龍田丸 – Wikipedia

日英交換後、横浜に向け航海中の龍田丸。米潜水艦キングフィッシュが撮影。1942年10月14日

龍田丸(たつたまる)は、日本郵船が保有していた貨客船[2]。本船は浅間丸・秩父丸と姉妹船[5]。船名由来は龍田大社で、いずれの船も神社名にちなんだ命名であった。

浅間丸型客船の1隻として三菱重工業長崎造船所で建造され[6]、1930年(昭和5年)に就役[7]。姉妹船(浅間丸、秩父丸、龍田丸)は揃って北米航路に就航し、「太平洋の女王」と称された[7]。龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。主な寄港地は香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコなど。

なお、日本海軍は浅間丸型3隻(浅間丸、秩父丸、龍田丸)を有事において航空母艦に改造することを想定していた[8][注釈 1]

太平洋戦争における龍田丸は、1942年(昭和17年)1月に徴傭され、兵員輸送船や交換船として活動する。
1943年(昭和18年)2月8日夜[10]、駆逐艦山雲に護衛され横須賀からトラック泊地へ進出中[11]、米潜水艦の雷撃により御蔵島(伊豆諸島)東方海域で撃沈された[2][12]

就役まで[編集]

第一次世界大戦後経営危機に陥っていた東洋汽船から、1926年(大正15年)サンフランシスコ航路を継承した日本郵船は同航路の旧型就航船刷新のため、浅間丸級大型定期客船3隻を建造した。龍田丸はその第3船である。第1船の浅間丸と第3船の龍田丸は三菱造船長崎造船所で、第2船の秩父丸は横浜船渠で建造された。造船所建造番号は浅間丸がS.450、龍田丸がS.451であった。

龍田丸の総トン数16,955トン、全長178mで最大幅は22mで、航海速力は19ノットであった。当時三菱長崎造船所はスイスのスルザー社と技術提携しており、スルザー型ディーゼル機関搭載、総出力16,000馬力の条件で、8ST90型エンジン2基2軸と、それより小型の8ST68/100型エンジン4基4軸とが比較検討されたが、主機室天井高さが最大2層分低くできる後者が採用された[13]。なお浅間丸ではスルザー社製エンジンを輸入搭載したが、龍田丸では三菱長崎造船所製エンジンが搭載された[3][14]

前述のように[9]、日本海軍は有事において浅間丸級3隻を空母(特設航空母艦)に改造することを想定していた[15][16]
その場合、浅間丸級3隻(秩父丸、浅間丸、龍田丸)と峯風型駆逐艦2隻(秋風、羽風)で第五航空戦隊を編成予定だった(昭和10年11月12日案)[17]
海軍は逓信省を通じて浅間丸型の設計に関与し、特に前後部の船倉口は航空機用エレベーターを兼ねている[8][18]。また航空機や兵器の進化にあわせ、空母改造時の設計図は毎年更新されていたという[8][16]
だが新田丸級貨客船(改造後は大鷹型航空母艦)や橿原丸級貨客船(改造後は隼鷹型航空母艦)とは異なり、浅間丸級は空母改造の「検討対象」であって空母改造を「前提とした」構造(設計)ではなかった[19]
最終的に、本級3隻が空母に改造されることはなかった[20][21]
本級用に開発されていた艤装は、新田丸級貨客船/大鷹型航空母艦3隻(新田丸〈冲鷹〉、八幡丸〈雲鷹〉、春日丸〈大鷹〉)の空母改装時に流用された[18]

龍田丸は1927年(昭和2年)12月3日に起工[22]
1929年(昭和4年)4月12日に進水[22][23]
1930年(昭和5年)3月15日に竣工[22][注釈 2]。同年4月25日に横浜からサンフランシスコに向けて処女航海をおこなった[7]

日米関係悪化[編集]

1941年(昭和16年)7月23日サンフランシスコ沖に到着したが、同日アメリカ政府に伝達された日本軍の南部仏印進駐と、それに対する7月26日のアメリカ政府による在米日本資産の凍結通告に関連して、両国政府間交渉による船体、積荷の没収回避の保証取り付けまで入港を遅らさざるを得ず、7月30日ようやく入港となった[25]。船客下船と揚げ荷を済ませ、日本人引揚客を乗せ8月4日出港し、8月18日に横浜へ帰着した[25][注釈 3]

8月4日、日本政府は北米線の全船に帰港命令を出した[25]。この関係で本船は十分な準備をおこなわずに出港したため、アメリカから横浜に向かう船内で食中毒が起き、125人が発症し9人が死亡する惨事となった[25]。同船の乗客だった二階堂進(戦後、自民党副総裁)が中毒者の看護に奔走した。当時、作家の宮本百合子がこのニュースについて「龍田丸の中毒事件」というエッセイを「家庭新聞」(8月21日号)に発表している[26]

当時、日本政府は英・米・蘭三国政府と交渉し、アメリカ・英領インド・東南アジア方面の在留邦人引き揚げのため、龍田丸を含め貨客船10隻を投入した[27]。折しも日本海軍の連合艦隊は真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を投入する計画を立案しており、軍令部の有泉龍之助中佐は、出撃隊員を龍田丸に乗せて真珠湾の事前偵察をおこなう意向を示した。松尾敬宇中尉と神田晃少尉の軍人2名が、龍田丸船員(見習い運転士)の立場で乗船した。10月15日、龍田丸は608名の乗客、主としてアメリカ人引揚客を乗せ横浜を出港する[30]
10月23日、ホノルル入港[31][注釈 4]。翌24日出港し、10月30日にサンフランシスコに入港した[31]。郵便物の荷揚げを断られるなど、アメリカ側の態度は一層硬化していたという。860名の日本人引揚客を乗せ直ちに出港し、11月14日に横浜へ帰着した[30][注釈 5]

この次の龍田丸の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定だった[27]。だが、この時点で日本政府・日本陸軍・日本海軍は12月8日の開戦を決定して準備を進めており[注釈 6]、日米開戦と共に龍田丸がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった[27]。大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために龍田丸をあえて出港させることにする[27]。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は木村庄平龍田丸船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した[27][注釈 7]
12月2日午後1時、龍田丸は南米の観光団、英米の外交官、在日商館員、日系人の母国観光団などを乗せて横浜を出港する[27]。龍田丸の出港はアメリカのマスコミも大きく報道し、たとえばニューヨーク・タイムズは12月3日付記事で「日本がしばらくの間、何も行動を起こさない証拠」と論述した。ロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向かう予定航路であったが、大圏コースの北太平洋上で日付変更線を越えた2度目の12月7日、開戦の報を受けて引き返し、12月15日(戦史叢書では12月14日着)に横浜に帰港した[42][43]。上述のように、この航海は南雲機動部隊による12月8日の真珠湾攻撃をカムフラージュするための航海であった[42]

太平洋戦争[編集]

1942年(昭和17年)1月14日付で海軍に徴用され[44]、横須賀鎮守府籍となる。1月27日より行動を開始する[45]。本船は、メレヨン島、南洋諸島、ボルネオ、フィリピン方面の兵員輸送に従事した[43]

1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻を喪失。6月30日付海軍大臣決裁の空母増産計画(航空母艦増勢実行に関する件仰裁)で再び浅間丸級の空母改造案が浮上する[46]。この場合は浅間丸級固有のディーゼル機関を、駆逐艦用のタービン機関に換装する予定だった[46][47]。だが、いつしか立ち消えになってしまった[47]。福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)によれば、鎌倉丸型各艦は大鷹型(八幡丸〈雲鷹〉、新田丸〈冲鷹〉)の空母改造が終了次第、逐次空母に改造する予定であったという[48]

同時期の龍田丸は、日英外交官交換船運航に投入されることになった。同年7月30日、454名の船客を乗せ横浜を出港する[49]。途中寄港の上海で324名、サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地ロレンソ・マルケスに8月27日到着した[49][50]。ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ9月2日出港、途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名下船し、外務省関係者6名が乗船した[49]。9月27日、龍田丸は横浜に帰着した[50]

同年10月24日より、船舶運営会仕様船となったが、11月7日に再度徴傭された[51]。12月よりフィリピンやシンガポールなど、東南アジア方面への輸送任務に従事した[52]

1943年(昭和18年)2月8日午後4時、龍田丸(船長木村庄平)は兵員・物資輸送任務のため、護衛の駆逐艦山雲(駆逐艦長小野四郎中佐、横須賀鎮守府警備駆逐艦)と共に横須賀を出発[53]、トラック島に向かった[注釈 8]。悪天候(夜間、風速20m)で航海中の同日22時15分[52][55]、御蔵島東方約70km(北緯34度00分 東経140度00分 / 北緯34.000度 東経140.000度 / 34.000; 140.000)の地点でアメリカの潜水艦ターポン (USS Tarpon, SS-175) の魚雷攻撃を受ける[56]。夜間に加え現場の海域は強風下であったが[11]、ターポンはレーダーで龍田丸を探知して魚雷を発射した[57]
爆発音2回を確認した駆逐艦山雲は龍田丸に接近する[注釈 9]。「イカガセシヤ」と発光信号をおくったが、龍田丸からの応答はなかった[52][53]。龍田丸は22時37分に沈没し[11][58]、乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した[50][53]

山雲は爆雷投射を行いつつ[59]、2月9日天明を待って捜索活動を開始した[58]。また横須賀鎮守府所属艦艇も沈没海域に急行して捜索を実施するが[60]、海面に重油が広がるのみで、龍田丸の手掛かりを得ることはできなかったという[53][61]
龍田丸沈没の報告を受けた高松宮宣仁親王(海軍中佐、昭和天皇弟宮)は以下の所見を述べている[62]

○横鎮(八―二三五二)作131号
一、本日二二二〇「山雲」護衛中ノ龍田丸、三宅島ノ112°45′ニテ雷撃ヲ受ケ沈没。
二、三、〔余白書込〕補充交代ノ練習生卒業生等一三〇〇名乗ツテヰタ。惜ミテモ余リアリ(当時荒天ナリシ由、風速20m)。  — 高松宮宣仁親王 昭和十八年二月九日(火)晴/高松宮日記第五巻 593ページ

2月20日、龍田丸乗船中の軍属1名の遺体が収容された[52]

注釈[編集]

  1. ^ 昭和11年『御説明参考資料(2)』より [9](附)基地航空隊平時所要兵力六十五隊ヲ必要トスル理由 平時ノ基地航空兵力ヨリ戰時特設航空母艦以下ノ特設艦船ニ搭載ヲ要スベキ兵力ハ 一.大鯨級三隻 浅間丸級三隻 ニ對シ 計 艦上機 一三隊半/二.特設水上機母艦十七隻及特設巡洋艦四隻其他特務艦ニ對シ 水上機 計十九隊半 小計 三三隊(内大鯨級二隻ノ外 昭和十一年度戰時編制ニ依ル)/三.内戰部隊及外戰部隊中ノ局地作戰ニ充當セラルベキ艦上機及水上偵察機所要兵力 小計 三三隊(昭和十一年度戰時編制ニ依ル) 以下略 〕
  2. ^ 日本海軍の一部資料では、3月4日竣工とする[24]
  3. ^ 龍田丸より1便後の7月18日横浜出港の浅間丸は、サンフランシスコへ到達できずに横浜へ戻っている。
  4. ^ 外務省官吏に成りすました海軍士官1名と伝書史1名も乗船していた。
  5. ^ 松尾中尉と神田少尉は直ちに呉に移動し15日に出撃隊員に状況を説明、甲標的5隻(特別攻撃隊、隊員10名)と母艦の潜水艦5隻は11月18日に内海西部を出撃して真珠湾にむかった。松尾中尉は伊22に乗艦して真珠湾に赴いている。その後、神田は甲標的の訓練中に事故で殉職した。松尾はシドニー奇襲作戦で戦死、彼の遺骨は鎌倉丸で日本に戻った。
  6. ^ 甲標的を搭載した潜水艦部隊と、南雲機動部隊は既に日本を出撃してハワイにむかっていた。
  7. ^ 12月1日、御前会議で昭和天皇と日本政府(東條内閣)は対英米蘭開戦を決定した。
  8. ^ 山雲の護衛は途中までの予定であった[54]
  9. ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和18年2月8日項)[58](八日)二三三一|山雲艦長|横鎮長官 海防指揮官|状況第一 一.二二一五頃三藏島ノ九二度四〇浬ニ於テ龍田丸左後方ヨリ(魚雷)二本ヲ受ケタルモノヽ如シ我敵影ヲ見ズ龍田丸ハ急ニ面舵ニ変針セルヲ以テ我近接状況聴取中應答ナク約十分ニシテ艦首ヲ立テ二三三七急激ニ沈没ス/二.我沈没地点周圍ヲ威嚇投射ヲ行ヒツツ掃蕩攻撃中生存者極メテ少キ見込ミ/三.西ノ風二十米乃至三十米波高ク小雨アリ視界不良夜間救助困難ニ付附近ヲ警戒掃蕩シツツ天明ヲ待ツテ救助セントス 〕

出典[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和16年度(1941) 帝国海軍戦時編制(案)昭和10年2月12日』。Ref.C14121165400。
    • 『帝国国防方針 帝国軍の用兵綱領関係綴 昭和11.2~11.6/御説明参考資料(2)』。Ref.C14121170600。
    • 『日本郵船(株)所有船 大東亜戦争時 海軍徴傭関係記録(2)』。Ref.C08050010700。
    • 『日本郵船(株)所有船 大東亜戦争時 海軍徴傭関係記録(3)』。Ref.C08050010800。
    • 『昭和16年~17年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第1回(19)』。Ref.C08050021000。
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(2)』。Ref.C08050010000。
    • 『昭和17年1月1日~昭和17年1月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030314500。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年2月28日 横須賀防備戦隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030363000。
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  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8。
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』戦史叢書第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』戦史叢書第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
  • 郵船OB氷川丸研究会『氷川丸とその時代』海文堂出版株式会社、2008年2月。ISBN 978-4-303-63445-2。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]