秋田騒動 – Wikipedia

秋田騒動(あきたそうどう)とは、1757年(宝暦7年)に久保田藩(秋田藩・佐竹藩)で発生した銀札と言われる銀の兌換券を原因とする騒動である。秋田騒動によって銀札の兌換を担当した商家の多くはつぶれ、銀札推進派の藩士らは切腹などの処分を受けた。

その騒動がお家騒動にまで至らなかったと考える人は銀札事件という名が適切だと主張するが、お家騒動まで至ったと考える人は佐竹騒動という名前も使用する。秋田の歴史を書いた歴史書を読んでも、著者がどちらの考えかで記述が全く異なっている。「秋田県史」などでは家臣団の陰謀の話は全く語られていない。この騒動を宝暦事件とも言う。石井忠行は江戸時代に「丑年騒動」と言われていたことを記録している。

秋田騒動は悪女妲己のお百人気のために、歌舞伎・小説・講談・映画・落語の題材として何度も扱われている。

銀札実施まで[編集]

慢性化してきた藩財政の窮乏に対処し、その打開策として久保田藩が幕府に対して銀札の発行を願い出たのは1754年(宝暦4年)6月であった。久保田藩商人の森元小兵衛が進言し、財用奉行の川又善左衛門が推進、4月に家老、勘定奉行、町奉行らが寄り合い、相談を進めたものであった。藩が幕府に提出した「御伺書付」によれば、「秋田藩は近年財政が欠乏し、加えて不作が続き領民も困窮している。そこで銀札発行により諸商売を盛んにして藩士や商人、農民を救いたい。仙台藩や白河藩でも藩札を発行した例がある」というものであった。幕府は勘定頭一色周防守を通して2つの反問を伝えた。「久保田藩は昔から銀が多く産出する藩だったのではないか」というものと「銀札発行によって他藩の妨げにならないか」というものであった。これに対し、久保田藩は2つめを重視し「銀札は久保田藩内の富裕町人・百姓を札元とする兌換券とするので問題は発生しない」と答え、7月27日に許可をもらった。同年10月11日、川又善左衛門は銀札発行を伝え聞いて動揺する藩士や庶民を納得させるために「上意之覚」を配布して藩が銀札発行に至った経緯を説明した。また、銀札の下絵や札元の富裕町人・商人の世話の差配をしている。札元が最も遅くまで決まらず、進言した商人の森元小兵衛も固辞し、やっと10月末に佐竹藩の豪商だった見上新右衛門や鉱山師の(松坂屋)伊多波武助ら34名に札元が決まった。

銀札実施後[編集]

1755年(宝暦5年)2月5日に銀札使いの諸規定を定め、銀札が実施された。規定は以下の通りである。「しばらくは銀札と正銀を取り混ぜて使用すること。金で取り扱いするときには、金1両につき、銀60匁を両替しその場合には半分銀札を使うこと。銀で取引するときには銀1匁につき、銀70文の相場で行うこと。正銀100匁は銀札101匁、銀札102匁は正銀100匁で兌換すること。他藩の商人や旅人は正銀を通用すること」などであった。幕府との公約通り他藩の迷惑にならない規定だったが、最初から打歩がつけられていた。

銀札が実施されると銀札の価値はたちまち下がっていった[1]。人々は正金銀を退蔵し、銀札を手に入れた場合はすぐに正銀に兌換しようと取引所に殺到した。わずか1ヶ月で兌換自由の規定は見直され、3月25日に兌換を一切認めず、他藩に正銀を支払う場合にも厳しい制限がついた。しかし、わずか1ヶ月で規定を変えたことが人々の銀札への不信を深めることとなった。5月17日5ッ時を期して、藩は久保田城下の61軒を捜索した。退蔵している金銀や銭、米を一気に摘発しようとするものだった。どこからか計画が漏れたのか結果は期待外れの大失敗に終わった。流言が飛び交い人々は極度に動揺した[2]

6月に藩は規定をさらに変えた。領内の一切の売買は銀札に限るというのであった。藩外との交易でも藩内に出入りする際に引換所で正銀に変えることを強制した。また1755年(宝暦5年)は飢餓が進行するのが予想されたので、藩から生産される米をすべて買い上げる「御買米仕法」も実施された。藩は城下の蓄米をすべて調べ上げてそれを元に、米座から米を配給した。米の配給は渋滞し久保田や土崎湊は眼もあてられない無間地獄になっていた。しかし、1756年(宝暦6年)は相当の豊作が予想されたので、人々は御買米仕法の緩和を期待した。しかし、銀札を乱発したせいで米価は上がったままであった。

1756年(宝暦6年)11月、家老の真壁掃部助[3]、小田野又八郎らが御役追放蟄居となり、銀札奉行赤石藤左衛門は改易となった。理由は「御買米仕法」による米の買い上げ価格を上意に反して独断で決めたものである。銀札によってインフレーションが発生しており、米価を下げることによって諸物価の高騰を防ぎたかったものである。12月久保田藩の全ての家臣が集まり会議をしたが結論が出ず、藩主に御伺いを立てる有様であった。

1757年(宝暦7年)2月美濃国石津郡多羅尾村の3人が幕府を通して訴えて来た。多羅尾村は茶を栽培して第一の生計にしている村である。銀札で茶の代金を得ていたが、宝暦5年に兌換できず、宝暦6年にも豊作なはずなのに、未納が続いたためである。3月13日に江戸御評定所で裁判と決まった。「銀札発行によって他藩の妨げにならない」と確約している久保田藩は慌てた。久保田藩のあつい饗応と即時兌換によって願いは取り下げられた。しかし、この事件の責任を取って白土奥右衛門や大縄幸左衛門らの銀札奉行が遠慮し退役せざるを得なかった。

このとき、平本茂助が中心となって銀札仕法は4度目の改革になった。平本の改革は銀札派官僚の権限を押さえたものになった。自由に商人が産物を売り買いしたり、富豪が金銀を貯めるのをお構いなしとしたものであった。これは、今までの銀札方役人の誤りを指摘して、銀札政策を破棄するものであった。家老・梅津外記は銀札執行には積極的であった。対して家老・石塚孫太郎や岡本又太郎(石塚の弟)らは批判派であった。平本茂助は江戸に登った川又の後任で、石塚孫太郎は真壁の後任だから共に銀札執行に責任は無かった。しかも銀1匁に対して、銭2・3文まで落ちていた銀札の価値が、この改革で12文まで立ち直った。

藩内での対立[編集]

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3月26日、家老の石塚と岡本は角館の佐竹義邦(図書)の久保田への出府を願い出て、佐竹義智(東山城)宅で会おうとした。これは5月に予定される藩主佐竹義明の国入りで、銀札執行派の勢力拡大を恐れたからと推測できる。佐竹義智や佐竹義邦は藩主佐竹義明の叔父であった。

4月6日以降、平本茂助も加えて会合が開かれた。彼らは私的な内談の結果を会所に持ち込み合法化して布告する「密室政治」を行った。これに対し、政治は会所で決まるものと考えていた梅津外記や、国元家老の山方助六郎、山方に軍学を指南していた野尻忠三郎が不満を溜めていた。14日藩主佐竹義明の正月以来の密室政治に疑惑を感じているという手紙が届く。佐竹図書らは手紙を改ざんし、梅津外記はそれ反発したため、両者は16日会所で正面衝突してしまう。この日騒ぎは収まったものの、17日に佐竹図書らは梅津外記を出勤差止にする。さらに、18日京都から川又が帰って来たが、直ぐに佐竹図書らに「遠慮」を申し渡されてしまう。山方助六郎は病気を理由に引きこもっていた。

5月18日久保田への帰国を目前にした藩主佐竹義明は、突如佐竹義邦(図書)、佐竹義智(東山城)、石塚孫太郎、岡本又太郎に「御差あり(中略)差控」を申し渡す。平本茂助は佐竹義智宅に引きこもって難を逃れた。御城御門は多数の足軽で物々しく固められ、ついに19日藩主佐竹義明は久保田へ到着した。藩主は佐竹図書らを「逆意之萌明白」として断罪しようとした。こうして旧銀札派は勢力を盛り返したように見えた。だが銀札の失敗はそれでは取り返しがつかない程になっていた。

22日太田蔵之介が藩主佐竹義明に直訴しようとして、大越甚右衛門らにはばまれた。24日 武頭共の総意を代表して羽石小七郎が「不安堵千万」と言う書を家老に提出した。大館の佐竹義村(大和)も天徳寺など各寺院の住職も登城したが、皆銀札の失敗を証言した[4]

26日側近に奸ありと、いきなり藩主は旧銀札派の側近や家老を一掃した。江戸で5代藩主佐竹義峯の側近として権威を振るい愛宕下御前(義峯の子女)奥家老を勤める那珂忠左衛門も野尻忠三郎の宅から「甚だ怪しき書き付け」が発見され、糺明を受けることとなった。東山城や佐竹義邦は「山方・野尻・那珂らが謀計を相企候」まちがいなしということで、野尻親子は草生津で断罪された。その他も切腹や永蟄居など、総勢40人が処分された[5]

6月末日銀札への最終処理を久保田藩はまとめあげた。それによると、7月8日で銀札の発行を禁止し、一匁の銀札を一文の金額で10年かけて兌換するというものであった。人々は不満を持ったが、これに従うしか無かった[6]

七日市村の豪農長崎七左衛門の『大事代記』によれば「札元ハ多ク潰ニ及申候、惣棟梁川又善左衛門様ハ切腹被仰付候」とある[7]

宝暦の銀札の失敗の後、約80年後の1840年(天保11年)に再び藩札が発行された。これは、銅山、銀山およびその付近だけで通用したとされるが、広く領内にも通用していた。銀札との記録もあるが実際には金札や銭札が発行され、この時は騒動無く兌換も適切に行われた。現在は稀少である。その後、幕末にも2度ほど秋田藩は藩札を発行している[8]

『秋田杉直物語』[編集]

馬場文耕の作品と言われ講談調に秋田騒動を描いた作品である[9]。『秋田杉直物語』では秋田騒動をお家騒動と捉えている。馬場文耕は『平良仮名森の雫』で幕府に処刑されたが、その直前に描いたのが『秋田杉直物語』ということになる。『平良仮名森の雫』の郡上藩は改易になり、秋田藩は改易にならなかった。表向きはお家騒動にまで至らず、公儀の力を借りなかったことが秋田藩に幸いしたのかも知れない[10]。『秋田騒動実記』[11]の跋(後書き)には芝切通し(港区虎ノ門5丁目南側)で、1日ずつこの本と金森記(『森の雫』)を講じたと書かれている[12]

江戸時代には講談の主な演目としてお家騒動がある。三田村鳶魚によればお家騒動を最初に読んだ者こそ馬場文耕である。彼は、お家騒動を描いた『平良仮名森の雫』『森岡貢物語』『秋田杉直物語』の作品を作ったが、『平良仮名森の雫』は一書としてまとめられたかどうかも明らかでなく、『森岡貢物語』は盛岡藩の使者と老中たちの悶着を描いたものであるが、短編でありお家騒動と呼べる程の奥行きはない。したがって、『秋田杉直物語』こそが最も古いお家騒動の講釈の種本であるという。さらに、馬場文耕の唯一の中編でもあるという[13]

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『秋田杉直物語』の記述は、まず佐竹藩の家督相続の経緯についての紹介から始まる。2代藩主佐竹義隆には3人の男子がいた。正室の子である佐竹義処が家督を継ぎ3代藩主となるが、次男の壱岐守佐竹義長に2万石、三男(実は長男)で側室の子の式部義興に1万石を与え、もし本家に嗣子がないときには、壱岐守家か式部家から入って家督相続をさせることにした。4代藩主の佐竹義格には子が無く、壱岐守家の佐竹義長の子である佐竹義峯が入って、5代藩主となった。ところが、義峯にも子が無かったため、壱岐守家の意向に反し、式部家の佐竹義堅を養子に迎えた。しかし、義堅は家督相続以前に死去したため、子の佐竹義真が跡を継いで6代藩主となった。佐竹義真は在位4年足らずで死去し、今度は壱岐守家から佐竹義長の長男である佐竹義明が7代藩主となった。

話は戻り、佐竹義峯(作中では義岑)は徳川吉宗に仕えていた。ある年の月並みの御礼日に登城した大名達は、お国自慢を始める。義峯が傘の代わりにもなる大きなフキの自慢をしたところ、他の藩主から法螺話と受け取られ嘲られてしまう。その場は大目付筧播磨守に鎮められたが、義峯の怒りは収まらない。そこで、藩主の名誉のために、那珂忠左衛門は大きなアキタブキを取り寄せ、義峯に恥辱を与えた大名達と筧播磨守を饗応の宴に招き、大きな蕗を披露する[14]。那珂は藩主の名誉を回復し義峯に取り入り、これより第一の出世頭になる。那珂は知恵と才覚に富み、加えて風流人で十種香や茶の湯の達人であった。後に、那珂忠左衛門は松平隠岐守の妻になっていた義峯の長女の付家老となる。

義峯は重病に侵され、養子の候補者が2人立つ。一人は佐竹壱岐家の求馬(後の佐竹義明)。もう一人は式部少輔家の佐竹義堅(作中では義照)であった。佐竹家の門閥である四家も、梅津家、渋江家、戸村家も義堅を推し義堅が義峯の養子になる。義峯の父、佐竹義道(壱岐守)は那珂に取り入り、那珂に「孫の求馬を本家の跡継ぎにしたい。しかし、本家には佐竹義堅と、その子佐竹義真がいる。とうてい求馬が出る幕はない。残念なことである」と話をした。那珂は元来邪欲があって忠義の志は薄いので、佐竹義道と共に謀略を巡らす。那珂は義堅が勤務先の松平隠岐守方に暑中見舞いに来た際に毒殺してしまう。家督は息子の佐竹義真(作中では義直)が継ぐ。義真は若年ながら骨のある人物であった。細川越中守が板倉修理のために殿中で横死したときに、騒ぎ立つ諸大名を取り鎮め[15]、津軽越中守が秋田藩内の川越人足の無法を城内で声高に告げられた次の年に、その川越人足達を死罪にして晒した。那珂は義真暗殺の決意をし、家老山方助八郎、用人小野崎源太左衛門、大久保東市、大島左仲、信太弥右衛門、膳番三枝仲、近習、小姓、女中達の多くを手名付ける。那珂は風流人だったので女中達に取り入ることが甚だ巧みであった。那珂は膳番の三枝仲に命じて佐竹義真を毒殺し、山方・小野崎と共謀して「家督は求馬に渡す」という偽の遺言状を作る。家督評定の席上、那珂・小野崎に対して、戸村十太夫は相馬尊胤の子、相馬采女福胤を推す[16]。結局、義真が江戸出立の際に老中に差し出していた仮養子の人物に家督相続を願うことに決定する。佐竹義道(壱岐守)は秘かに老中堀田相模守[17] を訪れ、かねてより収賄によって懇意にしていたので、義真の書き付けは密封のまま返却され、家督は佐竹義明が継ぐことになる。

その後、那珂は自身の栄達のため妖婦「お百」を義明の侍妾に勧め、義明を酒食に耽るように仕向ける。加えて、銀札使いを始めて、秋田藩の金銀を銀札に替えて百姓町人の金銀を奪い取ろうとする姦計を思い立つ。困窮して愁訴しようとする者は押し込めてしまい、義明には国が潤っているとのみ報告する。安堵した義明は遊興に日を過ごす。那珂は国元で佐竹山城に近づき、自ら考えた新法(銀札使い)の書き付けを渡す。家督振る舞いの際、佐竹山城は義明に新法の書き付けを見せて、賛成した佐竹義道(壱岐守)ともども国政を改めるように進言する。ところが、義明は真っ直ぐな性格で、名君だった義真が行わなかった新法を施行することを拒む[18]

那珂は伊勢屋三郎右衛門を抱き込み、国元の四家始め、家老用人までも説得し連判を取った上で再び義明に願い出て、銀札遣いが許可される[19]。銀札遣いが、伊勢屋三郎右衛門が総元締めとして施行されるが、引き替えが順調に行われず銀札の値打ちは暴落する。そこで、能登谷喜兵衛、福田七兵衛、かがや惣兵衛も引換所を申しつけられる。秋田藩領の人々が困窮する中で、郡奉行の平元茂助[20] の治める院内領だけは銀札遣いを一切行わない。その上平元は戸村、渋江、梅津らの旧臣に進めて、八橋で太守の蔵を開き人々に食料を分け与える。町人百姓の恨みはもっぱら那珂と伊勢屋に集まり、ある夜数百人の者達によって伊勢屋は打ち壊される[21]。折り悪く、その宝暦5年は凶作であった。佐竹義明入部の年ということで、藩主に愁訴しようとする者が多い。義明は初入部に際し万事質素に取り行う。那珂は江戸常住となるが、義明入国の際には、那珂の一味が大挙して出迎え、口々に国が良く治まっていることを証言する。義明は翌年江戸に戻る。

那珂は義明が篤実で思い通りにならないので、義明を不行跡者にして隠居させ、秀丸(佐竹義敦)に家督を継がせ、自分が秋田を手の中に入れようと考える。まずは、義明に那珂の妾(実質は女房)のお百から勧めさせて、お百の妹分として側室を抱えさせる。宝暦7年、義明の再入部の年になる。今回は那珂が手配して御部屋同道ということで、おびただしい荷物が仕立てられ、つつじ千本がわざわざ江戸から送り届けられる。しかし、郡奉行の平元茂助は万民困窮の最中妾の人夫まで駆り立てることはできないと、院内口でそれらを捨ててしまう。これによって、那珂一味は平元を恨むようになる。江戸では那珂が義明に種々讒奏し「平元押込め」の書き付けを渡したところ、国元では佞人達が平元を切腹させようとするが、これを聞きつけた戸村十太夫は平元をかばう。

宝暦7年5月、義明は秋田城まで一日の戸島に宿を取る。山方助八郎、三枝仲ら那珂一党は義明に向かい、四家の面々や戸村、梅津、渋江らが申し合わせて、領民の困窮を太守一人の責任にして、太守を押し込めようとしていると言上する。驚いた義明は、小野崎源太左衛門や信田弥右衛門を使者として、四家や石塚孫太夫、岡本又太郎に閉門を申しつける。城下から物頭の太田内蔵介が戸島まで来て諫言しようとするが、山方、三枝にはばまれる。翌日義明は秋田城に入り、忠臣達は山方、三枝、小野崎らを捕らえ獄舎に入れる。那珂も江戸から呼び寄せられることになり、宝暦7年7月に那珂は一味の小野崎御酒、大島左仲と共に江戸を出立する。院内の関所まで来て、那珂は実兄の忍三郎左衛門からの書状で悪事が露頭したことを知ると、直ちに2人を捨て院内の関所を無理に押し通り、江戸に戻る。しかし、義明と松平隠岐守との直接の手紙のやりとりによって[22]、愛宕下の屋敷から誘い出され幽閉される。お百は奉公請状を偽造し、下女ということでまんまと逃れる。那珂一味は切腹、改易、蟄居等を仰せつけられる。那珂は庶民に下され引き回しの上、秋田の八橋にある草生津刑場で処刑される[23]。平元茂助は総奉行になり、四家の人々や忠義の面々は加増を受ける。お百はその後、高間磯右衛門という人物に引き取られる。

『秋田杉直物語』には多くの矛盾点があり批判を受けているが、真実が混じっているという人もいる。特に複数人の膳番が切腹や処刑されている事実がある[10]。また、最後に一括して載せている関係者の賞罰も、秋田での記録とほぼ一致している上、那珂忠左衛門は引き回しの上処刑という最も重い刑に処せられている。実際、馬場文耕には秋田藩の情報が集められていた。彼に連座し江戸払にされた貸本屋の藤兵衛の判決文には、佐竹秀丸(佐竹義敦)の家中に不埒者がいて、雑説を書き留め、住所不明の秋田の旅人長助から馬場文耕に情報を流し、著述させたとある[13][24]

『秋田杉直物語』は初期の実録物としては出色のものであり、後続作にも影響を与えた。『秋田杉直物語』では、那珂忠左衛門が全ての陰謀を企てた悪役であるという形になっている[13]

『秋田杉直物語』(深秘録本)の序文を書いた三田村鳶魚によると、この騒動の原因は、5代藩主の佐竹義峯が次の養子を生家である壱岐守家からではなく、あえて式部家から迎えたことが、対立の発端であるとしている。「公平に両分家から送立したようであるが、此の時から藩中に両分家の一方に荷担する者を生じ、遂に党派の勢いをなした」とした。また「重臣戸村十太夫等は壱岐守家を援け、重臣山方八郎等は式部少輔家を引きて陵轢せるなり」と、重臣らの対立に発展したと解説している。しかし「後年藩命を以て戸村の男に助三郎の女を妻合わせて山方氏を再興せしめしなど、旁々宝暦の内訌は、朋党の争闘なるが如くに観ぜられる」と、両家の縁組みで対立の解消がはかられ、この騒動の本質が実は派閥党争であったことを指摘している。しかし、三田村鳶魚がどのような史料や根拠でこの解説を書いたのかは現在では不明である[25]

脚色される『秋田杉直物語』[編集]

秋田県公文書館には『秋田騒動聞書夢之噂』と題する一書がある。乾巻と坤巻より出来ていて坤巻本文末には「宝暦十年秋八月吉日」という奥書がある。この本でも秋田騒動の首謀者は那珂忠左衛門であるとしている。しかし、この本では佐竹義真を毒殺したのは北家・東家であり、その仇を報ずることが大義名分であるとしている[26]。那珂、真壁、梅津、大越の先祖のことなどがより詳しく記述されている。さらに反銀札派の平本も活躍している様子が描かれ、銀札に対する落書きも多く記録されていて秋田で書かれたことがうかがわれる。坤巻では那珂忠左衛門のことが詳しく記述しており、那珂と孫達との別れが長々と語られている。しかし、処刑当日も顔色が変わらなかったので人々が「大勇の人にあらずや」と評したなどと、単なる悪役ではなくスケールが大きな人物として描かれている[13]。また、那珂や真壁掃部助などの家老サイドから事件を追っていて、救国の士でありアイディアマンの那珂像をにおわせている。佐竹義真を毒殺したのは北家・東家とし、落首をちりばめ、さめた筆使いを特色としている[27]

『国産秋田蕗』は十万字におよぶ長編で、『秋田杉直物語』を基礎に、さらに那珂忠左衛門の悪事を詳細に記述したもので、秋田のことは『秋田騒動聞書夢之噂』の記述を元にしていると思われる。『秋田騒動実記(大全)』や『秋田杉直成記』と内容が同じで、複数の書名があるのは、この書がかなり流布していたからであるように思われる[13]

幕末の『秋田蕗』はお百の記述を増して、怪奇フィクションの要素を取り入れた作品である[28]

那珂忠左衛門[編集]

秋田杉直物語で悪役にされた那珂忠左衛門は旧名を那珂采女と言い、作中では那河や那可などと記載される。那珂忠兵衛通実とも言う。那珂は1751年(寛延4年)に『秋田昔物語』を著していて、これは彼の遺著になっている。『秋田昔物語』(『羽侯有明昔物語』、『昔物語』、『羽侯昔物語』、『那珂通実昔物語』、『那珂忠左衛門昔物語』などの写本があり、多くは秋田公文書館に所蔵されている)は秋田叢書 第9巻に収録されており、深澤多市の解説には「子孫奉公の種にすべしとのことにて書き記した」とある。

同書には藩政の初期には銀鉱山の隆盛によって、藩財政が潤沢であった様子(p.31)や「藩主の一言で自分を殺さなければいけなくなったり、一言で藩主に弓をひくようになったりする。…古来家来をおろそかにして身を殺された主人が諸書に記録されている」(p.50)という記述、既に佐竹義格の時代に佐竹義道と那珂は共に藩主の共をしたこと(p.52)、「孔子の道で天下太平を治めるのは大切なことだが、日本では唐の通りにはならない。その国々毎に政治の気風や性格があるのだ」(p.66)などの記述がある。

井上隆明は同書を「藩史に親しむ向きならば、一度は読まねばならぬ著名本となっている。しかも人間の言動を主とし俗人の眼力ではない。秋田第一級の随筆本とためらいなく推せるだろう」と評価している[29]

那珂は佐竹家譜や国典類抄に大館から養子入りしたとある。用人、財用奉行、大坂蔵屋敷に5年務め、その後愛宕下の御前様付頭役を務めている。国典類抄によれば、事件の後で次男の小姓である村野治右衛門親孝と大館給人の実兄忍三郎左衛門宗英とともに処罰されている。孫の政五郎は未成年のために難をのがれた[30]。菅江真澄の友人であった那珂碧峰は、那珂氏の祖に那珂忠左衛門がいるため、藩の重臣になることを遠慮している[31]

那珂忠左衛門は末期養子である。那珂の実家の忍家は佐竹義宣からの新参で、大館の給人で先祖は武州の領主と考えられる。現存の那珂氏の系図からは那珂忠左衛門の名はない。久保田の手形柳生流の天明時代の門弟帳の中に那珂要人という人物が免許皆伝の師範になっていて、那珂を名乗る門弟が多数見える。土居輝雄はこの事実から那珂一族の頂点であった忠左衛門が柳生流の免許皆伝であったことは間違いないだろうとしている[32]。忠左衛門の長男の新兵衛は早死し、妻は次男治右衛門の養子先の野村家に引き取られていた。土居輝雄は那珂忠左衛門が藩主義明を裏切った契機は、宝暦7年4月に佐竹義明がその次男と妻を江戸の松平屋敷に引き取れと命令したことに発するとした。那珂はこれを藩主から佐竹氏との縁切りを言い渡されたと考え、怒り陰謀を企てたとする[33]

妲妃のお百と秋田騒動[編集]

『秋田杉直物語』には那珂忠左衛門の妾である「お百」が登場する。お百は元々、京都の貧者の娘で、その美貌と鋭利な頭脳で何人もの男の妻や妾になっていた。彼女が中国史上の最大の悪女と噂される妲妃になぞらえ、「妲妃のお百」として日本最大の悪女であると扱われる根がここにある。お百は脚色され、桃川如燕(2代目)の講談『妲己のお百』や実録物『増補秋田蕗』『秋田奇聞妲己於百伝』、河竹黙阿弥の狂言『善悪両面児手柏』、二世為永春水の『厚化粧万年島田』、清水米洲編集の『脇田奇聞 姐妃の高髷』といった作品に悪女として登場し、同時にこれらの作品では秋田騒動が語られている。明治時代に成立した『増補秋田蕗』では、お百が主人公となっており、佐竹藩の御用船によって滅ぼされた海坊主の怨念がお百にとりつき、彼女は数々の悪事をするという筋書きである。特に、殺した亡霊の魂が現れても平然として、灯りとして利用する場面は人気がある。

お百がこれほどまで、悪女として扱われるのは,海音寺潮五郎は育ちが育ちなので、厳格な武家女房にはなれまいと思われていたが、「昨日までの風俗に引き替え、武家の妻の行儀をたしなみ、まことに気高く、いみじきこと言うばかりなし」であるからとしている[34]。「お百」が実は悪い女でなかったという設定の小説を、海音寺潮五郎は『哀婉一代女』で描いている。

『秋田治亂記(實録)』[編集]

『秋田杉直物語』に描かれた秋田騒動だったが、それに対抗して秋田で作られたと思われるのが『秋田治亂記(實録)』である。『秋田治乱記』と『秋田治乱記実録』の記述はほぼ同じで(やや実録の方が詳細)、いずれも作者や作成年は不明である。

『秋田治乱記』では『秋田杉直物語』の佐竹義堅、佐竹義真暗殺の件は一言も語られず[35]、佐竹義明の代から始まっている。

野尻忠三郎は元来巧らみ深く知謀も人に優れていて、大番役を務めていた。しかし、野尻は近習の人々を語らい、家名を興そうとする野心があった。あるとき、近習達の酒宴の席に加わって「御家中で憎らしいのは四家、一門、座辺である。先祖の正しいことを鼻にかけ、位倒れにのさばっていて、平士を見下している。自分たち平士の方が勤めは大変であるのに報われることは少ない。当君義明公は『御心よし』で万事家老役人任せ、何でも役人の言う通りになさるようである。そこで四家を始め一門辺座の人々を讒言して逆意と言い立てて、彼らを滅ぼそう。その後、今度は殿を亡き者にして若君を取り立て、自分たちが秋田の国を思いのままにしようではないか。仲間としては、まず江戸の那珂忠左衛門を引き入れよう。」と言った。近習達は賛同し、連判の者を募る。家老大越甚右衛門、梅津外記、山方助八郎を始め多数が一味になる。軍法者は野尻忠三郎、江戸の大将は那珂に決まる。

銀札施行での混乱はほとんど史実通りである。野尻忠三郎の計略は佐竹義明が秋田に到着後に佐竹図書や佐竹山城の取り調べが行われる時に、各地から出火させ騒乱を起こし佐竹義明が出馬する際に、寄り添う形で佐竹義明を暗殺し跡に図書や山城の家の提灯をばらまくものであった。禁足中でありながら、大勢の家来を差し出したことから太守殺害の嫌疑がかかり、これを江戸に言上すれば、両家の滅亡は間違いなしとした。

佐竹義明は大山伊織から月額を剃られる時、江戸の箕作茂左衛門からの又聞で家臣の奸佞があることを知り、心中にはそのことを考えてはいた。しかし、秋田城に着いてから大越や山方が家に帰らず昼夜側を離れず詰めていて、太田蔵之介が意見があると言っても伝わらない。どのように尋問するかを考えていたが、26日側近の小野崎源太左衛門、大久保東市、大島左仲を陰の間に召して直接尋問すると、自分たちの悪事を洗いざらい白状する。この後は全体の3分の1にあたる文書量で秋田での一味の処罰と功労者の褒賞が、延々と記されている。

野尻忠三郎は『秋田杉直物語』では、結末の仕置きの条で名前だけが挙がっていた人物であるが、実際に行われた処罰では野尻忠三郎は草生津刑場で断罪という、那珂忠左衛門に次ぐ厳しいものであった。また秋田藩の公式記録である『後藤七右衛門祐良御勘定奉行勤中日記』でも「此の度の一儀は根本野尻忠三郎深き巧みより起こりし候」とまで記録されている。野尻が兵具奉行になった時、物頭達の間で彼の排斥運動が起こり、それを聞いた野尻が野心を起こしたのが騒動の発端であるという。また、那珂は野尻の娘婿であると記されている[36]

石井忠行は『伊豆園茶話』で「秋田治亂記といふは、共温公(佐竹義明)の御うえの御事より書きそめて、詞のかざりもなく、誠しげに見ゆ、まづは日記のごとし」(十七の巻)と評している。『秋田叢書』(旧版第7巻、昭和7年)の解題では「この書は文書こそやや暢達を欠けど、その筆不偏不党にして公平を保ち、その記事最も正鵠を得たるものの如くである。これを諸家の記録に照らしあわせるに多く支梧を見ない」としている。

三田村鳶魚は『列侯深秘録(p.13)』[2]で「馬場文耕がむやみに藩主毒殺事件を記しているのに反して、本書には『秋田沿革史大成』に書かれている義真侯の毒殺さえもはばかって書かず、逆に派閥によって誅殺されたとされる山方、大越、三枝、那珂、野尻等の家名が復活されたことを記している」と批判している。佐竹義真の急死は当時から怪死と思われていた。三田村の指摘の通り、『秋田沿革史大成(p.103)』[3]には「御側方其他御家中何レモ其急症ヲ疑フ」とある。著者の橋本宗彦はこの資料の出典を明らかにしていないが、恐らく古記録や古文書ではなく、伝承から採ったのではないかと思われる[37]

『秋田杉直物語』では出だしに佐竹氏の祖先が新羅三郎と誤り無く記述されているのに、『秋田治亂記(實録)』の出だしは、それが八幡太郎と誤りが増えている。しかも、秋田藩内で修正された雰囲気もない。この部分は秋田藩で盛んに信仰されていた「八幡神社」と何らかの関わりがあると考える人もいる[38]

秋田騒動は柳沢騒動、黒田騒動、伊達騒動、越後騒動、鍋島騒動、加賀騒動などのお家騒動とともに、貸本屋向き地下出版のベストセラーになった。それらをリストアップする。

この他に、秋藩懲瑟禄(宝暦8年9月写、秋田藩から幕府への事件報告書の写し)、秋田記秘事(秋田公文書館蔵)、秋政要略(秋田公文書館蔵)、秋藩秘禄(秋田公文書館蔵)、宝暦発行 秋田銀札(秋田公文書館蔵)、佐竹藩宝暦一件那珂忠左衛門取囲準備(秋田公文書館蔵)、宝暦丑年大乱日記(秋田公文書館蔵)、羽州秋田騒動記(早稲田大学蔵)、羽州秋田宝暦聞書(内題 羽州秋田宝暦騒動記、京都大学蔵)、秋田騒動 病間雑抄(酒田市光丘図書館蔵)、国典類抄第一九巻(酒田市立図書館編、秋田県教育委員会、昭和59年)などの資料がある[39]

秋田騒動を扱った作品[編集]

映画[編集]

  • 1914年、姐妃(あねご)のお百、尾上松之助、日活
  • 1959年、南部騒動 姐妃のお百、小畠絹子、新東宝
  • 1987年、傑作時代劇第19話 怪談 実録姐妃のお百、テレビ朝日系列
    • 明らかに「妲妃のお百」を元にしている。
  • 1940年、佐竹競艶録、大友柳太郎、新興キネマ

講談・書籍[編集]

  1. ^ 大失敗の原因には贋札の横行が理由の一つとしてあげられる。古記録には半分が贋札とするものさえあった。宝暦4年の10月には早くもニセ銀札が市中に出回った。犯人として医師の次藤元伯が共謀の2人とともに逮捕されている。しかし、偽造犯はこの一味だけではなかった。銀札の発行枚数は宝暦7年6月8日までに82229貫余、そこから7月10日までに13950貫目という膨大な額だった。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.50,128)
  2. ^ 新屋や土崎港での捜索では銀220貫目、金150両と米を押収している。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.49)
  3. ^ 真壁は25年後の天明元年に佐竹義敦の代に執政加談として再雇用されている。
  4. ^ 四家のうち南家の佐竹淡路は幼少のため登城しなかった。
  5. ^ 切腹は山方助八郎(家老)、小野崎源左衛門(用人)、大島左仲(膳番)、三枝仲(膳番)、信太弥右衛門(膳番)、大久保東市(用人)、川又善左衛門(銀札奉行)、白土奥右衛門(銀札奉行)で、斬罪が野尻忠三郎(兵具頭)親子であった。また、家老の梅津外記は蟄居であった。那珂忠左衛門は庶民に下され引き回しの上処刑された。
  6. ^ 銀札は70分の1に切り下げられたことになる。しかも、約束では10年かけて兌換するとあったが、その兌換も1ヶ月で終了した。(『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.50)
  7. ^ 『佐竹物語』、長岐喜代次、秋田:武内印刷出版部、p.230
  8. ^ 『秋田貨幣史』、佐藤清一郎、1972年、p.51-58
  9. ^ 『秋田杉直物語』は著名がないが、馬場の『頃日全書』(『未刊随筆百種』収録)の序に「往年、厳秘、要秘の両禄密秘より、武野俗談、江戸著聞集、秋田すぎ等の珍談を数編撰みて、今世に専ら流布す」とあることによる。このことは、三田村鳶魚が『列侯深秘録』(国書刊行会)で指摘している。
  10. ^ a b 土井輝雄『佐竹騒動その背景 -銀札事件覚書』、秋田魁新報社、1996年
  11. ^ 秋田騒動実記大全、秋田県公文書館蔵。寛政2年写。6冊
  12. ^ 『秋田市史 第14巻』文芸・芸術、井上隆明、1998年、p.225-226
  13. ^ a b c d e 『実録研究 -筋を通す文学-』、高橋圭一、精文堂
  14. ^ 海音寺潮五郎は『列藩騒動録(上)』の「秋田騒動」(p.332 文庫版)で、「これは恐らく、秋田名物の蕗と那珂の才気をからませた文耕の小説であろう」としている、また高橋圭一は『実録研究』(p.39)で「秋田名産の蕗を使った、有り体に言ってたわいのない話である。時代も御家騒動の起こる遙か以前に遡っている。これは文耕の創作と見て、まず間違いないであろう」としている。その論拠として『秋田蕗のはなし展図録』(秋田市立赤れんが郷土館編集発行、平成9年)から「秋田蕗に関する文献には必ずといってよいほどこの話が登場してくるが、これは『秋田県沿革史大成』のなかでの記述が元になっていると思われる」という文と、さらにその出典の元として「『秋田杉直物語』が最初ではないかと思われる」という文書を引用している。しかし、1800年(寛政12年)に書かれた長木沢村(現大館市)の『郷村史略』(大館史編さん資料 第四集、昭和47年、p.52)に「寛政元辰年 長木澤より葉乗掛桐油程の山蕗を取て可上と 拠人(秋田藩で藩境を巡回した役人)阿部重右衛門ニ被仰付 十(ママ)右衛門山中に入て尋る事七日 二本を得たり 一本ハ一尺二寸廻り 長一丈二尺 一本ハ八寸廻り長同し 古今ある事なき蕗の由 献之 其後見る事なし 誠ニ神助に依て有しならんといふ 右は権之助日記ニ見へたり」とある。また、石井忠行は『伊頭園茶話』(『新秋田叢書』8巻、今村義孝監修、1972年、p.366)にも同様な記事があるが、重右衛門の孫は権太郎で、彼の日記に記述があるとしている。
  15. ^ この事件は「徳川実紀」では延享4年(1747年)8月15日であるが、このころは義真はまだ藩主になっておらず、『羽陰略記』などにも記載がない。(『列藩騒動録(上)』、海音寺潮五郎、p.338(文庫版))
  16. ^ 相馬叙胤は佐竹家の血筋だが、その子の相馬尊胤は養子なので佐竹家の血が流れておらず、そもそも論争になるのはおかしい。(『列藩騒動録(上)』、海音寺潮五郎、p.350-351(文庫版))
  17. ^ 老中堀田は文耕の作品中で何度もやり玉に上がっている。彼の『当時珍説秘録』で、堀田は収賄によって政治を私する人物として描かれている。
  18. ^ 書名の『直物語』とは、この真っ直ぐな性格だった義明を題につけたものである。秋田からの使者生田辺喜内と、帰国する佐竹山城が出会った際、生田辺は公務であるからと乗り打ちする。那珂は生田辺をとがめようとするが、寛仁大度の義明に救われるというエピソードが『秋田杉直物語』に記されている。
  19. ^ 『秋田杉直物語』矢口本の記述
  20. ^ 平元(作中では平本)茂助は史実では能代奉行であったが、能代での銀札通用を禁止している。凶作でもあるし、能代は港町だから交易が成り立たないという理由であった。能代では銀札遣いが無かったので、平元を神のように感じたとしている。(『秋田沿革史大成(p.103)』[1])多羅尾村の商人を篤い饗応でなんとか説得したのは彼であったし、また銀札奉行に就いてからは、「これまでの銀札方の努力をほとんど無にするような線」で銀札仕法の改正を行っている。(『秋田県史』第2巻近世編上、p.618)作中では、秋田で大蕗を得る功績もあったとしている。
  21. ^ 秋田で商家の打ち壊しがあったという史実はない。しかし宝暦6年には金沢で銀札による打ち壊し事件が発生している。
  22. ^ 『北家日記』では佐竹義道が直接松平家を訪問したとある。
  23. ^ 『後藤祐良日記』によれば「八月六日、今日那珂忠左衛門引廻候。付紙小籏為背負、右御書付左之通。『此者奸佞邪悪を以密々党を与し、国家騒動之端を発し既ニ叛逆を企、剰関所を破候重科により庶人に下し、於草生津斬罪に行ふもの也』」とある。(国典類抄後編凶部35)
  24. ^ 幕府時代申渡抄録、『百万塔 第9巻』収録、明治25年
  25. ^ 『御家騒動の研究』、吉永昭、清文堂、2008年、p.725-726
  26. ^ 『秋田沿革史大成』にも義真の死が佐竹山城の策略だと書かれている。
  27. ^ 『秋田市史 第14巻』文芸・芸術、井上隆明、1998年、p.228
  28. ^ 『秋田きらり12群の史話』、井上隆明、書肆えん、2013年
  29. ^ 『秋田市史 第14巻』文芸・芸術、井上隆明、1998年、p.230
  30. ^ 『秋田市史 第14巻』文芸・芸術、井上隆明、1998年、p.230-231
  31. ^ 『秋田人名大事典』、p.417
  32. ^ 土居輝雄は歴史小説『宝暦の嵐』で忠左衛門が武術の達人であるという設定を使い剣劇の場面を描いている
  33. ^ 土井輝雄『佐竹騒動その背景 -銀札事件覚書』、p.27-40
  34. ^ 海音寺潮五郎『列藩騒動録(上)』、p.399(文庫版)
  35. ^ 『秋田杉直物語』では約半分を費やしている。
  36. ^ 『国典類抄』後編凶部35、宝暦7年6月10日項
  37. ^ 土井輝雄『佐竹騒動その背景 -銀札事件覚書』、p.36
  38. ^ 『<歴史>を創った秋田藩』、志立正知、2009年、ISBN 978-4-305-70395-8
  39. ^ 『秋田市史 第14巻』文芸・芸術、井上隆明、1998年、p.227

参考文献[編集]

  • 秋田県史 第2巻上 p.596-p.631