アントン・チェーホフ – Wikipedia

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
Анто́н Па́влович Че́хов
誕生 1860年1月29日
ロシア帝国、タガンログ
死没 (1904-07-15) 1904年7月15日(44歳没)
ドイツ国、バーデンワイラー
職業 作家、劇作家
国籍 ロシア
配偶者 オリガ・クニッペル(1901年 – 1904年)
サイン
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アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(ロシア語: Анто́н Па́влович Че́хов:アントーン・パーヴラヴィチ・チェーハフ/ラテン文字(英文表記)Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日・タガンログ – 1904年7月15日・バーデンワイラー)は、ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短編を遺した小説家。

アントン・チェーホフは1860年、アゾフ海に面した港町タガンログで父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの3男として生まれた。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴だったが、1841年に領主に身代金を支払って一家の自由を獲得した[1]。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいた[2]

チェーホフは1867年にギリシア系の学校に入学し、翌年にはロシア系のタガンログ古典科中学(en)に入学した[3]。1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住した。しかしアントンだけがタガンログに残ってタガンログ古典科中学(en)で勉学を続けた[4]。この頃から詩や戯曲などを書いていたといわれていて、作品名こそ伝えられてはいるが、作品そのものは現存していない。

1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学した[5]。この頃、生活費を稼ぐためにアントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになった[6]。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と面会を断ることも多々あったという。1884年には医学部を卒業し、医師としての資格を得、また実際に医師としてモスクワの自宅において診察などを行うようになった[7]。1884年12月には結核に感染して喀血し[8]、以後死去するまで結核に悩まされることとなった。1885年末には首都サンクトペテルブルクに滞在し、文壇から歓迎されるとともに、親友となるアレクセイ・スヴォーリンとの交友が始まった[9]

作家として駆け出しの頃のチェーホフはユーモア短編を主に書いていたが、いわゆる「本格的な」作家への転機となったのは1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだったといわれている。グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告し[10]、これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に取り組むようになった。

1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場での再演[注釈 1]は好評を博した[11]。チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼びさえした。当時の書簡には、ペテルブルクの道を歩くだけで花束を投げ込まれ、女性たちに囲まれたことが記されている。この頃に書かれた「退屈な話」(1889年)は、人生の意味を見失った老教授の不安と懐疑に苛まれたわびしい心情を描いた作品であるが、レフ・トルストイの短編『イワン・イリイチの死英語版』を下敷きにしたことをたびたび指摘されるように、当時のチェーホフがレフ・トルストイの思想に傾倒していたことが知られている。

1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島へ「突然」でかけ、過酷な囚人たちの生活や環境をつぶさに観察し記録を残した[注釈 2]。この時チェーホフは現地の日本の外交官とも交流し[12]、さらに帰路の途中で日本へ渡航することも計画したが、これはコレラの流行のために断念せざるを得なかった[13]。この時の見聞は旅行記『サハリン島』(露: Остров Сахалин)としてまとめられて出版されており、サハリン旅行を作家チェーホフの転機とみなす指摘は少なくない。翌1891年には新聞社を経営していたアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れた[14][注釈 3]。スヴォーリンはチェーホフの作品をいくつも出版していた人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いていた。しかしドレフュス事件を受けてアルフレド・ドレフュスを擁護したチェーホフはスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂するに至る。

チェーホフとオリガ・クニッペル

1892年にモスクワ郊外のメリホヴォに土地を購入して移り住んだ[15]。領地を入手したことをチェーホフは大変喜んでおり[16]、また医師として周辺農民の診察と治療も行っていた[17]。1895年の秋には長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった。しかし、2年後の1898年にはモスクワ芸術座によって再演され大きな成功を収めた。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した[18]

一方、チェーホフの健康は悪化しつつあり、1897年3月には大量の喀血をして倒れた[19]。医師に転地を勧められたチェーホフはクリミア半島南部のヤルタで静養したが、同年10月には父パーヴェルがメリホヴォで死去し、チェーホフはメリホヴォを離れる決意をして、メリホヴォの領地を売却するとともにヤルタに家を建て、翌1899年に同地に移り住んだ[20]。ここで短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆した。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹』が初演された。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペルと同年5月に結婚した[21]。1902年には、マクシム・ゴーリキーの学士院会員選出の取り消しに抗議して、ウラジミール・コロレンコとともに会員を辞任した[22]

1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演された。『桜の園』が初演された1月17日はチェーホフの44歳の誕生日であり、チェーホフ筆歴25年の祝賀が兼ねられていた。だがチェーホフはすでに病み衰えており、舞台に立ち続けることはできなかった。同年6月に結核の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養したが、7月15日(ユリウス暦で7月2日)に同地で亡くなった[23]。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる。現在はノヴォデヴィチ墓地に葬られている[24]

アントン・チェーホフはロシア文学の中で、あるいは世界文学史でも有数の巧みな小説作家である。

当時ロシアの文壇では長編こそが小説であるという風潮が強く、チェーホフのように第一線で短編小説を絶えず発表した書き手はいなかった。しばしばフランスのギ・ド・モーパッサンとも比較されるが、伏線を計算して配置するプロットに技巧を凝らした小説にはあまり関心をもたなかったとされる。典型的なチェーホフの物語は外的な筋をほとんど持たない。その中心は登場人物たちの内面にあり、会話の端や細かな言葉、ト書きに注目するほかない。しばしば語られることではあるが、チェーホフの小説や劇においては何も起こらない。あるいはロシア人研究者チュダコーフが指摘するように、「何かが起こっても、何も起こらない」。

小説だけでなく、チェーホフは最晩年の作品である戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』の作者として、伝統的な戯曲と対極を成す新たな領域を切り開いた劇作家でもある。これらの作品の与えたインパクトの多くは、例えば『かもめ』の終幕に代表される巧みなアンチクライマックス(遁辞法)による。

井上ひさしは、チェーホフは演劇革命を起した人物だとし、一に主人公という考え方を舞台から追放した、二に主題という偉そうなものと絶縁した、三に筋立ての作り方を変えた、と分析している[25]

ソ連時代には「文豪チェーホフ」というイメージに適う「紳士チェーホフ」という人物像が政治的にあてはめられていた。当時出版されたチェーホフ全集などで、家族がそれにあてはまらない箇所を削除したことがわかっている。日本でも、チェーホフ作品の翻訳者として知られた神西清による「チェーホフは酒を絶っていた」などの言葉がある。しかし、チェーホフはむしろ酒豪の部類に入る人間であったし、書簡などを読めばいわゆる「下ネタ」を嫌っていたわけでもなく、オリガとの交際中も複数の女性と関係を持っていたことは伝記的な事実である。チェーホフ自身は、象徴主義的な方法による演劇を嫌っており、『かもめ』の中でコスチャの劇中劇としてパロディー化したが、同時に象徴派の詩人モーリス・メーテルリンクから大きな影響を受けたとも告白している。他に影響を受けた劇作家に、ヘンリック・イプセンがいる。『かもめ』は、イプセンの『野鴨』(チェーホフが気に入っていた作品のひとつ)抜きに、今日演じられるものには成らず、全く書かれなかった可能性もあった。

没後の影響[編集]

没後ロシア文学界ではチェーホフの評価は高かったものの、国際的な評価は第一次世界大戦最中、コンスタンス・ガーネットにより作品が英訳された後も低かった。

しかしチェーホフの評論家の鋭い分析に挑む挑戦的な文学スタイルで、1920年代からイギリスではチェーホフの戯曲が人気を博し、今日ではイギリス演劇の代表的なものとなっている。またアメリカ演劇界は写実的な演劇を上演するスタニスラフスキーの演出技巧の影響を経た後、それに遅れるような形でチェーホフの影響が次第に強くなってくる。テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラー、クリフォード・オデッツなども好んでチェーホフの技法を用いている。

イギリスの演劇作家であるマイケル・フレインは、チェーホフのおどけた家族が見る社会に焦点を置いて描く作風に影響を受けた作家としてよく挙げられる。短編作家の多くも同じように少なからず、チェーホフの影響は受けている。その代表格としてキャサリン・マンスフィールドやジョン・チーヴァーがいる。またアメリカの作家のレイモンド・カーヴァーもチェーホフのミニマリズム的な散文に影響を受けているし[注釈 4]、イギリスの短編作家のV・S・プリチェットもチェーホフの作品から影響を受けている。

またチェーホフの作品を元に制作された映画では、エミーリ・ロチャヌーの『狩場の悲劇』(1978年)や、ニキータ・ミハルコフとマルチェロ・マストロヤンニの合作の『黒い瞳』(1987年)、ルイ・マルの『42丁目のワーニャ』(1994年)、アンソニー・ホプキンスの『8月の誘惑』などがある。

日本では1903年に瀬沼夏葉によって日本語訳が始まり、チェーホフの生前にすでに六篇が日本語に訳されている[26]。筋らしい筋のない彼の作品スタイルは、私小説を主体とする日本の文学界で高く評価され、大きな影響を与えた。具体的な例としては志賀直哉の「剃刀」が「ねむい」[27]、井伏鱒二の山椒魚 (小説)が「賭」、太宰治の『斜陽』が『桜の園』に着想を得ていることが指摘されている。

チェーホフが死去した後、晩年を過ごしたヤルタの家は妹のマリヤが管理しており、やがて博物館として開館した[28]。マリヤは1957年に死去するまでこの博物館の館長を務めていた[29]。1922年にはモスクワにもチェーホフ博物館が建設され、1954年にはかつてモスクワでチェーホフが暮らしていた旧居へと移転した[30]。これに対し、その前に住んでいたメリホヴォの屋敷はすでに人手に渡っていたが、ロシア革命によって国有化され、コルホーズとなっていた。やがて1940年にここにもチェーホフ博物館を建設する決定がくだされ、1944年に正式に開館した[31]。チェーホフの生地であるタガンログでも、チェーホフの生家が「チェーホフの家」として、通っていた学校は「A.P.チェーホフ文学博物館」としてそれぞれ博物館になっている[32]。このほか、チェーホフが1890年に訪れたサハリンにおいても、1995年に州都ユジノサハリンスク市において「「A.P.チェーホフ」サハリン島文学記念館」が設立され、2013年に移転改装された[33][34]

1954年には、チェーホフ没後50周年を記念して、メリホヴォからほど近いモスクワ州のロパースニヤ市がチェーホフ市と改名された[35][36]。また1946年には、旧日本領の南樺太西海岸南部にあった野田町がソ連の実効支配下のもとで、かつてサハリンを訪れたチェーホフにちなんでチェーホフ町へと改名された[36]。2019年5月31日には、サハリン州都にあるユジノサハリンスク空港が、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が空港名にアントン・チェーホフの名前を冠する大統領令に署名して、アントン・チェーホフ空港へと改名された[37]。チェーホフの出身地であるタガンログでは、劇場や図書館などにチェーホフの名が冠されている[32]

戯曲[編集]

  • プラトーノフ(1881年) – 一幕
  • タバコの害について(1886年、1902年)
  • イワーノフ(1887年) – 四幕
  • 熊 (1888年) – 一幕
  • 結婚申込(1888年 -1889年) – 一幕
  • 森の精(1889年) – 四幕
  • かもめ(1896年)
  • ワーニャ伯父さん(1899年-1900年) – 『森の精』の改作
  • 三人姉妹(1901年)
  • 桜の園(1904年)

推理小説など[編集]

  • 狩場の悲劇(ロシア語 Драма На ОхотеThe Hunting Ground Tragedy (1884年) – 異色の長篇推理小説
  • 安全マッチ(Шведская спичкаSafety matches (1884年)
  • 長靴(Резиновые сапогиThe Wellington Boots (1885年)

ノンフィクション[編集]

  • サハリン島(1895年)
    • 中村融訳 「サハリン島」上・下 岩波文庫、1953年
    • 原卓也訳 「サハリン島」 中央公論新社(新書判)、2009年
    • 松下裕訳 「チェーホフ全集 12 シベリアの旅・サハリン島」 ちくま文庫、1994年、復刊2009年

主な短編小説[編集]

  • かき(1884年)
  • カメレオン(1884年)
  • 曠野(1888年)
  • ともしび(1888年)
  • ねむい(1888年)
  • 退屈な話(1889年)
  • グーセフ(1890年)
  • 決闘英語版[38](1891年)
  • 妻(1892年)- この作品にヒントを得て制作されたトルコ映画『雪の轍』
  • 六号室(1892年)
  • 恐怖(1892年)
  • 黒衣の僧(1894年)
  • ロスチャイルドのヴァイオリン(1894年)
  • 学生(1894年)
  • 文学教師(1894年)
  • 三年(1895年)
  • アリアドナ(1895年)
  • 殺人(1895年)
  • 中二階のある家(1896年)
  • わが生活(1896年)
  • 百姓ども(1897年)
  • 荷馬車で(1897年)
  • 箱にはいった男、すぐり、恋について(1898年) – 三部作
  • イオーヌィチ(1898年)
  • 往診中の出来事(1898年)
  • 新しい別荘(1898年)
  • 役目がら(1898年)
  • かわいい女(1899年)
  • 犬を連れた奥さん(1899年)
  • クリスマス週間に(1899年)
  • 谷間(1899年)
  • 僧正(1902年)
  • いいなずけ(1903年)

日本語文献[編集]

主な作品集[編集]

  • 『チェーホフ全集』 神西・原・池田編(全16巻、中央公論社)-最終2巻は書簡集、新版は数度刊行
  • 『チェーホフ全集』 松下裕訳(全12巻、筑摩書房)-ちくま文庫で新版刊行
  • 『チェーホフ・ユモレスカ』 松下裕訳(全3巻、新潮社)
  • 『チェーホフ小説選』、『チェーホフ戯曲選』 松下裕訳(水声社)
  • 『チェーホフ・コレクション』 工藤正廣・児島宏子・中村喜和訳(全23巻、未知谷)

文庫訳書(近年刊)[編集]

  • 『かもめ・ワーニャ伯父さん』 神西清訳(新潮文庫 改版2001年)
  • 『かわいい女・犬を連れた奥さん』 小笠原豊樹訳(新潮文庫 改版2005年)
  • 『桜の園・三人姉妹』 神西清訳(新潮文庫 改版2011年)
  • 『カシタンカ・ねむい 他七篇』 神西清訳(岩波文庫 2008年)
  • 『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集 Ⅰ』 松下裕訳(新潮文庫 2008年)
  • 『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集 Ⅱ』 松下裕訳(新潮文庫 2009年)
  • 『郊外の一日 新チェーホフ・ユモレスカ(1)』 松下裕訳(中公文庫 2015年)
  • 『結婚披露宴 新チェーホフ・ユモレスカ(2)』 松下裕訳(中公文庫 2015年)
  • 『子どもたち・曠野 他十篇』 松下裕訳(岩波文庫 2009年)
  • 『ともしび・谷間 他七篇』 松下裕訳(岩波文庫 2009年)
  • 『六号病棟・退屈な話 他五篇』 松下裕訳(岩波文庫 2009年)
  • 『かもめ』 浦雅春訳(岩波文庫 2012年)
  • 『かもめ』 沼野充義訳(集英社文庫 2012年)
  • 『チェーホフ短篇集』 松下裕編訳(ちくま文庫 2009年)、代表作全12篇
  • 『チェーホフ集 結末のない話』 松下裕編訳(ちくま文庫 2010年)、全51篇の超短編
  • 『ワーニャ伯父さん・三人姉妹』 浦雅春訳(光文社古典新訳文庫 2009年)
  • 『桜の園・プロポーズ・熊』 浦雅春訳(光文社古典新訳文庫 2012年)
  • 『馬のような名字 チェーホフ傑作選』 浦雅春編訳(河出文庫 2010年)

回想ほか[編集]

  • オリガ・クニッペル 『夫チェーホフ』 池田健太郎編訳(麦秋社)
  • 『チェーホフ=クニッペル往復書簡』 牧原純・中本信幸編訳(全3巻、麦秋社)
  • マリヤ・チェーホフ 『兄チェーホフ 遠い過去から』 牧原純訳(筑摩書房〈筑摩叢書〉、1992年)、旧版は未來社
  • ミハイル・チェーホフ 『わが兄チェーホフ』 宮島綾子訳(東洋書店新社、2018年)
  • 『チェーホフの思い出』 池田健太郎編訳(中央公論社)- 友人・近親者たちの回想、初版は「全集」別巻
  • リディア・アヴィーロワ『チェーホフとの恋』 小野俊一訳(未知谷、2005年)
    • リジヤ・アヴィーロワ『私のなかのチェーホフ』 尾家順子訳(群像社ライブラリー、2005年)- 同著の別訳
  • ボリース・ザイツェフ『チェーホフのこと』 近藤昌夫訳(未知谷、2014年)
  • イワン・ブーニン『ブーニン作品集5 呪われた日々 チェーホフのこと』 佐藤祥子・尾家順子・利府佳名子訳(群像社、2003年)
  • 『チェーホフの風景』 ペーター・ウルバン編、谷川道子訳(文藝春秋、1995年) – 写真多数の文学アルバム
  • ウラジーミル・ギリャロフスキー『帝政末期のロシア人』[注釈 5]村手義治訳(中央公論社、のち中公文庫)

伝記研究[編集]

  • アンリ・トロワイヤ 『チェーホフ伝』 村上香住子訳(中央公論社/改訂版・中公文庫)
  • 原卓也編 『チェーホフ研究』(中央公論社) – 初版は「全集」別巻
  • イレーヌ・ネミロフスキー『チェーホフの生涯』 芝盛行訳・解説(未知谷)
  • 松下裕 『チェーホフの光と影』(筑摩書房)
  • 沼野充義 『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)
  • 浦雅春 『チェーホフ』(岩波新書)
  • 牧原純 『北ホテル48号室 チェーホフと女性たち』(未知谷)
  • 牧原純 『二人のオリガ・クニッペル チェーホフと「嵐」の時代』(未知谷)
  • 池田健太郎 『チェーホフの生活』(中央公論社)
    • 他に『「かもめ」評釈』(中央公論社)、遺作に『チェーホフの仕事部屋』(新潮選書)
  • 佐藤清郎 『わが心のチェーホフ』(以文社)、他に以下を刊行(各・筑摩書房)
    • 『チェーホフの生涯』、『チェーホフ芸術の世界 覚醒と脱出へのいざない』
    • 『チェーホフ劇の世界 その構造と思想』、『チェーホフへの旅』
  • 『チェーホフの短篇小説はいかに読まれてきたか』 井桁貞義・井上健編(世界思想社)
  • セルゲイ・ザルイギン 『わがチェーホフ』 岩田貴訳(群像社)
  • ロジェ・グルニエ『チェーホフの感じ』 山田稔訳(みすず書房)
  • 『文芸読本 チェーホフ』(河出書房新社)- 作家論集と短編・戯曲数編
  • エヴゲーニイ・バラバノーヴィチ『チェーホフとチャイコフスキー』中本信幸訳(新読書社)
[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ この際劇場からの要求で戯曲の改訂が行われた。
  2. ^ ロシア文学者の研究に、工藤正廣『チェーホフの山』未知谷、2020年。がある。
  3. ^ チェーホフが切手蒐集家であったという事実はよく知られているが、この旅行の際に彼はかつて手紙を送った親戚や友人の家を回って、その手紙から切手を剥がしてコレクションに加えていたというエピソードは興味深い。
  4. ^ レイモンド・カーヴァーはチェーホフの臨終の場面に焦点を当てた小説『使い走り』を書いている。なお同作品はカーヴァーが最後に書いた小説となった。
  5. ^ 「チェホンテ」のペンネーム時代から晩年までの交流の回想がある。

出典[編集]

  1. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p9 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  2. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p13-14 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  3. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p25 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  4. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p43 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  5. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p61 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  6. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p64-65 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  7. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p88-90 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  8. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p91 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  9. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p101-103 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  10. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p110-111 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  11. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p145 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  12. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p170 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  13. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p172 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  14. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p179 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  15. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p189 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  16. ^ 「チェーホフ自身によるチェーホフ」p45-47 ソフィ・ラフィット著 吉岡正敞訳 未知谷 2010年8月10日初版発行
  17. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p196 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  18. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p275 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  19. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p239 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  20. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p269-271 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  21. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p314-315 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  22. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p339-340 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  23. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p372 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  24. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p382 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  25. ^ 井上ひさし『この人から受け継ぐもの』(岩波書店 2014年)p.108。ただし「三番目については多少の異論がある」としている。
  26. ^ 佐藤清郎:日本におけるチェーホフ(比較文学 21(0)、日本比較文学会、1978)
  27. ^ 剣持武彦:志賀直哉の短篇「剃刀(かみそり)」とチェーホフの短篇「ねむい」(上智大学国文学科紀要 (7)、1990年2月、上智大学国文学科)
  28. ^ 「チェーホフの庭」p41 小林清美 群像社 2004年10月28日初版第1刷
  29. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p374 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  30. ^ 「チェーホフの庭」p46 小林清美 群像社 2004年10月28日初版第1刷
  31. ^ 「チェーホフの庭」p52-54 小林清美 群像社 2004年10月28日初版第1刷
  32. ^ a b オレグ・クラスノフ (2017年11月8日). “ピョートル大帝とチェーホフの街タガンログ”. jp.rbth.com. Russia Beyond. 2021年7月2日閲覧。
  33. ^ 「A.P.チェーホフ」サハリン島文学記念館のリニューアル”. www.city.wakkanai.hokkaido.jp. 稚内市 (2014年). 2021年7月2日閲覧。
  34. ^ Литературно-художественный музей книги А. П. Чехова “Остров Сахалин””. Литературно-художественный музей книги А. П. Чехова “Остров Сахалин”. 2021年7月2日閲覧。
  35. ^ 「チェーホフの庭」p63 小林清美 群像社 2004年10月28日初版第1刷
  36. ^ a b パーヴェル イリーイン, 山田晴通, 偉人にちなんだ (旧) ソビエト諸都市の改称」地図』 1995年 33巻 2号 p.13-41, 日本地図学会, doi:10.11212/jjca1963.33.2_13, 2020年8月27日閲覧。
  37. ^ “ロシア各地の空港、大統領令で改名 サハリン島にチェーホフ空港誕生”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年6月1日). https://www.afpbb.com/articles/-/3227904 2019年6月3日閲覧。 
  38. ^ Dover Kosashvili監督により映画化された(”Anton Chekhov’s The Duel“、2010年)。

参考文献[編集]

  • ヴィリジル・タナズ 『チェーホフ ガリマール新評伝シリーズ世界の傑物5』 谷口きみ子・清水珠代訳(祥伝社、2010年)
  • ソフィ・ラフィット解説『チェーホフ自身によるチェーホフ』 吉岡正敞訳(未知谷、2010年)

関連項目[編集]

  • チェーホフの銃 – チェーホフの言葉に由来するとされる、作劇上の定形的ルール。

関連人物[編集]

  • レフ・トルストイ – 32歳年上のロシアの文豪。チェーホフの活動時期はトルストイの活動後期と同時代であり、チェーホフは彼の作品や思想に敬意を抱いていた。1895年にトルストイの領地であるヤースナヤ・ポリャーナで会談して以降親交を結び、トルストイはチェーホフのヤルタの家に何度か見舞いに訪れている[1]
  • マクシム・ゴーリキー – チェーホフを師として慕ったロシアの作家、劇作家。1898年にゴーリキーからの手紙を受け取って以降交友が始まり、1899年にはヤルタで面会して[2]、以降その死に至るまで交友を結んだ。
  • ピョートル・チャイコフスキー – 親交のあったロシアの作曲家。実現に至らなかったが共同でオペラを制作する計画があった。
  • セルゲイ・ラフマニノフ – 同じく親交のあったロシアの作曲家。『ワーニャ伯父さん』のセリフを元に歌曲(作品26の3)を作曲した。
  • マイケル・チェーホフ – 甥で俳優、演出家、モスクワ芸術座を主に俳優の育成にもあたった。
  • レフ・クニッペル – チェーホフの妻オリガ・クニッペルの甥、作曲家。『ポーリュシカ・ポーレ』(Полюшко-поле)の作曲者[3]
  • コンスタンチン・スタニスラフスキー – 俳優、演出家、モスクワ芸術座の創始者。ロシア演劇の代表的人物。
  • 神西清 – 訳者、『ワーニャ伯父さん』の翻訳で文部大臣賞を受賞。
  • 小野理子 – 訳者、岩波文庫 『桜の園』、『ワーニャおじさん』の訳者
  • 木村彰一 – 訳者、講談社ほか。
  • 中村喜和 – 訳者、「チェーホフ・コレクション」の訳者の一人。
  • 渡辺守章 – フランス文学者、『かもめ』をフランス語訳を元に演出。
  • 小田島雄志 – 戯曲を翻訳(白水社)。英語訳からの日本語訳という手法が翻訳のあり方をめぐる議論を喚起した。
  • 沼野充義 – 訳者、『かもめ』や『かわいい女』(「かわいい」)ほか
  • 宇野重吉 – 名優で演出家でも著名。
  • 湯浅芳子 – 戦前からの訳者。
  • 蜷川幸雄 – 多作品を演出。
  • 千田是也 – 俳優座主宰、多作品を演出。
  • 中村草田男‐俳人、7月15日の忌日を「チェーホフ忌」として俳句に使用し季語にした。
  1. ^ 「トルストイ」p561-562 藤沼貴 第三文明社 2009年7月7日初版第1刷発行
  2. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p280-281 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  3. ^ 『ポーリュシカ・ポーレ』は、レフ・クニッペルの第4交響曲『あるコムソモール兵士の劇詩』(Поэма о бойце-комсомольце, 1934)のコーラス部が、のちに独立して歌われるようになったもの。

外部リンク[編集]

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