伊藤アイコ – Wikipedia

伊藤 アイコ(いとう アイコ、1949年5月10日 – )は、日本の歌手[1]。ティーンエイジャーだった1960年代に、カバー・ポップスなどを吹き込んだ。

後年の言及やデータベースなどでは、伊藤アイ子とされている例もある[2]

実家は、羽田空港に近い鮮魚店であった[3]

もともと劇団ひまわりに所属し、共同映画が制作した教育映画への出演経験もあったが、12歳の頃にジャズ喫茶で歌っていたところを日本ビクターのディレクターに歌手としてスカウトされ、寺岡真三に師事することとなった[1]。1962年のレコード・デビュー当時は順心女子学園(後の広尾学園)の中等部1年生であり、「ティーン・プリンセス」という愛称が付けられた[1][3]

映画への出演も、1963年の映画『競輪上人行状記』[4]、1964年の映画『若い港』があった[2]

高校2年生であった1966年には、NHKテレビの『歌のメリーゴーラウンド』の司会となった[5]

ディスコグラフィ[編集]

おもなシングル[編集]

  • 冷いティーン・クイーン / わたしは十三歳 – 1962年:PV-10:デビュー・シングル
  • シェーナ・シェーナ / 白い渚のブルース – 1962年:PV-13
  • レモンのキッス / ファンキールックのお嬢さん – 1962年:PV-18
  • さいはての慕情 / スピーディー・ゴンザレス – 1962年:PV-21
  • シェリー / ブルージンヴィーナス – 1962年:PV-29
  • 太陽の下の18才 / サンライト・ツイスト – 1963年:PV-41
  • チコと鮫 / 魅惑のタヒチ – 1963年:PV-46
  • 悲しきハート / 恋の渚 – 1963年:PV-48
  • 可哀そうな乙女 / 春はくる – 1963年:VS-1165
  • 悲しき水兵さん – 1964年:SPV-6:B面は渡辺順子の「ウーキ・クーキ」
  • ラッキー・セブン – 1964年:SV-56:B面は田辺エイ子の「ブルー・ポニー」
  • さあ! オリンピックだ / 想い出の泉 – 1964年:VS-1194:A面は平尾昌章とのデュエット
  • 恋の意気地なし / わたしの年頃 – 1965年:PV-49
  • 恋するハート / そよ風にのって – 1966年:PV-58

シングル盤のほか、ソノシート、他の歌手とのカップリング盤なども出ていた。

  1. ^ a b c 「ポピュラー強化をめざして ビクターに新人 伊藤アイコ」『読売新聞・夕刊』、1962年5月21日、6面。「スター候補生に選ばれた伊藤アイコは、五月十日に十三歳になったばかりで順心女子学園一年生。ことしのはじめにジャズ喫茶で歌っているとき、そののびのある声とすなおな歌い方に斎藤ディレクターがほれこみ、編曲者の寺岡真三にあずけて約半年間レッスンを続け、来月「冷いティーン・クイーン」「わたしは十三歳」でデビューさせるが…。伊藤アイコは劇団「ひまわり」に所属していて共同映画が製作した「未来をつなぐ子等」という教育映画に出演したこともあるが、当分は歌一本で行くことになり…」 – ヨミダス歴史館にて閲覧
  2. ^ a b 伊藤アイ子 – 映画.com
  3. ^ a b 「[スタート・ライン]=19 伊藤アイコ 澄んだ豊かな声(連載)」『読売新聞・夕刊』、1962年7月23日、8面。「ポピュラー界のことしの最高のホープとして高く評価されている伊藤アイコは順心女子学園中等部一年生。…ビクターは ”十年に一度の歌手” というキャッチ・フレーズ “ティーン・プリンセス” つまり十代のプリンセスという愛称をつけた。…雪村いづみの育ての親であり、彼女の先生である編曲者の寺岡真三は「とてもいづみのデビュー当時に似ているんで驚いています。…」という。… 家は羽田空港近くの魚屋さん。」 – ヨミダス歴史館にて閲覧
  4. ^ 「どうコレ おすすめエンタ情報 「競輪上人行状記」 小沢昭一さん出演 爆笑か涙か」『東京新聞・朝刊』、2013年8月9日、17面。「春道が親身に世話する中学の教え子(伊藤アイコ)のいじらしさと、…」 – 中日新聞東京新聞記事データベースにて閲覧
  5. ^ 「[タレント] 伊藤アイコ」『読売新聞・朝刊』、1966年9月2日、7面。 – ヨミダス歴史館にて閲覧