日本における女城主の一覧 – Wikipedia

この項目では、日本における女城主、すなわち女性の身で城を与えられた武将を列挙する。

この一覧は以下の人物を含む。

  • 女性で武家の家督を相続したため、必然的にその本拠である城を相続したとみなされるもの。
  • 男性当主の死去や追放などにより、その奥方や娘などが変わって城中を統率する立場になったもの。
  • 大名が合戦などにより奪った城に、女性が統率者として派遣されたもの。

この一覧は以下の人物を含まない。

  • 城中で強大な権力を振るったが、城主が別に存在するもの。
  • 通常は城とみなされない、陣屋などの主であるもの。
  • いわゆる現代の「名誉城主」「一口城主」など、城を実際に統率する権限のない象徴的なもの。

以下の人物は女城主に準ずる人物として別項で列挙する。

  • 形式上は当主が別に存在するものの、公的文書を自らの名で発行するなど実質的な領主として振る舞ったもの。
  • 主となった建造物が城とみなされるか議論があるもの。

年代順に示す。複数回、または複数の城の城主になった場合はその都度記す。

女性城主に準ずる存在[編集]

  • 洞松院 – 置塩城を本拠とする赤松氏当主の後見人となり、所領安堵や諸役免除などの発給文書を自らの印判を用いて発行するなど事実上の当主の役割を果たした。
  • 池田せん – 『当代記』に一万石を領していたとの記載があるが、詳細は不明。
  • 茶々 – 天正17年(1589年)に、鶴松を懐妊したことにより産所として淀城(現在の淀古城)を与えられたことにより、「女城主」と形容されることがある。
  • 清心尼 – 夫八戸直政の死去により、根城を本拠とする八戸氏の当主となる。江戸時代では極めて珍しい女性当主だった。しかし、根城は1592年に豊臣秀吉の命により破壊され館だけが残っている状態だったという。

注釈[編集]

  1. ^ 本項目の直虎に関する記述は、井伊家伝記に記載されている女当主「井伊次郎法師」が当時の書状に花押のある井伊直虎と同一人物であるという定説に則り、井伊家伝記の記述を基に構成されている。ただし、「次郎法師」の名が記された書状も現存しており、直虎と次郎法師との関係、ひいてはその素性についても異論がある(当該項目参照)。
  2. ^ ただし、この専制について実際は存在しなかったとの説もある(当該項目参照)。
  3. ^ 連竜が今川氏に殺害されたのち家臣内が徳川氏と武田氏どちらに従属するかで紛糾。双方に死者が出る半ば内戦状態に陥っていたとされる。
  4. ^ ただし、お田鶴の方の生涯は文献によって大きく異なっている。本項目は山鹿素行の『武家事紀』の記述に則っている(その他の資料については当該項目参照)。
  5. ^ 形式上は公方という格上の存在だが当時は北条氏の影響下にあった。
  6. ^ 喜連川氏は足利将軍家の末裔のため形式上徳川氏に臣従していなかった。
  7. ^ 古河公方館(鴻巣御所)は館と名がついているが、曲輪や空堀、土塁を設けた城館である[6][7]

出典[編集]

  1. ^ 『当代記』
  2. ^ 『引佐町史 上』 引佐町、引佐町、1991年、565頁
  3. ^ 河市史編さん委員会 編 、『古河市史 資料中世編』古河市、1981年、No.1490「喜連川文書」
  4. ^ 『古河市史 資料中世編』、古河市、1981年、No.1541『喜連川判鑑』
  5. ^ 『戦国人名辞典』「妙印尼」
  6. ^ 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、68-71頁
  7. ^ 西ヶ谷恭弘(1992)、62-65頁(室町時代の城館 ─伝・古河公方館をめぐって─)
  8. ^ a b 『古河市史 通史編』、222-230頁
  9. ^ 佐藤博信(1989)、175-191頁(古河氏姫に関する考察)

関連項目[編集]