Month: January 2019

塩漬け – Wikipedia

塩漬け(しおづけ)とは、食べ物(特に腐敗してしまいやすい物)を、長期保存のためや、味を付けるために食塩に漬けておく古くからの方法、また、その方法で塩に漬けておいた食品をいう。前者は塩蔵(えんぞう)、後者は塩蔵品(えんぞうひん)ともいう。 腐敗しやすい畜肉や魚介類・野菜等を塩分濃度の高い状態におく事で細菌(雑菌)を繁殖させにくくし保存する手段としてこれらは古くから利用されてきた。 特に魚介類では塩辛、野菜類では漬け物の一種とされる[1][リンク切れ]。 畜肉の場合ではハムやベーコン、コンビーフ、スーチカーなどが該当する。 塩漬けによる食糧保存が始まった時期は不明である。塩で保存性を高めた食品は世界的にも多く、また素材が熟成される事もあって冷蔵庫が普及するまでは様々な食品の保存に塩(食塩)が用いられた。塩蔵とは、食料保存方法であると共に、食材の風味を作り変える手段であり、食塩が豊富に得られる地域でよく見られる食品加工方法のひとつである。塩分濃度を制御することで有害な微生物を退け、活動できるものを選んで発酵に用いる場合がある。 安定した供給のために、あるいは長距離・長時間の輸送に耐えうるように食料は加工されてきた。その加工の方法は塩蔵によらず、様々な方法が見られる。塩蔵品に限らず、保存性を高めた食品のことを一般に保存食という。 塩漬けにより雑菌の繁殖が抑えられる理由は浸透圧(すなわち微生物の細胞から水分が失われる)による殺菌・制菌によるものと、細菌が利用しやすい自由水を食塩によって結合水にすることで水分活性を減らすことによる。好塩菌は自身の細胞の浸透圧を調整しており塩による制菌が困難になっている。 一般に腐敗細菌の多くは約5%の塩分濃度で繁殖が抑制され、15-20%で繁殖不能になる。 塩せき・無塩せき[編集] ハムやソーセージなどの肉加工品を製造する際には、風味や肉質、保存性の向上などの目的で原料肉を食塩や発色剤(亜硝酸ナトリウムなど)、砂糖、香辛料などに漬け込む工程があり、これを塩せき(えんせき、英: Curing)という。日本では、塩せきの手法が公正競争規約により定められており、例えば、塩せきの期間はハムで5日間以上、ベーコンで5日間以上、ソーセージで3日間以上となっている[2]。 なお、無塩せきの表示のある加工品は、塩せきの工程が全く行われていないという意味ではなく、塩せきの際に発色剤を用いていないという意味である[3]。 「塩せき」をすべて漢字表記にしたものは「塩漬」である[4][5](「塩析」は別の用語であり誤記)。ただし、本来「漬」の音読みは「し」であり[6]、読み間違いが一般化したものと思われる。 一部の塩分の強い塩蔵品については真水に浸して塩分を緩和させる塩抜き(塩出し)を必要とする場合がある。薄い食塩水に浸す呼び塩と呼ばれる方法が用いられることもある。 食品以外[編集] 一般には食品保存法として利用される塩漬けであるが、その一方で様々な「傷み易いもの」を保存するために利用された。 人の遺体[編集] 遺体の保存方法として利用された例も多い。中国や日本では戦国時代以降、打ち倒した相手の首を切り落として首級として持ち帰る際に、首を塩漬けにして腐敗を防いだ。また権力者が客死した際や埋葬する際、あるいは他の季節なら問題なくとも、真夏に死去して葬儀の間に遺体が腐敗しやすい場合など、塩漬けにして遺体を保存する事もあった模様である(文禄・慶長の役の耳塚を参照)。 ヨーロッパでも第一次世界大戦の頃までは、遺体を戦地から塩漬けにして輸送する事もあった。 学術的に貴重な標本[編集]

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リュボフ・シャチコワ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 リュボーフィ・ソコローワ リュボフ・シャチコワ Соколова, Любовь 基本情報 国籍 ロシア 生年月日 (1977-12-04) 1977年12月4日(44歳) 出身地 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ ラテン文字 Lioubov Sokolova ロシア語表記 Соколова, Любовь

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外国法事務弁護士 – Wikipedia

日本以外の弁護士制度の「事務弁護士」とは異なります。 この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 外国法事務弁護士(がいこくほうじむべんごし、英表記:Foreign Legal Consultant)とは、外国の弁護士有資格者による日本国内での法曹活動を認めた外国弁護士による法律事務の取扱いに関する特別措置法(外弁法)に基づき、日本弁護士連合会に登録された弁護士をいう。2016年12月現在、413名が登録している[1]。 制度趣旨[編集] 外国法事務弁護士制度とは、外弁法に基づき、外国弁護士[注釈 1]のうち、特定の要件を満たす者が法務大臣の承認を得て日本弁護士連合会に登録することで、外弁法第3条に定められた原資格国法に関する法律事務を行うことができる制度である。これにより、日本の弁護士資格[注釈 2]を持たない外国弁護士が日本国内において弁護士としての職務を行っても非弁行為とはならなくなっている。 ただし、行える法律事務の範囲は原則として原資格国法に関するものに限定されており、例えば日本国内での民事・刑事訴訟などは職務として行うことはできない。これは「外国法事務弁護士に当該特定外国の法に関する法律事務をも行わせることが、日本における外国法に関する法律サービスを充実させるうえで合理的であるとの判断に基づいて許容された」[2]ためである。 アメリカからの強引な手法で認めさせられた制度であるが、相互主義により日本人弁護士がアメリカで業務を行うことも可能であり、1992年にアメリカで日本人弁護士による初の法律事務所が開設された[3]。 登録には3年以上の実務経験が必要であり、そのうち2年以上は海外実務経験でなければならない。法務省と日本弁護士連合会の検討会は海外経験の要件を1年に短縮することを提案している[4]。 制度の成立と変化[編集] 1960年代以降に日本が経済的に発展し、また世界的にも交通手段の発達により、相互の経済交流が以前よりも活発に行われるようになっていた。この中で、1971年(昭和46年)、フランスにおいて外国弁護士の受け入れが始まり、また1974年(昭和49年)になってアメリカ・ニューヨーク州においても外国弁護士の受け入れが始まるなど、世界的な流れとしては外国弁護士を受け入れるという方向となっていた。 このような中で、ニューヨーク州弁護士会は日本弁護士連合会に対して外国弁護士の受け入れを求めたが、日本国内においては外国弁護士を受け入れる制度的基盤がなかったため、この時は受け入れられていない。 1977年(昭和52年)になり、アメリカ・ニューヨーク州弁護士会に所属する弁護士が来日し、法律事務所(ローファーム)を開設して活動を始めるというシャピロ事件が発生する。この時、この活動は非弁行為ではないかという疑いもあり、日本弁護士連合会においては非常に問題となっている[5]。また、1982年(昭和57年)になって、アメリカが貿易摩擦における問題のひとつとして、この外国弁護士を受け入れていない問題を取り上げるようになり、司法制度の根幹にかかわる問題という扱いを受けながらも[5]、最終的には1986年(昭和61年)5月に外弁法が成立、翌1987年(昭和62年)4月より施行された。 当初は外国法事務弁護士が日本弁護士を雇用することが禁止されており、また外国法事務弁護士と日本弁護士との共同事業が原則禁止されていたが、1994年の外弁法改正により、特定の要件を満たした場合に共同事業が許可されるように改正され、2003年(平成15年)の外弁法改正により、外国法事務弁護士も日本弁護士も相互に雇用し合える[注釈 3]ようになり、共同事業(外国法共同事業)も認められるようになっている。 外国法事務弁護士の懲戒[編集] 外国法事務弁護士の懲戒は原資格国の法律に基づいて弁護士資格を付与されているものであるが、その外国法事務弁護士の非行等があった場合、日本国内における活動を停止させる為、日本弁護士連合会が「戒告」「2年以内の業務停止」「退会命令」「除名」の処分を下すことができる。一般の日本弁護士と違い、外国法事務弁護士に対する懲戒処分を行うのは外国法事務弁護士懲戒委員会であり、また弁護士の活動を調査するのも外国法事務弁護士綱紀委員会である。これらは日本弁護士に対する懲戒委員会、綱紀委員会と同じ働きをするものである。

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算木 – Wikipedia

算木(さんぎ)または算籌(さんちゅう)とは中国数学や和算で用いられた計算用具である。縦または横に置くことで数を表した。算木に基づく算木数字も使われた。算木を用いた計算法を籌算という。 中国では紀元前から算木が使われていた。1954年、湖南省長沙の左家公山15号楚墓で、戦国時代の算木が四十数本発掘された[1][2]。文献の記録はさらに古く、老子には「善く数える者は籌策(ちゅうさく)を用いず」とある[3]。 13世紀にそろばんが使われるようになるまで、算木で計算を行った[4]。算木はそろばんと異なり多元の代数方程式を解くことができたが(別項参照)、中国ではそろばんの普及により解法が失われた。江戸時代の日本の数学者はそろばんと並んで算木を用い、数学の発展に貢献した。 算木の使用[編集] 算木は長さ 3 – 14cm の木製または竹製の細長い直方体で、縦または横に並べて数を表し、配列を動かすことで四則演算、開平、開立などの計算をした。1から5まではその数だけ算木を並べ、6以上は異なる向きの1本で5を表した。 アラビア数字のように左を上位として横に並べることで数を示す。隣の桁と間違えないよう、桁によって算木の向きを変え、縦式によって奇数桁(一・百・万……の位)を、横式によって偶数桁(十・千……の位)を示した。孫子算経には「一は縦、十は横、百は立ち、千は倒れる」とある[6]。 日本では算盤(さんばん)と呼ばれる格子を書いた布の上で算木を使用した。はじめは中国と同じく縦式横式のしくみを用いていたが、江戸後期になると算木を使って計算する時に横式を用いず、一位十位百位など位にかかわらず縦式のみを扱う者が多くなった(算盤の格子によって桁がわかるために、縦横の区別がいらなかったため)。ただし、紙の上では格子はなく続けざまに算木を書くので従来どおり縦式横式で書き続けた。 算木は2色に着色され、赤の算木は正の数を、黒の算木は負の数を表した。0 はその場所に算木を置かず空けておくことで示し、後に碁石を置いて明示するようになった。九章算術には、「(引き算の時)同符号は引き、異符号は加える。正を無入から引いて負とし、負を無入から引いて正とする」とある[7][8]。この「無入」とは「0」のことである。これから、0と正負の計算を理解していたことが分かる。 算木を利用する事で、有理数の四則演算ができ、また高次の方程式の解を考察する事が可能である[9]。分数の約分を互除法で求める事にも使われる[10]。 例: 算木数字[編集] 算木を紙に記すときは正の数をそのまま書き、負の数は最後の桁に斜線を書いて示した。この算木数字は真の位取り記数法である。横式の字の縦棒は、字の高さを揃えるため短く書いた。 また当初「0」は空白だったが、「〇」を書くようになった。718年に瞿曇悉達によりインド数字から導入されたとも[7]、中国語で欠字を表した「□」から来ているとも[11]言われる。漢数字#〇、零を参照すること。 13世紀、南宋の数学者は 4、5、9の数字の画数を減らして書きやすくした[11]。この新しい数字の横式は最終的に蘇州号碼に変化した。日本では紙の上では従来の算木数字を使い続けた。

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子羊のロースト – Wikipedia

子羊のロースト(スペイン語: cordero asado)は子羊肉をローストした料理で、様々な国や文化で非常に人気がある。子羊のローストには、肉の切り方や使用する調味料によって様々な調理法がある。この料理は、子羊の肉がハラール(イスラム法で認められている)ことから、ムスリムの国々で非常に一般的である。ユダヤの祭礼の一部であり、エルサレムのペサハ(ユダヤ教の過越)で供され、タルムードでも何度か食べられる[1]。 子羊肉は様々で、丸ごとで、半身で、あるいは枝肉で焼かれる。どのように切り分けるのかは、それぞれの地域の好みに依存する。ローストの残りはコールド・カットとして供され、温かいものより、冷たいものの方が消化が良いとされている[2]。フランスやスペインのオートキュイジーヌでは、子羊肉は子羊のエピグラムと呼ばれるテクニックでローストされる。 様々な食文化での調理[編集] このタイプの肉は世界中に同じ様に普及しているわけではなく、例えば、東アジアの料理では子羊のローストの調理法はほとんど見られない。ヨーロッパでは地中海地域以外ではあまり見られず、ギリシャ、トルコ、スペインでは非常に人気がある。 スペイン料理[編集] スペイン料理では子羊肉をローストした料理は人気がある。多くの場合、スペインの子羊肉のローストの習慣は、歴史的に見て、非常に人気のあったアル=アンダルスの美食に由来している。フアン・アルティミラス(スペイン語版)の Nuevo arte de cocina(『新しい調理技術』)のような古いスペインの料理書にはすでに料理のプロセスが記述されている。現在では宴会や様々な祭事の料理として扱われている。アラゴン(アルト・アラゴン地方)の美食では、子羊のローストは一般的で、子羊の羊飼い風(スペイン語版)と呼ばれることもある[2]。子羊のローストは通常ごくわずかな調味料、一般的にはニンニク、バターおよびレモンで調理される。アルト・アラゴンの一部の地域では、通常はローストした子羊の尻尾が用意されており、山のアスパラガス(スペイン語版)と呼ばれている。asado al air と呼ばれるテクニックは、一般的に2段階で行われる。最初は「ポイント」に達するまで加熱し、第二段階ではバターを塗られて焼き上げられる。「カスティリアン」と呼ばれるこのテクニックは、カスティーリャの何世紀の前からのレストランで一般的である。オーブンからそれぞれの土鍋にとって食べるのが一般的である。 グアダラハラ県では通常、「チュレータス・ア・ラ・テハ(スペイン語版)」(タイルのチョップ)と呼ばれる、特別な子羊のローストが料理されている。この料理はタイルの上でラムチョップを焼いたものである。マドリードでは、このカスティーリャ・スタイルのローストは、カサ・ボティン(スペイン語版)で数世紀にわたって作られてきた。調理は多くの場合パン焼き窯で行われ、切り分けられた子羊肉は伝統的な土鍋に取り分けられる。多くの場合はレチャソ・アサード(スペイン語版)である。アンダルシア州の内陸部での料理でも子羊のローストがある[3]。スペインの一部の地域では、子羊の頭などの特定の部位のローストを食べることが一般的である。 モロッコ料理[編集] モロッコでは、土窯で焼かれ、テーブルの中央にあるトレイでゲストに供される子羊のローストであるメチュイ(英語版)に非常に人気がある。客は自分の指で取り分けて食べる。クスクス、レモン、アーモンド、プラムなどと一緒に食べるのが一般的である。しかしながら、マグレブ料理(スペイン語版)でもっとも知られている子羊肉の料理である。 トルコ料理[編集] トルコ料理では、子羊肉が非常に人気があって食べられており、これはおそらくギリシャ料理から受け継がれている。ロティサリー(英語版)でローストした子羊肉の調理は非常に頻繁であり、ケバブ、グリルでローストした子羊肉などのいくつかは平なパンで挟んで供されることも多い。イスケンデル・ケバブ(トマトソースとヨーグルト添えの子羊肉)には、ローストしてブドウの葉で包んだものもある。

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ペリシン – Wikipedia

ペリシン IUPAC命名法による物質名 (R-(E))-5-ethylidcene-1,4,5,6,7,8-hexahydro-7-methylene-2H-3,6-ethanoazonino(5,4-b)indole 臨床データ 法的規制 投与方法 Oral 識別 CAS番号 84638-28-8  ATCコード none PubChem CID: 6440735 ChemSpider 4944986 化学的データ 化学式 C19H22N2

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野原未蘭 – Wikipedia

野原 未蘭(のはら みらん、2003年8月4日 – )は、日本将棋連盟所属の女流棋士。女流棋士番号は70。富山県富山市出身。森内俊之門下[1]。富山第一高等学校卒業[2]。法政大学在学中[3]。 女流棋士になるまで[編集] 5歳の時にアマ三段の父親(早稲田大学将棋部出身)に教わった事をきっかけに将棋を始め、9歳から金沢市の道場「晩成塾」で元奨励会三段・鈴木英春の指導を受ける[1][4]。 2014年、小5のときに第7回小学生駒姫名人戦で優勝[5]。 2015年、第8回小学生駒姫名人戦でも優勝し連覇[5]。 2016年、第8回中学生女子名人戦で優勝[6][7][8]。決勝の相手は2歳年上で、2年後の2018年11月に女流棋士入りを果たした礒谷真帆だった[9]。同年度の第9回女子アマ王位戦でも優勝し、中1にして女性アマチュアのトップに立つ[10][11]。 2017年、第49回女流アマ名人戦で初優勝を果たす[12][13]。第10回女子アマ王位戦でも優勝を果たし連覇[14][15]。中2にして女性アマチュア2冠となる。 2018年には、第43回中学生将棋名人戦で優勝[16]。男子も参加する同大会での女子の優勝は史上初の快挙である[17]。その後の第39回全国中学生選抜将棋選手権大会の女子の部でも優勝した[18]。そして、第50回女流アマ名人戦でも優勝し連覇を達成した[19][20][21]。 2019年、アマチュア予選を勝ち抜いて出場した第9回女流王座戦一次予選で礒谷真帆と千葉涼子に連勝し二次予選進出を果たした[22][23]。第51回女流アマ名人戦で優勝し、史上初の女流アマ名人戦3連覇を達成する[24][25][26]。 2020年、これまで、在学中のプロ入りを考えないでいたが[27]、2月に東海研修会に入会(テストの結果B2入会)[28]。第28期倉敷藤花戦で井道千尋、伊奈川愛菓に連勝し、3回戦進出(ベスト16)を決める。 そして、同年7月29日の第28期倉敷藤花戦3回戦で室田伊緒に快勝し、ベスト8進出を決めた[29]。それをもって、女流棋士になる資格を得た[30][31][32][注釈 1]。 同年8月14日には、倉敷藤花戦準々決勝で小高佐季子に勝ち、準決勝に進出した。本来であれば女流初段昇段の規定を満たしているところであるが[33]、まだこの時点ではアマチュア扱いであったため規定が適用されず、「女流2級」としてプロ入りということになった[30][注釈 2]。 女流棋士になってから[編集] 2020年9月1日付で日本将棋連盟東京本部所属の女流棋士2級(新女流棋士)となった[1]。前述の通り、元奨励会三段・鈴木英春に師事してきたが、プロ入りの際はプロである四段以上の棋士を師匠とする必要があるため[34]、森内俊之が師匠を引き受けた[1][35]。

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渡邉和也 – Wikipedia

この項目では、陸上短距離選手の渡邉和也について説明しています。中長距離選手の渡邊和也については「渡邊和也」をご覧ください。 渡邉 和也(わたなべ かずや、1988年7月20日 – )は、宮城県柴田町出身で短距離走が専門の陸上競技選手。400mで45秒71の自己ベストを持つ。2014年世界リレー男子4×400mの日本代表。 宮城県柴田町出身。柴田町立船岡中学校、宮城県柴田高等学校、東北福祉大学卒業、東北福祉大学大学院修了。 高校生時代まで[編集] 陸上競技は小学4年の時に始め、高校まで走幅跳中心の選手だった[1][2]。船岡中学校時代にジュニアオリンピックD優勝、全日本中学校選手権9位、国民体育大会少年Bで4位に入り、記録面でも7m05の宮城県中学記録(2003年日本中学ランキング1位)を樹立している。柴田高校時代にはインターハイ9位、国民体育大会少年B3位などの成績を残した。 大学生・大学院生時代[編集] 東北福祉大学進学後に「走ることのほうが好きだった」と短距離中心の選手になり[1]、2年時に日本学生個人選手権200mで5位。3年になってから始めた400mでは46秒台をマークした[2]。 東北福祉大学大学院では、1年時に日本インカレの200mと400mで初の決勝進出を果たし、それぞれ8位と4位。2年時には6月の日本選手権400mに初出場を果たして6位。日本学生個人選手権400mで46秒76の大会新記録を樹立して初の大学日本一に輝くと[3]、9月の日本インカレ400mでは中野弘幸に次ぐ2位で過去最高成績を記録した。10月の国体成年400mでも中野弘幸に次ぐ2位になり、自己ベストも46秒43に伸ばした[2]。 社会人時代[編集] 社会人1年目となった2013年は、5月の静岡国際400mで45秒71の自己ベストをマークすると、6月の日本選手権400mに2年連続の出場を果たし、石塚祐輔と同着の4位。この結果を受けて7月に行われるアジア選手権の日本代表に選出され、初めて日の丸を背負うことになった。アジア選手権には400mと4×400mリレーに出場し、400mは準決勝で敗退したが、4×400mリレーでは3走を務めて銀メダルを獲得した[4]。初出場となった9月の全日本実業団選手権は400mで石塚祐輔に次ぐ2位。10月の国体成年400mでも石塚祐輔に次ぐ2位で初優勝を逃した。12月には日本陸上競技連盟がリレー種目強化のために発足したナショナルチーム(男子24名、女子14名)の一員に選ばれた[5]。 2014年、2月にアジア室内選手権400mに出場し5位[6]。5月に世界リレー日本代表に選出され、4×400mのアンカーを務めてB決勝2位に貢献した[7]。6月の日本選手権400mでは、この種目で10連覇を達成した金丸祐三に次ぐ2位。この結果を受けて9月のアジア大会日本代表に選出されたが、後に右足の怪我のため出場を辞退した[8]。 2013年シーズンからミズノのチームミズノアスレティックに所属していたが、2015年シーズンよりミズノトラッククラブに昇格した[9]。その後、2016年シーズンをもって退部となった[10]。 2017年10月1日付で東北福祉大学に入職したことを、同日に自身のツイッターで明らかにした。 人物・エピソード[編集] 中学1年の時に、学校の砂場が狭いために走幅跳の練習をしているとよく飛び越えてしまっていた。そのことを顧問が柴田町の町長に伝えたところ、砂場を改修してもらったという[1]。 趣味は温泉[1]。よく自身のツイッターで温泉に行った様子を報告している。

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牟呂用水 – Wikipedia

牟呂用水(豊橋市賀茂町) 牟呂用水(むろようすい)は、愛知県東部を流れる農業用水路。豊川を取水源とし、豊川左岸の一部地域をうるおす。 地理(牟呂陽水)[編集] 牟呂用水[編集] 愛知県新城市一鍬田の牟呂松原頭首工から取水し、豊橋市牟呂地区の神野新田をうるおす。明治時代に開削された。当初は、豊橋市賀茂町までの賀茂用水であったが、神野新田開発に伴い、用水路を延長し現在に至る。豊橋市街地を流れる部分は、地元では新川(しんかわ)とも呼ばれている。最終区間の牟呂地区で神野新田への分流を分けた後、牟呂市場町で柳生川に合流する。正式名称は「牟呂松原用水牟呂幹線水路」。 年表[編集] 1884年(明治17年):八名郡八名井村、金澤、加茂村の3ヶ村の間で加茂用水を計画する。 1887年(明治20年)7月:八名井村の一鍬田の宇利川から下流の加茂村まで約8Kmの加茂用水が完成するが、9月の台風で壊れる。 1888年(明治21年)4月:毛利新田(後の神野新田)の堤防工事が開始、6月に毛利祥久が加賀用水を牟呂村まで16Km延長し牟呂用水として完成させる。 1890年(明治23年)5月:毛利新田の堤防が完成し、この年に牟呂用水で灌漑して稲が作付された。 1891年(明治24年)10月:濃尾大地震で毛利新田も牟呂用水も堤防が壊れる。 1892年(明治25年)9月:台風の高潮で毛利新田の堤防と牟呂用水が壊されるが、特に毛利新田は壊滅的であった。 1893年(明治26年)4月:神野金之助が毛利新田と牟呂用水を買い取り、6月から堤防工事を始め、同年完成する。 1894年(明治27年)3月:牟呂用水の修理を始める、服部長七発明の人造石を使用し、宇利川を横切る水路は神野三郎考案の自在運転樋とした。 1895年(明治28年)9月:豊橋電燈株式会社が牟呂村大西の大海津にある牟呂用水の落差を使って水力発電所を建設した。 1901年(明治34年)9月:渥美郡花田、吉田方、牟呂村に分水するようなり、灌漑する総水田面積は1,238町歩となる。 1959年(昭和34年):牟呂用水と松原用水が統合された。 1963年(昭和38年):牟呂用水と松原用水の合口工事が始まる。 1968年(昭和43年)5月:頭首口、並びに牟呂松原用水が完成する。 地理(松原用水)[編集]

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