Month: October 2017

エクステリア – Wikipedia

エクステリア(英: exterior)は、本来は乗物の外装(ドイツでは畜産動物の外観de:Exterieur)、 住居の外観や外壁を意味するが、住宅敷地まわりのエクステリアを指す場合には一般に屋外構造物の門扉、塀といった外柵[1]、車庫などのほか、庭とそこに設置されるウッドデッキ、トレリス、パーゴラ、植栽、その他の設備なども含め敷地内の外部空間全体をさす場合が多い。[2]インテリアの対義語[1]。 敷地まわりのエクステリア[編集] 外構は敷地まわりの構造物をおもに示すが、エクステリアは草木地など前庭等も含めて述べられる。 関連する資格として、日本の造園に関する資格一覧にある資格の他、東京商工会議所主催 福祉住環境コーディネーター検定試験 などがある。 基幹技能者の例では、建築ブロック・エクステリア基幹技能者 がある。 関連団体として、日本アルミニウム協会、全国技能士会連合会に所属する日本エクステリア工業会 などがある。 なお、網戸など建材製品などもエクステリア製品と呼ばれることがある。 外構は敷地まわりの構造物をおもに示すが、エクステリアは草木地など前庭等も含めて述べられる。 エクステリアは住宅敷地まわりの構造物を指す場合と庭と敷地内の外部空間全体をさす場合がある。寺院のパーゴラ、ベンチなど(安国論寺 神奈川県鎌倉市) 伝統的な日本家屋に新設された塀。 日本では古来より、庭園造りという伝統があり造園業が存在したが、近代にいたり特に都市部では住宅を取り巻く環境が車社会の到来や住宅の欧米化なども含めて大きく変化したため、従来の庭造りの概念だけでは解決できず、門、塀、車庫、アプローチなどがより建築やそれを取り巻く街並みとの兼ね合いで住環境を捉える必要から、エクステリアという新たな概念が生まれた。 また、それを専門に設計施工する専門家や施工業者が増加した。 しかし、エクステリアという言葉の概念があいまいであったため、設計・施工に関しても確かな拠り所がない時期があった。 その間にエクステリアを取り巻く環境は大きく変化し、『景観条例』、『街作り条例』施行などで、環境整備、町並み保全、緑化などが全国の自治体によって進められたことなどから、それらに配慮したエクステリアのあり方や技術、技能の向上の重要性が増してきた[3]。

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アダム・ブラウン – Wikipedia

アダムブラウン ( ニューヨーク市、1983年10月31日生まれ)は、アメリカの起業家、作家、慈善家です。 彼はWeWork によるWeGrowのCOO [1]であり、学校を建設し、発展途上国の子供たちの教育へのアクセスを増やす活動を行う非営利組織であるPencils of Promiseの創設者です[2] 。 彼は、2018年5月にWeWorkが買収した無借金の高等教育プログラムであるMissionUのCEO兼共同創設者でした[3] 。 彼はまた、「for-purose 目的のため」アプローチの作成者でもあり[4] 、 ニューヨークタイムズのベストセラーである書籍「 鉛筆の約束:普通の人が異例の変化を生み出す方法 」[4]を執筆しています。 [5] 生い立ち[編集] ブラウンは宗教的な保守的なユダヤ人の家族にニューヨーク市で生まれ、彼の兄スコット(音楽プロモーターであるスクーターブラウンとも呼ばれています)、リザ、サム、コーネリオとともにコネチカット州グリニッジで育ちました。

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私を球場に連れてって! – Wikipedia

『私を球場に連れてって!』 (わたしをきゅうじょうにつれてって!、英語: Take me to the ballpark![注釈 1]、Take Me to the Baseball Stadium[注釈 2]) は、原作: スーパーまさら、作画: うみのともによる日本の4コマ漫画。芳文社の『まんがタイムきららMAX』にて、2017年4月号から2021年7月号にかけて連載された[1]。略称は『たまつれ』[3]または『わた球』[4]。 野球観戦をテーマとした4コマ漫画であり、実際の球団や球場をモデルにした球団や球場が登場する。 主な舞台は埼玉県所沢市周辺であり、所沢を本拠地とする埼玉ホワイトキャッツの試合を観戦することが多い。 本作は2015年から2016年にかけてまんがタイムきららMAXでゲスト掲載されたスタンドびより!をベースとしている[注釈

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寝台列車 – Wikipedia

寝台列車(しんだいれっしゃ)とは、夜行列車のうち寝台車を主体とした列車を指す。 日本[編集] 寝台列車の定義[編集] 寝台特急のシンボルマーク。寝台急行は「JTB時刻表」では白黒が反転して表記された。 1960年代に発行された日本交通公社の『時刻表』では、「寝台車を主体にして、全部の車両が指定制の列車」と定義していた。同時刻表は1963年7月号まで「寝台専用列車」の表記を用い、8月号から「寝台列車」に変更されている[1]。したがって、自由席を含む座席車が主体で、編成内に少数の寝台車が含まれる「津軽」などは「寝台列車」とされなかった。ただしその後、急行「十和田」(常磐線)や「狩勝」(根室本線)のそれぞれ一部列車や、臨時列車に格下げ後の急行「きたぐに」(北陸本線)のように、寝台車主体で座席車は1〜3両程度でありかつ全車指定制の列車であっても同時刻表で「寝台列車」として扱われなかった例もあり(一方で、寝台特急「明星」や「彗星」の一部は一時期、普通車指定席4両、グリーン車1両の計5両座席車連結で運転していたが、こちらは「寝台列車」の扱いを受けている)、その理由は不明である。 「寝台特急」は、「寝台列車」のうちの特急列車であり、20系客車以降の固定編成客車による「ブルートレイン」や、581・583系電車、285系電車による寝台列車がある。現存するのは285系電車によるものだけである。 歴史[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “寝台列車” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年3月) 前史[編集] かつて大量の寝台車が存在し、”all-Pullman“と呼ばれる寝台専用列車が多数存在したアメリカ合衆国を例外とすれば、世界各国の鉄道で長距離を運行する夜行列車は、優等客と大衆乗客のいずれのニーズにも応じることを目的として、寝台車と一般座席車の混結編成を組むことが普通だった。 日本もその例に漏れず、1900年に山陽鉄道が日本初の寝台車を運行開始して以来、寝台専用列車というものは長らく存在しなかった。たとえ優等客専用の列車であっても、寝台車と座席車の双方が連結されていた。 ただし、例外的な存在として、太平洋戦争中まで東京

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シフトノブ – Wikipedia

一般的なH型5速MTのシフトパターン。車検上はこのパターンをノブあるいはシフトレバーの周囲に表示する事が義務付けられている 5速マニュアルトランスミッションのシフトノブ。純正ノブに多いガングリップ型である。 アメリカで1960年代に大流行した「’Big Daddy’ Roth ‘bloodshot eyeball’」の眼球デザインのシフトノブ 社外品に交換したシフトノブ及び、シフトパターンを示すためのプレート シフトノブ(shift knob)とは、トランスミッションのシフトレバー先端にある取っ手である。シフトノブの他にギアノブ、ギアシフトノブ、スティックシフトノブと呼ばれることもあり、単にノブと略される場合もある。 トランスミッションに接続されたシフトレバーはしばしば無垢の金属棒や金属パイプとして製作されるため、人間が手に触れるインターフェースとしては不適切である。シフトノブの主目的は人間が手に触れる人間工学インターフェースとしての役割を果たすことであり、プラスチック、ウレタン樹脂、木、金属など人間の手触りを考慮した様々な材料で製作され、球型、ガングリップ型、棒型、T字型など様々な形状のものが存在する。車種によっては高級感を演出するために革巻加工を施したり、そのトランスミッションの操作特性に合わせて、シフトノブの内部に鉛などの錘を内蔵してドライバーの操作力の軽減を狙っている物なども存在する。いくつかの旧い車両のシフトノブにはオーバードライブ機構を作動させる為のボタンがMT/AT問わずに取り付けられている場合もある。 一般的にはメーカー純正のノブ形状は保守的な傾向があり、マニュアルトランスミッションの場合はガングリップ型や球形、オートマチックトランスミッションの場合にはT字型のノブを採用することが多い。しかし、社外品の世界においては人間工学上の合理性を追求したものから、髑髏や水中花入り、水玉模様の非常に長いクリスタルノブなど荒唐無稽な形状のものまで無数のデザインのシフトノブが存在する。 モータースポーツ指向の強いメーカーの物は、人間工学上合理的な球型を選択することが多い。また、人の手に常に触れる部品のために夏の暑さや冬の冷たさなどの不快感を軽減するためにジュラコンなどの熱を保ちにくい素材が用いられることもある。球型は人間の手の中でピロボール的作用を果たし手の力を無理なくシフトレバーに伝えるため、よりクイックなシフト操作を望むドライバーには、ショートストロークシフトレバーと併用してこれらのノブを使用する者も多い。 しかし、それとは対照的に大型自動車などでは大型で重いトランスミッションのシフト操作力を低減する目的で、敢えて非常に長いシフトノブを装備して、ダブルクラッチを行いながらテコの原理でゆっくり確実に叩き込む手法を採るドライバーも存在する。 シフトノブ自体はシフトレバーに刻まれた雄ねじにねじ込まれているか、レバーに差し込まれてビス止めされているだけなので、既存のノブの形状に飽き足らない者は自分の手にあったノブを自作する事例などもある。 旧車のレストアにおいては、経年劣化でボロボロになったシフトノブを革巻補修して再度使用する事例なども見受けられる。 このように、最終的にはシフトノブの形状や長さ、重さは各々のドライバーの操作手法や見た目の好みに因る部分が大きくなるため、様々な形状を試した上で自分の操作手法に合った最適なものを選択することが望ましい。 なお日本の車検制度上、マニュアルトランスミッションのシフトノブには、ノブ自体あるいはシフトレバー周辺にその車両のシフトパターンを明記することが義務付けられている。純正シフトノブの場合は、シフトノブ本体にシフトパターンが刻印されるが、社外品のシフトノブはデザインや汎用性を重視してシフトパターンを刻印しないことが一般的である。そのため、シフトノブを社外品に交換した場合、当該車両のシフトパターンが明記されたシールやプレートなどを別途用意し、シフトノブ周囲に貼りつける必要がある。5MT車に6MT車用のシフトノブを付けたりまたその逆のパターンなど、ギア数とシフトノブの表示が異なる場合は車検不適合となる。 警笛と同様に、保安基準に適合不適合となるような明確な基準は存在しないため、自作や、手書きのものでも検査官の判断によるが問題はない。 関連項目[編集]

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エリーザベト・フォン・ヘッセン (1539-1582) – Wikipedia

エリーザベト・フォン・ヘッセン(ドイツ語:Elisabeth von Hessen, 1539年2月13日 – 1582年3月15日)は、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世の最初の妃。 エリーザベトはヘッセン方伯フィリップ1世とクリスティーナ・フォン・ザクセン(ザクセン公ゲオルクの娘)の間の娘である。 1560年7月8日にマールブルクで後にプファルツ選帝侯となるルートヴィヒ6世と結婚した。2人はルートヴィヒ6世が選帝侯となるまではアンベルクに居を構えた。敬虔なルター派信者のエリーザベトの影響下で、ルートヴィヒ6世は選帝侯領内でルター派を復活させた。 常に病であったルートヴィヒ6世は遺書で、ヴュルテンベルク公ルートヴィヒおよびブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒに加え、エリーザベトとその兄ルートヴィヒ4世を息子フリードリヒの後見人に指名した。しかし、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールは選帝侯の男系親族として選帝侯領の管理人の地位を要求した。他の後見人と共に、エリーザベトは帝国裁判所でヨハン・カシミールと争ったが敗れた。その過程で、ヨハン・カジミールはエリーザベトの兄ヴィルヘルム4世の支持を受けていた。ヴィルヘルム4世はルター派の影響が妹エリーザベトを通してフリードリヒと選帝侯領の支配に及ぶことを恐れたためである。 1576年よりエリーザベトと夫ルートヴィヒ6世の医師であったゲオルク・マリウス(ドイツ語版)により診断されていた足痛風のため、オッフェナウの塩水浴場で温泉療法を受けた[1]。エリーザベトは夫ルートヴィヒ6世の死の1年前の1582年に(腸から痛みなく膿や血が出る病で[2])死去し、4月1日にハイデルベルクの聖霊教会に埋葬された。 エリーザベトは12人の子を儲けたが、3人しか成長出来なかった。 アンナ・マリア(1562年 – 1589年) – スウェーデン王カール9世と結婚。 エリーザベト(1562年) ドロテア・エリーザベト(1565年) ドロテア(1566年 –

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いのうえよしひろ – Wikipedia

いのうえ よしひろは、日本のデザイナー、アートディレクター。CDジャケット、パッケージデザインを中心にロゴ、コンサートグッズのデザイン等を手がける。 神奈川県横浜市出身。セツ・モードセミナー卒業、阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。2002年、友人と二人でデザイン事務所、ジョットグラフィカ(Giottographica)を設立。 主な仕事[編集] CD/DVDジャケット[編集] 9mm Parabellum Bullet 【CD】-『Black Market Blues e.p.』『Cold Edge e.p.』『命ノゼンマイ』『Revolutionary』『新しい光』『Movement』『「Movement YOKOHAMA」 Live at YOKOHAMA ARENA 2011.6.26』『カモメ

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古川小百合 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “古川小百合” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年9月) 古川 小百合(ふるかわ さゆり、1984年[1]8月23日 – )は、日本の声優、文化人、実業家。長崎県出身。トイプリッズ代表取締役社長、美声ラボ代表。 タレント、モデル、声優など現役の役者に指導する講師であり、声優を目指す生徒へレッスンを行う美声ラボの代表である。 アニメやゲームのほか、ナレーションの仕事もこなしている。またゲーム好きが嵩じてゲーム番組のMCやゲームイベントのMCをつとめることが多い。 愛称は、さゆりん。以前声優事務所で同期であった日笠陽子の愛称「ひよっち」の名付け親。愛犬はコーギーのジョイ、ハク。(ウェルシュ・コーギー・ペンブローク) 実家は家電製品や映像ソフトを販売する電器店。以前、父親がインベーダーハウスを経営しており本人が生まれた時にはリビングにテーブル筐体が置いてあった。美容師の兄と、アニメーション作家兼映像ディレクターである義理の兄・べんぴねこがいる。 FYTTEでは料理好きが判明、美助けアイテム先取りCheck!ブロガーを担当。『戦国大戦界〜学園戦国〜』で腕前を披露しているほか、ゲームエンタ!にてゲームキャラ弁当を製作、自身のyoutube「さゆりん先生のおうち」では主に料理動画を公開。 2015年に自身初の単行本「長崎あるある」を執筆。長崎県には13歳まで暮らしていたが、その後もよく地元に帰っているという[3]。

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竹澤健介 – Wikipedia

竹澤 健介(たけざわ けんすけ、1986年10月11日 – )は日本の元・陸上競技選手。専門は長距離種目。兵庫県姫路市出身。報徳学園高等学校、早稲田大学スポーツ科学部卒業後、エスビー食品を経て住友電工所属。北京オリンピックおよび世界陸上競技選手権大阪大会日本代表。大阪経済大学陸上競技部ヘッドコーチを経て[1]、2022年4月より摂南大学同ヘッドコーチ。 高校時代まで[編集] 小学生の頃テレビを通して早稲田大学・渡辺康幸の活躍を目の当たりにし、渡辺と、渡辺が着ていた早稲田大学の臙脂色のユニフォームに憧れ箱根駅伝を走りたくなったという[2]。中学では陸上部に入部し、全日本中学選手権1500m5位、3000m4位など全国で活躍する成績を残した。 報徳学園高校時代には、後に中央学院大学に進学する木原真佐人とは高校の同級生でありチームメイトであった。2004年、高校3年時に出場した島根インターハイ5000mではメクボ・ジョブ・モグス、佐藤悠基、サムエル・ワンジル、佐藤秀和、サムエル・ガンガら全国の強豪と走り、8位の成績を残した。第55回全国高等学校駅伝競走大会ではジョン・カリウキ、モグス、佐藤秀和、宇賀地強、佐藤悠基ら各校のエースが集う1区を走り、この大会において報徳学園高校は全国4位の成績を残した。 大学時代[編集] 2005年早稲田大学進学後は5月21日ゴールデンゲームズinのべおか5000mで男子ジュニア日本歴代9位となる13分45秒95をマークすると、関東インカレでは10000m10位・5000m6位、全日本大学駅伝予選会では各大学の強豪が集う最終4組で2位、日本インカレでも5000m4位・10000m5位と、1年生ながら早稲田大学のエースとして活躍をし始めた。第82回箱根駅伝予選会では個人3位に入り、早稲田大学予選突破の原動力となった。翌2006年1月2日、第82回箱根駅伝では2区(23.2 km)を任されるが1時間09分55秒の区間11位となり、「雰囲気に飲まれてしまった」という箱根デビュー戦となった[3]。 2006年4月1日、福岡で開催された第34回世界クロスカントリー選手権に伊達秀晃・今井正人・佐藤智之らと共に日本代表として出場した。6月11日第75回日本インカレ5000mでは13分30秒96の大会記録を更新する走りで、モグス・佐藤悠基に次ぐ3位入賞を果たした[4]。8月30日、イタリア・ロベレート国際大会5000mでは13分22秒36で走り、4位に入った。これは当時の日本歴代3位、学生歴代2位の記録となった。 年が明けて2007年1月2日、第83回箱根駅伝でも前年に続いて2区を走り、6人を抜き3位まで順位を上げるとモグスらを抑え区間賞を獲得した。1月21日、第12回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)では大学生・社会人混合区間である3区にエントリー。2番手でタスキを受けると序盤から飛ばして先頭に立ち、大森輝和・上野裕一郎につぐ区間3位でまとめ、兵庫県代表として優勝を飾った。4月29日には、アメリカ・スタンフォード大学で行われたカージナル招待において27分45秒59を記録し、世界選手権の参加標準記録Aを突破した。またこれは渡辺康幸の持っていた10000m日本人学生記録を12年ぶりに塗り替えるものであり、日本歴代9位(当時)となる記録であった[5]。6月10日、第76回日本インカレ5000mでは松岡佑起・高橋優太・上野裕一郎らをかわし優勝を飾った。続く6月30日、第91回日本選手権10000mでは28分56秒27で走り松宮隆行に次いで2位となり、世界陸上選手権大阪大会代表を確定的なものにした。 世界陸上大阪大会・北京オリンピック代表選出[編集] 同年7月28日、ベルギーで行われたナイトオブアスレチックスの男子5000mにおいて11位となり、13分19秒00を記録した。これは高岡寿成の持っていた5000m日本学生記録を15年ぶりに更新するものであり、日本歴代4位となる記録であった。4月の10000mとこの7月の5000mの記録は北京オリンピックの参加標準記録Aを突破するものであった。8月27日に出場した、世界陸上選手権10000m決勝ではケネニサ・ベケレが27分05秒90で圧倒的な強さを見せ大会3連覇を飾り[6]、竹澤は日本勢最高位の28分51秒69の12位となった。11月4日、第39回全日本大学駅伝では2区(13.2 km)を走り、ラストスパートで松岡佑起・宇賀地強を振り切り区間賞を獲得。また37分42秒の区間新記録を樹立した。11月22日、この年から男女混合レースとなった第19回国際千葉駅伝では5区を走り、エチオピア勢らを抑え区間賞を獲得。日本チームの優勝に貢献した。 2008年、第84回箱根駅伝前には抱えていた故障が悪化し3区(21.5 km)にエントリー、痛み止めを注射した状態で7人抜きの力走を見せ区間賞を獲得。早稲田大学12年ぶりとなる往路優勝に貢献した。2008年度には早稲田大学競走部主将を務めた。その後目標を北京オリンピック出場に定めた。故障が続き練習が積めない状態が続いたが、第92回日本選手権5000mに出場。残り1周からラストスパートで前を交わし、残り100mでは13秒台のスピードで先頭を追いかけ、松宮隆行に次ぐ2位に入った[7]。この時の感想を「(五輪は)大学に入るまでは遠い目標だった。まだ決まっていないけど、今はちょっと夢見心地」と語った[7]。この後北京オリンピック男子陸上日本代表に選出された。またこれは1964年東京オリンピックに参加した猿渡武嗣(中央大学)以来44年ぶりの、現役の箱根駅伝ランナーの五輪代表選出となるものであった。 同年8月17日、北京オリンピック10000m決勝ではケネニサ・ベケレ、ハイレ・ゲブレセラシエらと走るも、中盤でのペースアップにはついていけず、28分23秒28の28位に留まった。8月20日、5000m予選3組ではベケレらと走ったが、13分49秒42の同組7位に終わり予選突破はならなかった。 2009年1月2日、最後の箱根路となる第85回箱根駅伝では前年に続き3区にエントリー。6番手でタスキを受けると1キロ2分45秒のペースで入ると藤沢までの間に2位に浮上し[8]、先頭を行く山梨学院大学を猛追。戸塚中継所では3分26秒あった差を16秒に縮める走り、2006年佐藤悠基が樹立した区間記録を32秒更新する1時間01分40秒の区間新記録で区間賞を獲得した。この後早稲田大学は2位となった。 社会人時代[編集] 4月1日エスビー食品株式会社に入社、社内留学制度を活用して早稲田大学大学院に進学した[9]。6月には世界陸上選手権代表選考を兼ねた第93回日本選手権5000mに出場し、高い気温のもと果敢に序盤より先行したが、同社の1年先輩・上野裕一郎にかわされ2位となった。11月10日のアジア選手権5000mに出場し4位となると、11月23日には2年ぶりの出場となる第21回国際千葉駅伝において3区を担当、2区小林祐梨子からタスキを受けると序盤から後続を突き放して、第19回大会と同様に赤羽有紀子へとつないだ。大学の後輩で日本学生選抜・矢澤曜らを抑え3区区間賞を獲得、日本代表として優勝を飾った。12月12日、中国・香港で開催された第5回東アジア競技大会10000mに出場し、ラストスパートで勝負を決め30分18秒91のタイムで優勝を飾った。2010年1月24日、第15回全国都道府県対抗男子駅伝では7区(13.0 km)アンカーを務めた。1位通過・埼玉から46秒差、3位福島の佐藤敦之とほぼ同時の4位でタスキを受けると共に先頭を追い上げた。11キロ過ぎに埼玉をかわすと、残り300メートル付近からラストスパートで佐藤を振り切り、自身2度目・兵庫県チーム3年ぶり3度目の優勝となるゴールテープを切った。 2010年6月4日第94回日本選手権10000mに出場。レース中盤で後方から徐々に順位を上げ、最後の直線で北村聡をかわして大会初優勝を飾った[9]。

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