Month: October 2017

ヴィーグリーズ – Wikipedia

巨人と魔物の軍勢を迎え撃つ神々。 戦闘の様子。 ヴィーグリーズ[1](ウィグリド[2]とも。古ノルド語: Vígríðr)は、北欧神話において、神々と巨人との最終決戦(ラグナロク)が行われる場所とされている[3]。 『古エッダ』の『ヴァフスルーズニルの言葉』第17 – 18節において、その場所が100平方ラスタ[3](1ラスタは約12kmもしくは6.4 – 8km(4 – 5マイル)。研究者により異なる[4])だと語られている。 『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第51章では、ラグナロクの日、ムスペルの子らが馬でヴィーグリーズに進むと語られる。前後が炎に包まれたスルトに従い、虹の橋ビフレストを砕いてムスペルの子らヴィーグリーズに到着する。遅れて、フェンリル、ヨルムンガンド、ロキと彼に従うヘルの軍勢、そしてフリュム以下霜の巨人が続々と到着する。神々は武装してヴィーグリーズへ向かい、巨人の軍勢と激突するとされる[5]。 なお、『古エッダ』の『ファーヴニルの言葉』第14 – 15節においては、スルトとアース神が戦う場所はオースコープニル(古ノルド語: Óscópnir。「醜い物」「異形の物」の意[6]。)という島だとされている。そこへ行くにはビルレストという橋を渡る[7](「ビフレスト」も参照)。 [脚注の使い方] ^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』にみられる表記。

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タタル部 – Wikipedia

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 タタル部(塔塔児、Tatar)は、モンゴル帝国以前にモンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族。『元史』などでは塔塔児、『集史』ではQaum Tātārと記される。チンギス・カンによって滅ぼされたが、その名は遊牧騎馬民族の代名詞となり、ヨーロッパに広まってタタールと呼ばれるようになる。また、宋代以降から漢化したオングト部が「白韃靼」と呼ばれたのに対し、漢化していないタタルをはじめとする諸部族を「黒韃靼」と呼んだ[1]。タタール部とも表記される。[2] 起源[編集] タタルの起源はモンゴル部同様に、6世紀から10世紀にかけて中国東北部に存在した室韋であり、8世紀に突厥によって刻まれた『オルホン碑文』にある「三十姓(オトゥズ)タタル Otuz Tatar」もこれにあたる。[3] モンゴル部との争いの始まり[編集] モンゴル部のキヤト氏のカブル・カンは妻のカラルク(Qarālqū)の兄弟であるサイン・テキン(Sāīn Tīkīn)が病気になったので、これを治すためにタタル部族のチャルキル・ノドイ(Charqil Nūdūī)という名のカム(巫者、シャーマン)を招いた。しかし、その巫術もむなしくサイン・テキンが亡くなったので、サイン・テキンの一族はそのカムを追いかけて殺してしまう。これ以降モンゴル部族とタタル部族との間に敵対心が生まれ、多年にわたって慢性的に戦闘・略奪が行われるようになった。[4][5] モンゴルのアンバガイ・カンがブイル湖とコレン湖の間のウルシウン河のふもとに住むタタルのアイリウト・ビルウトという氏族に娘を与えるため、自ら娘を送りに行ったが、タタルの乣の民(ジュイン・イルゲン)[6]によって捕えられ、金帝国の皇帝のもとへと連行されて処刑された。これにより、後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇をとるため、カダアン・タイシとともにタタルのコトン・バラガとジャリ・ブカの所へ攻め込んだ。一方、モンゴルのイェスゲイ・バアトルはタタルのテムジン・ウゲ[7]とコリ・ブカ[8]という二人の頭とその民を捕えた。折しもイェスゲイに長男が生まれたため、捕えた敵将にちなみ、「テムジン」と名付けた。これが後のチンギス・カンとなる。テムジンが九歳になった年、イェスゲイはのどが渇いていたので、近くのタタル部の宴会に潜り込み、飲み物を分けてもらった。しかし、テムジン・ウゲとコリ・ブカの怨みがあったタタル部民は飲み物に毒を仕込んでやり、イェスゲイを毒殺した。その後しばらくはモンゴル部内の分裂があって両者の争いは一時沈静化する。 [9] ウルジャ河の戦い[編集] 1196年、テムジンがキヤト氏族のカンとして即位した頃、タタル部の首長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた王京丞相(オンギン・チンサン、完顔襄)が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるケレイトのトオリル・カン(後のオン・カン)とともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された。これを聞いた王京丞相は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カンと呼ばれるようになった。 [10] 反テムジン同盟[編集] 1201年、カタギン氏とサルジウト氏はドルベン氏、タタル部、イキレス氏、コンギラト部、コルラス氏、ナイマン部、メルキト部、オイラト部、タイチウト氏(ボルジギン氏の一派)らと同盟して、ジャダラン氏のジャムカをグル・カンに戴いてテムジン・カン、オン・カンに対し戦争を仕掛けた。タタル部からはアルチ氏のジャリン・ブカがこれに参加した。 [11] タタル部の滅亡[編集]

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犬飼源太郎 – Wikipedia

犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明治2年7月21日[1][2][3])- 1923年(大正12年)9月11日[4][注釈 1])は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長。号・竹荘、柿園[1]。 備中国都宇郡山地村[1][2](岡山県[4]都宇郡庄村を経て現倉敷市山地[2])で、犬飼篤太郎の長男として生れ[3]、1896年(明治29年)3月に家督を相続した[3]。1886年(明治19年)7月、東京成学館に入学し1888年(明治21年)に退学[1]。同年8月、明治法律学校(現明治大学)に入学し、政治学、法律学を修め、1891年(明治24年)7月に卒業した[1][2][3][4][5]。 帰郷して1893年(明治26年)5月、庄村助役となる[1][2]。1896年(明治29年)2月、岡山県会議員に選出され連続3期在任し、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)には県会議長に就任[1][2]。この間、犬養毅を支えて「備中の犬飼、東備の小橋」と称された[6]。 坂本金弥の辞職に伴い1914年(大正3年)7月に実施された第11回衆議院議員総選挙岡山県郡部補欠選挙で当選し[1][2][7][8]、以後、第13回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[4]。 また、花筵製造輸出業を営み、岡山県花筵同業組合長を務めるなど、花筵産業の育成に尽力した[1][3][4]。 国政選挙歴[編集] 注釈[編集] ^ 『岡山県歴史人物事典』114頁では9月12日。 出典[編集] ^ a b c d e

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セイントメモリー – Wikipedia

セイントメモリーは、日本の大井競馬場に所属していた競走馬である。2013年のオーバルスプリントなどを制した。2013年NARグランプリ4歳以上最優秀牡馬、2013年TCK大賞。 2008年のオータムセール(1歳)に上場され、内海正章に525万円で落札された[2]。 2009年[編集] 2009年7月に坂井英光を背にデビュー。初戦3馬身差で勝利、続くフレッシュスター特別では翌年のジャパンダートダービー勝ち馬であるマグニフィカの3着に敗れる。3戦目のポインセチア特別ではビクトリースガの5着に敗れこの年の戦いを終える。 2010年[編集] この年初戦の福寿草特別ではシーズザゴールドの4着に、5戦目の若獅子特別で菅原勲を背に2勝目。体格やレースぶり、適性を考慮して早くからクラシック出走を諦めていたが、1700メートルを試してみようと京浜盃に出走、4コーナー手前で失速し殿に終わる。その後適正距離の1600メートル戦に戻し2連勝。黒潮盃へ向かう。黒潮盃では森泰斗を背に出走。先行策に出たが直線粘れず10着。この1戦を最後に引退するまで1600メートル以上の距離での出走はなかった。この後1200メートル戦を2戦消化し1勝。2010年は結局8戦4勝に終わる。 2011年[編集] 2月の大井開催で復帰。持ち味の先行、逃げの脚を使い、この年6戦してすべて複勝圏に入る。6戦2勝。 2012年[編集] この年は1月のガーネット賞競走から始動。コウギョウダグラスの5着に敗れる。2月は’12ウインタースプリントに出走。一度もハナを譲らず勝利。オープン戦初勝利となる。3月の東京スプリング競走では1番人気に推されるもスタートで出遅れ、追い込んだものの前を捉えることができず4着。この後オープン戦、準重賞などを使いこの年8戦2勝。 2013年[編集] 2013年は前年勝利したウインタースプリントから始動、張田京を背に先行するも、直線伸びること無く6着。このレースに騎乗した張田京は「太いんじゃないか。」と述べている。2月は笠松競馬場で開催のオッズパークグランプリへの遠征プランが立つ。しかしフレグモーネを発症。遠征は白紙になる。またこれを機に一から馬体を作りなおすことにした。そして迎えた4月の北斗七星競走では張田京に代わり本橋孝太を背に出走。馬体は前レース比で-10キロと絞り見事勝利する。この時初騎乗の本橋は当時のことを「初めて跨った時、背中がよく、何故この馬がこのクラスで足踏みをしているのだろうと思った。」と語っている。ここから主戦騎手は本橋となる。5月は3度目の川崎遠征。好スタートからハナに立つと最後の直線は後続を突き放し快勝。2連勝とする。その後6月船橋競馬場の京成盃グランドマイラーズに出走。レースでは好スタートから単騎逃げ。最後の直線でもスピードは落ちず、8番人気の評価を覆し勝利。3連勝とし、重賞初制覇となった。7月は地元大井のサンタアニタトロフィーに出走。このレースでも逃げ、危なげなく勝利。4連勝とし、重賞2連勝。6歳馬ながら完全に本格化した。そして迎えた9月、初めての浦和競馬場遠征となる、オーバルスプリントに出走。レースでは好スタートからハナに立とうとするがエーブダッチマンにハナを奪われ2番手を追走。向正面でエーブダッチマンが失速し、先頭に立つ。そのまま4コーナーを迎えると追い上げてきたタイセイレジェンドと直線で一騎討ちになるも最後は2馬身差で勝利。5連勝、重賞は3連勝で馬、鞍上の本橋孝太、共に初めての交流重賞勝利となった。その後は金沢競馬場で開催されるJBCスプリントに遠征する。初めての長距離遠征からか+11キロでの出走。レースではエスポワールシチーの前に立ち、単騎逃げ。しかし直線で追い上げてきたJRA勢に抜かされ結果5着。初めてのJpnI競走で健闘した。この時のことを厩舎でセイントメモリーを管理する小林大樹厩務員は「内枠から思い切っていく最高のレースで頑張ってくれたが、調整では後悔が残っています。」と話す。実際にセイントメモリーは初の長距離遠征にも関わらず、寝藁まで食べてしまうほど落ち着いていたという。その結果、余裕を残して輸送したものの太めでの出走となってしまった。この年、重賞3連勝。JBCスプリントでの5着などの功績からNARグランプリ4歳以上最優秀牡馬を受賞。また2013年度から初めて創設されたTCK大賞にも選定された。 2014年[編集] この年初戦は東京スプリント競走8枠15番での出走となってしまい。ハナに立てず、見せ場なく9着に終わる。続くさきたま杯では前年制したオーバルスプリントと同じコース同じ距離となる。レースでは2番手を追走したものの4コーナーを前に失速。そのまま6着。この後矛先を地方馬限定の重賞に切り替え、前年制した京成盃グランドマイラーズに出走。ハナを主張するも直線でトーセンアドミラル、ソルテにかわされ3着に敗れる。その後こちらも連覇のかかるサンタアニタトロフィーに出走。6番人気だったが先行策から直線ハナに立ち、追ってくるグランディオーソに2馬身差をつけ快勝。復活となる。そしてこちらも前年制したテレ玉杯オーバルスプリントに出走。スタートからハナを奪うことができず好位を追走したものの向正面で失速。最後の直線で盛り上げるものの6着に終わる。10月は大井に戻りマイルグランプリに出走。終始ソルテの外を追走すると最後の直線で先頭に立ち、追ってくるグランディオーソをハナ差で凌ぎ重賞5勝目とする。12月は浦和競馬場のゴールドカップに出走。浦和競馬場で5連勝中のリアライズリンクスの2番人気に推されるも、最後失速。8着となる。結局この年は7戦2勝とした。 2015年[編集] この年は2月のフジノウェーブ記念からの出走。敗れたゴールドカップの勝馬リアライズリンクスが人気の中、5番人気となる。レースではハナを主張するリアライズリンクス、ジェネラルグラントをマークする形で3番手を追走。直線に入ると内の2頭を尻目に手応え十分に伸び、そのままゴール。後続に4馬身差をつける快勝。これで重賞を6勝目とした。 その後、軽い休養をはさみ5月のかしわ記念に出走、レースは最外枠から出ムチで先頭へ立ち、向正面まで単騎逃げを図るもそのまま失速、8着に終わる。その後は毎年同じく、京成盃グランドマイラーズ、3連覇のかかるサンタアニタトロフィーと出走するが見せ場なく12着、14着となる。地方限定重賞でも目立った成績を残せなくなってきたまま、東京盃、JBCスプリントと消化するも両レースとも10着で終わっている。この年6戦1勝。 2016年[編集] この年は4戦するが1勝も挙げることなく、6月の京成盃グランドマイラーズを最後に現役を引退した。引退後は大井競馬場で誘導馬となる[3]。 2020年[編集]

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ゆうがたパラダイス – Wikipedia

ラジオ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、CDなどでの販売や公式なアーカイブなど常に参照可能な状態のネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 『ゆうがたパラダイス』は、NHK-FMで放送されていた音楽リクエスト番組である。パーソナリティは曜日ごとに異なっていた。 2016年度の番組改編により新設された若者向け番組[1][2]。 高校生・大学生である10代から20代の年齢層をターゲットとし、J-POPや洋楽のリクエストに応えていく番組であり、インターネット連動の企画コーナーを日替わりで設けていた[2]。生放送[注 1]を基本とし、曜日ごとにテーマジャンルを決め、リスナーからのリクエストを交えながら展開していた[3][4]。 2021年度改編をもって番組の放送を終了した[5]。 曜日ごとのタイトル、初回および最終回放送日、出演者は番組ホームページによる[6][7]。 終了時[編集] 期間 曜日 パーソナリティ 備考 2020年10月19日 – 2021年3月15日 月曜 金田哲(はんにゃ・吉本坂46)、櫻坂46、日向坂46「はんにゃ・金田と櫻坂46と日向坂46のゆうがたパラダイス」 [注 2] 2016年4月5日

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カカクコム – Wikipedia

株式会社カカクコムは、日本のインターネット関連サービス事業を行っている企業。「価格.com」、「食べログ」、「映画.com」などのサイトを保有する。東京証券取引所プライム市場上場。代表取締役社長は畑彰之介。1997年(平成9年)設立。 主力事業であるパソコンやAV機器を中心とした電気製品の価格比較ウェブサイト「価格.com」は、電気製品の価格比較以外にも、商品(自動車やペットなどパソコン関連やAV機器以外もある)に関連する多数の電子掲示板群やショッピングモールを持つ[要出典]。2008年(平成20年)1月現在、1か月あたり約1,261万人の利用者がいるとされる[要出典]。2005年(平成17年)にサービスを開始した利用者の口コミを導入しているグルメサイト「食べログ」も月間利用者数が1億人を超え、老舗の「ぐるなび」を抜いて業界首位となっている[2]。 カカクコムが手がけるポータル事業 価格比較サイト「価格.com」の企画・運営 グルメコミュニティサイト「食べログ」の企画・運営 賃貸・売買物件ポータルサイト「スマイティ.com」の企画・運営 写真共有サイト「photohito.com」の企画・運営 旅行ポータルサイト「フォートラベル (4travel.jp)」の企画・運営 映画ポータルサイト「eiga.com」の企画・運営 アキバ系の情報&コミュニティサイト「アキバ総研」の企画・運営 メンズファッションWebマガジン「TASCLAP」[3]の企画・運営 FX関連情報と為替相場解説・予想サイト「FX羅針盤」[4]の企画・運営 求人情報の一括検索サイト「求人ボックス」[5]の企画・運営 宿泊旅行の情報メディア「icotto」[6]の企画・運営 女性向けライフスタイルメディア「キナリノ」[7]の企画・運営 高速バス価格比較サイト:「バス比較なび」の企画・運営 新幹線・LCCも含めた価格比較サイト「格安移動」の企画・運営 高速バスのメディアサイト「バスとりっぷ」の企画・運営 価格.comサイトの起業[編集]

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アッペンツェル鉄道ABDeh4/4 6-8形電車 – Wikipedia

この記事は更新が必要とされています。この記事には古い情報が掲載されています。編集の際に新しい情報を記事に反映させてください。反映後、このタグは除去してください。(2020年6月) アッペンツェル鉄道のロゴの入ったABDeh4/4 6号機、ガイス工場に留置中、2007年 ザンクト・ガレン-ガイス-アッペンツェル-アルトシュテッテン電気鉄道時代のABDeh4/4 6号機、アルトシュテッテン・シュタット駅、1986年 アッペンツェル鉄道ABDeh4/4 6-8形電車(アッペンツェルてつどうABDeh4/4 6-8がたでんしゃ)は、スイスのアッペンツェル鉄道で使用されていた1等・2等・荷物合造ラック式電車である。なお、本機はBCFeh4/4形の6-8号機として製造されたものであるが、その後1956、62年の称号改正によりABDeh4/4形6-8号機となっているものである。 スイス北東部に1000 mm軌間と1435 mm軌間の路線を持つアッペンツェル鉄道はさまざまな会社が統合を繰り返して2006年1月1日に現在の形態になっているが、このうち、ザンクト・ガレンからガイスを経由してアッペンツェルに至る路線は、もともとアッペンツェル軌道会社[1]が建設した路線であり、ザンクト・ガレン – ガイス間が1889年10月1日に、ガイス – アッペンツェル間が1904年7月1日に開業した、一部区間にリッゲンバッハ-クローゼ式のラックレールを敷設した路線であり、当初はHG2/3形およびHG2/4形ラック式蒸気機関車が牽引する列車で運行されていた。その後1931年1月23日に全線が直流1500 Vで電化され、併せて同年1月1日に社名をザンクト・ガレン-ガイス-アッペンツェル電気鉄道[2]に変更し、BCFeh4/4 1-5形[3]ラック式電車が列車を牽引していた。 一方、ガイスからアルトシュテッテンへ至る1000 mm軌間の路線は、アルトシュテッテン-ガイス鉄道[4]が建設した路線であり、1911年11月18日にアルトシュテッテン・シュタット –

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頬 – Wikipedia

頬を側面から見たところ 頬ずりしたり、頬にキスをする人々 頬(頰、ほお、ラテン語:buccae、英語:cheek チーク)とは、 顔の側面あたり、目の下で 鼻の脇にある、柔らかな部分のこと[1]。ほほ、ほっぺ、ほっぺたとも[1]。 咀嚼(もしくは、それに近い行為)を行う動物(ヒトを含む)の顔の構成部位の一つ。眼窩・口・耳の間に位置し、口器を膜状に包み込んでいる肉(外側は皮膚、内側は筋肉・粘膜など)のことである。[要出典] 頬とは、目の下、鼻の脇にある、柔らかな部分のことである[1]。 頬の皮下には唾液腺のひとつ耳下腺があり、唾液が作られている。食物を食べたり、食べるところを想像すると唾液腺から唾液が放出されるが、頬を円をえがくようにマッサージしても口中に唾液が出る。 顔の様々な部位に毛細血管があるが、特に頬(や鼻)あたりの毛細血管は目立つ場所にある。感情が高ぶると、血行が良くなり頬あたりが極端に赤くなる(「紅潮」する、「頬を赤らめる」)人もいる。(極端な場合で、本人がそれを苦にしている場合は「赤面症」と言う) 世界的に見て、寒い地域に住んでいる子供の頬は、寒風の影響を受けて(しもやけ状になり)真っ赤な色をしている場合が多い。 一般論として言えば、年齢が若い段階では頬の赤さが目立つが、年齢とともに次第に(血行が悪くなり)赤みが失われてゆく。 女性が化粧をする場合(あたかも、相手に好感を抱いたりするなどしてやや感情が高ぶっているかのように、あるいは、(若くなくても)あたかもまだ若いかのように装い)頬にやや赤みがかった色をさす(足す)ことが一般的である。これを cheek color 頬紅と言う。 一般に、頬への接触を許すということは、「相手との心理的な距離が近いと思っている」という意味がある。(頬の場所は、心理学概念の「パーソナルスペース」の中では、「密接距離」に当たる。)西欧では、親愛を示す挨拶方法のひとつに、(対面して)頬と頬を合わせてキスをする(キスをしたかのような音を唇で出す)、という方法が広く行われている。 また、親しい者同士が親愛の情を示す時、(同じ方向を見るなどして)頬と頬を接触させるという方法がある。(「ほおずり」)。また同様に、家族間、恋人間などでは相手の目を見つめつつ相手の頬を手で優しくなでる、ということが行われることもある。 子供の不満の表現方法のひとつとして(あるいは親しい人同士で、気を許しあって(甘えて)、子供のように不満を表明する方法として)、口を閉じて頬を膨らませる方法がある(「膨れ面」「ふくれっつら」) 呼称[編集] 日本語

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アウンサンスーチー – Wikipedia

この名前は、姓を有していません。姓に見える部分まで含めて、個人名の一部です。 アウンサンスーチー(ビルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည်(画像による標示:)、ラテン文字表記: Aung San Suu Kyi、ALA-LC翻字法: ʼOṅʻ Chanʻ” Cu Kraññʻ、IPA: /àʊN sʰáN sṵ tɕì/。1945年6月19日 – )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、映画監督。国家顧問。現在、国民民主連盟党首。 2016年3月30日にティンチョーを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)[2]、さらに新設の国家顧問にも就任した。同国における国家元首は大統領だが、大統領を超越する存在としてアウンサンスーチーが事実上の最高指導者であった[3]。2021年ミャンマークーデターを受けて、現在自宅で軟禁中。 ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる[4]。使用言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語[5]。2013年、訪仏時はフランス語で講演し、訪日時は英語で記者会見した[6][7]。 日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「アウンサン・スーチー」「スー・チー」などと表記されることもあるが、ミャンマー人(現在のビルマ語族の大半)は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では通常「アウンサンスーチー」の一語で表記する(後述)。

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