竹澤健介 – Wikipedia

竹澤 健介(たけざわ けんすけ、1986年10月11日 – )は日本の元・陸上競技選手。専門は長距離種目。兵庫県姫路市出身。報徳学園高等学校、早稲田大学スポーツ科学部卒業後、エスビー食品を経て住友電工所属。北京オリンピックおよび世界陸上競技選手権大阪大会日本代表。大阪経済大学陸上競技部ヘッドコーチを経て[1]、2022年4月より摂南大学同ヘッドコーチ。

高校時代まで[編集]

小学生の頃テレビを通して早稲田大学・渡辺康幸の活躍を目の当たりにし、渡辺と、渡辺が着ていた早稲田大学の臙脂色のユニフォームに憧れ箱根駅伝を走りたくなったという[2]。中学では陸上部に入部し、全日本中学選手権1500m5位、3000m4位など全国で活躍する成績を残した。

報徳学園高校時代には、後に中央学院大学に進学する木原真佐人とは高校の同級生でありチームメイトであった。2004年、高校3年時に出場した島根インターハイ5000mではメクボ・ジョブ・モグス、佐藤悠基、サムエル・ワンジル、佐藤秀和、サムエル・ガンガら全国の強豪と走り、8位の成績を残した。第55回全国高等学校駅伝競走大会ではジョン・カリウキ、モグス、佐藤秀和、宇賀地強、佐藤悠基ら各校のエースが集う1区を走り、この大会において報徳学園高校は全国4位の成績を残した。

大学時代[編集]

2005年早稲田大学進学後は5月21日ゴールデンゲームズinのべおか5000mで男子ジュニア日本歴代9位となる13分45秒95をマークすると、関東インカレでは10000m10位・5000m6位、全日本大学駅伝予選会では各大学の強豪が集う最終4組で2位、日本インカレでも5000m4位・10000m5位と、1年生ながら早稲田大学のエースとして活躍をし始めた。第82回箱根駅伝予選会では個人3位に入り、早稲田大学予選突破の原動力となった。翌2006年1月2日、第82回箱根駅伝では2区(23.2 km)を任されるが1時間09分55秒の区間11位となり、「雰囲気に飲まれてしまった」という箱根デビュー戦となった[3]

2006年4月1日、福岡で開催された第34回世界クロスカントリー選手権に伊達秀晃・今井正人・佐藤智之らと共に日本代表として出場した。6月11日第75回日本インカレ5000mでは13分30秒96の大会記録を更新する走りで、モグス・佐藤悠基に次ぐ3位入賞を果たした[4]。8月30日、イタリア・ロベレート国際大会5000mでは13分22秒36で走り、4位に入った。これは当時の日本歴代3位、学生歴代2位の記録となった。

年が明けて2007年1月2日、第83回箱根駅伝でも前年に続いて2区を走り、6人を抜き3位まで順位を上げるとモグスらを抑え区間賞を獲得した。1月21日、第12回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)では大学生・社会人混合区間である3区にエントリー。2番手でタスキを受けると序盤から飛ばして先頭に立ち、大森輝和・上野裕一郎につぐ区間3位でまとめ、兵庫県代表として優勝を飾った。4月29日には、アメリカ・スタンフォード大学で行われたカージナル招待において27分45秒59を記録し、世界選手権の参加標準記録Aを突破した。またこれは渡辺康幸の持っていた10000m日本人学生記録を12年ぶりに塗り替えるものであり、日本歴代9位(当時)となる記録であった[5]。6月10日、第76回日本インカレ5000mでは松岡佑起・高橋優太・上野裕一郎らをかわし優勝を飾った。続く6月30日、第91回日本選手権10000mでは28分56秒27で走り松宮隆行に次いで2位となり、世界陸上選手権大阪大会代表を確定的なものにした。

世界陸上大阪大会・北京オリンピック代表選出[編集]

同年7月28日、ベルギーで行われたナイトオブアスレチックスの男子5000mにおいて11位となり、13分19秒00を記録した。これは高岡寿成の持っていた5000m日本学生記録を15年ぶりに更新するものであり、日本歴代4位となる記録であった。4月の10000mとこの7月の5000mの記録は北京オリンピックの参加標準記録Aを突破するものであった。8月27日に出場した、世界陸上選手権10000m決勝ではケネニサ・ベケレが27分05秒90で圧倒的な強さを見せ大会3連覇を飾り[6]、竹澤は日本勢最高位の28分51秒69の12位となった。11月4日、第39回全日本大学駅伝では2区(13.2 km)を走り、ラストスパートで松岡佑起・宇賀地強を振り切り区間賞を獲得。また37分42秒の区間新記録を樹立した。11月22日、この年から男女混合レースとなった第19回国際千葉駅伝では5区を走り、エチオピア勢らを抑え区間賞を獲得。日本チームの優勝に貢献した。

2008年、第84回箱根駅伝前には抱えていた故障が悪化し3区(21.5 km)にエントリー、痛み止めを注射した状態で7人抜きの力走を見せ区間賞を獲得。早稲田大学12年ぶりとなる往路優勝に貢献した。2008年度には早稲田大学競走部主将を務めた。その後目標を北京オリンピック出場に定めた。故障が続き練習が積めない状態が続いたが、第92回日本選手権5000mに出場。残り1周からラストスパートで前を交わし、残り100mでは13秒台のスピードで先頭を追いかけ、松宮隆行に次ぐ2位に入った[7]。この時の感想を「(五輪は)大学に入るまでは遠い目標だった。まだ決まっていないけど、今はちょっと夢見心地」と語った[7]。この後北京オリンピック男子陸上日本代表に選出された。またこれは1964年東京オリンピックに参加した猿渡武嗣(中央大学)以来44年ぶりの、現役の箱根駅伝ランナーの五輪代表選出となるものであった。

同年8月17日、北京オリンピック10000m決勝ではケネニサ・ベケレ、ハイレ・ゲブレセラシエらと走るも、中盤でのペースアップにはついていけず、28分23秒28の28位に留まった。8月20日、5000m予選3組ではベケレらと走ったが、13分49秒42の同組7位に終わり予選突破はならなかった。

2009年1月2日、最後の箱根路となる第85回箱根駅伝では前年に続き3区にエントリー。6番手でタスキを受けると1キロ2分45秒のペースで入ると藤沢までの間に2位に浮上し[8]、先頭を行く山梨学院大学を猛追。戸塚中継所では3分26秒あった差を16秒に縮める走り、2006年佐藤悠基が樹立した区間記録を32秒更新する1時間01分40秒の区間新記録で区間賞を獲得した。この後早稲田大学は2位となった。

社会人時代[編集]

4月1日エスビー食品株式会社に入社、社内留学制度を活用して早稲田大学大学院に進学した[9]。6月には世界陸上選手権代表選考を兼ねた第93回日本選手権5000mに出場し、高い気温のもと果敢に序盤より先行したが、同社の1年先輩・上野裕一郎にかわされ2位となった。11月10日のアジア選手権5000mに出場し4位となると、11月23日には2年ぶりの出場となる第21回国際千葉駅伝において3区を担当、2区小林祐梨子からタスキを受けると序盤から後続を突き放して、第19回大会と同様に赤羽有紀子へとつないだ。大学の後輩で日本学生選抜・矢澤曜らを抑え3区区間賞を獲得、日本代表として優勝を飾った。12月12日、中国・香港で開催された第5回東アジア競技大会10000mに出場し、ラストスパートで勝負を決め30分18秒91のタイムで優勝を飾った。2010年1月24日、第15回全国都道府県対抗男子駅伝では7区(13.0 km)アンカーを務めた。1位通過・埼玉から46秒差、3位福島の佐藤敦之とほぼ同時の4位でタスキを受けると共に先頭を追い上げた。11キロ過ぎに埼玉をかわすと、残り300メートル付近からラストスパートで佐藤を振り切り、自身2度目・兵庫県チーム3年ぶり3度目の優勝となるゴールテープを切った。

2010年6月4日第94回日本選手権10000mに出場。レース中盤で後方から徐々に順位を上げ、最後の直線で北村聡をかわして大会初優勝を飾った[9]

2012年1月22日の第17回全国都道府県対抗男子駅伝で2年ぶりに7区アンカーを務め、自身区間賞を獲得する快走で自身3度目となる兵庫県チーム2年ぶり4度目の優勝に貢献。しかし、北京五輪に続く同2012年のロンドンオリンピック代表選出はならなかった。

2012年9月1日、エスビー食品陸上部が翌2013年3月末での廃部が決定。エスビー食品の所属選手・スタッフは陸上部を新設したDeNAに移籍したが、これを辞退した[10]。2013年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。エスビー食品退職後は実業団に所属せず姫路市陸協登録で大会に出場していた[11]。2013年7月に住友電工へ入社し[12]、2015年4月からは、住友電工陸上競技部監督に就任した大学時代の恩師である渡辺康幸から再び指導を受ける。住友電工では、チームを2014年元日のニューイヤー駅伝初出場に導くなどの活躍を見せた。本人の申し出により、2016年度のシーズンをもって現役を引退する[13]

指導者として[編集]

2019年4月大阪経済大学陸上競技部長距離ブロックヘッドコーチに就任。報徳学園高校時代の恩師である故鶴谷邦弘 元大経大陸上競技部監督の後を継ぐ形で長距離選手の指導に当たり[14]、 2021年に3年ぶりとなる出雲大学駅伝、全日本大学駅伝出場に導いた。2022年4月摂南大学陸上競技部ヘッドコーチ(同学専任講師)就任[15]

主な戦績[編集]

駅伝成績[編集]

大会 区間 距離 順位 記録 備考
2002 第7回全国都道府県対抗男子駅伝 2区 3.0 km 区間25位 8分57秒
2004 第9回全国都道府県対抗男子駅伝 4区 5.0 km 区間7位 14分42秒
2004 第55回全国高等学校駅伝競走大会 1区 10.0 km 区間11位 29分52秒
2005 第10回全国都道府県対抗男子駅伝 1区 7.0 km 区間4位 20分11秒 兵庫県代表
2006 第82回箱根駅伝 2区 23.2 km 区間11位 1時間09分55秒
2006 第11回全国都道府県対抗男子駅伝 3区 8.5 km 区間2位 24分41秒
2006 第18回国際千葉駅伝 6区 7.195 km 区間2位 20分48秒
2007 第83回箱根駅伝 2区 23.2 km 区間賞 1時間07分46秒
2007 第12回全国都道府県対抗男子駅伝 3区 8.5 km 区間3位 23分50秒 兵庫県代表として優勝
2007 第19回出雲駅伝 3区 8.5 km 区間3位 24分57秒
2007 第39回全日本大学駅伝 2区 13.2 km 区間賞 37分42秒 区間新記録
2007 第19回国際千葉駅伝 5区 10.0 km 区間賞 28分49秒 日本代表として優勝
2008 第84回箱根駅伝 3区 21.5 km 区間賞 1時間03分32秒
2008 第20回出雲駅伝 3区 8.5 km 区間6位 25分37秒
2008 第40回全日本大学駅伝 2区 13.2 km 区間3位 37分45秒
2009 第85回箱根駅伝 3区 21.5 km 区間賞 1時間01分40秒 区間新記録
2009 第21回国際千葉駅伝 3区 10.0 km 区間賞 29分07秒 日本代表として優勝
2010 第15回全国都道府県対抗男子駅伝 7区 13.0 km 区間2位 37分33秒 兵庫県代表として優勝
2011 第21回国際千葉駅伝 3区 10.0 km 区間3位 28分53秒
2012 第17回全国都道府県対抗男子駅伝 7区 13.0 km 区間賞 37分32秒 兵庫県代表として優勝

日本代表歴[編集]

  • 2006年 第34回世界クロスカントリー選手権大会
  • 2006年 第18回国際千葉駅伝
  • 2007年 第11回世界陸上競技選手権大会 10000m
  • 2007年 第19回国際千葉駅伝
  • 2008年 北京オリンピック 5000m・10000m
  • 2009年 第18回アジア陸上競技選手権大会 5000m
  • 2009年 第21回国際千葉駅伝
  • 2009年 第5回東アジア競技大会 10000m
  • 2010年 第13回アジア競技大会 5000m
3000m 5000m 10000m ハーフマラソン
2002年
(高校1年)
14分51秒5
2003年
(高校2年)
14分28秒50 ※29分22秒84
高校2年歴代5位
2004年
(高校3年)
14分23秒63
2005年
(大学1年)
13分45秒95
※ジュニア日本歴代9位
28分37秒75 1時間02分27秒
※ジュニア日本歴代2位
2006年
(大学2年)
7分54秒74 13分22秒36
※日本歴代3位
※日本人学生歴代2位
28分19秒22 1時間02分26秒
2007年
(大学3年)
13分19秒00
※日本歴代4位
※日本人学生記録
27分45秒59
※日本歴代9位
2008年
(大学4年)
13分49秒42 28分23秒28
2009年 7分49秒26
※日本歴代2位
13分26秒90
2010年 13分33秒61 27分55秒02
2011年 13分32秒98 28分40秒05
2012年 13分28秒70

太字は自己ベスト、表中の順位は全て当時のもの

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]