Month: January 2019

フローチャート – Wikipedia

簡易なフローチャート これはsに1から10までの数字を足しこむ処理を表した図である。 フローチャート(flowchart, 流れ図)は、プロセスの各ステップを箱で表し、流れをそれらの箱の間の矢印で表すことで、アルゴリズムやプロセスを表現する図である。アルゴリズムやプロセスについて、単にその順序だけを示すものであり、全体から詳細へというような「段階的」な説明ではない(ないし、記述者が意識してそのような階層を作る必要がある)[注釈 1]。また、データフロー図と対比すると、より重要であるデータの流れをフローチャートは表すことがなく、操作を順に示すことでデータの流れを暗示する。しかし、フローチャートは様々な分野の工程の解析・設計・文書化・管理に用いられている[1]。 フローチャートは複雑なプロセスやプログラムの設計および文書化に使われる。他の図と同様、何が行われているかを視覚化するのを助け、それによって見る者がプロセスを理解するのを助け、さらには欠陥・ボトルネック・細かい特徴などを発見できることもある。フローチャートには様々な種類があり、それぞれ固有の部品(箱)や記法を持つ。最も一般的な箱は次の2種類である。 処理ステップ、活動を表す箱。単純な四角形で表される。 判断。通常菱形で表される。 ページをいくつかに分割し、異なる組織の制御を異なるスイムレーン(英語版)に描く形のフローチャートは「部門間協力」型のプロセスを表せる。特定のレーンに描かれた部品群はその組織の制御下にあるプロセスを意味する。この技法は各活動の責任分担を明確化でき、意思決定を正しく行えるようにする効能がある。全体として一つのプロセス(事業、プロジェクトなど)を実施する際の各組織の責任を明確化できる。 プログラミング言語の教育においては、処理を理解するために用いられることがある(たとえば、for (i = 0; i < 10; ++i) という字面からだけでは、「繰返しの1回目では ++i は実行されない」「2回目からの繰返しの前に

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にせガンダム – Wikipedia

『にせガンダム』とは、ガンダムシリーズの派生企画、SDガンダムシリーズに登場するモビルスーツ(MS)という設定のキャラクターである。 デザイナーは横井画伯こと横井孝二。 『コミックボンボン』誌上に連載された横井孝二の4コマ漫画『元祖! SDガンダム』が初出。いつもガンダムにいじめられていたザクはその復讐のため、外装をガンダムに偽装して不意を突こうとこっそり近づく。しかしたくさんの「ガンダム」がいたために気付かれる前に逃げるが、ほかのジオン系MSたちにガンダムと勘違いされ追いかけられてしまう、というオチである。 その後、ガンダムでも敵MSでもないキャラとして孤立してしまい、仲間作りに奔走するようになりにせガンダムMk-IIを初めとする派生キャラクターが誕生することになる。 また、派生キャラのにせガンダムMk-IIおよびにせΖガンダムとともに『SDV』に「にせガンダムチーム」として取り入れられている。商品展開は、カードダスやガシャポン戦士の塩ビ人形のほか、『元祖SDガンダム No.24 にせガンダム』としてキット化されている。 外見は大まかに言えばガンダムとザクIIを合わせたものだが、モノアイ部の支柱形状や胸部、右肩シールドのデザインなどハイザックに近い部分もある。 ザク系のフェイス部にガンダムフェイスを模したカバーを、頭部にガンダムと同型のブレードアンテナを、胸部に連邦系MSの特徴である排気ダクトを、背部にはビームサーベルの柄を取り付け、右肩シールド形状を連邦系のものに換装するなど、外見を大きく変えている。 これらはいずれも偽装のためのダミーである。外装こそ連邦系に見えるが内部機構は殆どザクIIのままで、腰部のパイプ装着箇所は股間ブロックに移動しているなど細部のレイアウトこそ変更されているものの、頭部モノアイセンサーや外部動力パイプはザクIIと同形状である。 デザインした横井は特に気に入っており、SDガンダムの企画がスタートする前から「ガンダム+ザク」をいつかやってみたかったと言及しており[1]、どこにも属さないが故に自分のモノといえるとも述べている[2]。 SDVでの設定[編集] 上記のように半ばお遊びのデザインであったが、SDVではMSとしての設定が付与された(型式番号はSDガンダムより)。しかしあくまでもSDガンダム内の設定であることに注意を要する。 MS-06C[3] にせガンダム(ザク偽装型)[4]。 実戦には配備されず、主に模擬訓練時の的(アグレッサー)として運用されている[4][5]。 映像作品[編集] OVA『機動戦士SDガンダム MARK-IV』収録「SDガンダム猛レース」に登場。DVD未収録。声優は神代知衣。

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トッド・ヴァン・スティーンゼル – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 トッド・バン・スティーンゼル トッド・バンスティーンゼル トッド・ヴァン・スティーンゼルTodd Van Steensel レイクカントリー・ドックハウンズ #21 A+級フォートマイヤーズ時代(2016年4月23日) 基本情報 国籍 オーストラリア 出身地 ニューサウスウェールズ州シドニー 生年月日 (1991-01-14) 1991年1月14日(31歳) 身長体重 6′ 1″ =約185.4

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尾形正己 – Wikipedia

尾形 正己 基本情報 出身地 兵庫県 生年月日 1953年5月12日 身長体重 181 cm78 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 内野手、外野手 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 選手歴 兵庫・山崎高校 新日本製鐵広畑

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リオメス=モンターニュ – Wikipedia

リオメス=モンターニュまたはリオン=エス=モンターニュ (Riom-ès-Montagnes)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、カンタル県のコミューン。 県北西部にあるリオメス=モンターニュは、ジャンティアーヌ地方の中心コミューンで、ヴォルカン・ドーヴェルニュ地域圏自然公園の中心部に位置する。ドール連山およびカンタル連山の中間、標高840mの地点にある。 リオメス=モンターニュをヴェロンヌ川が横切る[2]。この川がプティット・ルー川と合流する地点は、リオメス=モンターニュと隣接コミューン、マルシャステルとサンタマンダンとの境界になっている[3]。 ジュルニアック・ダムはリオメス=モンターニュとサンタマンダンにまたがっている。 コミューンの気候は山岳気候である。冬はしばしば霜が降り降雪があり、夏は暑く日照時間が長いが夜は涼しくなる。春と秋は雨が多く、霧が頻繁に発生する[4]。 リオメス=モンターニュ駅 かつて広く利用されていた鉄道輸送は、観光鉄道ジャンティアーヌ・エクスプレス(fr)として今も活躍しており、リオメス=モンターニュ駅に停車する。ジャンティアーヌ・エクスプレスは高オーヴェルニュ地方を走り、一部を開業が1908年と古いボール=レゾルグ-ヌサルグ路線を走る[5]。 ローヴェルニャ・ド・パリの創設者ルイ・ボンネは、今日『パッケージ・ツアー』と呼ばれるものの先駆者だった。1904年、彼は自らの名を冠した列車をつくった。1939年まで、彼は割引価格で毎年春夏に故郷の同胞を乗せていた。オーヴェルニャの中ではこうあるべきとして、これらの客車は非常に特別な雰囲気を持っていた。各駅に停車するごとにカブレット(fr、オーヴェルニュ独特のバグパイプ)の演奏、スナック、プラットフォームでの踊りブレーの披露が行われた。こうした旅行は1923年にリオメス=モンターニュで増加した。 2本の道路交通の軸が町の中で交差する。モーリアック/コンダ線、ボール=レゾルグ/ミュラ/サン=フルール線である。国道678号線はモーリアックを経由してラゲンヌからラ・ソヴタへ伸び、リオメス=モンターニュからコンダの間は『県道678号線』に格下げされている。 リオメス=モンターニュの起源は、ガリア語の地名rigomagosが示しているように、古くガロ=ローマ時代にさかのぼる。rigomagosとは王の市場を意味する。 人口統計[編集] 1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2011年

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プルゼニ – クラトヴィ – ジェレズナー・ルダ線

プルゼニ – クラトヴィ – ジェレズナー・ルダ線(チェコ語: Železniční trať Plzeň – Klatovy – Železná Ruda)は、チェコ鉄道の鉄道線の名称である。路線番号は183。 1877年、プルゼニ・ブルジェズノ・ホムトフ鉄道によって開業した。チェコ西部を南北に結ぶ路線である。ドイツとの国境に達する路線であるが、チェコ~バイエルンの輸送は180号線が主に担っている。なお、170号線の一部として案内されているプルゼニ – クラトヴィ間については、170号線の項目にて記載し、本頁では主にクラトヴィ – ジェレズナー・ルダ間について記載する。 運行形態[編集] 特急「リフリーク(R)」[編集]

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アクシオン・ディレクト (クライミング) – Wikipedia

アクシオン・ディレクト(英: Action Directe、フランス語: [aksjɔ̄ diʁɛkt])は、ドイツのフレンキシェ・シュヴァイツに位置している、難易度が高いことで有名なスポーツクライミングのスポットで、1991年にヴォルフガング・ギュリッヒが初登攀した。 ヴォルフガング・ギュリッヒは同地のUIAAの難易度をXI(フランスでの難易度に換算すると8c+と9aの中間)に当たるものだとしたが、一般には世界初の9a (5.14d)のルートとして認識されており、現在でも多くの人が「9a (5.14d)」として認識している。この場所を登る上では、一本指のポケットからダイナミックな動きを伴って長距離を動くことや、2本指ポケットに向かってダイナミックな動きをとることなどが必要となるなどの独特のスタイルでも有名である[1][2]。ヴォルフガング・ギュリッヒは、フレンキシェ・シュヴァイツの地域で必要な力と強度を鍛え上げるために、キャンパスボードを考案している[3]。 Milan Sykoraは、右隣のラインにスタートを切れるようにするために、1980年代にスタートラインをボルトで固定した。フランスのテロ組織「直接行動」(Action directe)に因んで命名された同所は、16手のシークエンスと2本指ポケットへのダイナミックなジャンプスタートを使って、11日間かけて1991年にヴォルフガング・ギュリッヒが初登攀した[4]。小山田大は11手のシークエンスでの登攀を行った。 2020年5月にフランスのメリッサ・ル・ヌヴェが女性初の登攀を成し遂げた[5][6]。 登攀成功者一覧[編集] 1995年9月9日、Alexander Adler。 2000年6月7日、Iker Pou。 2001年5月21日、Dave Graham。 2003年5月14日、Christian Bindhammer。 2005年10月13日、Rich

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聖ゼノビウスの生涯の場面 – Wikipedia

『聖ゼノビウスの3つの奇跡』、66.5 x 149.5cm、ナショナル・ギャラリー (ロンドン) 『聖ゼノビウスの生涯の場面』(せいゼノビウスのしょうがいのばめん、英: Scenes from the Life of Saint Zenobius)は、イタリアのルネサンス期の巨匠、サンドロ・ボッティチェッリによる連作絵画である。連作の4枚の板絵が現存し、現在3つの異なる美術館に所蔵されている[1]。それぞれが、おそらく417年に亡くなったフィレンツェの初期の司教、聖ゼノビウス(英語版)の生涯からの3つ以上の出来事を描いている。作品はすべて板上にテンペラで描かれている。高さは約66cmだが、長さはかなり異なっており、約149cmから182cmである[2]。 この連作絵画はボッティチェッリの画業の最後の段階、おそらく1500年から1505年ごろに制作されたというのが一般的な見解である。 一部の研究者は、連作を画家の現存作品中、おそらく一番最後に制作されたものであると見なしている[3]。 奇跡の物語[編集] ロンドンのナショナル・ギャラリーには2点の板絵がある。これらの1つ、『聖ゼノビウスの青年期の4つの場面』は左から右に以下の出来事を表している。1) 聖ゼノビウスは両親が選んだ花嫁を拒否し、その後立ち去る。2) 聖ゼノビウスが洗礼を受けている。3) 聖ゼノビウスの母親がフィレンツェの司教から洗礼を受けている。4) 聖ゼノビウスは、ローマで教皇ダマスス1世によってフィレンツェの司教として聖別されている。

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健康住宅 – Wikipedia

健康住宅株式会社(けんこうじゅうたくかぶしきがいしゃ、英:Kenkoh Jutaku Co.,Ltd.)は、福岡市城南区別府に本拠を置く住宅メーカー。九州でいち早く「外断熱工法」に着目。その施工に関して先駆け的な存在となる[3]。省エネルギー性能やCO2削減等へ貢献する優れた住宅を表彰する制度である「ハウス・オブ・ザ・イヤー・イン・エナジー」に2012年から2021年まで10年連続でダブル受賞、2017年・2021年大賞受賞。『2019年版日本における「働きがいのある会社」ランキング』ベストカンパニーに選出されている[1][3][4][5]。 1998年に畑中直(すなお)がディベロッパーであった父の会社の注文建築部門として創業。大手ハウスメーカーや建売り・建築条件付きなど凌ぎを削る建築業界で生き残るためには、”商品の差別化”が必須だと考え、「本当に売れる、売りたい家」を探求するために、2年近く全国を行脚。その結果、当時まだ一般的ではなかった「外断熱工法」で建てられた高性能住宅に出会い、採用を決断。理論の研究、情報収集を重ね、外断熱の効能を活かしきる工夫や素材までこだわり、独自に開発した工法が、外断熱「あんみん工法」であった。同工法は、2001年に財団法人建築環境・省エネルギー機構から次世代省エネルギー基準適合住宅評定(九州で3社目)を受け、2007年には住宅型式性能認定(温熱環境)最高等級(九州初)を受けた[6][7]。2010年から「ハウス・オブ・ザ・イヤー・イン・エナジー」の連続W受賞、2017年・2021年大賞受賞。2011年には慢性的な職人不足解消の一策として「社員大工制度導入」、2012年営業社員が顧客に永続的に向き合えるための「歩合制の撤廃」などを実施[3][8]。 同社の特徴は、健康と省エネ、耐震に最大の主眼が置かれ、外断熱工法のほかオール電化と太陽光発電を組み合わせた省エネ設備の導入をはじめ[9]、気密に関しては、全棟気密測定を実施し、C値を0.5以下を保証。サッシは樹脂のトリプルサッシを九州では初めて標準採用。ZEHにも積極的に取り組み、V2Hシステム「Vehicle to Home」も対応可能とした。家づくりのテーマを「夏はヒンヤリ、冬はぽかぽか」とし、断熱材はフェノールフォーム断熱材の「ネオマゼウス」(熱伝導率がJIS A 9521においての最高ランクの0.018W/(m·K)[10])を採用[11][12]。住友ゴム工業の制振ダンパー「ミライエ」の標準装備及び構造体である柱や床材への九州産の無垢材を使用、地元の家具店への制作発注によるキッチン[11]、「外断熱工法」のほか、スウェーデン製の換気装置による24時間換気や家じゅうの水をすべて浄水できるオール浄水器[11] の導入、さらには特に成熟した消費社会においては、施主の信頼を獲得するための最大の手段は”積極的な情報開示”であると考え、受注住宅全棟に対して「年に一回の継続点検」を無料で行なっているが、オーナーチェンジがあっても家が存在する限り続けている。畑中には『性能のよい外断熱の本』(PHP研究所)、『はじめての家づくり – ゆずってはいけない2つの条件』(現代書林)の著書がある[7][13] ほか、『住宅における窓の温熱性能の違いによる室内熱環境への影響と暖冷房負荷削減効果:その1 実験棟における実測調査(住宅の熱性能(2),環境工学II)』 (2011)及び『住宅における窓の熱的性能の違いによる室内熱環境への影響と暖冷房負荷削減効果:その2 シミュレーションによる比較(住宅の熱性能(2),環境工学II)』 (2011)の2つの論文がある[14]。 2018年8月、SDGs宣言。障がい者雇用、女性社員の積極採用、高性能リノベーションなどを開始。成長速度を加速させる[15]。同社では、鍵山秀三郎に倣い、社員による毎朝の会社周辺の清掃のほか、現場の職人にも1日5回の清掃が義務付けられているが、掃除により社員や職人のモチベーション向上や現場の清潔度向上だけにとどまらず、工期短縮ひいては職人の収入向上、ミスの減少に大きな効果があったとされる[9][16][17]。 企業ビジョンは『GOOD COMPANY

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藤原雅量 – Wikipedia

藤原 雅量(ふじわら の まさかず、生年不詳、天暦5年8月27日(951年9月30日))は、平安時代中期の貴族。藤原式家、右京大夫・藤原菅継の後裔。式部丞・藤原時範の子。官位は従五位上・左少弁。 文章生を経て、勘解由次官を務める。 醍醐朝の延喜19年(919年)第34次渤海使として来日した裴璆との詩宴に参加する。その後、延長7年(929年)12月になって再び裴璆が丹後国竹野郡の沿岸に来着し、丹後国から渤海使が到来した旨、朝廷に言上が行われる[1]。10年ぶりの来朝であったことから、朝廷も本格的に使節の接待を検討することになったらしく、裴璆の知己であった雅量が存問使として派遣された。しかし、雅量が裴璆に事情を問うと、渤海が契丹によって滅ぼされたこと(延長4年(926年)に渤海は滅亡。契丹は渤海の故地に東丹国を置いて支配していた)、元は渤海人であったが今は東丹に仕えていることを伝えられる。さらには、裴璆は旧知の雅量と出会って気を許したためか[2]、渤海国滅亡の際の混乱により妻や子女と離れ離れになってしまったことや、契丹王の非道ぶりを訴えた。 しかし、答えた前後の状況が異なることから、朝廷は大使である裴璆に怠状を提出させる。加えてその怠状に対して、渤海の臣であったにも関わらず東丹に仕え、さらには新しい主君の悪口を言う不義不忠の者として裴璆を厳しく批判し、入京を許さず追い返した[3]。この勘問の間に、雅量は裴璆から漢詩を贈られたが、立場上打ち解けることはできなかった。裴璆が本国に放還された後に、優れた人物でありながら不義の人になってしまったことや、戦乱で家族と離散した裴璆の境遇に同情して、雅量が詠んだ漢詩が残っている(『扶桑集』)。 朱雀朝の承平7年(937年)ごろ阿波守を、村上朝の天暦4年(950年)ごろ権右少弁・左少弁と弁官を務めるが、天暦5年(951年)8月27日卒去。 注記のないものは『尊卑分脈』による。 父:藤原時範 母:不詳 生母不詳の子女 ^ 『扶桑略記』裏書延長8年正月3日条 ^ 上田雄『渤海使の研究』明石書店、2002年 ^ 『扶桑略記』裏書延長8年4月1日条 ^ 『尊卑分脈』

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