若尾民造 – Wikipedia

若尾 民造(わかお たみぞう、嘉永6年12月4日(1854年1月2日) – 大正6年(1917年)2月22日)は、日本の実業家、甲府市長(官選第7代)。

甲斐国甲府下一条町(現在の山梨県甲府市)に細田利兵衛の三男として生まれる。幼名は長次郎、姉の「はつ」は若尾逸平の夫人であり、姉婿である逸平に認められ明治5年(1872年)に逸平の養子となり、逸平の弟である横浜の若尾幾造の長女である若尾幾久と結婚。逸平の隠居により形式的には明治27年(1894年)に家督を相続したが、大正2年(1913年)の逸平の死後、実質的な若尾家の二代目となっている。

明治39年(1906年)7月7日の甲府市会において、満場一致で第7代甲府市長として若尾を推薦したが、市会議員全員に辞退の書簡を送付するなど若尾は推薦を辞退した。このため武田千代三郎山梨県知事らの重なる懇請により翻意し、同年7月24日の裁可を経て同日第7代甲府市長に就任したが、9か月後の明治40年(1907年)3月5日に辞任した。なお、辞任に際し後任の甲府市長に元山梨県知事の加藤平四郎を推薦している。

明治42年(1909年)に甲府商業会議所が創立すると5月6日に会頭に選出され、大正6年(1917年)2月22日(現職として死亡)まで務めている。また、実業面においては、若尾銀行頭取、東京電燈会長のほか、横浜正金銀行、東京瓦斯、横浜倉庫などの重役を務めている。

日露戦争後の1905年(明治38年)に山梨県・甲府市では増設師団の兵営誘致を進めており、民造は私有地を提供するなど積極的に誘致に携わっている。民造の用地提供で1908年(明治41年)に歩兵第49連隊(甲府連隊)の甲府常駐が決定すると、民造はさらに西山梨郡相川村(甲府市)周辺の用地も買収して提供した。

1912年(明治45年)には皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山梨行啓が行われ、民造は宿舎となった甲府城稲荷曲輪に存在した公会堂である機山館の改修費を出資した。また、予備の宿舎には若尾銀行が充てられている。皇太子嘉仁親王は県内各地で甲府連隊の演習を視察している。

参考文献[編集]

  • 『第一版 山梨人事興信録』大正7年(1918年)刊
  • 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社編 平成4年(1992年)刊