Month: September 2018

インターネットにおける言語の使用 – Wikipedia

インターネット上で最も多く利用されている言語は英語である。英語を母語とする話者は3億2200万人、外国語とする話者は2億人である。 中国語は世界で最も多く話されている言語であり、インターネット上では 2番目に多く使用されている。中国のオンライン人口は急速に増えている一方、世界で2番目に人口が多いインドの公用語であるヒンディー語は、インターネット上では利用者が少ない。これは、インドにおいてインターネットへ接続が可能な人々は人口に対して少数であり、インターネットに接続可能な人々は英語を好んで使用する傾向にあるためである。 またW3Techsによると、英語の次によく使われる言語上位10位(ウェブサイト数基準で)にロシア語、スペイン語、ドイツ語、トルコ語、ペルシア語、フランス語、日本語、ポルトガル語(以上、順位順)が含まれるという。[1] ウェブサイト数によるランキング[編集] W3Techsによる2021年11月の調査では、次のようになっている。[1] 表に乗せられなかったランク外の言語はいずれも0.1%未満である。 多言語で作成されたサイトなどの存在によって、全ての言語を合わせても合計が厳密に100%になるとは限らない。 上記の結果を、言語グループごとにまとめると次のようになる。 英語を含むゲルマン語派が全ウェブサイトの3分の2近くを占めている。2位のスラヴ語派(ロシア語など)も人口比の割に高い割合を占めている。 6位の日琉語族は、ほぼ日本一国でのみ使われる日本語一言語だけでそれなりの割合を占めている。 反対にロマンス諸語(フランス語、スペイン語など)・インドの諸言語・中国語(シナ語派)・セム語派(アラビア語など)は、話者数の割には低い比率になっている。 ネット利用人口によるランキング[編集] Internet World Statsによる2020年3月の調査[2]では、次のようになっている。 順位 言語 属する言語 グループ

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台湾の仏教 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “台湾の仏教” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) 伝統的なローブと竹の帽子をかぶった台湾の僧侶。 台湾の仏教(たいわんのぶっきょう)は主要な宗教の一つをなしており、人口の約35%が仏教を信じている[1]。台湾人は主に大乗仏教、儒教精神、土着の慣習、道教の伝統を実践している[2]。宗教家は仏教と道教の両方の伝統に基づき、出産や葬儀など特別な機会に役目を果たしている。一部の人口は、より純粋に中国仏教の教えを実行しているが、これは他のアジアの伝統慣習を排除するものではない。 台湾政府の統計においては、仏教と道教を区別しており、おおよそ同数の信徒であった。2005年の国勢調査では総人口2,300万人のうち、仏教徒が800万人、道教徒が760万人であった[3]。道教徒と申告する人の多くは、実際は仏教の影響を受けたシンクレティズム的な伝統的な中国の民間信仰がみられる。一方で仏教徒をと申告する人は、観音菩薩や弥勒菩薩などの仏像を強調したり、菜食主義を支持する一貫道であったりと、より局所的な信仰を持ちえる。 アメリカ合衆国国務省の民主主義・人権・労働局の発表によれば、台湾では80%の人々が何らかの信仰形態を持っており、その中には仏教の要素を含んでいる台湾の伝統民間信仰や宗教が存在しているという。このことから、広い意味で、台湾では道教と混合した仏教の信仰者は全人口の80%に達すると言われる。 国共内戦以降、台湾の奇跡を経験した台湾においては仏教が急速に信徒を増やした。これはいくつかの主要な仏教教団が、自由、平等、理性といった現代的価値観をプロモートしたことが、増加しつつある中産階級らの魅力をとらえたものである[4][5]。 台湾の仏教系団体は、大学、病院、災害救援といった公共財やサービスを提供するなど、多くの世俗社会への関与で知られてる[4]。 台湾での起源[編集] 台湾への仏教の伝来は、鄭氏政権時代(17世紀)である。清朝の治世下に入ると、福建省南部、広東省東部では仏教を吸収して派生した道教閭山派のほか、当地の習俗に合う仏教が現れるなど、信仰形態に変革が発生した。また、この時代の漢民族による主な信仰対象は、観音菩薩であった。 18世紀後半には観音菩薩を本尊とする寺院が漳泉、及び漳泉の住民が移民した台湾の地域に相次いで建立された。 この際に建立された寺院の中では、現地語で「巌仔」と呼ぶ山寺が最も多く、代表的な物として、1752年建立の芝山巌、1791年建立の寶藏巌などがある。 山寺以外に観音菩薩を祀った寺院としては、寺(大廟)、宮、閣、堂(村廟)、壇、庵、巌(山の麓の寺院)などの種類がある。

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キタムラ機械 – Wikipedia

キタムラ機械株式会社(きたむらきかい)は、富山県高岡市に本社を構える日本で稀なマシニングセンタ専業メーカーである。 高岡市は銅器の町であり、中でも日本の8割以上の仏像が高岡で製造されていた。そこで工作機械製造業を営んでいた同社が千手観音像をヒントにして、世界に類がない工作機械・立形マシニングセンタ(T-12型)を1971年に開発した。 同時に世界各国へ特許出願申請を行い、1974年に世界24カ国特許取得した。当時、日本の工作機械メーカ数社が、欧米の特許技術供与を受けライセンス生産していたマシニングセンターを、同社が初めて純国産技術により量産化した。また、ドイツ・ドナウ社をはじめ欧米工作機械メーカに技術供与を行い、マシニングセンタの普及に努めた。 以来、世界のマシニングセンタブランドとして、海外では丈夫で高精度が永年維持できる機械として評価が高い。 1933年(昭和8年) – 「北村工作所」として創業。 1947年(昭和22年) – 「有限会社北村鉄工所」に社名を改組。 1948年(昭和23年) – 門形プレーナー1号機を完成、本格生産開始。 1959年(昭和34年) – 「北村鉄工所株式会社」に社名を改組。 1960年(昭和35年) – 東京営業所開設。 1961年(昭和36年)

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弦楽四重奏曲第15番 (シューベルト) – Wikipedia

弦楽四重奏曲第15番 ト長調 D887 作品161は、フランツ・シューベルトが1826年に作曲した弦楽四重奏曲。シューベルトは2年後の1828年に没したため、このジャンルの最後の作品となり、出版は没後の1851年にディアベリ社から「作品161」として出されたため、遺作(生前に出版されなかった作品)となった。 自筆譜に書き込まれた日付によれば、1826年6月20日から30日にかけて作曲され、わずか10日間で書き上げられている。初演は1828年の3月26日にウィーンの「赤いはりねずみ館」で催された自作演奏会(シューベルト主催)にて、ヨーゼフ・ミヒャエル・ベーム、カール・ホルツ、フランツ・ヴァイス、ヨーゼフ・リンケらのメンバーによって第1楽章のみ演奏され、これが公開初演とされている(ただしこの日に演奏された作品には「新作」と記録されているものの、調性が書かれていないため、『死と乙女』である可能性が指摘されている)。全曲初演は作曲者没後の1850年の12月8日にウィーンでヨーゼフ・ヘルメスベルガー率いる弦楽四重奏団によって行われている。 また手稿のパート譜は1827年に作成されているが[1]、そのパート譜は現在紛失しており、またそれが作曲者の手によるものかも不明である。 作風としては管弦楽的(ないしは交響的)な書法の導入が試みられ、トレモロ奏法やユニゾンの多用、音色効果、広い音域の使用といった発想はそれまでの弦楽四重奏曲には見らないものとなっている。 4つの楽章からなり、演奏時間は約45分に及ぶ。 第1楽章 アレグロ・モルト・モデラート(Allegro molto moderato) ト長調、4分の3拍子。ソナタ形式による大規模な楽章。トレモロ奏法が多用され、和声の扱いも独創的で、とくに転調(明暗の変化)では作品全体の重要な要素を形成している。またこの楽章において、ウディ・アレン監督の映画『ウディ・アレンの重罪と軽罪』で第1楽章の展開部が劇中で使用されている。 第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・モート(Andante un poco moto) ホ短調、2分の2拍子(旧全集では4分の4拍子)。ロンド風な形式による楽章。ここでも転調は見られ、嬰ハ短調、変ロ短調、ト短調という風に移調する。ホ短調で開始するコーダはホ長調に変わり、明るい感じに終える。 第3楽章

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ヤラ・シャヒディ – Wikipedia

ヤラ・シャヒディYara Shahidi 2011年・トロント国際映画祭にて撮影 本名 Yara Sayeh Shahidi 生年月日 (2000-02-10) 2000年2月10日(22歳) 出生地 ミネソタ州ミネアポリス 国籍 アメリカ合衆国 民族 アフリカ系アメリカ人 職業 女優子役 活動期間 2009年

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邯鄲の枕 – Wikipedia

邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。 由来と同義語[編集] 「盧生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。盧生はそこで呂翁という道士に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を盧生に授ける。そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻したりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。 子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮上がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。 中国においては粟のことを「黄粱」といい、盧生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。 同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われることがなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。 能『邯鄲』[編集] 能『邯鄲』は、『邯鄲の枕』の故事を元に作られた能の演目である。しかし道士・呂翁にあたる役が、宿屋の女主人であり、夢の内容も『枕中記』とは異なり、『太平記』巻25などに見えるような日本に入ってから変化した『邯鄲の枕』の系譜上に位置づけられると言えよう。舞台上に設えられた簡素な「宮」が、最初は宿屋の寝台を表すが、盧生が舞台を一巡すると今度は宮殿の玉座を表したりと、能舞台の特性を上手く利用した佳作である。 なお、盧生の性格や描写から憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し、能『邯鄲』の盧生役のほか、能『高砂』の住吉明神などの若い男神の役でも使用される。 芥川龍之介は能『邯鄲』をモチーフにして『黄粱夢』という作品を書いた。また三島由紀夫は『近代能楽集』の中に能『邯鄲』を現代風の戯曲に翻案した作品を書いている。また古井由吉も『邯鄲の夢』をモチーフに『邯鄲の』という作品を書いている。 邯鄲とは古くは、宿泊して目覚めたら就寝中に盗難の被害にあっていたという状況を指す。また宿泊施設で宿泊客の就寝中に盗みを働く者を邯鄲師(かんたんし)といい泥棒の一種であり、また枕探しとも言う。 古くから日本では宿屋(旅館)の客室に鍵はなく、また相部屋も多かった。そして習慣として枕の下に金品を隠すことが多く、泥棒も安易に盗みを働くことができた。ゆえにそれを専門とする者を「枕探し」といったのであるが、湯につかりご馳走を食べ極楽気分で床(とこ)に就いて目覚めたら不幸のどん底に落とされるという体験と正式な題名である「邯鄲の枕」の枕を掛けて邯鄲にあったといい、それを行う者を邯鄲師といった。 曲芸「邯鄲夢の枕」[編集] 邯鄲夢の枕(かんたんゆめのまくら)とは、軽業師や曲芸師の技の一種。演芸場や見世物小屋などで見られた。「邯鄲は夢の手枕」、「邯鄲の夢」や「邯鄲の手枕」などと呼ばれ、ただ単に邯鄲ともいわれた。 涅槃仏のように肘を突いて手を頭に添え横臥体勢を取り、この状態のまま空中浮遊をするという技である。今は観ることはできないが夏目漱石の『吾輩は猫である』や上方落語の『軽業』の一節に描かれている。(現在この技を伝承する者がいるのかは定かでない)そして手枕をすることが、この曲芸の種の一部であり、枕と寝る姿勢をとることや軽業師の他の芸と比べると軽業より手品に近いこともこの技の命名に一役かっている。 関連項目[編集] ウィキクォートに夢に関する引用句集があります。

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大矢真那 – Wikipedia

大矢 真那(おおや まさな、1990年〈平成2年〉11月6日 – )は、日本の女優であり、女性アイドルグループ・SKE48チームSの元メンバーである。愛知県出身、サン・オフィス所属。 2008年 2009年 3月、選抜メンバー16名がチームSへ移行し、チームSのメンバーとなる。 8月5日、SKE48の1stシングル「強き者よ」リリース。チームS全員参加曲。 2010年 5月から6月にかけて実施された『AKB48 17thシングル 選抜総選挙』では24位で、アンダーガールズ入りを果たした。なお、中間発表から最終発表までの得票率の差は3.18倍と、全メンバー最大の伸び幅であった(1,217票→4,634票)[3]。 10月27日、AKB48の18枚目のシングル「Beginner」のカップリング曲「泣ける場所」を担当するユニット「DIVA」にSKE48メンバーで唯一参加した。 11月17日発売の4thシングル「1!2!3!4! ヨロシク!」の選抜メンバーとなる。 2011年 2012年 2013年 2014年

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白鳥中継局 – Wikipedia

白鳥中継局(しろとりちゅうけいきょく)は、岐阜県郡上市にある中継局。 中継局概要[編集] デジタルテレビ[編集] AMラジオ[編集] 廃止された局の概要[編集] アナログテレビ[編集] チャンネル 放送局名 空中線電力 ERP 放送対象地域 放送区域内世帯数 偏波面 放送終了日 47ch GBS岐阜放送愛称「ぎふチャン」 映像10W/音声2.5W 映像46W/音声11.5W 岐阜県 3,012世帯

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アニヴェルセル – Wikipedia

アニヴェルセル株式会社(Anniversaire Inc.)は東京都港区に本社を置く、結婚式場などを運営する業界最大手の企業。AOKIホールディングスの子会社。「アニヴェルセル」の名称で結婚式場を10店舗展開している(2021年12月時点)。 アニヴェルセルの名称の由来はフランスの画家マルク・シャガールの作品「アニヴェルセル」(記念日)より[2]。 運営施設[編集] アニヴェルセル 表参道 アニヴェルセル みなとみらい横浜 結婚式場[編集] 旧・ラヴィスが「パルティーレ」[注 2]の店名で営業していた店舗も2011年1月に「アニヴェルセル」へ統一されている。各店舗の詳細は公式サイト内の「式場のご案内」を参照。 関東エリア 甲信越・中部・近畿エリア アニヴェルセル 長野 ※旧パル迎 アニヴェルセル 白壁(名古屋) ※旧パル迎 アニヴェルセル

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九四式飛二号無線機 – Wikipedia

九四式飛二号無線機(きゅうよんしきひにごうむせんき)は、大日本帝国陸軍の開発した対地上通信用の航空無線機である。短波および中短波を使用し、最大対地電信距離は十号無線機と対向して約600kmである。十一号無線機と対向すれば約30kmの距離で電話通信が可能だった。全備重量は約50kg。昭和10年12月に仮制式の上申が行われた。 開発経緯[編集] 昭和6年度から審査を開始。この中距離飛行機用機材は短波および中短波を使用し、電信通信距離は十号無線機と対向通信し150km、放送300km、重量約50kgを目指すものだった。 昭和7年度中に通話機能の追加、対地送信500kmとなるよう審査要件が変更された。対地受信もこれと同程度となるよう研究が行われた。同年6月から8月、試作機を試験し改修。さらに下志津陸軍飛行学校で初期の性能を持つことが確認された。十一号無線機と対向した場合には空地間距離20kmで電話通信が可能であり、30kmでの通話も可能だった。十号無線機と対向した場合には70kmの距離で電話通信が可能だった。変調器を改善することで通信能力の増強が見込まれた。 昭和8年2月、満州北部で冬期試験を実施した。電気的機能になお改善の必要があったが距離500kmでの空地間通信が可能だった。電源を除き、外気温に対して特別の処置を講じる必要はなかった。 昭和8年度には以下のように審査要件が修正された。短波または中短波を使用、重量約50kg、十号無線機と対向し通信距離500km、十一号無線機と対向し約30kmの電話通信が可能であることである。また爆撃機への搭載用にも研究された。昭和8年4月には飛行第七連隊の重爆撃機に十五号無線機を搭載し試験した。周波数帯の選定によっては距離1,000kmで実用通信が可能だった。7月には型式を確定した。 昭和9年初頭、満州北部で試作機を試験。性能は概ね良好、受信機の感度が良好、取扱いが容易と判定された。ただし一部試験は実施できなかった。昭和9年中に審査要件が変えられ、対地電信送信距離が600kmに延長された。昭和9年7月には乾電池と蓄電池を廃止し、8月から10月には初期の性能を持つことが確認された。 昭和10年3月、短期に製造可能なことが確認された。11月には仮制式制定が容認され、12月に上申が行われた。 構造と機能[編集] 送信装置、受信装置、電源、空中線材料、送話器、受話器、電鍵、変調器と材料から構成される。送信装置は水晶制御と主発振によって電信または電話が可能だった。周波数範囲は1,500から7,500キロサイクル毎秒である。受信機には拡大と検波機能があり、周波数範囲は送信装置と同じだった。電源はプロペラと直流発電機を直結したもので、飛行時の風圧をプロペラが受けて回転し発電するものである。定格電圧は高圧700ボルト、低圧9ボルト。定格電流は高圧0.15アンペア、低圧9アンペア。回転数は3500回転毎分だった。空中線は絡車に内蔵され、これを垂下または巻き上げて運用する。ほか、付属品にケーブルと覆いが用意された。全備重量は50kgである。 装置は全て箱に収容し、車載運搬が可能だった。 参考文献[編集] 陸軍軍需審議会長 梅津美治郎『兵器仮制式制定の件(軍需審議会)』昭和11年12月09日。アジア歴史資料センター C01004247000 関連項目[編集]

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