グザヴィエ・ド・メーストル – Wikipedia
グザヴィエ・ド・メーストル(仏: Xavier de Maistre、1763年10月10日[1] – 1852年6月12日)は、フランスの作家、軍人。生涯の多くを軍人として過ごしたが、有名なのは作家としてである。サヴォワのシャンベリの貴族の家に生まれた。サヴォワ上院議長も務めたフランソワ・グザヴィエ・ド・メーストルを父に持ち[2]、著名な哲学者で反革命家であるジョゼフ・ド・メーストルを兄に持つ[3]。10人兄弟の内の次男であった[2]。若い頃はピエモンテ-サルデーニャの軍隊に務めた。1790年、トリノで決闘した懲罰として自室謹慎を命じられた時に書き上げた空想譚「わが部屋をめぐる旅」(Voyage autour de ma chambre) が1794年に刊行された[4]。 グザヴィエは兄ジョゼフの政治的信条に共感し、1792年にフランス革命軍がサヴォワをフランスに併合した後にサヴォワ軍を去り、やがてロシア軍の任務に就いた。オーストリア-ロシア共同戦線に勝利したアレクサンドル・スヴォーロフの下で働き、1796年にはロシア軍元帥直属となった。その頃スヴォーロフを重用していたエカチェリーナ2世が崩御し、新たに即位したパーヴェル1世によりスヴォーロフは解任された(表向きは彼がワルシャワを征服した後に、2万人のポーランド人を虐殺したために)。グザヴィエは将軍と不名誉を共にし、時折サンクトペテルブルクで細密画、特に風景画を描いて自らの生計を助けた。 1803年、兄ジョゼフがロシアのツァーリ・アレクサンドル1世王室のピエモンテ-サルデーニャ全権公使に任命された。ペテルブルクに到着した弟のグザヴィエは海軍大臣に紹介され、図書館長・海軍博物館長などのポストに任命された。彼はまた積極的に戦闘に参加し、コーカサスを征伐し、少将にまで出世した。1812年、ツアーリの親族であるロシア人女性と結婚。彼はナポレオンの敗北とそれに連なるピエモンテ王朝復権の後もロシアにとどまった。 文学作品[編集] シャンベリ城の正面に建つジョゼフとグザヴィエの記念碑 大旅行記の伝統に基づくパロディである「わが部屋をめぐる旅」(1794年)は、自身の部屋に6週間監禁された若い役人が、如何に家具や彫刻などを異郷の航海場面のように見ていたかという自伝的記述である。彼は如何なる出費も犠牲も伴わないこの航海を賞賛し、貧しい者、虚弱な者、怠け者に強く勧める。彼の部屋は長方形で、周囲は36歩だった。「私が部屋を旅する時」と彼は書く。「直線的に進むことはまれである。テーブルから角に掛かっている絵に向かう。そこからドアに向かって斜めに出発する。しかし自分の強い意志で旅立ったのに、途中で肘掛け椅子に出くわしてしまったら、私はそれについて二度とは考えず、それ以上騒ぎたてる事もなく、そこに腰を落ち着ける。」その後、北に進むと彼はベッドに遭遇し…と、このように彼は気軽に「旅」を続ける。これはグザヴィエの敬愛するローレンス・スターンのスタイルに沿って、読者の想像力と戯れる非凡な作品である。グザヴィエ自身は作品に無頓着であったが、兄のジョセフがこれを出版した。 その他の作品 「アオスタの市の癩病者」(Le Lépreux de
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