Month: June 2018

掛川市自主運行バス – Wikipedia

過去に市街地循環線で使用された車両。左:北回り、右:南回り 掛川市自主運行バス(かけがわしじしゅうんこうバス)は、静岡県掛川市が運営するコミュニティバス。 掛川市自主運行バスには市街地循環線の北回り、南回りの2路線があり、掛川駅周辺に点在する各種施設を経由しながら中心市街地を一周する。北回り・南回りとも、右回りの一方通行であり、1周12kmを、所要時間40分前後、50~55分周期で1日17便運行する。掛川駅北口での北回りと南回りの発車時刻は同一であり乗り継ぎの便宜を図っている。掛川駅北口発の、始発は6時55分、終発は20時であり、この地域としては遅い時刻まで運行している(終日45分周期時代の終発は19時45分)。開業以来、運賃は一律100円である。但し、2路線を乗り継いだ場合には別に徴収される。この他、掛川バスサービスの路線と共通の回数券や定期券が利用できる。 また、市街地循環線とは別に東山線(ひがしやません)、粟本線(あわもとせん)、倉真線(くらみせん)、居尻線(いじりせん)、桜木線(さくらぎせん)、掛川大須賀線(かけがわおおすかせん)の6路線が掛川市により運営されている。 北回り・掛川大須賀線はジーネット、南回り・東山線・粟本線・倉真線・居尻線・桜木線は掛川バスサービスが運行する。 市街地循環線のバス停には駅ナンバリングのように番号が振られており、路線を意味する文字と起点からの停車順を意味する数字で表される。北回りは北1,北2,…,北43、南回りは南1,南2,…,南44となる。 かつて掛川市では、静岡鉄道(静鉄バス)によって掛川市内循環線が運行されていた。市内循環線は現在の北回りの概ね東半分のルートを走行する路線で、左回り(葛川まわり)・右回り(十王まわり)が存在した。しかし、これが廃止されて以後は市街地をカバーするバス路線が存在しなくなり、かねてよりのモータリゼーションと郊外化により市街地は拡大、市街地の住民には復活が望まれていた。 このような状況のもと、市の掲げるスローライフ政策の一環として、2003年5月20日にコミュニティバスとして「市街地循環バス」が復活した。路線は市内循環のルートを商業地化が進む大池・長谷地区に拡張した「北回り」と、東海道新幹線停車と同時に掛川駅に南口が新設されて以後に宅地化が進む駅南方面を巡回する「南回り」が設定された。名称が「市内循環」でなく「市街地循環」となったのは、合併によって当時より市域が拡大し、市内とするには市域が広すぎるためである。 両路線ともに概ね好評で、東循環線、西循環線が新たに設定されたが、ルートが冗長であることや掛川バスサービスの既存路線と競合することから利用者は低迷し、既存路線のルート変更とともに東循環線は満水線、西循環線は和田岡線・曽我線にそれぞれ分割継承された。なお、和田岡線と曽我線は平成25年3月末で、満水線は令和3年9月末で廃止となった。 ????年??月??日 – 静岡鉄道が掛川市内循環線運行開始。 ????年??月??日 – 静岡鉄道が掛川市内循環線廃止。 2003年5月20日 – 市街地循環バス北回り・南回り運行開始。運賃100円、1日19便、45分周期。 2006年4月1日 –

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プロゴルファー – Wikipedia

プロゴルファー(Professional golfer)は、ゴルフ競技におけるプロフェッショナル(Professional)選手の呼称。 一般にゴルフにおける「プロゴルファー」とは、下記の2つの意味を総称したものである。 ツアープロ(トーナメントプロ) ティーチングプロ(レッスンプロ) 一般的なスポーツにおいては「プロフェッショナル=自らが競技することで報酬を得るスポーツ選手」と定義されることが多く、ゴルフにおけるティーチングプロのような存在は「プロインストラクター」などとして選手とは明確に区別されるのが普通だが(サッカーのように指導者限定のライセンス制度を設けている競技すらある)、ゴルフの場合は近年までツアープロとレッスンプロを明確に区別せず、双方をほぼ同じ基準で認定していた点が特異的である。 最近はツアープロとティーチングプロを区別し、プロ認定を行うためのテスト等を別々に実施するようになってきているが、現在も日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)ではトーナメントプロテストの合格者に対しインストラクター(レッスンプロ)資格を付与するなど、依然として双方が密接に関係している。 男子のプロゴルファーは、トーナメントに出場するツアープロは日本ゴルフツアー機構(JGTO)が、ティーチングプロに関しては日本プロゴルフ協会(JPGA)がそれぞれ管轄している。 プロゴルファーに対しては、一般のアマチュアゴルファーと比べて様々な規則変更や規制が前倒しで適用されるケースが多い。特に近年はゴルフクラブに対する各種の開発規制(詳しくはクラブ (ゴルフ用具)#規制を参照)が厳しくなっており、アマチュアでは使用が許容されるクラブでもプロのツアー競技では使用を禁止されるケースが増えている。 ツアープロ[編集] プロゴルファーの中でも、実際にプロのツアー競技に参加することで賞金を獲得する者を、後述の「レッスンプロ」と区別する意味で「ツアープロ」あるいは「トーナメントプロ」と呼ぶ。基本的にはツアー競技に参加することで得られる賞金や、特定の企業と所属契約を交わすことで得られる契約金、ゴルフ用品メーカーとの間で交わすアドバイザリー契約などが収入源となる。 ティーチングプロ[編集] 他のプロやアマチュアゴルファーにゴルフの指導を行うことで報酬を得る者を「ティーチングプロ」あるいは「レッスンプロ」などと呼ぶ。基本的には特定のゴルフ場やゴルフ練習場などに所属し、当該施設に来場したゴルファーの求めに応じて指導を行うのが一般的であるが、中にはたとえばタイガー・ウッズの歴代コーチであるブッチ・ハーモン、ハンク・ヘイニー、ショーン・ホーリー、また、キャロウェイと契約しているデビッド・レッドベター、日本では、レッスンプロの草分けといわれた小松原三夫、元プロ野球出身の後藤修、秋本祐作や、丸山茂樹らのコーチを務めた内藤雄士、片山晋呉・諸見里しのぶらのコーチとして知られる江連忠などのように、主にツアープロを相手に指導を行ったり、その知名度を活かしてDVDやレッスン書販売、テレビ出演などで収入を得ているものもいる。 なお日本においては、ティーチングプロの名称は公益社団法人日本プロゴルフ協会の登録商標[1]となっている。 その他[編集] 誰でも、プロ宣言を行えばプロゴルファーにもなれるし、趣味としてゴルフを行っていればアマチュアゴルファーである。ただし、各種ゴルフ連盟は独自にプロ、アマを定義しており、試合に参加するには主催する連盟が定義する資格が必要である。後述のプロゴルファー及びアマチュアゴルファーという用語はJGA及びJPGA/JLPGAが定めた用語であり、一般的な用語とは異なる。 ゴルファーが「プロ宣言」を行ったからと言って、「(JPGA/JLPGA)プロゴルファー」になる訳ではない。そして後述する理由で「(JGA)アマチュア資格」を失ったとしても、そのゴルファーは「(JGA)アマチュア資格のないゴルファー」であって「(JPGA/JLPGA)プロゴルファー」ではない[2]。 プロゴルファーとはPGAプロテストまたは、ティーチングテスト(各国でPGA以外のティーチングライセンスも複数存在する)。もう一つJGTOのツアー資格(「サード」をクリアするとプロとして活動できる。JGTOの主宰する試合の予選に出る資格が与えられる)は、「サード」をクリアしてもその年シードが、取れなければ再受験となる。その時はプロの称号は無いが、アマチュアの試合に出られない、アマチュア資格のないゴルファーとなる。ゴルフ研修生などは、PGA、JGTOプロテストを受験して合格しなくても一定の条件さえ満たしていれば、アマチュア資格を持ち続けることも出来る。 プロライセンス・ツアープロライセンスの無い「プロゴルファー」も一部に存在する。日本ではあまりメジャーではないが、ドラコン選手である(ドライビングコンテスト。ドライバーでどの位遠くまでボールを飛ばせるかを競う)専門の選手で、LDA世界ドラコン選手権やL-1グランプリなどといった「賞金」つきのドラコン大会も複数存在する、上位選手には南出仁寛などメディアに露出しゴルフ用品メーカーと契約を結ぶ者もいる。ただ2011年現在、ドラコン専門選手のプロテストは日本では行われていない。

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小林富雄 – Wikipedia

小林 富雄(こばやし とみお、1973年5月30日[1] – )は、日本の経営学者。愛知工業大学経営学部教授。専門はフードシステム論、マーケティング論、ソーシャルマーケティング論。食品ロス問題、フードビジネスに詳しい。父は元富山県立大学教授の小林哲郎[2]、叔父は甲南大学元学長で経済学部名誉教授の森恒夫[3]、祖父は第19代九州帝国大学法文学部長(九州大学初代経済学部長)の森耕二郎。 富山県出身。2003年名古屋大学大学院生命農学研究科博士後期課程修了(博士(農学))。生鮮食品商社、民間シンクタンク、短大勤務を経て、2015年名古屋市立大学大学院経済学研究科博士後期課程(短期履修コース)修了(博士(経済学))、愛知工業大学経営学部准教授、2017年同教授。2010年から特定非営利活動法人ドギーバッグ普及委員会[4]顧問、2015年より理事長。2020年より一般社団法人サスティナブルフードチェーン協議会[5]代表理事(兼ドギーバッグ普及委員会委員長)。この間、内閣府食品ロス削減推進会議委員、消費者庁食品ロス削減のための戦略企画会議委員、環境省中央環境審議会食品リサイクル専門委員会委員、名古屋市環境審議会委員、東京都食品ロス削減パートナーシップ会議委員、愛知県食の安全・安心推進協議会副会長などを務める。現在、日本流通学会[6]理事(兼中部部会長、企画委員)、中部農業経済学会常任理事(兼編集委員)。 単著[編集] 小林富雄(2020)『増補改訂新版 食品ロスの経済学』農林統計出版 Kobayashi, Tomio (2020) Economics of Food Loss and Waste, Agriculture and

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新里地域バス – Wikipedia

新里地域バス(にいさとちいきバス)は、岩手県宮古市が運営するコミュニティバス(自治体バス)。市所有の白ナンバーバスを使用している。 2020年10月11日、岩手県北バスは、同年9月末の地域間幹線系統の国庫補助期間の終了に伴う和井内線の赤字額の増大を理由に、和井内線を廃止した[1]。そのため、宮古市は、2020年10月12日より、これまで無償で運行されてきた新里診療所患者輸送バスを自治体運行のコミュニティバスに置き換える形で、新里地域バス『ふれあい号』の運行を開始した[1]。コミュニティバス化による、実質有料化に伴い宮古市は新里診療所に通院する場合に限り、運賃を無料としている[1]。(詳しくは、運賃免除の項目を参照されたい) 現行路線[編集] 腹帯線[編集] 新里総合事務所前 – 新里診療所 – 茂市駅 – 新里郵便局前 – 玄翁館下 – 廻立 – 腹帯下の橋 – 腹帯駅前 –

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吉沢清次郎 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月) 吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 – 1978年4月2日)は、日本の外交官。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学経済学科(現・経済学部)を卒業後、1917年外務省に入省。1937年からアメリカ局長、1940年からカナダ特命全権公使に任じられた。1948年外務次官に就任、同年に退任、同じく1948年世界経済調査会理事長、1955年インド特命全権大使となる。1956年にはネパールとの外交関係樹立に伴いネパール大使を兼任。原子力委員会参与、日加協会会長などを歴任した。 『ラジェンドラ・プラサド インド共和国初代大統領』新樹社、1958年。著作 ディーン・アチソン『アチソン回顧録』全2巻、恒文社、1979年。訳書 『現代史を語る5 吉沢清次郎 内政史研究会談話速記録』渡辺昭夫監修、現代史料出版、2008年 参考文献[編集] 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年 『A Century of Encounters Between Japan

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佐藤彰真 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が全くありません。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2021年9月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2021年9月)出典検索?: “佐藤彰真” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 佐藤 彰真 名前 カタカナ サトウ ショウマ ラテン文字 Sato Shoma 基本情報 国籍

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ホーンパイプ – Wikipedia

英国海軍士官候補生のホーンパイプ(1928年) ホーンパイプ(hornpipe)とは、 17世紀後半に生まれたイギリスのフォークダンス、およびそのための舞曲。いくつかの種類があり、クラシック音楽にも取り入れられた。 動物の角を組み込んだ木管楽器。 フォークダンスのホーンパイプ[編集] フォークダンスのホーンパイプにはいくつかの種類がある。 4/4拍子[編集] 今日、一般的に「ホーンパイプ」と言われているもので、ハード・シューズを履いて踊られることが多い。 4/4拍子のホーンパイプには2つのタイプがある。1つは『水夫のホーンパイプ』のような、均等な音符(イーブン)で、時々2/2拍子になり、スコットランドのダンスのリールと較べるとわずかに遅いもの。もう1つは『The Harvest Home』のような、付点音符ではねる感じ(バウンス)のもの。19世紀のホーンパイプの中には、この2つが混ざったものもある。 4/4拍子のホーンパイプは18世紀かそれ以前に生まれたが、ポピュラーになったのは19世紀初期のことで、その時代に多くの曲が作られた。アイルランドでは『The Groves Hornpipe』、『The Boys of Bluehill』という曲が、イングランドでは、タインサイド(Tyneside)のフィドル奏者兼パブ経営者のジェームズ・ヒル(James Hill, 1811年頃 –

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ジュネーブ詩篇歌 – Wikipedia

ジュネーブ詩篇歌(1539) ジュネーブ詩篇歌(ジュネーブしへんか)は、ジャン・カルヴァンの下で作成された、聖書の詩篇による韻律詩篇の賛美歌集である。 プロテスタント宗教改革以前、会衆による詩篇歌の讃美は一般的ではなく、修道院の聖務日課や、ミサで司祭と聖歌隊がラテン語で応唱するものであった。これも聖歌隊の揃わない場合は、オルガンが無言で応唱に応じるオルガン・ミサなど儀礼的な状況が一般化していた。だが宗教改革者カルヴァンは、 マルチン・ブツァーなどの先例に影響を受けつつ、礼拝において会衆全体が、母国語で神を讃美するべきであると主張した。カルヴァン以前にも、フランスでは宮廷貴族の間で詩篇のフランス語韻文訳が流行しており、クレマン・マロのパトロンでもあったマルグリット・ダランソン(フランソワ1世の姉で、後のマルグリット・ド・ナヴァル)は、宮廷関係者のうちで最も有力な擁護者であった。カルヴァンも当時の人文主義者のひとりとして、フランス語詩篇歌のことを聞き及んでいたに違いないが、礼拝における詩篇讃美の有用性を主張した点が、宗教(礼拝)改革者としての実践的強調点であった。彼は1536年、『キリスト教綱要』初版で、詩篇を歌う重要性について書いている。また1537年1月16日、ジュネーブ市参事会に対して、教会において詩篇歌が歌われることを求め、「詩篇歌は私たちを励まして、この心を神に向け、賛美をもって神の御名があがめられるように祈る熱意へと私たちを駆り立てることができるのであります。」と述べている[1]。つまりカルヴァンにとって詩篇歌は、福音説教と同じ地位にあるものであり、神の言葉(聖書)にもとづく詩篇歌のみで讃美することをすすめた。 1538年にジュネーブを追放されたカルヴァンは、シュトラスブルク(ストラスブール)に亡命していたユグノーの会衆を導いた。そこで宗教改革を指導していたマルチン・ブツァーのもとで、会衆が礼拝で詩篇歌を歌う様子に感動したカルヴァンは、フランス語による詩篇歌を訳し始めた。初期の頃はカルヴァン自身も訳したが、やがて1541年より桂冠詩人クレマン・マロによる翻訳が本格化すると、カルヴァンは自身の訳は全て破棄してしまった。1544年にジュネーブを去って死去したマロに代わりテオドール・ド・ベーズが翻訳を引き継ぎ、1562年に150篇の全訳が完成した。ジュネーヴ詩篇歌は、16世紀中でも英語、ドイツ語、オランダ語、ハンガリー語などに訳され、スイス~フランス以外の改革派教会でも広く歌われた。 ジュネーブ詩篇歌を特徴付けるものとして、当時のルネサンス期の作曲家たちによる124曲のメロディーがあげられる。シュトラスブルクのマルティン・グライターの作曲もあるが、ルイ・ブルジョワ、ギヨーム・フラン、ピエール・ダヴァンテスなどの多くのフランス人の作曲家が参加した。カルヴァン自身は詩篇歌を単旋律で歌うことを厳密に守らせるため、ジュネーブでの出版は単旋律に限定したが、リヨンなど他の都市ではクロード・グディメル、クロード・ル・ジュヌによる4声編曲が出版された。ジュネーブ詩篇歌のメロディーは、教会旋法とシャンソンがブレンドされた優雅なもので、1オクターブ内に収まる音階により1音符に1シラブルが充てられる明快さも相まって、その後のプロテスタント教会の讃美歌に大きな影響を与えた。 日本語訳[編集] 詩篇全150篇および「マリアの讃歌」「十戒」「使徒信条」「シメオンの歌」を収録した礼拝歌集『みことばをうたう』(『改革教会の礼拝と音楽』編集委員会)がある(ドイツ・コラール100篇と共に編集)。[2]ここに収録された詩篇歌は、『日本語による150のジュネーブ詩編歌』(日本キリスト改革派教会)による。内14篇を収録したバッハ・コレギウム・ジャパンのCDは、これに基づく日本で最初のCDである[3]。その他、ジュネーヴ詩篇歌は、讃美歌 (1954年版)(1、4、5、6、12、539番)、讃美歌第二編(110番「悪しきたましいは」)、讃美歌21(1997年)、聖歌 (日本福音連盟)(1958年)、聖歌 (総合版)(2002年)に数点収録されている。また、『詩篇抄集』(日本キリスト改革長老教会)[4]は、スコットランド教会の伝統を汲んだ詩篇歌を収録している。 ^ 『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み』 ^ [1]『礼拝教典』第二部・改革教会礼拝歌集。「改革派の原点と伝統にたつ公同の教会の礼拝で、現行の「賛美歌」と併用される事を想定しております。すなわち、ジュネーヴ詩篇歌150篇とドイツ・コラール100曲を収録したものです。ジュネーヴ詩篇歌につきましては、日本キリスト改革派教会の全面的ご協力を頂きました。また、ドイツ・コラールにつきましては、生前に日本基督教団・深津文雄牧師のご賛同を頂いたものです。  編集は、日本キリスト教会会員が中心となり、日本キリスト改革派教会会員の方々も参加されました。改革教会礼拝歌集「みことばをうたう」は、このように改革派の流れを汲む教会と教会員の協力によって生まれたものです。」(以上、前書より)] ^ [2]ミクタムレコード、1996年4月29日(30MCD-1026) ^ クリスチャン新聞2003年12月07日号:CD「詩篇賛美」発売 参考文献[編集]

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三重県道22号伊勢南島線 – Wikipedia

三重県道22号伊勢南島線(みえけんどう22ごう いせなんとうせん)は、三重県伊勢市から南伊勢町に至る県道(主要地方道)である。 伊勢市と南伊勢町(旧南島町)を結ぶ幹線道路である。大部分を三重交通の路線バスが通過する。 国道23号から伊勢市の文教地区である倉田山を通り、市街地に進入する。中島から宮川沿いを行き、度会町に至る。 宮川の支流一之瀬川沿いの山中を、度会町の各地区を連絡しながら進み、度会町と南伊勢町の境である野見坂を越えて、国道260号に接続する。 路線データ[編集] 2016年(平成28年)4月1日現在。 起点:伊勢市黒瀬町字桜木1235番1[5](黒瀬町交差点) 終点:度会郡南伊勢町道方字秋ノ田1318番地先[5] 総延長:34.8533km 実延長:33.8114 km 重用延長:1.0419 km 橋梁:30本(総延長:608.1m) トンネル:2本(総延長:1.9800 km) かつて南島街道と呼ばれていた道路であり、1888年(明治21年)3月に三重県庁へ工事の県費補助の申請が出され、道路に対して2894円55銭、橋梁に対して11円98銭2厘の補助を得て、1890年(明治23年)に宇治山田吉津線として工事は竣工した[3]。1901年(明治34年)になると、野見坂に隧道(トンネル)を通そうとする計画が持ち上がる[6]。この時、地元ではトンネルの建設費を開通後、トンネルに通行税をかけてまかなおうとしたが、三重県から認められず、トンネル計画は頓挫してしまう[6]。1920年(大正9年)には三重県議会で「30ヶ年道路改良計画」に野見坂隧道が含められることになったが、これも実際の着工を見なかった[7]。 事業は、御木本幸吉が5,000円を寄付したことによって動き出す[8]。この5,000円を原資に三重県へ働きかけ、1926年(大正15年)9月13日にようやく起工した[9]。工事は鹿町組が施工し、工費30余万円をもって1928年(昭和3年)7月に野見坂隧道は開通した[9]。この出来事を『南島町史』は「南島町の夜明けに等しい」と記述している[8]。 1959年(昭和34年)1月25日に三重県道51号宇治山田吉津線が廃止される[10]代わりに、三重県道108号伊勢南島線が指定され[2]、1972年(昭和47年)三重県道22号伊勢南島線に改められた。

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