Month: June 2018

VM JAPAN – Wikipedia

『VM JAPAN』(ブイエム ジャパン、VANTAGE MASTER – MYSTIC FAR EAST)は日本ファルコムが制作・販売したシミュレーションロールプレイングゲーム(シミュレーションRPG)。後に『富嶽幻遊記』(ふがくげんゆうき)の名でパワーアップキット(PUK)が発売された。 2002年6月27日にMicrosoft Windows向けコンピュータゲームとして発売。『VM JAPAN』の「VM」は「VANTAGE MASTER」の略であり、その名の通り『ヴァンテージ・マスター』 (VM) の舞台を、日本をモデルにした架空の国・和国に移した作品となっている。このため作中用語は和風に変更され(例:ネイティアル→幻魔)、マップも日本各地の土地や名勝をモデルにしたものが多い。 同年9月27日にはパワーアップキット『富嶽幻遊記』が発売され、キャラクター追加等の機能拡張が行なわれた。以降のパッケージではPUKを同梱しての販売のみとなっている。 2005年にはライセンス提供により、アスミック・エースエンタテインメントからPlayStation 2向けの移植作品が販売されている。 ゲームシステム[編集] 基本システムは『VM』と同じだが、上述の通り用語は和風に変更されている。基本としては六角形のヘックスからなる戦場(マップ)において、幻魔使い(『VM』のネイティアル・マスター)同士の闘いに勝利する事が目的となる。勝利条件は敵幻魔使いの体力(HP)を0にする、もしくは敵からの降参を受け入れる事。ストーリーモードではこの戦闘の積み重ねによりストーリーが進行していく。 原則として戦闘の開始時から存在するユニットは敵味方1人ずつの幻魔使いのみであり、術数(MP)を消費して属性をもつ幻魔(『VM』のネイティアル)を召喚し、戦局を進めていく。術数は一定時間毎に回復するが、その回復量はマップ上にある魔晶石の占拠数に比例する。術数は幻魔の召喚時だけではなく、召喚後の幻魔の維持、幻魔使いや幻魔が使う術(魔法)の使用でも消費されるため、魔晶石の占拠数は戦局に大きな影響を与える。

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マーガレット・ハミルトン (科学者) – Wikipedia

マーガレット・ハミルトン(Margaret Heafield Hamilton、1936年8月17日[1] – ) は、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者、プログラマ、実業家。彼女がチャールズ・スターク・ドレイパー研究所のソフトウェアエンジニア部門の責任者であった当時、そこでアポロ計画のフライトシステムソフトウェアが開発された[2]。1986年にマサチューセッツ州ケンブリッジでハミルトンテクノロジー (Hamilton Technologies, Inc.) を創業しCEOとなった。この会社はシステムやソフトウェア設計に関する彼女のDBTFパラダイム (Development Before the Fact) に基づくユニバーサルシステム言語 (Universal Systems Language) (英語版) により発展した[3]。

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得宗 – Wikipedia

得宗(とくしゅう[1]/とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗(読みは同じ)とも呼ばれる。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える[2]。 名前の由来[編集] 「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている[3]。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。 鎌倉時代には、得宗家は専属の被官である御内人、家政機関(公文所)と所領を持ち、執権、諸国の守護職や、六波羅探題をはじめ幕府の要職の過半を占める北条一門の最上位に位置づけられた。ただ北条時頼以前は得宗と執権は同一者であるのが通例であった。 鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。 元寇以後には御内人が幕政に影響力を発揮し、得宗邸で行われる北条一門や御内人の私的会合である寄合が評定衆による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、得宗専制体制を築く。 執権政治の確立[編集] 平安時代末期に摂津源氏の源頼政の知行国だった伊豆国の小豪族に過ぎなかった北条氏は、伊豆へ流罪となっていた河内源氏の源頼朝の挙兵に従い、頼朝を将軍とする幕府を成立させる。頼朝の死後は頼朝室の北条政子や北条義時が幕政を主導し、和田氏などの有力御家人を排斥し、また承久の乱においても御家人を統率して朝廷や反北条勢力を抑えた。 3代将軍源実朝の死による源家の断絶後、鎌倉幕府は朝廷から迎える摂家将軍を推戴し、将軍の地位を形式的なものにする一方、政務決裁には事実上のトップである執権、その補佐である連署、合議機関である評定衆を置く集団指導体制を成立させる。これは形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎないという事情があった。 また、北条泰時は分家を重ねた北条一門を統率するため、惣領家の家政機関を置き、家政運営のための条文を定めた。 得宗家による権力独占[編集] 1246年、経時がまだ幼いわが子を遺して没した際、弟・時頼の得宗家家督、執権職就任は就任寄合で決定している。時頼は前将軍藤原頼経を鎌倉から追放、与同する有力御家人を排除し、執権として確固とした権威を築く(宮騒動)。また宝治合戦で有力御家人の三浦氏を滅ぼし、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、1252年、新たに宗尊親王を6代将軍に迎えた(宮将軍または皇族将軍)。自らは病のため執権職を退くが、嫡子時宗が幼少だったため、極楽寺流の北条長時に執権を譲る。だが、実権は変わらず時頼にあり、長時は時宗へ繋ぐための傀儡に過ぎなかった。ここから得宗と執権の乖離が始まる。 時頼の死後、時宗は外戚の安達泰盛や御内人らに補佐され、2度にわたる元寇に対処する。1度目の文永の役の際、日本軍は元軍の集団戦法に苦戦した経験から、2度目の弘安の役では作戦指令が時宗の名で出され、得宗被官が戦場に派遣されて御家人の指揮にあたった。これにより、得宗の発言力が強まるという結果をもたらした。特に二月騒動以降、将軍の専権事項である「御恩沙汰(将軍が御家人に恩賞として所領を与える行為)」と「官途沙汰(将軍が御家人の官位官職を王朝に推挙する行為)」を得宗が掌握した事は、その権力を決定的なものにした。これは御家人の第一人者に過ぎない北条氏が、御家人の主君たる将軍の権力代行者になった事を意味する。 時宗の死後、幼少の執権かつ得宗である貞時に代わって実権を握ったのは、北条氏の外戚で、御家人層の支持を持つ安達泰盛で、幕政を主導して弘安徳政を開始する。しかし北条氏の私的家臣である御内人の代表である内管領の平頼綱と対立し、霜月騒動で滅ぼされる。これ以降、得宗が実際の権力を行使できない場合は、代わって内管領が主導する体制となった。 得宗専制と御内人の擡頭[編集] 頼綱は北条貞時を擁して専制を行うが、平禅門の乱で貞時に滅ぼされる。貞時は自ら政務に勤しむことで得宗専制体制は強化されるが、元寇以後には元寇の戦功に応じた恩賞を受けられず没落する御家人が増加し、執権の地位は有名無実化して、諸国では悪党の活動が活発化する。 また幕府内部では権力を強めようとする得宗と北条氏庶家の対立が激しくなり、嘉元の乱で北条氏庶家の勢力を除くことに失敗した貞時は乱後酒宴に明け暮れて政務を放棄したため、幕府の主導権は北条氏庶家や長崎氏などの御内人等からなる寄合衆に移り、得宗は将軍同様に装飾的存在に祭り上げられ、得宗専制体制は崩壊に向かう[4]。 さらに北条高時の時代になると、幕府は内管領長崎円喜・外戚の安達時顕などの寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、高時が主導権を発揮することを求められなかった[5]。北条氏一門を初めとする寄合衆などの一部の御家人が政治・経済的の地位を独占していたことに御家人の不満が高まり、畿内では悪党の活動が高まっていたが、先例主義・形式主義に陥っていた幕府はこれに対処できなかった。高時は1331年に長崎親子の排除を画策する(元弘の騒動)が失敗し、結局高時が得宗として政治的な主導権を発揮することもないまま、1333年に御家人の足利高氏や新田義貞らによって幕府が倒され、高時は自害し、得宗家も滅亡した。 その後、高時の次男の北条時行が南北朝の戦乱の中で捕らえられて処刑されたために、嫡流は断絶した。 北条得宗家邸[編集]

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山本やよい – Wikipedia

山本 やよい(やまもと やよい、1947年3月26日 [1] – )は日本の翻訳家。筆名に長谷川 まや(ハセガワ マヤ) [2]。日本翻訳家協会会員[3]。 岐阜県生まれ[4]。1971年、同志社大学文学部英文科卒[5]。英語の家庭教師を経て結婚。バベル翻訳学校で小泉喜美子、中田耕治のクラスで学ぶ。清水俊二の下訳をへて、1981年、『ミステリマガジン』にジャック・リッチー「カメリアの香り」翻訳を掲載してデビュー。 代表作、サラ・パレツキーのヴィク・シリーズ、ピーター・ラヴゼイ作品他、ミステリの訳書多数。 わたしのボスはわたし 山本やよい 著 廣済堂出版 2001 アニー リアノー・フライシャー 著,山本やよい 訳

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帆足計事件 – Wikipedia

帆足計事件(ほあしけいじけん)とは、国際会議に出席する目的で、日本国旅券の発給を申請した原告が、外務大臣から申請を拒否されて、そのために国際会議に出席できなかったことに対しての損害賠償を求めた事件。 事件の概要[編集] 原告帆足計は、1952年3月にソビエト連邦(ソ連)のモスクワで開催される国際経済会議に招請され、外務大臣(当時の外務大臣は吉田茂)に対してソ連行きの旅券の発給を申請した。しかし外務大臣は、帆足が旅券法13条1項5号(当時。現在は7号)にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」であると認定をして、旅行の発給を拒否したので、帆足は国際会議に出席することができなくなった。 そこで、帆足(他1名)は、渡航の権利を侵害されたとして、国に対して損害賠償を請求した。1、2審では原告敗訴、上告棄却により原告の敗訴確定した。 上告棄却(最高裁判所大法廷判決昭和33年9月10日 民事判例集12巻13号1969頁) 「海外渡航の自由」といっても、無制限に許されるものではなく、公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきであり、旅券法による制限も、合理的な制限の範囲内である。 当時は、冷戦という国際情勢であったため、資本主義国である日本から社会主義国の中心国であるソ連へ渡航するということは、「日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞がある」として旅券の発給を拒否した外務大臣の処分には合理性がある。 GHQ占領下の我が国や国際情勢において、外務大臣の拒否は違法というべきではない[1]。 田中耕太郎と下飯坂潤夫は、『多数意見は憲法二二条二項の、「外国に移住する自由」の中に外国へ一時旅行する自由をも含むものと解している。しかし、この解釈には承服できない。この条項が規定しているのは外国に移住することと国籍を離脱することの自由である(中略)要するに憲法二二条は一項にしろ二項にしろ旅行の自由を保障しているものではない。しからばこれについて規定がないから保障はないかというとそうではない。憲法の人権と自由の保障リストは歴史的に認められた重要性のあるものだけを拾つたもので、網羅的ではない。従つてその以外に権利や自由が存せず、またそれらが保障されていないというわけではない。我々が日常生活において享有している権利や自由は数かぎりなく存在している。それらはとくに名称が附されていないだけである。それらは一般的な自由または幸福追求の権利の一部分をなしている。本件の問題である旅行の自由のごときもその一なのである。この旅行の自由が公共の福祉のための合理的制限に服するという結論においては、多数意見と異るところはない』とする個別意見を表明している。 ^ 野中・江橋編『憲法判例集』〔第8版〕(有斐閣, 2001年)109頁 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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西光寺 (品川区) – Wikipedia

西光寺(さいこうじ)は、東京都品川区にある浄土真宗本願寺派の寺院。 1286年(弘安9年)、天台宗の僧侶だった栄順によって開山された。口伝では958年(天徳2年)ともいわれている[2]。 1638年(寛永15年)、浄土真宗に転宗したといわれている。しかし、当寺に伝わる過去帳によれば、歴代住職は栄順以来世襲となっている[注釈 2]ことから、開山直後に浄土真宗に転宗し、その後一時的に天台宗に復帰し、寛永期に浄土真宗に再転宗したものと推測される[3]。 江戸時代、当寺は桜の名所で、数多くの桜が植えられていた。「醍醐桜(だいござくら)」「姥桜(うばざくら)」「児桜(ちござくら)」と呼ばれる名木があったが、1893年(明治26年)の火事で壊滅的な打撃を受けた。かろうじて残ったのが「児桜」で、後に品川区の調査によって、西光寺にしか存在しない固有の品種であることが判明した[2]。 重要文化財 1976年(昭和51年)6月5日指定[4]。室町時代末期の作で、鎧を構成する小札の表面に金箔を押して鮫皮を胸板や脇板などに貼り、紅・萌黄・白・紫の4色の威毛で仕立てた、当時の畿内では最先端の華やかな意匠である[5]。同時に当世具足への移行も見られ、草摺の間数を定数の8間から11間に増加させ、背面を防御する後立挙の板の段数も通例の3段に1段足した4段とするなどの構造をとる、過渡期の鎧である[5]。1574年(天正2年)3月に織田信長から上杉謙信へ『洛中洛外図』(上杉本・国宝、米沢市上杉博物館所蔵)とともに贈られたと伝わるが、甲冑研究家の竹村雅夫は、それより古い1568年(永禄11年)2月に贈られたものの可能性が高いと推定している[5]。同鎧は江戸時代前期に上杉家から会津藩主保科正之へ贈られ[6]、明治時代に益田孝の所蔵となった後、1965年(昭和40年)に当時の西光寺住職で甲冑の愛好収集家でもあった芳賀実成(2001年没)が入手した[5][6][7]。竹村は、意匠が他の謙信所用甲冑が持つ特徴と異なることと、着用の痕跡が見られないことから、同鎧は謙信の嗜好に合致しないため使われることなく保管され続け、ゆえに後代には贈答品にされたと考察している[5]。なお、当初は胴に備わっていた大袖は上杉家に残り続け、現在は上杉神社が所蔵している(山形県指定有形文化財)[8]。 品川区指定文化財 西光寺石造供養塔 3基 1978年(昭和53年)11月22日指定(有形民俗第3号)。いずれも江戸時代(17世紀中期)の作[9]。 交通アクセス[編集] 注釈[編集] ^ 『新編武蔵風土記稿』では開基。 ^ 当時、妻帯が認められ、住職の世襲が許されるのは浄土真宗のみ。 出典[編集] 参考文献[編集] 外部リンク[編集]

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山本康彦 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “山本康彦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) 山本 康彦 名前 カタカナ ヤマモト ヤスヒコ ラテン文字 YAMAMOTO Yasuhiko 基本情報 国籍

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ザマリア・ルーペ – Wikipedia

ザマリア・ルーペ(Zamariah Zane Loupe、1997年1月12日 – )はアメリカ合衆国のプロレスラー。ルイジアナ州ティボドー出身のケイジャン[1]。 アリゲーターハンター[編集] ルイジアナ州の特殊な地形であるバイユーで生まれ育ち、アリゲーターハンターである父のディエゴ・ルーペの背中を見て育つ。2004年、7歳時にはFOXのリアリティショー番組、Trading Spousesにて家族生活の様子を放映された[2]。 2013年、Historyのバイユーで生活を送る人物達がアリゲーターハントを行うリアリティショー番組、Swamp People Season 4にZZのニックネームで出演[3][4]。16歳という年齢ながらすでに達人の域に至っており、川に飛び込んでアリゲーターを捕獲したり、防具など一切着用せずに遊んでみせるなど人間離れしたサバイバル術を披露した[5]。 Tough Enough[編集] 2015年4月、新たな道としてプロレスラーになる事を目指し、同月よりメジャー団体であるWWEが有望なるスターを発掘する育成プログラムであるTough Enoughに参加。動画投稿によるオーディションではアリゲーターを使って「WWEにこんな人間はいない」とアピール[6]。6月に最終選考へのトライアウトで40名のうちの1人に選出される[7]。同月12日、最終選考の13人のうちの1人として選出され本戦に進出[8]。同月23日より最終選考を兼ねてUSAネットワークで放送開始されたリアリティ番組形式のTough Enough 6にてSwamp Peopleで使われたZZのニックネームを呼ばれる。ユニークな性格から他の参加者と上手く協調するがトレーナーからレスリングが未経験であり、肥満体で体力がない事を注目されるがアリゲーターハントとアメリカンフットボールで培ってきた身体能力で乗り切り、第3週にはギミックテストにて不評を買い脱落者候補になるがかつて出演してきたリアリティショーから学んだ表現力を生かして残留を決める[9]。以降も脱落者候補に上がるも乗り切り続け、8月25日の最終回にてジョシュ・ブレドルと優勝を争う事になり、最終テストとしてセザーロと対戦。入場では自身のルーツを生かしたアリゲーターの被り物をしてキング・オブ・ザ・バイユーとして登場。試合を開始し、突進してきたセザーロに巨体ながらジャンプをして避けるが捕まるとカレリンズ・リフトで軽々と持ち上げられ投げられてしまう。さらにはスーパー・アッパーカットからセザーロ・スイングへと繋げられる。フォールを取られるがカウント2で返してフラップジャックを決め、両手でアリゲーターの口の動きをしたパフォーマンスを行うが憤怒したセザーロからクリップラー・クロスフェイスを極められギブアップした。審査の結果、準優勝という結果に終わるが優勝を果たしたジョシュを称えた[10]。 WWE[編集]

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管野ダム – Wikipedia

管野ダム(かんのダム)は山形県長井市、一級河川・最上川水系置賜野川(おきたまのがわ)にかつて存在していたダムである。 山形県が最初に建設した補助多目的ダムで、高さ44.5メートルの重力式コンクリートダムとして建設された。上流にある木地山ダム(きじやまダム)と共に長井市の治水とかんがい用水補給、及び水力発電に貢献していたが、直下流に国土交通省東北地方整備局が長井ダムを建設、2010年(平成22年)ダムの試験湛水が完了したことで完全に水没し、現存しない。 置賜野川は最上川に合流する主要な支流のひとつである。磐梯朝日国立公園に指定されている朝日連峰の最高峰である朝日岳を水源として、上流部は急峻(きゅうしゅん)な野川渓谷を形成する。山地を抜けると扇状地を形成、長井市中心部を流れた後最上川に合流する。流路延長は28.0キロメートル、流域面積は130平方キロメートルの河川であり、その80パーセントは山地で形成され急勾配であることから、急流河川となっている。 長井市で最上川に合流する置賜野川は古くから沿岸の農地の水源として利用されており、4ヶ所の固定堰が建設され約1,525ヘクタールに農業用水を供給していた。だが河況係数の高い河川であり大雨が降れば水害、旱魃になれば渇水に陥る極端な流量の河川である。だが、1930年(昭和5年)に旧河川法の準用区域に指定されるまでは堤防も建設されておらず、改修が開始されても急流である為に簡単に堤防が決壊する状況であった。このため根本的な治水と利水(灌漑)が流域から要望されていた。 戦後、置賜野川は砂防事業が1949年(昭和24年)より施工されていたが、同年経済安定本部は打ち続く水害による経済復興の遅れを阻止する為に全国主要10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定。最上川水系では「第一次最上川改定改修計画」が発表された。置賜野川は上記の理由に加えて急流である事から水力発電事業の適地として注目され、こうした観点から山形県は砂防事業を発展させて1951年(昭和26年)より「野川総合開発事業」を策定。その根幹事業として管野ダムが計画された。 管野ダムは高さ44.5メートルの重力式コンクリートダムである。ダム地点は野川渓谷の下流部に位置し、水没予定地には民家も無かった。立木補償・流木補償・漁業補償を実施したが大きな混乱も無く、1952年(昭和27年)より本体工事を開始し1953年(昭和28年)にはコンクリートの打設が完了。1954年(昭和29年)より管理・運用が開始された。山形県下における初の多目的ダムである。 目的は野川橋を基準として最上川合流点までにおける置賜野川の洪水調節、長井市内の農地約1,525haの既得農地に対する慣行水利権分の農業用水を補給する不特定利水、及び山形県企業局が管理する野川第一発電所による認可出力6,100kWの水力発電である。管野ダムの完成によって置賜野川流域の治水と利水に、大きな貢献が出来るものと期待された。 木地山ダム[編集] ところが管野ダム建設中の1953年8月18日、流域を集中豪雨が襲い置賜野川はダムの洪水調節の限界を超える洪水を記録。管野ダムだけでは洪水調節の万全性に不安が生じた。また、野川流域の山麓地域における農地開墾が進み、こうした状況下で農地面積の拡大が推移すると管野ダムでの農業用水補給では農地全体の3分の2しか賄えず、「野川総合開発事業」の当初目的達成が困難となる事が明らかになった。この為管野ダムの他にもう一つ置賜野川にダムを建設し本来の目的を達成しようとした。 こうして1958年(昭和33年)より管野ダム上流に計画されたのが木地山ダム(きぢやまダム)である。総貯水容量が820万トンと管野ダムの倍の容量を有する補助多目的ダムとして計画され、1961年(昭和36年)に完成した。高さは46.0メートルで型式は当時盛んに建設されていた中空重力式コンクリートダムである。目的は1953年8月豪雨規模の洪水に対応可能な洪水調節、管野ダムでカバーできない既得農地に対する慣行水利権分の農業用水補給を行う不特定利水、そして野川第二発電所(認可出力:11,000キロワット)による水力発電である。 この木地山ダム完成によって「野川総合開発事業」の当初目的である治水と1,525ヘクタールの農地へ農業用水補給が可能となり、流域住民の悲願が実現した。木地山ダムの補償問題に関しても長井市・長井市議会の全面的な協力の下交渉に当たっている。管野ダム・木地山ダムは以降山形県野川水系ダム管理事務所による統合管理が行われ、合理的な運用が行われている。なお山形県内には木地山ダムのほか中空重力ダムとして蔵王ダム(馬見ヶ崎川)があり、山形県は地方自治体で唯一二箇所の中空重力ダムを管理している。 長井ダムに沈む[編集] 管野ダム湖。長井ダムにより山腹の刈り込み部と植生部の境まで水位が上昇する。 こうして管野ダムは木地山ダムと共に長井市の治水・利水に貢献したが、1967年(昭和42年)の羽越豪雨や1969年(昭和44年)7月・8月の連続豪雨によって最上川流域は重大な被害を受けた。また1973年(昭和48年)の大渇水や長井市の人口増加による上水道需要の増大によって、治水と利水に対する再検討が必要となった。 建設省(現・国土交通省)は「最上川水系工事実施基本計画」を策定し主要支川に特定多目的ダムを建設する計画を立て、これに則り白川ダム(置賜白川)と寒河江ダム(寒河江川)が計画・施工された。一方山形県は管野ダムのダム再開発事業としてダム直下に大規模な補助多目的ダム建設を1976年(昭和51年)4月より計画した。この「新野川ダム建設計画」は1979年(昭和54年)7月に「長井ダム」と名を変え、翌1984年(昭和59年)には「最上川水系工事実施基本計画」の変更によって建設省に事業が移管され、以後特定多目的ダム事業として進められた。 長井ダムは高さ125.5メートルの重力式コンクリートダムであり(詳細は長井ダムの項を参照)、完成時に管野ダムは水没する設計とされた。ダムが水没する例としては青森県の沖浦ダム(浅瀬石川。浅瀬石川ダムに水没)があるが、管野ダムは水門などの設備撤去が行われた後、試験湛水後に長井ダム湖である「ながい百秋湖」の湖底に沈み行く。長井ダムの試験湛水は2010年4月30日に試験放流を実施した[1]ことで山形県初の多目的ダムである管野ダムは55年に及ぶ歴史の幕を閉じ、ながい百秋湖に水没した。従って現在管野ダムの姿を見ることは出来ない。長井ダムは周辺の影響確認などを経て翌2011年に正式に竣工し、運用を開始した。なお管野ダムではダムカードも発行されていた。 なお、上流にある木地山ダムであるが、長井ダムの完成後も連携した治水・利水を行う。ただし従来野川沿いにあった野川第二発電所が長井ダム完成後に水没してしまうことから、発電所施設をながい百秋湖の満水面より上部に移転する工事が実施された[2]。木地山ダムへは管野ダムを望む竜神大橋を通過後上流へ直進することで到着する。野川第二発電所付近までは1.5車線整備された道路であるが、それより先は車一台がようやく通過できる離合不可能な幅員の狭い道路となり、カーブも多くガードレールもないいわゆる「険道」となる。従って転落の危険性が高いため通行には細心の注意が必要であり、運転初心者は避けた方が無難である。 参考文献[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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茨城県道177号赤塚馬口労線 – Wikipedia

茨城県道177号赤塚馬口労線水戸市東原(2014年5月) 茨城県道177号赤塚馬口労線(いばらきけんどう177ごう あかつかばくろうせん)は、茨城県水戸市内を通る県道である。 水戸市内の赤塚から末広町(旧・馬口労町)までを結ぶ延長約4.2キロメートル (km) の一般県道である。JR赤塚駅北口前を通り、同駅の東でJR常磐線の踏切を渡ってすぐ左折して水戸中心市街方面に向かい、自由ヶ丘交差点で国道50号と交差する。終点の水戸市末広町では一方通行があり注意が必要である。 路線データ[編集] 1959年(昭和34年)10月14日、新たな県道として水戸市赤塚町を起点とし、水戸市馬口労町を終点とする区間を本路線とする県道赤塚馬口労線として茨城県が県道路線認定した。 1995年(平成7年)に整理番号177となり現在に至る。 年表[編集] 1894年(明治27年)1月4日:赤塚駅が開業する。 1923年(大正12年)4月1日:現在の路線の前身である赤塚停車場常磐線が路線認定される。 1959年(昭和34年)10月14日: 現在の路線が路線認定される(図面対照番号180)[3]。 道路の区域は、水戸市赤塚町の二級国道前橋水戸線(国道50号)分岐から水戸市馬口労町の二級国道水戸郡山線(国道118号)交点までと決定された[1]。 1964年(昭和39年)7月3日:車両制限令第5条1項[注釈 2]に基づく指定(路線対象番号180 赤塚馬口労線:国道50号線分岐点 – 国道50号線交点)を受ける[4]。

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