マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ – Wikipedia

マリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラMaria Sofia di Baviera, 1841年10月4日 – 1925年1月19日)は、両シチリア王フランチェスコ2世の王妃。ガブリエーレ・ダンヌンツィオに「厳格なバイエルンの小鷲」、マルセル・プルーストに「ガエータ城塞の戦士女王」と呼ばれた。

生い立ち[編集]

バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系に属するバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフとその妃であるルドヴィカ王女の娘として、ミュンヘンで生まれた。ドイツ語名はマリー・ゾフィー・アマーリエ・イン・バイエルンMarie Sophie Amalie in Bayern)。姉にヘレーネとオーストリア皇后エリーザベトが、妹にフランチェスコ2世の異母弟であるトラーニ伯ルイジの妃マティルデがいる。

結婚と即位[編集]

1859年2月、マリーは両シチリア王フェルディナンド2世の息子で王太子であるカラブリア公フランチェスコと結婚した。この結婚は政治的なものであった。彼女の姉エリーザベトがオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚しており、后妃を介してオーストリア皇帝と未来の両シチリア王が義兄弟になるからである。代理結婚が行われたときにはマリーはまだ初潮も迎えていなかった。嫁ぐ前に彼女はウィーンにいる姉エリーザベトを訪問した。マリーとエリーザベトはオーストリア帝国の港湾都市トリエステまで一緒に行き、そこでマリーが両シチリア王国が派遣したヨットに乗ると2人は別れを告げた。その年のうちに義父フェルディナンド2世が没すると、フランチェスコが両シチリア国王フランチェスコ2世として即位し、彼女もそれにともない同王妃マリーア・ソフィアとなった。

イタリア統一と両シチリア王国の滅亡[編集]

1860年9月、ジュゼッペ・ガリバルディの軍勢が首都ナポリに押し寄せると、王はカプアで体勢を立て直そうと逃走した。しかし、カプアはヴォルチュルヌスの戦いでガリバルディ軍に陥落させられ、王と王妃はナポリ北80キロにある強固な要塞ガエータへ立てこもった。

1860年暮れから1861年初めまで行われたガエータ攻略で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の勢力は砲撃され、すぐに後退を余儀なくされた。この時からマリーア・ソフィアは「ブルボン家最後の砦」を守った「戦う王妃」という高い名声を得ることになった。彼女は精力的に働いて兵士の志気を挙げ、要塞を陥落させようとする敵との死闘の間、傷病者を運び、自身の食物まで分け与えた。

亡命生活[編集]

ガエータ陥落と同時に両シチリア王国は瓦解し、国王夫妻はローマへ亡命した。それもつかの間、南の覇者ガリバルディと、北からサルデーニャ王軍がともにローマを目指して進軍してきた。フランチェスコは亡命政府をローマに樹立し、数年の間ヨーロッパ各国と調整を図り王国の復活を目指した。

1870年、ローマはついにイタリア王国のものとなり、フランチェスコとマリーア・ソフィアは再び亡命した。1894年に王は没した。マリーア・ソフィアはミュンヘンへいったん戻った後、パリへ移って亡命王族らと巻き返しを図った。彼女は新しいイタリア王国が再びばらばらになることを狙い、1900年のウンベルト1世暗殺事件に関わったと噂された。第一次世界大戦の間は、ドイツ・オーストリア側に立って行動していた。この間も、イタリアを負かしてナポリ王国が復活するために、イタリアに対して妨害行為とスパイを行っていると悪評が高かった。

家庭生活[編集]

マリーア・ソフィアの突出した富と特権は、私生活の不幸で曇った。フランチェスコとの間にできた唯一の女子は3か月で死亡、二度と王の子を産めなかった。しかし、1862年にマリーア・ソフィアは双子を出産していた。当時彼女はフランチェスコの妃だったが、子供たちの父親はアルマン・ド・ラワイスというベルギー人伯爵だった。双子は、醜聞を恐れたヴィッテルスバッハ家の縁者たちにより、彼女から引き離された。その後1度か2度、監視の中で子供たちと再会したといわれている。1897年、妹ゾフィー・シャルロッテが火災現場から少女たちを助けようとして英雄的な死を遂げた。1898年、姉エリーザベトが、無政府主義者により暗殺された。

1925年、マリーア・ソフィアはミュンヘンで没した。