ズジスワフ・ヤシンスキ – Wikipedia

“Niedziela Palmowa” ニェジェラ・パルモファ (聖枝祭) 1891年、キャンバスに油彩、

ズジスワフ・ピョートル・ヤシンスキ (Zdzisław Piotr Jasiński, 1863年1月18日 – 1932年11月18日) は、ポーランドの画家、素描家、水彩画家。画業の初期はアカデミック美術を志向していたが、のちに印象派的作風で知られるようになった。

ヤシンスキの父は装飾業の運営をしており、画家組合長であった。一番下の弟ユゼフ (Józef, 1876年 – 1954年) は彫刻家、もう一人の弟スタニスワフ (Stanisław, 1939年死去) は画家および装飾作家であった。[1]

ヤシンスキはヴォイチェフ・ゲルソンの元、ワルシャワ素描学校 (現ワルシャワ美術アカデミー英語版 [注釈 1] ) にて美術の勉強を開始した。卒業後にクラクフへと居を移し、クラクフ美術学校でレオポルド・ロフラー英語版フロリアン・ツィンク英語版に師事した。その後、芸術奨励会ポーランド語版 [注釈 2] の後援を得てミュンヘン美術院 [注釈 3] へ進学。オットー・ザイツ英語版 (Otto Seitz)、アレクサンダー・フォン・ヴァーグナー (Alexander von Wagner) らの学徒となった。[1]

“Chora Matka” ホラ・マトカ (英: The Sick Mother, 病床の母)

1891年、ヤシンスキはベルリンの展覧会において、出品作 Chora Matka ホラ・マトカ (英: The Sick Mother, 病床の母) をもって金賞を受賞。2年後にはシカゴ万国博覧会においても受賞した。

1893年にワルシャワに戻り、その後同市に定住した。1896年から1897年の間には、ロシアのサンクトペテルブルクおよびモスクワの壁画作品を手掛けている。また、ポーランドのヴウォツワヴェクの大聖堂 (ヴウォツワヴェク聖マリア昇天大聖堂バシリカ英語版 [注釈 4] ) 、そしてカリシュにある大学の壁画を制作した。[1] 1897年、彼はしばらくローマへ滞在し、天井画を描いた。それから4年後の1901年、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団コンサートホールの天井に “Smutek, Muzyka ludowa, Wesołość” スムテク、ムズィカ・ルドヴァ、ヴェソウォシュチ (悲哀、民族音楽、幸福) の場面を描いたが、後の1939年のドイツ連邦軍の爆撃により失われた。

1904年の一時期、ヤシンスキはプシュウェンク英語版近郊に住んでいた。1910年にワルシャワに戻り、フスプルナ通りポーランド語版63bにタウンハウスを建てた。[1] その後間もなく、ワルシャワ聖バルバラ教会 [注釈 5] 近隣の福音記者ヨハネのフレスコ画を描いたが、第2次世界大戦時に破壊されてしまった。

1921年、彼は現代美術の抽象的な動向に逆らおうとする芸術家集団 “Pro Arteプロ・アルテ の創立メンバーの一人となった。

代表作

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 波: Akademia Sztuk Pięknych w Warszawie アカデミア・シュトゥク・ピェンクヌフ・フ・ヴァルシャヴィェ
  2. ^ 波: Towarzystwo Zachęty Sztuk Pięknych トヴァジュストフォ・ザヘンティ・シュトゥク・ピェンクヌィフ, 略称 TZSP
  3. ^ 独: Akademie der Bildenden Künste München アカデミー・デア・ビンデンデン・キュンステ・ミュンヒェン、英: Academy of Fine Arts, Munich
  4. ^ 波: Bazylika katedralna Wniebowzięcia Najświętszej Maryi Panny we Włocławku バジリカ・カテドゥラウナ・ヴニェボフジェンチャ・ナイシュヴィエンチェイ・マリイ・パンヌィ・ヴェ・ヴォツワフク
  5. ^ 波: Kaplica i Kościół św. Barbary w Warszawie カプリツァ・イ・コシュチョウ・シュヴィェンテ・バルバリ・フ・ヴァルシャヴィエ

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]