒める。そのまま鍋に湯を流し入れ、煮詰めて、塩・コショウで味付けをする。固形コンソメなども味付けに使われる。チーズや、クルトンを上に載せることもある。様々な料理と相性がいい。 南ドイツ風ツヴィーベルズッペ(Süddeutsche Zwiebelsuppe)は、バターできつね色になるまで炒めた刻み玉葱に小麦粉をふりかけてさらに炒め、温めたブイヨンまたは牛乳を注ぎ、ことことと煮てから裏ごしし、温め直してから卵黄とクリームを溶いて加える。 イタリアのオニオンスープ[編集] エミリア=ロマーニャ州のズッパ・ディ・チポッレ・アル・フォルノ(イタリア語:zuppa di

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木曽ダム – Wikipedia

木曽ダム(木曾ダム、きそダム)は、木曽川水系王滝川に建設されたダムである。長野県木曽郡木曽町福島に位置する。関西電力株式会社の水力発電専用ダムであり、木曽発電所(きそはつでんしょ)および寝覚発電所の取水ダムとして機能する。 木曽ダムからの送水により2つの発電所の合計で最大1万5,100キロワットの電力を発生させる。またダム湖は上流にある揚水式水力発電所の三尾発電所(出力3万7,000キロワット)の下池としての機能も持つ。 設備構成[編集] 木曽ダム[編集] 木曽ダムは、木曽川支流の王滝川を横断する形で築造されたダムである。木曽川合流点の約300メートル上流に位置する[3]。形式は重力式コンクリートダム[1]。ダムの堤高(基礎岩盤からの高さ)は35.2メートル、堤頂長(頂上部長さ)は132.5メートル、堤体積(堤体の体積)は4万4750立方メートル[1]。ダム頂部には洪水吐としてラジアルゲートが3門並ぶ[1]。 ダムによって形成される調整池の総貯水量は436万7000立方メートルで、そのうち満水位標高739.5メートルから5.0メートル以内の有効貯水量は184万4000立方メートルとなっている(数字は2008年3月末時点)[1]。また湛水面積は0.4平方キロメートルに及ぶ(同左)[1]。 ダム湛水区域右岸に関西電力三尾発電所の放水口が設置されており、ダム湖は同発電所による揚水発電の「下池」として機能している(上池は牧尾ダム貯水池)[3]。 木曽発電所[編集] 木曽発電所地上建物(2011年) 木曽ダムから取水する発電所は寝覚発電所と木曽発電所の2か所がある。前者は木曽ダムよりも古い発電所であり、後者がダム建設にあわせて開発された発電所になる。木曽発電所は寝覚発電所よりも下流側、木曽川に面した木曽郡大桑村大字殿に位置する(北緯35度41分34.4秒 東経137度40分7.4秒 / 北緯35.692889度 東経137.668722度 / 35.692889; 137.668722 (木曽発電所))。ダム・導水路の双方により落差を得て発電するダム水路式発電所であり、最大使用水量60.0立方メートル毎秒・有効落差225.90メートルにて最大11万6000キロワットを発電している[4]。 木曽発電所取水口は寝覚発電所取水口と共用でありダム右岸に位置する[3]。コンクリート容量を節約するためダム堤体に接続する2階建て構造となっており、木曽発電所水路は下部に繋がる(上部は寝覚発電所用)[3]。 取水口から木曽発電所に至る導水路は木曽川右岸(西岸)に位置し、長さは14.88キロメートルに及ぶ[3]。導水路は5本の圧力トンネルと小川(木曽川支流)を渡る部分の水路橋(小川水路橋、長さ264メートル)で構成される[3]。この水路橋のすぐ上流の地点で、導水路に小川堰堤(寝覚発電所と共用)からの取水が合流する[3]。小川堰堤からの支水路は1.26キロメートルの長さがあり、同じく圧力トンネルで構成される[3]。導水路終端にはサージタンクが設置されている[3]。

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大橋弘政 – Wikipedia

大橋 弘政(おおはし ひろまさ、1979年12月31日 – )は、日本の男性プロボクサー。愛知県名古屋市出身。第36代・第38代OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者。HEIWAボクシングジム所属。 2000年11月23日、名古屋市総合体育館でプロデビュー戦に2RKO負けを喫した。2002年7月7日、名古屋国際会議場で児玉卓郎(岐阜ヨコゼキジム)と4回戦を行い、39-38、38-39、38-38の判定で引分となった。2006年3月12日、岐阜商工会議所にて児玉卓郎と10回戦で再戦し、三者とも76-77の0-3で8R負傷判定負けとなった。同年10月8日、名古屋国際会議場で日本スーパーフライ級4位の三枝健二(新開)とバンタム級10回戦を行い、6RTKO負けを喫した。 2007年4月1日、名古屋国際会議場でタイスーパーバンタム級王者・OPBF同級3位で元OPBF東洋太平洋バンタム級王者のクマントーン・チュワタナ(タイ)と55.7kg契約10回戦を行い、95-97、96-97、96-96の0-2で判定負けを喫した[1]。翌2008年9月21日、同会場でタイ王者・OPBF13位のチュワタナと55.7kg契約10回戦で再戦し、4RKO勝利を収めた[2]。 2009年6月21日、愛知県産業貿易館でWBA世界バンタム級14位・WBC世界スーパーバンタム級5位のOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者ロリー松下(カシミ)と対戦。ポイントではリードを許したが7R1分50秒、8試合連続となるKO勝利を収めて同王座を獲得した[3]。この勝利によりWBC13位・WBA14位にランク入りを果たし、またこの戴冠を受けて2010年1月31日、中部運動記者クラブ・ボクシング分科会の2009年度優秀選手賞に選出された[4]。2010年3月28日、名古屋国際会議場で行われた初防衛戦でWBC7位・WBA13位の下田昭文(帝拳)と対戦し、0-3の判定負けで王座を失った[5]。同年9月5日、名古屋国際会議場でマーク・ジョン・ヤップ(フィリピン)と56.5kg契約8回戦を行い、序盤はペースを握られたが6、7Rにダウンを奪って逆転し、3-0(77-73、76-74、76-75)の判定勝利で再起を果たした[6]。 2011年3月27日、刈谷市産業振興センター・あいおいホールにて、下田昭文が世界王座挑戦のために返上したOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王座決定戦に出場、同級2位のジュンリエル・ラモナル(フィリピン)と対戦し、2-1の判定で王座返り咲きを果たした[7]。 2011年8月7日、刈谷市産業振興センター・あいおいホールで指名挑戦者のWBAスーパーバンタム級13位のロリ・ガスカ(フィリピン)を相手に初防衛戦が行われ、0-2(2者が112—116、115−115)の判定負けを喫し王座から陥落した[8]。 2012年3月18日、刈谷市産業振興センター・あいおいホールでOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者小國以載(VADY)と対戦し、9回21秒、0-3( 2者が83-88、84-88)の負傷判定負けを喫し王座返り咲きに失敗した[9]。 獲得タイトル[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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中御所 – Wikipedia

中御所(なかごしょ)は、長野県長野市の市街地南西部にある地区。住居表示を施行した中御所一・二・三・四・五丁目のほか、中御所町四丁目、大字中御所(岡田町)がある。 全域が、長野市役所(本庁直轄)第五地区に属する。 住居表示未実施の大字中御所(岡田町)・中御所町四丁目は長野駅の北西に広がり、中御所一-五丁目は長野駅の南西に広がる。西縁を裾花川、南縁を犀川が流れている。地域の中央部を県庁通り、東部を北国街道(荒木通り)が南北に貫き、信越本線が東西に横切る。 町名は、鎌倉時代に現在の中御所二丁目にあった信濃国国衙(後庁-御庁)の守護所「中御所(なかのごしょ)」に由来する。この中御所の名は、1197年(建久2年)に源頼朝が善光寺参詣の際、領主漆田氏が館を造営して頼朝を迎えたことに起因するという。同様の由来を持つ町に問御所町がある。 1938年(昭和13年)に主に信越本線より南の区域について中御所町一・二・三・四丁目と町名を変更し、1988年(昭和63年)に、ほぼ同様の区域について住居表示を実施して中御所一・二・三・四・五丁目に町名変更した。こうした経緯のため、中御所交差点北西角の一区画のみに中御所町四丁目という町名が残されている。 大字中御所・中御所町四丁目・中御所一-五丁目の範囲は、概ね1879年(明治12年)時点の上水内郡中御所村の範囲に相当する。 旧中御所村(中之御所村)〜芹田村の歴史 長野市中御所の歴史 中御所(住居表示施行地区)[編集] 中御所一・二・三・四・五丁目(なかごしょ-)は、長野駅の南西部に広がる地区。郵便番号は380-0935。 裾花川と県庁通りに沿った細長い地区である。西端を裾花川、南端を犀川が流れる。地区北部を信越本線・北陸新幹線が通過する。周囲は以下の大字・町と接する。 一丁目は信越本線の北側に位置し市街地に近いものの、駅前の喧騒をあまり感じさせない静かな住宅街となっている。ターミナル南通りや県庁通りなどの大通り沿いにはオフィスビルなどが軒を連ねる。 二丁目〜五丁目は信越本線の南側に位置する。三丁目には中小の工場が多いが、そのほかは住宅街が広がる。 地区内の人口および世帯数は以下の通り(平成26年4月1日現在)[1]。   世帯数 人口 中御所一丁目 289世帯 593人

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