アダム・ラローシュ – Wikipedia

デビッド・アダム・ラローシュDavid Adam LaRoche, 1979年11月6日 – )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州オレンジ出身(カンザス州育ち)の元プロ野球選手(一塁手)。左投左打。

父親は1970年代にカリフォルニア・エンゼルスでクローザーを務めていたデーブ・ラローシュ。また、弟のアンディ・ラローシュもプロ野球選手で、かつては共にピッツバーグ・パイレーツに所属していたこともある。

プロ入り前[編集]

1998年のMLBドラフト18巡目(全体550位)でフロリダ・マーリンズから指名されたが、フォート・スコット・コミュニティカレッジへ進学した。

1999年のMLBドラフト42巡目(全体1254位)で再びマーリンズから指名されたが、セミノール短期大学へ編入した。

ブレーブス時代[編集]

2000年のMLBドラフト29巡目(全体880位)でアトランタ・ブレーブスから指名され、6月21日に契約。ルーキー級ダンビル・ブレーブスで56試合に出場し、打率.308・7本塁打・45打点・4盗塁だった。

2001年はA+級マートルビーチ・ペリカンズで126試合に出場し、打率.251・7本塁打・47打点・10盗塁だった。

2002年はA+級マートルビーチとAA級グリーンビル・ブレーブスでプレー。同球団では45試合に出場し、打率.289・4本塁打・19打点・1盗塁だった。オフの11月23日にブレーブスとメジャー契約を結び、40人枠入りを果たした。

2003年2月18日にブレーブスと1年契約に合意。この年はAA級グリーンビルとAAA級リッチモンド・ブレーブスでプレー。AAA級リッチモンドでは72試合に出場し、打率.295・8本塁打・35打点・1盗塁だった。オフにはブレーブスの最優秀マイナーリーガーに選出された。

2004年は開幕ロースター入りを果たし、4月7日のニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビュー。6番・一塁として先発起用され、4回に1イニング2安打を記録。メジャー初安打と2安打目を同じ回に記録したのは、メジャー史上4人目、1988年のチャド・クルーター以来。ナショナルリーグでは史上初の快挙となった[1]。5月15日にはメジャータイ記録となる1試合4二塁打を記録[2]。5月28日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で左肩の脱臼し、翌日故障者リスト入りした[3]。7月2日にメジャー復帰を果たし、後半戦は引っ張るバッティングからコースに逆らわないバッティングへ変えた[4]。9月にはシーズン最高となる月間で打率.348・5本塁打・16打点を記録。この年は新人ながら110試合に出場し、打率.278・13本塁打・45打点だった。

2005年2月25日にブレーブスと1年契約に合意。フリオ・フランコを上回る141試合に出場し、打率.259・20本塁打・78打点だった。

2006年は前年オフにフランコがメッツへ移籍したため、ツープラトン起用から解放され、開幕から正一塁手として定着。前半戦こそ、打率.251・13本塁打と低調だったものの、後半戦に入ると打率.323・19本塁打と復調した。結局、シーズントータルで打率.285・32本塁打・90打点をマーク。この年の30本塁打はブレーブスの一塁手としては、フレッド・マグリフ、アンドレス・ガララーガに次ぐ球団史上3人目の快挙となった。

パイレーツ時代[編集]

2007年1月19日にマイク・ゴンザレス、ブレント・リリブリッジとのトレードで、ジェイミー・ロマックと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍[5]。2月2日にパイレーツと1年契約に合意した[6]。この年は打率.272・21本塁打・88打点と前年より悪化したが、苦手としていた左投手はミートに徹し[7]、対左投手打率.299と対右投手打率.262を上回った。

2008年1月15日にパイレーツと500万ドルの1年契約に合意[8]。7月31日にはロサンゼルス・ドジャースに所属していた弟のアンディがマニー・ラミレス、ジェイソン・ベイらとの三角トレードで、パイレーツへ移籍。兄のアダムは故障者リスト入りしていたため、8月14日に初兄弟出場を果たした。アダムとアンディは今まで同一チームでプレーしたことがないため、ラローシュ兄弟が生まれて初めて同一チームでプレーすることになった[9]。この年は136試合に出場し、打率.270・25本塁打・85打点・1盗塁だった。

2009年1月20日にパイレーツと705万ドルの1年契約に合意[10]。開幕後は87試合に出場し、打率.247・12本塁打・40打点・2盗塁だった。

レッドソックス時代[編集]

2009年7月22日にハンター・ストリックランド、アルヘニス・ディアスとのトレードで、ボストン・レッドソックスへ移籍[11]。移籍後は6試合に出場し、打率.263・1本塁打・3打点だった。

ブレーブス復帰[編集]

2009年7月31日にケイシー・コッチマンとのトレードで、古巣・ブレーブスへ移籍した[12]。移籍後は57試合に出場し、打率.325・12本塁打・40打点だった。この年は3球団合計で150試合に出場し、打率.277・25本塁打・83打点・2盗塁だった。守備では2失策に抑え、守備率.999を記録した。オフの11月5日にFAとなった。

ダイヤモンドバックス時代[編集]

2010年1月15日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと450万ドルの1年契約(2011年・750万ドルの球団オプション付き[13])を結んだ[14]。この年は自己最多の172三振を記録したが、3年連続で25本の本塁打を記録。また、自身初のシーズン100打点も記録した。オフの11月2日にダイヤモンドバックスが球団オプションを破棄したため、FAとなった[15]

ナショナルズ時代[編集]

2011年1月7日にワシントン・ナショナルズと総額1600万ドルの2年契約を結んだ(2013年は1000万ドルの球団側・選手側とも行使権のあるオプション、さらに100万ドルのバイアウト(契約破棄権)付き)[16][17]。開幕後の5月23日に左肩の故障で15日間の故障者リスト入りし、6月に左肩の手術を受けた[18]。9月3日に60日間の故障者リストへ異動した。この年は故障の影響で43試合にとどまり、打率.172・3本塁打・15打点・1盗塁と自己最低の成績となった。

2012年は154試合に出場し、自己最多の33本塁打に2年ぶり2度目の100打点を記録して完全復活。シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞もともに初受賞した。オフの11月1日に複数年契約を希望するため、ラローシュは1000万ドルのオプションを破棄し、FAとなった[19]。その後ナショナルズはクオリファイング・オファーを提示したが、11月9日に拒否した[20]

2013年1月8日にナショナルズと総額2400万ドルの2年契約(2015年の球団側・選手側とも行使権のあるオプション付き)で再契約した[21][22]。2年連続で150試合以上となる152試合に出場したが、打率.237・20本塁打・62打点と成績を大幅に落とした。これは、ADDの治療薬が体に合わず、体重が大幅に減ったのが原因とされる[23]

2014年は140試合に出場して打率.259・26本塁打(リーグ7位)・92打点(リーグ5位タイ)と復活を遂げ、主砲としてチームのプレーオフ進出に大きく貢献した。シーズン25本塁打以上を記録したのは自身6度目、90打点以上を記録したのは自身4度目の事である。また、自己最多の82四球を選び、出塁率.362は自己ベストの数値である。走塁面では失敗ゼロで3盗塁を決めた。オフの10月30日にナショナルズが1500万ドルのオプションを破棄したため、FAとなった[24]

ホワイトソックス時代[編集]

2014年11月25日にシカゴ・ホワイトソックスと総額2500万ドルの2年契約を結んだ[25]

2015年は指名打者及び一塁手として起用され、127試合に出場した。だが打撃不振に陥り、打率.207・12本塁打・44打点という成績は、いずれも長期離脱した2011年に次ぐ自己ワースト2位の数字だった。また1試合でマウンドに登る機会もあり、メジャー12年目にして投手デビューを飾った。1イニングを投げ、奪三振1を記録した。

2016年3月、息子の帯同を巡って球団と対立し引退を発表した[26][27]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]















O
P
S
2004 ATL 110 356 324 45 90 27 1 13 158 45 0 0 2 2 27 1 1 78 10 .278 .333 .488 .821
2005 141 502 451 53 117 28 0 20 205 78 0 2 2 6 39 7 4 87 15 .259 .320 .455 .775
2006 149 557 492 89 140 39 1 32 276 90 0 2 1 7 55 5 2 128 9 .285 .354 .561 .915
2007 PIT 152 632 563 71 153 42 0 21 258 88 1 1 0 4 62 5 3 131 18 .272 .345 .458 .803
2008 136 554 492 66 133 32 3 25 246 85 1 1 0 6 54 7 2 122 9 .270 .341 .500 .841
2009 87 368 324 46 80 25 1 12 143 40 2 2 0 3 41 6 0 81 9 .247 .329 .441 .770
BOS 6 19 19 2 5 2 0 1 10 3 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .263 .263 .526 .789
ATL 57 242 212 30 69 11 1 12 118 40 0 0 0 2 28 6 0 59 1 .325 .401 .557 .957
’09計 150 629 555 78 154 38 2 25 271 83 2 2 0 5 69 12 0 142 11 .277 .355 .488 .843
2010 ARI 151 615 560 75 146 37 2 25 262 100 0 1 0 4 48 4 3 172 8 .261 .320 .468 .788
2011 WSH 43 177 151 15 26 4 0 3 39 15 1 0 0 1 25 0 0 37 2 .172 .288 .258 .546
2012 154 647 571 76 155 35 1 33 291 100 1 1 0 9 67 7 0 138 10 .271 .343 .510 .853
2013 152 590 511 70 121 19 3 20 206 62 4 1 0 4 72 10 3 131 13 .237 .332 .403 .735
2014 140 586 494 73 128 19 0 26 225 92 3 0 0 8 82 9 2 108 13 .259 .362 .455 .817
2015 CHW 127 484 429 41 89 21 0 12 146 44 0 0 0 2 49 0 4 133 10 .207 .293 .340 .634
通算:12年 1605 6329 5593 752 1452 340 13 255 2583 882 10 11 5 58 649 67 24 1407 128 .260 .336 .462 .798
  • 各年度の太字はリーグ1位

年度別投手成績[編集]

年度別守備成績[編集]



一塁(1B) 投手(P)





2004 ATL 98 740 41 5 87 .994
2005 125 1070 77 7 105 .994
2006 142 1117 97 5 109 .996
2007 PIT 151 1296 81 6 154 .996
2008 129 1130 81 8 121 .993
2009 87 776 59 1 86 .999
BOS 4 29 6 0 1 1.000
ATL 57 520 43 1 61 .998
’09計 148 1325 108 2 148 .999
2010 ARI 146 1139 123 11 117 .991
2011 WSH 43 380 32 0 34 1.000
2012 153 1260 100 7 113 .995
2013 149 1164 76 11 117 .991
2014 136 1100 93 7 101 .994
2015 CWS 48 351 27 1 43 .997 1 0 0 0 0 .—
通算 1468 12072 936 70 1249 .995 1 0 0 0 0 .—

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 19 (2004年 – 2006年)
  • 25 (2007年 – 2009年途中、2010年 – 2015年)
  • 23 (2009年途中 – 同年途中)
  • 22 (2009年途中 – 同年終了)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]