Month: April 2022

湯漢 – Wikipedia

湯漢(とう かん、広東語:トーン・ホーン、英語:John Tong Hon、1939年7月31日 – )は、カトリック教会の聖職者。現任のカトリック香港教区司教で、2012年2月に枢機卿に任命された[1]。 湯漢は1939年7月31日に香港中環士丹頓街8号で生まれ、その後広州に行って小学校を卒業した。当時は国共内戦のため、常に負傷兵や難民が南へ逃亡していた。彼の語るところによれば、司祭が負傷兵や難民に助けを差し伸べるのを目の当たりにして深く感動し、司祭になることを志したという。後に中国大陸の政権は交代し、大勢のカトリック聖職者が中国大陸を去ることを余儀無くされた。湯漢はマカオの聖ヨゼフ神学校に入って学んだ。その後は1957年に香港の華南大神学校(今の聖霊神学校)に入って学び、1964年にはローマのウルバノ大学で学究を深め、神学博士の学位を取得した。 1966年1月6日、ローマで時の教皇パウロ6世によって司祭に叙階された[2]。湯漢は司祭叙階後、ずっとカトリック香港教区で働き、そして1970年から聖霊神学校で教職に就き、相次いで哲学院神学部教授、神学部主任および哲学院校外課程部主任を担当した。このころには東京大司教区の白柳誠一大司教(当時)との交流があり、日本から来た中国教会巡礼団を率いたこともある[3]。1980年から現在まで、聖霊研究センター執行主任を務めている。 湯漢司教と陳日君枢機卿、香港教区の聖職者 1996年10月20日、湯漢はカトリック香港教区補佐司教に任命され、同年12月9日、同じく香港教区協働司教に任命された陳日君と共に司教叙階を受けた。その後2008年1月30日、教皇ベネディクト16世は湯漢を香港教区協働司教に任命した。 2009年4月15日、ローマ教皇庁は、当時のカトリック香港司教陳日君枢機卿が引退・辞職を願い出て、教皇ベネディクト16世は認可したことを宣言した。これにより湯漢は同日から、カトリック香港教区の第7代の司教職を引き継いだ。 2012年1月6日、教皇ベネディクト16世が彼を枢機卿に任命すると発表し、2月18日に枢機卿に挙げられた。陳日君枢機卿は2012年1月13日で80歳になったため、湯漢が華人枢機卿として唯一、教皇選挙(コンクラーヴェ)に参加できる枢機卿である。 世間一般の評価は、湯漢の性格は比較的落ち着いていて穏やかであり、中国天主教愛国会副主席の劉柏年は、湯漢が香港教区協働司教に任命された後に、(湯漢が香港教区協働司教になったのは)香港教区にとって「喜ばしい事」だとした。そして、民主党前主席李柱銘は、湯漢のやり方は陳日君と違うが、その政治立場もかなりはっきりしていると指摘した[4]。 外部リンク[編集]

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アヘン窟 – Wikipedia

19世紀末の写真:アヘン窟で吸飲を行う女性と男性 アヘン窟(アヘンくつ、英語: opium den、中国語: 鴉片館)はアヘンの販売と喫煙がなされた施設である。 アヘン窟は19世紀では世界各地で見られたが、特に中国付近、東南アジア、北アメリカ、フランスでよく見られた。西欧ではアヘン窟は一般に中国人に結び付いた見方がされていた、というのもアヘン窟は中国人によって経営され、中国人以外のアヘン吸飲者に対してのサービスも行っていたからである。ほとんどのアヘン窟ではアヘンの吸飲に必要なパイプやランプといった器具も取り扱っていた。客は横になってオイルランプの上の長いアヘンパイプを支えた。オイルランプはアヘンを気化させ、吸飲可能にするために必要だった。中国のアヘン窟には社会的にさまざまな階層の人物が訪れ、その豪華さや質素さはそのまま客の財政状態を表した。アメリカの都市部、特に西海岸では中国のアヘン窟によく似た豪華な設備や、女性のスタッフのいるアヘン窟がみられた。労働者階級のためには設備の簡素なアヘン窟も多数見られた。後者のようなアヘン窟は大抵の場合、非中国人の吸飲者も受け入れていた。 アメリカ合衆国[編集] サンフランシスコ[編集] 19世紀末:サンフランシスコの洗濯屋のアヘン窟 北アメリカへのアヘンの吸飲習慣は、カリフォルニア・ゴールドラッシュへの中国人労働者の流入とともに到達した。始まったのはサンフランシスコであり、1850年前後の中国人の到着からほとんど間を置かず、中国人街は無数のアヘン窟を有するようになった。1870年代までには、サンフランシスコのアヘン窟は非中国人にも利用されるようになり、1875年に議会は反ドラッグ法を制定した。20世紀の初頭にはアヘンや関連用品の没収・焼却がなされ、またアヘンの使用に関する公的な議論の場が設けられるようになった。 こういったアヘン撲滅運動によってアヘンの吸飲はアンダーグラウンドのものとはなったが、サンフランシスコや北アメリカの各都市においては第二次世界大戦あたりまではかなり一般的なものであり続けた。 サンフランシスコの典型的なアヘン窟は、中国人スタイルの洗濯屋のような形式で、メインルーム(basement)、バックルーム、または上階を有し、アヘンランプが消えたり、アヘンの煙が漏れたりしないように密閉されていた。 I・W・テイバー(英語版)によって1886年に撮影された、19世紀のサンフランシスコの豪華なアヘン窟の写真が残されているが、中国人・アメリカ人双方とも、富裕層の吸飲者はアヘン窟での喫煙よりも、自宅での吸飲を好んだ。 ニューヨーク[編集] ニューヨークのチャイナタウンのアヘン窟は、中国から距離が離れていることもあり、アメリカ西海岸にあるものほど豪華な設備ではなかった。 1870~1880年代のニューヨークにおけるアヘンの使用に関して研究を行った医師であるH.H.Kaneによれば、多くのアヘン窟(一般に”Opium den”と呼ばれるが、”Opium joints”と呼ばれる事もあった)は中華街のMott通りとPell通りにあった。そして23丁目にあるアメリカ人女性とその2人の娘が経営するアヘン窟1軒を除き、他はすべて中国人によって経営されていた。Kaneはニューヨークのアヘン窟は「全国籍の人が無差別に混ざり合う場所」であるといっている。 サンフランシスコと同じように、ニューヨークでも人種に関わらず人々はアヘン窟に足を運んだ。 ニューヨークの最後のアヘン窟は1957年6月28日に閉鎖された。

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フョードル・オツェプ – Wikipedia

Fedor OzepFyodor Otsepフョードル・オツェプ 本名 フョードル・アレクサンドロヴィチ・オツィエプ(Фёдор Александрович Оцеп) 別名義 フェドール・オゼップ(Fedor Ozep) 生年月日 (1895-02-09) 1895年2月9日 没年月日 (1949-06-20) 1949年6月20日(54歳没) 出生地 ロシア帝国(現 ロシア)モスクワ 死没地

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