中央区立日本橋小学校 – Wikipedia

中央区立日本橋小学校(ちゅうおうくりつ にほんばししょうがっこう)は、東京都中央区日本橋人形町一丁目にある公立小学校。2020年5月1日時点で、14学級・391名在籍。校歌は「つつじの学校 日本橋」。

中央区に16ある区立小学校の一つ。当地に所在した中央区立東華小学校と、小伝馬町に所在した中央区立十思小学校が閉校の上、統合されて、新設の日本橋小学校として、1990年に開校した。統合は、児童数の減少に伴う区立学校の適正配置に関する計画の実施であり、統合初年度の新入生は24名であったが、その後、学区内の都心回帰・住宅開発の流れから、児童数は増加に転じている。

中央区内に21ある選挙の投票所の一つとして用いられている[1]

校舎・敷地沿革[編集]

本校の校舎は、地上9階・地下2階の建物の一部であり、小学校としては地下1階から地上5階までを使用している。同じ建物には、日本橋図書館(6・7階部分)、日本橋社会教育会館(地下2階、8・9階部分)が複合して同居しており、地下1階の日本橋小学校温水プールは、一般にも公開されている。また、同建物内に中央区立日本橋幼稚園があり、地下には区営人形町駐車場が所在する。玄関の上、3階部分に所在する体育館や、一部校舎屋上にある屋外活動スペース、地下に所在するプールや、トラックのコースの丸みに沿って設けられた倉庫建物と、その上にある幼稚園プール・遊戯施設など、都心部の限られたスペースを活用した校舎となっている。

本校の敷地は、江戸時代末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初頭(明治4年から6年)には西郷隆盛の屋敷があった場所である[2]。明治34年から本校の開校まで、本校の前身の一つ、東華小学校の敷地となる。もう一つの前身校である十思小学校の跡地は、現在は十思スクエアとして活用されている。

生徒数の増加と改築[編集]

平成25年2月にまとめられた調査報告書[3]により、児童数の将来推計に基づき、日本橋地区では、近隣の中央区立有馬小学校・中央区立久松小学校とともに、児童の目立つ増加が見込まれるものとして、普通教室の増加のための改築がなされることとなった。もともと校庭としてのスペースが限られていた本校は別棟の建物の増築等による対応ができず、複合建物として、これまでの校舎としての使用フロアに接続し、それまで日本橋図書館の一部として用いられていた5階部分について小学校校舎として用いるための改築がされ、教室を増加させた。5階・6階に所在した図書館が6階・7階に移転し、7階から9階にあった社会教育会館は、8・9階と地下2階に所在することとなった。

小学校の児童数と教員数[4]
年度 児童総数 1年生 2年生 3年生 4年生 5年生 6年生 教員数 職員数
平成27年 338人 62人 56人 54人 51人 64人 51人 21人 2人
平成28年 335人 52人 62人 56人 53人 50人 62人 28人 4人
平成29年 334人 58人 50人 64人 56人 55人 51人 20人 3人
平成30年 359人 65人 59人 54人 68人 58人 55人 19人 3人
令和元年 388人 84人 64人 60人 54人 66人 60人 21人 3人
令和2年 391人 74人 83人 59人 60人 51人 64人 21人 4人
令和3年 397人 73人 73人 80人 57人 61人 53人 22人 4人

通学区域[編集]

通学区域は、日本橋本町三丁目(6~11番)・四丁目(9~15番)、日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町一丁目・二丁目、日本橋小舟町、日本橋富沢町、日本橋人形町一丁目・二丁目・三丁目、日本橋小網町(7~19番)、日本橋蛎殻町一丁目(7~16番)。

日本橋人形町二丁目15~20番及び32~36番は有馬小学校と、日本橋堀留町二丁目1番・2番・8~10番、日本橋富沢町、日本橋人形町二丁目21~31番・37番、日本橋馬喰町一丁目・二丁目は久松小学校とのそれぞれ調整区域として、いずれの学校への進学も可能となっている。

旧 十思小学校
  • 1872年(明治5年)- 明治政府太政官より、学校に関する基本法制として、学制が発布された。
  • 1877年(明治10年)12月22日 – 第一大学区第一中学区十六番小学十思学校として開校[5]
  • 1886年(明治19年)11月17日 – 校舎の類焼を受けて有馬小学校内にて授業をしていたものの、本校を廃止して有馬小学校に合併
  • 1892年(明治27年)4月14日 – 有馬小学校の分校として開校
  • 1897年(明治30年)5月8日 – 地元有志により校舎を新設し、有馬小学校の分校を廃止し、高等科を併置し、東京市日本橋区十思尋常・高等小学校として再興
  • 1905年(明治38年)3月 – 女子の児童を、上町女子尋常小学校に分離
  • 1908年(明治41年)3月 – 高等科を廃止し、東京市十思尋常小学校と称する
  • 1916年(大正5年)7月6日 – 上町女子尋常小学校と合併し、共学に
  • 1918年(大正7年) – この年の学級数は21、児童数は男子524名・女子553名[6]
  • 1923年(大正12年)9月1日 – 関東大震災により校舎焼失。10月6日からバラックにて授業再開
  • 1928年(昭和3年)12月 – 関東大震災後の復興事業として、鉄筋コンクリート造の校舎(日本橋小伝馬町・現 十思スクエア・東京都選定歴史的建造物)建設[7]
  • 1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立十思国民学校と改称
  • 1944年(昭和19年)8月31日 – 学童集団疎開(埼玉県比企郡野本村・西吉見村)(~昭和21年3月)
  • 1947年(昭和22年)4月1日 – 東京都中央区立十思小学校と改称。昭和25年まで久松中学校が校舎に同居
  • 1952年(昭和27年) – この年の学級数は12、児童数は男子335名・女子267名。この後、昭和52年までに、6学級、男子76名・女子74名に減少。
旧 東華小学校
  • 1901年(明治34年)9月8日 – 東京市日本橋区東華尋常小学校として開校[8]
  • 1904年(明治37年)4月 – 高等科を併置する
  • 1908年(明治41年)4月 – 東京市東華小学校と改称する
  • 1918年(大正7年) – この年の学級数は17、児童数は男子511名・女子513名[9]
  • 1923年(大正12年)9月1日 – 関東大震災により校舎焼失
  • 1929年(昭和4年)5月 – 耐震耐火建築の校舎の復興
  • 1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立東華国民学校と改称
  • 1944年(昭和19年)8月29日 – 学童集団疎開(埼玉県入間郡毛呂山町)(~昭和21年3月)[10]
日本橋小学校
  • 1990年(平成2年)4月1日 – 十思小学校・東華小学校両校の統合により、東華小学校校舎に東京都中央区立日本橋小学校として新設される。同年新入生を含めた児童数は157名。
  • 1994年(平成6年)- 建設期間の旧十思小学校校舎への一時移転(1990年8月)を経て、新校舎落成
  • 1999年(平成11年)4月1日 – 本年度以降2018年度まで、全校で12学級(各学年2学級)の編成(1999年4月当初時点で児童数は359名)
  • 2000年(平成12年)4月1日 – 校名を中央区立日本橋小学校に変更
  • 2009年(平成21年)4月 – 本年度の入学生より、中央区が開始した特認校制度の対象になった。2012年4月入学生まで対象であったが、以降児童数の増加により指定を解除。
  • 2019年(平成31年)4月 – 新入生の増加により、新一年生の学級数が3に増加。全校で13学級に(2019年4月当初時点で児童数は389名)

主な出身者[編集]

  1. ^ 投票所及び投票区域一覧 中央区
  2. ^ 1874年(明治6年)12月、東京府地券課が作成した東京市街地の地籍図である「沽券地図」のうち、第一大区に関するものに、蛎殻町1丁目1番として西郷隆盛の名が記されている。
  3. ^ 中央区教育委員会「教育環境の整備に関する基礎調査 報告書」平成25年2月
  4. ^ 東京都教育委員会「令和3年度 公立学校統計調査報告書」統計・調査、2022年2月15日、2022年3月6日閲覧
  5. ^ 東京市日本橋区役所『新修 日本橋区史』下巻、1937年、375頁。
  6. ^ 東京市日本橋区役所『日本橋区一覧』第二回、1919年、44頁。
  7. ^ 中央区立図書館 復興小学校案内 日本橋区編 十思尋常小学校
  8. ^ 東京市日本橋区役所『新修 日本橋区史』下巻、1937年、377頁。
  9. ^ 東京市日本橋区役所『日本橋区一覧』第二回、1919年、44頁。
  10. ^ 毛呂山町「広報もろやま」平成25年8月1日号
  11. ^ 中央区教育委員会「西郷隆盛屋敷跡」の碑 – 日本橋小学校の敷地は、江戸時代は姫路藩酒井家の下屋敷であり、明治に入って西郷隆盛の屋敷となった。明治4年(1871年)に上京し参議に就任、明治6年(1873年)に征韓論に敗れて鹿児島に帰るまで、約2年間起居した。2,600坪の屋敷に、書生を15人を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]