Month: June 2018

アミューズ – Wikipedia

この項目では、日本の芸能事務所について説明しています。その他の用法については「アミューズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 株式会社アミューズ(英文社名:AMUSE INC.、香港繁体:藝神集團[5]、台湾正体:雅慕斯[6])は、東証プライム市場上場の大手芸能事務所。テレビ番組・映画・舞台作品の製作等へも多面展開している。グループ企業を通じて、DVD・ビデオ・Blu-ray・CD等のソフト販売なども行っている。1977年設立。創業者は大里洋吉。日本音楽制作者連盟(音制連)に加盟している。 沿革 1977年 7月、渡辺プロダクションでキャンディーズや梓みちよのマネジャーをしていたが、路線の対立などを理由に同社から独立した大里洋吉が、東京都渋谷区代官山町のマンション「カスティヨ代官山」の一室に、新人シンガーソングライターであった原田真二の売り出しが目的で、個人企業「プロデュースハウスアミューズ」として設立。当初は原田とスペクトラムの前身である「ホーン・スペクトラム」のみが所属していた[7][8][9][10][注 1]。 原田はバーニングプロダクション社長の周防郁雄と会った時に「自分のための会社を作って欲しい」と言ったことから、周防はバーニングとは別の会社を作ることを決め、面識のあった大里に紹介し、大里と周防で資金を折半して設立している[11]。 「アミューズ」という社名は大里が命名し、英語で「人を楽しませる・喜ばせる」という意味がある「アミューズ(amuse)」と、ギリシャ神話に登場する文芸や音楽などの芸術を司る9人の女神を意味する「ミューズ(muse)」をかけ合わせている[12][13]。 前述の通り、当初、バーニングとは、運営資金の出資を受けたり、周防から原田やサザンオールスターズの紹介を受けるなどの関係があり、周防はアミューズをバーニングのグループ企業と認識していた。そのため、サザンオールスターズの「いとしのエリー」までの版権はバーニングパブリッシャーズが持っていた(それ以降は持っていない)。現在は特に関係はないようで、周防は「株式上場したときにも何の挨拶もなかった」「運営資金は返してもらっていない」と話している[14]。 渡辺プロとは、暖簾分けではなく、出資も受けていないが、当初は大里個人が引き続きキャンディーズのマネジメントも請け負うなど、一定の協力関係にはあった。 1978年 大里がキャンディーズの解散コンサートのプロデュースに専念し、原田を他のスタッフに任せている間、アイドルとしての売り出し方を嫌うようになった原田がアミューズを退社[7]。 原田の独立から2週間後、サザンオールスターズが入れ替えに入社し、同年6月にデビュー[7]。上半身裸、ランニングパンツ姿でのテレビ初出演が話題になる。アミューズ初のファンクラブ「サザンオールスターズ応援団」発足し、その後もウェブサイトやモバイルファンクラブ、アイテム販売型ファンサービスなどを行っている[15]。 10月、東京都渋谷区代官山町に「株式会社アミューズ」設立(資本金5百万円)[9]。 1980年 三宅裕司のマネジメントを行なうことになり、サザンオールスターズと共に同社の二枚看板となる。 10月、山本久が代表取締役社長に就任し、大里は代表取締役会長になる[7][16]。 1981年

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マニュファクチャリング・コマーシャル・ビークルズ – Wikipedia

マニュファクチャリング・コマーシャル・ビークルズManufacturing Commercial Vehiclesصناعة وسائل النقل 種類 コーポレーション 業種 輸送機械 設立 1994年 創業者 エツァルト・ロイター(Edzard Reuter)カリム・ガブール(Karim Ghabbour) 本社 カリュービーヤ県 オーブル(英語版) 、  エジプト

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加藤恒忠 – Wikipedia

加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年2月24日) – 大正12年(1923年)3月26日)は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。号は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。 伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった[1]。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。 1883年11月、フランス留学のため出国し、翌1884年1月、パリに到着。1886年、外務省に入りフランス在勤となる。1890年12月、パリを発ち、1891年2月に帰国する。外務省政務局を経て、1892年-1897年にフランス公使館書記、その後、大臣秘書官、人事課長、ベルギー公使などを務める。 1906年(明治39年)にジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になるが、伊藤博文と対立し、翌年に退職した。大阪新報社長兼主筆、大阪北浜銀行(現UFJ銀行)取締役となる。 1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に愛媛県松山市区より出馬して当選。衆議院議員を一期務める。1912年5月27日、貴族院勅選議員となり[2]、交友倶楽部に属し1923年3月27日まで在任[3]。1917年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加。シベリア出兵後、1919年8月12日、特命全権大使となりシベリア派遣大使に就任し、錦鶏間祗候は消滅した[5]。1922年(大正11年)に第5代松山市長に就任し、松山高等商業学校(現在の松山大学)の設立に尽力した[6]。翌1923年、任期途中に食道がんで死去した。勲一等旭日大綬章が追贈された。墓所は松山市の相向寺(現松山市拓川町)にある。 位階 勲章等 外国勲章佩用允許 加藤家                       正岡常尚              ┃   ┏正岡常規(正岡子規)              ┣━━━┫ 加藤重孝━━大原有恒   ┃   ┗律         ┃  ┏八重         ┣━━┫     ┏十九郎

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白雲山 (北海道) – Wikipedia

白雲山 然別湖畔からの展望山と白雲山 標高 1,186[1]m 所在地 北海道河東郡上士幌町[1] 位置 北緯43度15分32秒 東経143度6分55秒 / 北緯43.25889度 東経143.11528度 / 43.25889; 143.11528座標: 北緯43度15分32秒 東経143度6分55秒 / 北緯43.25889度 東経143.11528度

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第二次ハリコフ攻防戦 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “第二次ハリコフ攻防戦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年12月) この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年4月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Second Battle of Kharkov}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。

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デイム・エドナ・エバレッジ – Wikipedia

デイム・エドナ・エヴァレッジ (Dame Edna Everage) は、紫色の髪と豪勢なメガネが特徴的な自称「メガスター」。「オーストラリア・ニューサウスウェールズ州のワガワガ市の郊外にある小さな街で生まれた」という。デイム・エドナとして知られる。 メガスターの横顔[編集] 1955年に「一介の主婦であるエドナ・エヴァレッジ」が芸能活動を開始、その後活動の場をロンドンに移して「メガスターとしての地位を不動のもの」にしたという。テレビや映画での活躍も多く、日本でも『アリー my Love』の第5シーズンにクレア役で準レギュラー出演していた。2000年には『Dame Edna: Royal Tour』でトニー賞の劇場ライブイベント賞を受賞している。 また「エリザベス2世女王から女騎士に叙せられ、デイムの称号を許された」といわれる。「女王とは親しく、ファッションから息子たちの操縦法まで、幅広いアドバイスをしている」らしい。2002年3月に女王の母・エリザベス王太后が死去した際には、実際にその葬列に加わって弔意を表しており、また同年6月に女王の在位50周年を記念してバッキンガム宮殿で行われた記念コンサート「Party at the Palace」にも実際に出演して宴に華を添えている。 オーストラリアでは、「これまでニコール・キッドマン、ケイト・ブランシェット、ラッセル・クロウ、メル・ギブソンなど多くの俳優たちがまだ卵の頃に演技指導をした」という。そうした数々の業績が認められ、メルボルン市からは「市の鍵」を贈られ名誉市民になる。また2007年3月には同市の公道の一つに「Dame Edna Place」という名称が冠せられている。 「死別した夫との間に成人した二男二女がいる」といい、特に次男で「ファッションデザイナーのケニーと、彼と非常に親密で長年にわたって寝食を共にしている同居人の男性」のことを好んで話すが、彼らがどういった関係にあるのかついては全く察知していない模様である。

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楠ジャンクション – Wikipedia

図-1 楠ジャンクションとランプの配置 楠ジャンクション(くすのきジャンクション)は、愛知県名古屋市北区にある、名古屋第二環状自動車道、名古屋高速1号楠線及び名古屋高速11号小牧線が接続するジャンクションで、大我麻町交差点の直上にある。 また、大我麻町交差点は、国道302号と国道41号が接続する。 以下の高速道路を接続する四叉分岐のジャンクションである(図-1)。 東西方向に名二環(東方が名古屋南JCT、西方が名古屋西JCT)、南北方向に名古屋高速道路が施設されており、名古屋市街地へ向かう1号楠線が南方向、小牧へ向かう11号小牧線が北方向である。 当JCTはこれらの路線を相互に連絡するものである。名二環の勝川IC-清洲東IC間開通に伴い、1991年に設置された。 線形と特徴[編集] 当JCTの平面図を図-1に示す。本線・ランプともに鋼箱桁橋をはじめとする高架構造である。比較的市街化が進んだ地域に設けられたジャンクションであり、日本道路公団(現・中日本高速道路株式会社)の施設のある北西側に構造物を集中させた結果、変則的な対向ループ型のランプ配置となった。合流・分流も複雑で、ランプの縦断勾配も上り・下りの変化が激しい。 また、名古屋第二環状自動車道の南側には、東海交通事業城北線が高架で併走しており、交差するランプは高架でこれを越えている。更に、名古屋第二環状自動車道は、国道302号、名古屋高速道路は国道41号直上に設けられており、国道が交わる大我麻町交差点も立体交差しているなど、一帯は多層の立体交差構造となっている。 上方向が名古屋高速11号小牧線、下方向が名古屋高速1号楠線、左右方向が名古屋第二環状自動車道(名二環)。名二環と並行するのは東海交通事業城北線。出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」(配布元:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)』 併設インターチェンジ[編集] ジャンクションであることから一般道路とのアクセスはないが、付近には以下のインターチェンジが併設されている。 楠IC : 名古屋第二環状自動車道名古屋南JCT方面(東方)のみの片方向出入口。国道302号と接続。 楠出入口 : 名古屋高速1号楠線の出入口。南方のみの片方向出入口。国道41号と接続。 いずれも片方向のみの出入口であり、名古屋第二環状自動車道西方とのアクセスは山田東IC(出口のみ。約1.5km西)及び山田西IC(入口のみ。約2.5km西)にて可能である。また、名古屋高速11号小牧線とのアクセスは、約1km北の豊山南出入口で可能。 1991年(平成3年)3月19日 : 東名阪自動車道(現・名古屋第二環状自動車道)

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柳川福三 – Wikipedia

柳川 福三(やながわ ふくぞう、1936年10月17日 – 1994年6月14日)は愛知県出身の元プロ野球選手。 登録名は1961年 – 1963年は「柳川 福三」、1964年以降は「柳川 誉造」(やながわ しげぞう)。 日本プロ野球とアマチュア野球が長きにわたって断絶するきっかけとなった「柳川事件」の当事者として知られる。 来歴・人物[編集] アマチュア時代[編集] 中京商では、同期の中山俊丈、加藤克巳のバッテリーを擁し、1954年に春夏の甲子園に出場。春の選抜は1回戦で坂崎一彦らのいた浪商に敗退[1]。夏の選手権は順調に勝ち進み、決勝で松浦三千男、興津達男を投打の柱とする静岡商を3-0で制し優勝を飾る[2]。 中京大学に進学し三塁手、四番打者として活躍。愛知大学野球リーグでは1957年春季リーグでチーム初優勝を飾る。 卒業後は日本生命に入社し外野手に転向。1959年から2年連続で都市対抗に出場した。社会人野球2シーズンで17本塁打、打率3割をマーク。 プロ野球時代[編集] 1961年4月20日、プロ野球による社会人野球選手の引き抜き協定が無協定状態のまま、シーズン中に中日ドラゴンズと契約し入団。この事に激怒したアマチュア球界は、長きにわたってプロ野球との関係を断つこととなる(柳川事件)。 1年目から一軍で起用され、三塁手、左翼手を兼ねて17試合に先発出場。しかし打撃面で低迷が続き、レギュラーには届かなかった。

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アニメシアターX – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アニメシアターX” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年6月) アニメシアターX(アニメシアター・エックス)は、株式会社エー・ティー・エックス(英: AT-X, Inc.)が運営するアニメ専門チャンネルである。通称「AT-X」(エー・ティー・エックス)。 スカパー!プレミアムサービス・スカパー![2]・スカパー!プレミアムサービス光・ひかりTVや、一部のケーブルテレビに加入することで視聴できる。 キャッチコピーは、「ワンランク上のアニメ専門チャンネル」。 正式なチャンネル名は「アニメシアターX」だが、原則として放送上では使われず、もっぱら通称かつ社名の「AT-X(エー・ティー・エックス)」が使われる(放送上で常に「TOKYO MX」を使用する東京メトロポリタンテレビジョンなどと同様)。「アニメシアターX」という名称は、スカパー!やケーブルテレビ等の各種案内や番組表等で使われている[3][4]。 古くからアニメ番組とのつながりが深いテレビ東京を母体とする放送局であり、同局のコンテンツ能力を生かした編成が特徴である。設立当初はテレビ東京(およびその系列局)が製作しているアニメ番組を中心に網羅する編成だったが、現在では地上波の放送系列(独立局含む)にとらわれない柔軟な編成を執っている[注 3][注 4]。 日本国内にはアニメ専門チャンネルがいくつか存在するが、当チャンネルは全ての配信事業者において、基本料金およびパッケージ料金とはまた別料金での契約を必要[注

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金鐘五 – Wikipedia

金 鐘五(キム・ジョンオ、김종오)は大韓民国の軍人。 朝鮮戦争開戦時は第6師団を指揮していた。指揮した著名な戦いに春川の戦い、白馬高地の戦い 。休戦後は合同参謀議長、陸軍参謀総長を歴任して大将に昇進した。太極武功勲章受章者。 1921年5月22日、忠清北道清州郡(現在の清州市)で生まれる。 日本の中央大学法学部在学中に学徒出陣し、日本陸軍少尉任官。 1946年1月、大韓民国陸軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊。1月22日付にて軍事英語学校卒業、任少尉。軍番31番[1]。 1946年2月26日より、全羅北道にて金白一中尉[† 1]のもと、第三連隊の創設に参加。 1947年12月1日、京畿道を担当する第1連隊長[2]。 国境紛争[編集] 1949年より38度線では南北の武力衝突が頻発しつつあり、5月4日、左派の将校が多数の兵士を道連れに北朝鮮に亡命する大事件が起こった。38度線に近い春川に駐屯していた第8連隊第1大隊の半数(大隊長表武源を含む士官4名、兵士213名)が北朝鮮側に亡命。翌日の5月5日には第8連隊第2大隊の大隊長姜太武と兵士150人が越北した[3]。 これらの事件を皮切りに第1連隊が警備していた議政府でも北朝鮮軍の侵入が度重なっていた。連隊長の金鐘五は越北を装い収容に来た北朝鮮軍部隊を攻撃する計画を立案した。情報局の金昌龍大尉と図り、38度線を行き来している二重スパイを利用して北朝鮮軍に「一個大隊が5月8日に社稷里を経て燕谷に越北するから収容の措置を講じてほしい」と伝えさせた。第8連隊の集団越北の直後だったこともあり北朝鮮軍側はこれを信用し、報道関係者まで集めて収容の準備を行った。 5月7日、一個中隊に越北を装わせ、東側より二個中隊、西側より一個小隊を迂回させ、収容に来た部隊の退路を遮断する計画であった。しかし迂回していた二個中隊が道を誤り北朝鮮軍と遭遇し交戦した。北朝鮮軍は偽装に感づいたらしく中隊を収容しに来なかった。戦闘は激しく、二個中隊は撤退し作戦は失敗に終わったと思われた。 しかし、西側から浸透し、無線が通じずに待ち伏せ姿勢のまま待機していた一個小隊が、一個中隊程度の北朝鮮軍を捕捉、攻撃した。小隊は104人を射殺し、捕虜13人を得て、小銃100丁余、機関銃1丁を鹵獲して引き揚げ、結果作戦は成功した。 1950年6月10日、第6師団長[† 2]。 朝鮮戦争[編集] 春川の戦い[編集] 1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。韓国軍第6師団には北朝鮮軍第2師団(李青松少将)と独立戦車連隊の支援を受けた北朝鮮軍第12師団(全宇少将)が侵攻してきた。

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