クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前220年の執政官) – Wikipedia

クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ(ラテン語: Quintus Mucius Scaevola、? – 紀元前209年)は紀元前3世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前220年に執政官(コンスル)、紀元前215年に法務官(プラエトル)を務めた。

スカエウォラはプレブス(平民)であるムキウス氏族の出身。古代の歴史家は、紀元前508年にローマを包囲したエトルリア王ラルス・ポルセンナを暗殺しようとして捕虜となり、その面前で自身の右手を焼いて勇気を示した、伝説的な英雄であるガイウス・ムキウス・スカエウォラ(スカエウォラは左利きの意味)をムキウス氏族の先祖としているが、現代の研究者はこれはフィクションであると考えている[1]。実際、高官を出したムキウス氏族はプレブス系であり、歴史に登場するのは比較的遅く、クィントゥスが最初である(即ち、ガイウス以来300年近く歴史に登場していない)。

紀元前175年の執政官プブリウス・ムキウス・スカエウォラと紀元前174年の執政官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラは彼の息子と思われ、その場合スカエウォラの父の名前はプブリウスである[2][3][4]

カピトリヌスのファスティの紀元前 221年 – 紀元前219年の分は欠落しているが、354年のローマ歴(Chronographus anni 354)では、スカエウォラは紀元前220年にマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスと共に執政官に就任したとする[5]。しかし、両者は比較的は早く辞任せざるを得なかったと推測される。両者共にクラウディウス氏族の一派に属しており、対立するアエミリウス氏族とコルネリウス・スキピオ家との政治抗争に巻き込まれたものと思われる[6][7]

スカエウォラは第二次ポエニ戦争中の紀元前215年に法務官に就任し、インペラトール(軍事指揮権)を得た。スカエウォラの担当地域はサルディニアであった[8]。そこでスカエゥオラは病を得るが、それでも前法務官(プロプラエトル)として当初2年[9]、その後さらに1年延長された
[10]

紀元前209年にスカエウォラは死去したが、そのときには式典を実施する10人委員会(decemvir sacrorum)の一人であった。

  1. ^ Münzer F. “Mucius”, 1933 , s. 412.
  2. ^ Münzer F. “Mucius 16”, 1933, s. 424.
  3. ^ Münzer F. “Mucius”, 1933, s. 413-414.
  4. ^ Egorov, 2003, p. 191-193.
  5. ^ Broughton, pg. 235
  6. ^ Johnson, pg.3
  7. ^ Dorey, pg. 8
  8. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXIII, 24.
  9. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXIV, 9.
  10. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXV, 3.

参考資料[編集]

  • ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
  • Münzer F. “Mucius” // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . – 1933. – Bd. XVI, 1. – Kol. 412-414.
  • Münzer F. “Mucius 16” // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . – 1933. – Bd. XVI, 1. – Kol. 424-425.
  • Johnson, Paula, “Fabius, Marcellus and Otacilius: The Alliance That Never Was”,
  • Dorey, TA, “The Treaty With Saguntum”
  • Tassilo Schmitt: M. Scaevola, Q. [I 6]. In: Der Neue Pauly (DNP). Volume 8, Metzler, Stuttgart 2000, ISBN 3-476-01478-9 , Pg. 426.
  • Broughton R. “Magistrates of the Roman Republic” – New York, 1951. – Vol. I. – P. 600.

関連項目[編集]