八窓庵 – Wikipedia

八窓庵、三分庵側より撮影(八窓庵は写真右手奥)

八窓庵(はっそうあん)は、北海道札幌市中央区の中島公園にある茶室である。当初は近江国小室城(滋賀県長浜市)に建てられていた。重要文化財(1936年9月18日指定)[1]旧舎那院忘筌(きゅうしゃないんぼうせん)とも呼ばれる。

二畳台目の草庵風の茶室で、江戸時代、小堀政一(遠州)の作とされるが、正確な建築年は不詳である。3つの連子窓、4つの下地窓、1つの突上窓の計8窓があることから、八窓庵と呼ばれる。1936年、当時の国宝保存法により国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定、1950年に同法が廃止され文化財保護法が施行されたことに伴い、重要文化財となった。増設されている三分庵(四畳半茶室)と水屋は重要文化財指定の対象外である。[2]

当初は、小堀政一の居城である小室城内の孤篷庵にあった。その後、川崎(長浜市川崎町)の円教寺、長浜八幡宮の俊蔵院を経て、長浜市の舎那院へ移築されたというが、その詳細な経緯は未詳である。大正時代に舎那院から札幌市内(現中央区北4条西12丁目)へ移築、その後中島公園内へ移築された。冬期には積雪による荷重から建物を守るためにプレハブの上屋が仮設されていたが、2005年3月にプレハブ上屋が倒壊、それに伴って八窓庵・水屋が全壊・三分庵が半壊した。

全壊後、事故調査委員会を設け解体調査を実施。この際八窓庵の屋根裏部分(小屋束東面)に、建造物修繕記録である棟札を2枚(明治三十五年棟札・大正十四年棟札)発見。1919年に実業家持田謹也が建物を譲り受け、部材を札幌に輸送。1925年に部材を組み立てたことが判明した。[3]

2005年の全壊時には構造材、造作材ともにことごとく折損、割損したが、重要文化財指定解除には至らず、修理に際しては可能な限り旧材を補強のうえ再用した。土壁についても木舞をできる限り再用し、壁土は保管されていた元の土を練り直し、不足分は新たな土を足して仕上げた。特に中柱(点前座と炉の間に立つ柱)は2か所で破断し、3本に折れてしまったが、内部にヒノキ材の補強材を入れ、アクリルエマルジョンを使用した減圧含浸を行って補強し、再用された。[4]

  • 当初、小堀政一の居城小室城内の孤篷庵に所在(現滋賀県長浜市)。
  • 江戸時代末期 – 明治初期 – 川崎村円教寺、長浜八幡宮を経て舎那院へ移築。
  • 1919年 – 札幌市の実業家、持田謹也が購入、札幌へ部材を運ぶ。
  • 1925年 – 札幌市内(現中央区北4条西12丁目)の持田邸内にて組み立て再建。三分庵、水屋を増設。
  • 1936年9月18日 – 国宝保存法により国宝(旧国宝)に指定。
  • 1950年 – 別の実業家の手に渡る。
  • 1950年8月29日 – 文化財保護法施行により重要文化財となる。
  • 1971年 – 札幌市へ寄贈される。
  • 1971年9月 – 中島公園北側日本庭園内(現在地)に移築。
  • 1987年 – 露地が作庭される。
  • 2005年3月 – 冬期間、建物の真上で雪を支えるプレハブ上屋が倒壊し、八窓庵が全壊。解体調査時に2枚の棟札を発見。
  • 2008年10月 – 修復作業終了。
  1. ^ 八窓案の重要文化財指定年月日について、「1936年9月18日」とする資料(文化遺産オンラインなど)と「1950年8月29日」とする資料(札幌市のサイトなど)があるが、前者が正当である。文化財保護法の附則の規定により、旧国宝保存法に基づいて行われた「国宝」の指定は文化財保護法における「重要文化財」の指定とみなされている。したがって、八窓庵については、旧法による指定が行われた1936年9月18日が指定年月日となる(1950年8月29日は指定日ではなく文化財保護法の施行日)
  2. ^ 札幌市 02-K04-08-685 20-2-100(八窓庵修復後、公開時配布冊子)
  3. ^ 移築経緯については「重要文化財八窓庵中柱の修復」『保存科学』47、による。
  4. ^ 修理については「重要文化財八窓庵中柱の修復」『保存科学』47、による。

参考文献[編集]

  • 鈴木雅文、山路康弘、楠京子、森井順之、川野邊渉「重要文化財八窓庵中柱の修復」『保存科学』47、国立文化財機構東京文化財研究所、2007(参照[1]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯43度2分49.1秒 東経141度21分11.2秒 / 北緯43.046972度 東経141.353111度 / 43.046972; 141.353111