Month: October 2017

紫電改のタカ – Wikipedia

紫電改のタカ(しでんかいのタカ)は、ちばてつやの漫画。少年漫画誌『週刊少年マガジン』に1963年(昭和38年)7月から1965年(昭和40年)1月まで連載され、その後も新書/文庫による単行本が出版された。 太平洋戦争末期に日本海軍の最後の希望として配備され、防空戦で奮戦した戦闘機「紫電改」に搭乗するパイロットとその周囲の人々を描いた戦記漫画。戦う軍人や航空機を勇ましく、美しく描く一方で、死と隣り合わせの戦争の中で生きる若者たちの苦痛や苦悩を描き出し、子供たちに戦争の二面性を感じさせ、当時の多くの子供の心をつかんだ人気作品となった。 この当時、戦記物のブームがあり、ちばてつやも編集部の依頼で書くこととなった(ただし、この時点であまり気が進まなかったと後に語っている)。連載当初は、一般的な戦記物と同じような展開をしていたのだが、書けば書くほどに疑問が募り、中盤以降独自の展開をするようになる。特に、終盤は、ちばてつやの戦争に対する思いが前面に押し出されることとなり、当時の戦記物漫画とは一線を画した作品となる。また、連載当時子供であった世代の人々に紫電改は日本海軍航空隊の有終の美を飾った名機であり、「剣部隊」こと(第二次)第343海軍航空隊はエースパイロットを集めた精鋭部隊であると認識させるのに一役買った漫画でもある。 作者のちばてつや自身は「この作品は失敗作だと思っている。話が地味で悲惨であり、主人公もくそまじめだから(原文ママ)」とコメントしている[1]。だが近年に至るもこの作品は数年毎に新装出版され続けている[2]。 あらすじ[編集] 主人公は滝城太郎一飛曹(のち飛行兵曹長)という大日本帝国海軍の青年パイロット。 ストーリーは太平洋戦争末期、当時日本領だった台湾の日本海軍高雄基地から始まる。高雄基地駐留の帝国海軍第701飛行隊は20数機そこそこの編隊。50機以上の米海軍戦闘部隊との決戦で飛行隊長、白根少佐を含むほとんどが戦死。主人公の滝をはじめ、紺野一飛曹、久保一飛曹、米田二飛曹の4人が生き残り、後に源田実が設立させた防空部隊の三四三空(松山三四三航空隊)通称“剣部隊”に編入し、活躍する。主人公の滝城太郎は新戦法をあみだし、やがて撃墜王となってゆくが、終戦を目前にして特攻隊員として出撃してゆく。 登場人物[編集] 担当声優はソノシート版 / ドラマCD版でのキャスト。特別記載がなければドラマCD版のもの。 日本軍[編集] 滝城太郎(たきじょうたろう) 声 – 小宮山清 / 斉藤壮馬 主人公。一飛曹のち飛行兵曹長(作中では「兵曹長」)。おはぎが大好物。地元の四国松山出身。優しげな外見に似合わず豪胆で、他の者が思いもつかぬ大胆な発想で度々戦果を挙げる。敵の眼前から消えたと見えるほどの急降下の後、急上昇して敵を真下から攻撃する「逆タカ戦法」が得意技。他の者がこれを真似ると機体に負荷がかかり空中分解する恐れがある。後にさらに強力な「新戦法」を編み出すが、具体的にどんな戦法かは作中では明確にされなかった。終戦の暁には教師を目指す夢を抱くも願いは叶わず、皮肉にも終戦直前とおぼしき最後の局面で特攻出撃を命じられ出撃する(生死の行方ははっきり描かれていないが、状況から見て戦死したことは間違いないと思われる)。 なお、作品タイトルは紫電改だが、彼らの当初の乗機は原型機の紫電である。

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SMASHING ANTHEMS – Wikipedia

『SMASHING ANTHEMS』(スマッシング アンセムズ)は、水樹奈々の11枚目のオリジナルアルバム。2015年11月11日にキングレコードから発売された[3]。 前作『SUPERNAL LIBERTY』から約1年7ヶ月ぶりのリリースとなるオリジナルアルバム。 販売形態はCD+Blu-ray(KICS-93297)、CD+DVD(KICS-93298)、通常盤(KICS-3297)の3種類で、Blu-rayおよびDVDには2002年から2005年に行われた水樹の未公開ライブの映像が収録されている[4]。 限定盤のフォトブックの撮影は神戸市(垂水漁港、うろこの家・うろこ美術館、旧シャープ住宅、神戸ファッション美術館、六甲ケーブル)・西宮市(阪神甲子園球場、新西宮ヨットハーバー)で行われた。 収録内容[編集] CD [1] Glorious Break Never Let Go SUPER☆MAN 作詞・作曲:Kon-K、編曲:陶山隼 TBS『東京EXTRA』2015年11月・2016年1月度テーマソング Angel Blossom

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佐藤美子 – Wikipedia

佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 – 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。 生い立ち~留学[編集] 1903年5月25日、日本人の父・佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた[2][1]。4歳の頃、父の横浜税関への転勤をきっかけに横浜に住む。1911年、横浜市老松小学校に入学したが「あいのこ」であることを理由にいじめられたことをきっかけに、1911年9月に横浜紅蘭女学校(現横浜雙葉学園)に転校する[3]。幼少期に父に連れられて横浜山手で初めて見たゲーテ座のオペラ『カルメン』を見たことをきっかけにオペラ歌手を目指す。 1923年、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科に入学し、1926年に卒業した[4]。ネトケ=レーヴェに師事[5]。1926年にNHK初のオペラ放送にメゾ・ソプラノ歌手として出演した[4]。田谷力三、松平里子、内田栄一らと「ヴォーカル・フォア」を結成した[4]。1929年ヴォーカル・フォアが『カルメン』全曲のコンサートを開き、以後「カルメンお美」と呼ばれるようになる[3]。 帰国後の活動[編集] 1932年にフランスから帰国し、山田耕筰の『カルメン』に出演。1935年に洋画家佐藤敬と結婚し、横浜市鶴見に住んだ。戦中は横浜交響楽団を引率して音楽挺身隊に従事した。 1954年には、全国初の音楽堂建設の推進団体音楽懇話会の代表として関わり、神奈川県立音楽堂開館を実現する[6]。同館の開催する音楽教養講座の講師ともなった。1964年には、創作オペラ協会を設立する。また、1964年には横浜市教育委員に就任するなど音楽教育・音楽文化の振興に努めた。 1972年紫綬褒章、神奈川文化賞受賞[7]、1974年には横浜文化賞を受賞した[8]。 1978年勲四等宝冠章[7]。 1980年2月、中島敦『山月記』原作の創作オペラ『虎月伝』を上演した[7]。 『虎月伝』は同年10月に第8回ウインナ・ワールドオペラ賞特別賞、さらに12月には第4回音楽の友社賞とレミー・マタン賞も受賞した[3]。 1981年オペラ団体協議会会長に就任、オペラハウス建設に尽力した[1]。 1982年オペラの稽古中に発病、死没[7]。横浜市西区久保山墓地に眠る。[1] 出演作品[編集] 『春香』 『ミカド』

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アレクセイ・アントーノフ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アレクセイ・アントーノフ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) アレクセイ・インノケンチエヴィチ・アントーノフ(ロシア語: Алексей Иннокентьевич Антонов, ラテン文字転写: Aleksei Innokent’evich Antonov, 1896年9月15日 – 1962年6月18日)は、ソ連軍司令官。上級大将。タタール人。

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聖ソフィア大聖堂 (キエフ) – Wikipedia

座標: 北緯50度27分10秒 東経30度30分52秒 / 北緯50.45278度 東経30.51444度 / 50.45278; 30.51444 聖ソフィア大聖堂(せいソフィアだいせいどう、ウクライナ語: Собор святої Софії[1])はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された[2]。10世紀~13世紀、15世紀~18世紀の間、キエフ府主教の主教座大聖堂であった。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」の一部として世界遺産リストに登録された。 ルーシ時代の大聖堂の模型。 マザッパの時代に立てられた大聖堂前の塔。 ルーシ年代記によれば、聖ソフィア大聖堂は1017年ないし1037年にキエフ大公国のヤロスラウ大公によって建立されたのである。また、同じの年代記の伝説によれば、その大聖堂はヤロスラウがペチェニーヒの大軍を破り、大勝利を得た場所に建てられたという。 聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために造られた。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまでに、キエフおよび全ルーシの府主教の座、大公たちの即位儀式・結婚式・葬式の場所、それに、異国使節団の接待の場所として多面的に利用されてきたのである。大聖堂ではルーシ初の図書館と大学が存在し、国家の歴史編纂作業も行われていた。 キエフの聖ソフィア大聖堂は中世ヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つであった。その広さは54.6メートル、長さは41.7メートル、床から中央ドームまでの高さは28.6メートルほどであった。大聖堂は5つのネーヴ、5つのアプスと13のドームを有していた。大聖堂内では色彩に富んだモザイク・フレスコ・イコンがあった。全体として、大聖堂はビザンツ様式でたてられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持っていた。その名称は、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。 1169年にキエフは、現在のロシアの故郷とよばれるウラジーミル・スーズダリ大公国の軍勢によって略奪された。そのときは、聖ソフィア大聖堂は初めて大きな被害を受けた。その後、1240年、キエフはルーシに侵入したモンゴル帝国の大軍によって包囲されて占領され、キエフ・ルーシが亡び、大聖堂は部分的に荒れ果てた。 1569年に聖ソフィア大聖堂はウクライナ・カトリック教会の司教座となり、大聖堂内では本格的に修理が行われた。1633年になると、その大聖堂はウクライナ正教会の手に渡され、イタリアの建築家、オクタヴィーノ・マンチーニが修理作業を指導した。イヴァン・マゼーパによって始められた作業はようやく1740年に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロック様式で造りかえられた。現存している聖ソフィア大聖堂は当時の姿のままであり、美しい玉葱形の塔が聖ワシリイ大聖堂の造形にヒントを与えている。

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ドラドラ子猫とチャカチャカ娘 – Wikipedia

『ドラドラ子猫とチャカチャカ娘』(ドラドラこねことチャカチャカむすめ、原題:Josie and the Pussycats)は、アメリカ合衆国のテレビアニメ。ハンナ・バーベラ・プロダクション製作。1970年9月12日から1971年1月2日までCBSで放送された。アーチー・コミック出版の同名のコミックスを原作とする。全16話。日本では1971年に日本語吹き替え版がNET(現:テレビ朝日)で初回放送され、後に各ローカル局で再放送後、カートゥーン ネットワークで不定期に再放送が行われた。 本作は売り出し中のバンド「子猫チャカチャカーズ」が、行く先で起きる様々な事件を解決する内容となっている。同様の理由から、本作ではキャラクターによる歌唱シーンがある。また、日本語版の初回放送時の声優テロップは、一文字のみ斜めに向いているという、独特の表示だった。この表示は次番組『ドボチョン一家の幽霊旅行』でも行われている。 1970年、本作から派生した「Josie and the Pussycats」というバンドが実際の音楽グループとしてデビューし、翌1971年まで活動した。 続編である『ピッピーの宇宙大冒険』(Josie and the Pussycats in Outer Space)は、1972年9月9日から同年12月23日まで放送された。全16話。 2001年には『プッシーキャッツ』という題名で、ユニバーサル映画とMGMの合作として実写映画化された。 登場人物[編集] チョロ

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アヴェンジャー (小説) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アヴェンジャー” 小説 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 『アヴェンジャー』は、フレデリック・フォーサイスの小説。2003年にイギリスで刊行された。日本語版は篠原慎の翻訳により2004年8月に角川書店から刊行された。 あらすじ[編集] ベトナムの勇士、キャル・デクスター弁護士は、娘をヒスパニア系暴力団に殺された。キャルは、偽造パスポートでパナマに潜り込み、暴力団のボスを殺害した。その後は、国外に逃亡した殺人犯の探索を裏家業とする。 今回の依頼は、アメリカ人のリッキー・コレンソを殺害した犯人の探索と身柄拘束である。リッキーは、ボランティアでボスニアへ行き、そこでセルビアの民兵組織に殺害された。キャルは民兵組織のボスのゾラン・ジリチの行方を追い、南アメリカのサン・マルティン共和国(フォーサイスの創作による架空の国)の要塞に隠れ住んでいる事を突き止める。キャルはこの要塞への侵入計画を綿密に立てていく。一方、ウサマ・ビン・ラディンの殺害を計画しているCIAの高官ポール・デヴローは、ウサマ・ビン・ラディンの居場所を知る手がかりを持っているゾラン・ジリチを守るため、キャルの要塞への侵入を妨害しようとする。 CIAの追及を逃れたキャルは要塞に侵入し、ゾラン・ジリチが自家用ジェット機で逃げるように仕向ける。そのジェット機をハイジャックしたキャルは、アメリカのキーウェスト国際空港に強制着陸させ、ゾラン・ジリチの身柄をアメリカ司法に引き渡す。ゾラン・ジリチの身柄拘束のニュースが新聞に掲載された翌日、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が勃発する。 登場人物[編集] キャルヴィン(キャル)・デクスター 弁護士。裏家業として「人狩り」を請負う。コードネーム:アヴェンジャー。ベトナム戦争当時、特殊部隊「トンネルのネズミ」に所属していた。その時の通称はモグラ。左の前腕に雌ネズミの刺青がある。 アンジェロ・デクスター(マロッツィ) イタリア系アメリカ人。キャル・デクスターの妻。 アマンダ・ジェーン・デクスター

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乳母車 – Wikipedia

この項目では、乳幼児を乗せて運ぶ手押し車について説明しています。1956年の日本の映画については「乳母車 (映画)」をご覧ください。 古典的な乳母車(1910年製) 乳母車(うばぐるま)は乳幼児を乗せて運ぶ手押し車である。ベビーカー[注釈 1]やバギー[注釈 2]ともいう。 13世紀の手押し車の利用法 ヨーロッパでは中世13世紀ごろから子供を手押し車に載せて運ぶことが行われていた。 専用のものとしては、古くはイギリスの著名な造園家ウィリアム・ケントが1733年、第3代デヴォンシャー公の求めに応じ製作したものが知られているが、これは犬や子馬に牽かせる荷車のようなもので豪華な装飾が施されていた[1]。1830年代にはアメリカの玩具製作者ベンジャミン・ポッター・クランドール[注釈 3]が販売していたことが知られており、その息子ジェス・アーマー・クランドール[注釈 4]は様々な改良を加えて数多くの特許を取得している[2]。日本最初の乳母車は、1867年に福沢諭吉がアメリカから持ち帰った乳母車とされている[3]。 初期の乳母車は木製ないし枝編みで、時として芸術的なまでの装飾が施されており、王侯に因んだ名を付けられるような重量感ある高価なものだった。しかし1920年代になると一般家庭でも使われるようになり、軽量化も図られるようになった。 1965年、航空技師オーウェン・マクラーレンが、娘がイギリスからアメリカへ旅行した際に乳母車が重いことに不満を言ったため、アルミ製の折りたたみ式乳母車を開発した。これを製品化したマクラーレンは、現在世界的な人気ブランドとなっている。 現在普及している乳母車には、大別して箱形で寝かせるものと椅子形で座らせるものと2種類があり、英語圏では異なる名前で呼び分けている。日本では名前の区別はないが、SGマーク認定基準のA形・B形はおおよそこれに対応している[4]。もっとも、組み換えることで両用できる製品などもあり、絶対的な区別ではない。 箱形(英: pram, carrycot、米: baby carriage) 主に乳児を押し手と対面するように寝かせるもので、日本では「A形」に区分される。pram(元々は

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