Month: May 2019

姫ヶ岳 (北秋田市・上小阿仁村) – Wikipedia

姫ヶ岳(ひめがたけ)は、秋田県北秋田市と上小阿仁村との境界にある山である。 山頂には一等三角点と石仏を収めた小祠がある。 阿仁鉱山の西にそびえる姫ヶ岳は、昔は釣不動(つりふどう)という山道を分け入り、蛇腹(じゃばら)や牛の瀬戸(せと)などという危険な細道を行き、手繰(たぐり)杉にすがって頂上まで登り、薬師様(ママ)にお参りしたという[1]。 1804年(文化元年)菅江真澄は『阿仁迺澤水』で姫ヶ岳の絵図を残し、1816年(文化13年)に『筆のまにまに』で姫ヶ岳で三年犬の妻になっていた姫の伝説を記録している。 1809年(文化6年)9月、久保田藩主佐竹義和は、阿仁鉱山巡視のおりに、伝説によせて「やま姫のたけきみねにもみぢ葉のちしほのにしきかけてほしらん」と詠っている。また、江戸時代の鉱山町は民家が密集し、火災がひんぱんに起きていたので、山頂には防災の神として愛宕が祀られている[1]。 ある日のこと、一人のマタギが狩りに出かけると、姫ヶ岳のなかほどで、一匹の白犬に出会った。犬はなぜか美しい首飾りを下げていた。マタギは弓を取り出して狙いを定めて射ると、矢を受けた犬は苦しみながら山奥に逃げていった。マタギはその後を追い、とある洞窟に入ってみると、犬は美しい姫に抱かれて息絶えていた。姫は「三年もつれそった、私の大切な夫を!」と言ったかと思うと、犬がくわえていた短刀を取り「わが夫の仇!思い知れ!」と一刀のもとに切り捨てた[1]。 菅江真澄の記録では姫がマタギに合った場面は、姫は「とてもうれしい。その犬を殺したのが本当なら、私は猟人の妻になります。連れて行って下さい。ですが、女は疑い深いものですから、その犬を本当に殺した剣なら、血や刃こぼれがあるでしょう。見せて下さい」とマタギの剣を奪っている。その後、かろうじて麓に逃げたマタギはこのことを人に語ると、皆はそこに行こうと言う。姫がいた洞窟に再度入ると、姫の姿も太刀も無い。柴の火も消えており、夜のうちにこの洞窟を出たのだろうかと語り合った。これから、この山をひめが嶽という。今この山に姫ヶ窟、ひめが滝という面白い滝がある。水無銀山の方からは、釣不動という山路を分け入り、蛇腹、牛くび戸という険しい峯の細道を経て、手繰杉という杉にすがってかろうじて姫が嶽の薬師に詣る。帰路は、以具知奈為(湯口内)という麓に下り、その山道は危険な所はないと記録している[2]。(湯口内沢への登山道は現在無い) また、姫ヶ岳の坤(南西)の方向には、樹木が深い高山がある。この山は鼓を敲く音が聞こえることがあり、それを天狗の遊びととらえ、やがて山の名前は天狗嶽となったという[3]。 姫ヶ岳は山頂まで行ける道があり、湯ノ口沢という大きな沢まではゆるやかだが、それからはつま先上がりの険しい道で、めったに登る人はいなかった。湯ノ口沢上流には釣不動(つりふどう)という名の滝があった。ある昔のこと、恐いもの知らずのマタギがたった一人でこの険しい道を登っていった。男は腕前は良いが、それを鼻にかけ仲間から煙たがられていて仲間がいないので、いつも普通はきつく戒められていた一人での山の狩りをしていた。男が釣不動の滝で休んでいたとき、下流に雪のように白いシカがあらわれた。男はしばらくボーっとしていたが、はっと我に返り矢を放つと、矢はシカの首に突き刺さった。シカはたちまち林の中に消えて行くが、男はあわてることがなく、あとをおいかけた。やがて山頂間近の洞窟の前まで来て、男は女のすすり泣く声を聞いた。男が洞窟の中に入ると、着飾った美しい女のひざに若い男が倒れていた。若い男の首には矢が深々と刺さっていた。美しい女は顔を上げて恨みのこもったまなざしで男をにらみつけた。男は無我夢中で村にたどり着くと、父母にその日の出来事を話、それっきりで床についた。高熱でうなされ、うわごといい「首がいたい。いてえよう」と言いながら息を引き取った。このことは村の人たちの知るところとなり、美しい女のいた山を姫ヶ岳と呼ぶようになった[4]。 上小阿仁村側と阿仁町側から登山道が延び、どちらも頂上まではおよそ1時間のコースであるが、阿仁側からは蛇腹や牛の瀬戸と言われる険しいコースもある。 国道105号を走り、吉田で林道に入り吉田堤にて林道支点に駐車、林道を歩き終点の登山口に着き、樹林帯の中を登り小さな祠と三角点がある山頂に着く[5]。登山口表示がある場所の手前を右側方向に峯筋に登ると、蛇腹や牛の瀬戸などの険しい峯の細道につながる。山頂付近は険しい岩崖になっている。山頂から少し南に進んだ岩石の上からの見晴らしが良い。 山頂には1778年(安永7年)4月の記録がある愛宕権現の仏像がある。また、太平山の碑があり、裏面は1868年(慶応4年)4月吉日の日時が彫られている[2]。 ^ a b c 『阿仁の民話と伝説』、秋田県阿仁町、1998年3月、阿仁町史資料編 第6集 ^ a b

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鈴木祐 (競馬) – Wikipedia

鈴木祐 基本情報 国籍 日本 出身地 茨城県 生年月日 (1995-06-07) 1995年6月7日(26歳) 騎手情報 所属団体 岩手県競馬組合 所属厩舎 盛岡・櫻田康二(2016.4.1 – ) 勝負服 青・胴白元禄・袖白一本輪 初免許年 2016年

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エトオミユキ – Wikipedia

エトオ ミユキ(7月3日[2] – )は、日本の漫画家。女性。広島県出身[2]。血液型はA型[1]。旧名義は永遠 幸(えとお みゆき)[3]。 1998年に、永遠幸名義で第25回なかよし新人まんが賞で準入選を受賞した『リラの花言葉』でデビュー[2][1]。主に『なかよし』、『なかよしラブリー』(講談社)で活動。 華やかな絵柄で早くから注目されながら、連載の機会をつかめずにいた。[要出典]しかし2005年11月より『なかよし』、『なかよしラブリー』で「地獄少女」(原作・地獄少女プロジェクト)の連載を開始し、一躍人気を得た[2][4]。 『なかよし』での作品発表以外では2008年にはLaylaの3rd MINI ALBUM「End of Sorrow」のキャラクターイラストを手掛けたほか、東日本大震災の被災者を支援するために、こげどんぼ*の提唱で作られた東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」にも執筆した[5]。 2015年10月、『COMIC ポラリス』にて読み切り『塩対応の塩田くん』でエトオミユキ(読みは同じ)と改名[3]、後に同サイトにて連載。以降は、同ペンネームで連載している。 SKE48の大ファンでもある。[要出典] 作品リスト[編集] 永遠幸名義[編集]

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道仁会 – Wikipedia

この項目では、暴力団について説明しています。その他の用法については「道仁会 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 道仁会(どうじんかい[7])は、福岡県久留米市に本部を置く指定暴力団[8]。2012年より改正暴対法に基づく“特定抗争指定暴力団”(‐2014年)[9]。2020年末時点の勢力は約760名(構成員:約420人、準構成員等:約340人)[2]。福岡県のほかにも佐賀県や熊本県などに系列組織を置いている[10]。 顕著なる反権力性、反警察的色彩ならびに極度の好戦的傾向から知られる暴力団組織で、その結成からというもの数多の抗争事件をもってその名を知らしめてきた。10倍近い勢力を有する山口組を相手に一歩も引かない姿勢を示した1980年代のいわゆる『山道抗争』における激烈な戦闘行動や、関東地方の大組織・住吉連合会側の破門者である池田烈(池田会)を道仁会側が拾った事に端を発する突発的な抗争に際し破壊的な総力戦を敢行しようとしたことなどから、暴力団界にあって際立った畏怖を伴う“恐ろしい”組織であるとの評判が定着[11]。 長年にわたって日本屈指の強力な犯罪組織としてあり続けており[12]、その性質面について、安田雅企は“信じ難い蛮勇”を有する組織[11]であると、ジェイク・エーデルスタインは“とりわけ獰猛(凶暴)な組織”[13]であると述べている。 2000年代中盤頃からは、人事を巡って分裂した九州誠道会を相手とした、暴力団史に類を見ないほどの極めて破壊的な銃火器類を多用した激しい抗争の当事者となり、全国的な関心を惹起する事態ともなった[14]。抗争終結宣言に至る2013年までに、マシンガンや手榴弾を用いた47件の抗争事件で14名の死者を発生させるに至った[15]。 こうした事態を受けて、福岡県警は道仁会が資金獲得活動を活発化させているとみて、2018年10月、約200人態勢の「筑後地区暴力団集中取締本部」を設置。2019年3月には組員らに対する職務質問に取り組む「特別遊撃班」を発足させ、組織の実態解明を進めており[16]、上層部を一斉に摘発する「頂上作戦」も視野に入れた集中的な取り締まりが行われている[17]。2020年代に入り、県警暴力団犯罪捜査課は、道仁会捜査の一環として、地元建設業者を一斉に逮捕し、徹底した資金源の解明が行われている[18]。 1971年に古賀一家を含む4団体が合体し道仁会を結成。この統合を主導したのが初代会長の古賀磯次であった。やがて初代の幹事長であった松尾誠次郎が1992年に二代目を襲名[19]。 同年に暴力団対策法に基づく指定暴力団への登録を受ける[10]。2006年における松尾の引退に伴い、傘下松尾組の首領であった大中義久を会長とする三代目体制が発足するも、同時期に離反した九州誠道会の手により翌2007年に大中が射殺されたことから早くも終焉[20]。当時服役中であった小林哲治が四代目を継承した[21]。 道仁会が当事者となってきた数々の抗争事件のうち、20世紀における主要なものとしては、1978年における大牟田市内の名門暴力団組織・馬場一家との抗争、1980年における伊豆組内伊豆一家との抗争、1982年における久留米市内の向山一家との抗争、1983年における馬場一家との第二次抗争および住吉連合会との抗争、そして1986年からおおよそ1ヶ月半続いた山口組との抗争が挙げられる。住吉連合会との抗争に際しては、組員らが大挙して上京したうえで東京都内に潜伏、同時多発急襲寸前というところまで事が進んだものの、まさに間一髪という時点で落着。のちに“山道抗争”として語られるようになった山口組との抗争は、その膨大な発砲回数と死傷者の急増から全国的なマスメディアの関心を惹起することにもなった[11]。 対九州誠道会[編集] 長年にわたり組織を率いた松尾誠次郎が2006年に引退を表明。これに際して大牟田市を本拠地とする村上一家を中心とした勢力が次期の人事決定に反発し、道仁会から脱退したうえで、“九州誠道会”という名の新団体を発足させた。これが抗争の起こりであった[22]。 年内にさっそく本部事務所がAK-47アサルトライフルによる激しい掃射を受け、それから2年間のうちに7名の死者を計上した[23]。 誠道会側からの終結の宣言が行われた2008年頃からしばらくは局所的な抗争事件が発生するに留まっていたものの、やがて再燃し、特に2011年に入ってからは激化が確認されている[24]。 2011年度の目立った関係事案あるいは関係が疑われる事案としては、誠道会系元組長を含む2名が誠道会本部事務所の至近地で乗車していたワゴンごと電柱に衝突し即死、爆発炎上後の車内から手榴弾が発見された事件や[25]、佐賀県伊万里市で組員が誠道会系幹部を回転式拳銃で射殺した事件[26]、佐賀県小城市で組員と疑われる男が誠道会系組員の居宅を襲ったうえで刺殺した事件[27]、大川市で道仁会関係と見られる車と誠道会系組員らの乗る車とがいわゆるカーチェイスによる銃撃戦を展開した事件[28]、会長宅が機関銃や手榴弾で武装した誠道会関係者による襲撃を受けた事件[29]などが幅広く報道された。このような抗争状態を背景とし、2012年12月、九州誠道会とともに改正暴対法に基づく“特定抗争指定暴力団”の指定対象となった[30]。 2013年6月、九州誠道会との抗争終結の旨の宣言書を福岡県警久留米署へ提出[31]。その後、特定抗争指定暴力団の指定は2014年6月26日をもって解除された[32]。 最高幹部[編集] 初代会長は古賀磯次、2代目は松尾誠次郎、3代目は大中義久(松尾義久)、4代目は小林哲治。初代会長の古賀は2009年に74歳で死去[33]。3代目の大中は2007年に乗用車から降りたところを頭部に銃撃を受けて即死 四代目会長-小林哲治 執行部

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河村秀清 – Wikipedia

河村 秀清(かわむら ひできよ、治承元年(1177年) – 没年不詳)は、鎌倉時代の武将・御家人。相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原氏秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。 治承元年(1177年)に波多野義通の実弟・河村秀高(ひでたか)の四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)[1]として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる。 源頼朝が挙兵した際、兄の義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の戦い後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領(本貫地)は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦されている[注釈 1]。9月には本領であった河村郷を安堵され、以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである[1]。 『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189年)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い)[4]、これに感激した頼朝は、8月12日、船迫駅において[1]、自らの御前で元服させた[1][注釈 2] という。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により[注釈 3]小笠原長清が務め[1]、「清」の字を与えられて[注釈 4]秀清と名乗った。 加えて秀清は戦後の論功行賞により、岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三カ所に所領を賜った。確証はないが、秀清自身はその中間地である茂庭に居を定めたとする説が有力視されている。[要出典]また、秀清は備中国川上郡の成羽(現・成羽町)の地に所領を得て鶴首城を築き、さらに所領の1つである斯波郡の大巻(現在の紫波町の辺り)にも大巻城(大巻館)[注釈 5]を築いたとも伝えられている。 以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221年)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方について宇治川で戦い、武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。 注釈[編集] ^ 建久元年(1190年)の鶴岡八幡宮での流鏑馬で三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜くという技を披露し、頼朝よりその武芸を見込まれて許されたという(コトバンク「河村義秀」の項 より)。

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絶対に笑ってはいけない名探偵24時 – Wikipedia

『絶対に笑ってはいけない名探偵24時』(ぜったいにわらってはいけないめいたんていにじゅうよじ)は、2015年12月31日18:30(午後6時30分)から2016年1月1日0:30(午前0時30分、JST)にかけて日本テレビ制作のバラエティー番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 大晦日年越しSP』として放送された企画である[1]。テレビ大分を除く日本テレビ系列[注 1](NNS加盟)28局同時ネット。テレビ大分では2016年1月2日(1日深夜)0:55 – 6:55に放送。琉球放送では2016年3月12日12:57 – 15:10に前編、同年3月13日13:00 – 16:35に後編を放送[注 2]。 2016年1月4日21:00 – 22:54には未公開シーンを集めた『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!お見逃しも未公開も一挙大公開SP!!』がNNS29局で放送された。 この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 「笑ってはいけないシリーズ」の通算13作目。(大晦日年越しスペシャルとしては記念すべき10作目)放送時間は歴代シリーズ最長タイとなる6時間(未公開を含むと現在8時間)。 この回以降のバスのパートには、日本テレビ制作の1月期スタートの連続ドラマの出演者が、笑いの刺客として出演する。 『絶対に笑ってはいけない病院24時』から引き続き、ガキの使いメンバー5人での実施となってからは2年ぶりの職業としての役柄(探偵業)となり、罰ゲームを受ける。松本が金髪になったのも初めてである。 また大晦日年越しスペシャルになってから10年目という事もあって偶然なのか、それとも原点回帰の意味を込めてか、メンバー内での潰し合い的なシーンが多いのも特徴。 名探偵24時のメンバー(台詞テロップの色) 第一印象

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