Month: March 2019

十銭紙幣 – Wikipedia

この項目では、日本銀行券について説明しています。 明治通宝の十銭紙幣については「明治通宝」をご覧ください。 小額政府紙幣の十銭紙幣については「小額政府紙幣」をご覧ください。 十銭紙幣(じっせんしへい)とは日本銀行券の1つ。十銭券、十銭札とも呼ばれる。 い号券、A号券の2種類が存在する。小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律(額面一円未満の日本銀行券・政府紙幣・貨幣および一円黄銅貨を廃止)により1953年(昭和28年)末をもってどちらも失効した[1]。紙幣券面の表記は『拾錢』。額面である10銭は1円の10分の1に当たる。 製造中止された十銭硬貨の代替として発行されたが硬貨の需要も根強く、十銭紙幣の発行期間中も常に額面金額10銭の通貨の発行高のうち6割以上は硬貨が占めている状態であり、実態としては硬貨と並行して流通していた[2]。 日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封、稀には1000枚完封が古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、大量にまとめての安い値段での買取となるのが一般である。 1944年(昭和19年)10月25日の大蔵省告示第489号「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行」[3]で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り[4]。 日本銀行券 額面 拾錢(10銭) 表面 八紘一宇塔 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし 銘板 大日本帝國印刷局製造 記番号仕様

Continue reading

堺市通り魔事件 – Wikipedia

堺市通り魔事件(さかいしとおりまじけん)とは、1998年(平成10年)1月8日に大阪府堺市で起こった殺人事件である。 1998年(平成10年)1月8日8時50分ごろ、大阪府堺市宮下町および堺市津久野町3丁の路上で上半身裸になった19歳の無職の男が、登校中だった女子高校1年生(15歳)の服をつかみ、背中など4か所を所持していた包丁で刺した。男は逃亡する女子高生を追いかけ、現場から約100m離れた路上で幼稚園の送迎バスを待っていた女児(5歳)と母親の背中を刺した。女児は死亡、女子高生と母親は重傷を負った。大阪府西堺警察署は、現場近くの空き地にいた男を、殺人未遂容疑で緊急逮捕した[1]。 男はシンナー中毒であり、事件当日も吸引して幻覚状態に陥っていた。1997年(平成9年)11月には、家の中で暴れて、家族の申し出で西堺署が保護したことがあった[1]。 男はシンナーによる幻覚状態であったとして、刑事裁判では心神喪失を理由に無罪を主張したが、2000年(平成12年)2月24日、大阪地方裁判所堺支部は、犯行当時の精神状態を心神耗弱と判断し、懲役18年(求刑無期懲役)を言い渡した[2]。加害少年は心神喪失を主張し、控訴・上告したが、いずれも棄却された。2002年(平成14年)2月14日、加害少年に懲役18年の判決が確定した。 民事訴訟[編集] 2000年(平成12年)4月、殺害された女児の両親が、加害少年とその養父母に損害賠償を求めて大阪地方裁判所へ提訴した。2001年(平成13年)1月12日、被告側が約5,100万円を支払うことで和解が成立した[3]。 新潮社による実名報道[編集] 1998年(平成10年)2月18日発売の、新潮社の月刊誌『新潮45』3月号は、ノンフィクション作家の高山文彦による全16頁に及ぶ「『幼稚園児』虐待犯人の起臥」のルポルタージュを掲載した。その中で、少年の生い立ちから犯行に至る経緯、家族関係に加え、中学校卒業時の顔写真並びに実名を掲載した。さらに記事の後には、実名報道と顔写真を掲載した、新潮45編集部の見解も記した[4]。 少年の弁護団は「重大な人権侵害行為」であり、販売中止と回収を求める抗議声明を出した[4]。東日本キヨスク、西日本キヨスク、一部書店では少年法に違反する、として販売を中止した[5][6][7]。 2月20日の参院本会議の代表質問に対する答弁で、内閣総理大臣橋本龍太郎は「関係者の人権に好ましからざる影響を及ぼし、心の痛みを与える危険性がある。関係当局が必要な措置をとっている」と述べた。法務大臣下稲葉耕吉も「商業主義的な報道は憂うべきことだ。厳正に対処する」と述べた[8]。 3月3日、東京法務局は発行元の新潮社に対し、佐藤隆信新潮社社長宛で「再び独自の見解に基づき同種の人権侵害行為をしたもので、人権尊重の精神の欠如、法無視の態度には甚だしいものがある」と指摘し、「少年法で保障されている人権を著しく侵害した」として、再発防止策の策定や少年に対する謝罪などの被害回復措置を行うよう勧告した。これに対し、同社は勧告に応じない方針を表明した[9]。 4月30日、少年と弁護団は、少年法61条に抵触した記事で名誉を傷つけられたとして、新潮45の編集長と記事を書いた高山文彦を、名誉毀損の疑いで告訴状を大阪地方検察庁に提出した。また同日、2名と新潮社を相手取り、2,200万円の侵害賠償などを求めて大阪地方裁判所に提訴した。少年法61条違反をめぐる告訴・提訴は、日本で初めてとなった[10]。 1999年(平成11年)6月9日、損害賠償訴訟について大阪地方裁判所は、実名を報道した新潮45の記事が少年法に違反し、記事に公益性がないと指摘。さらに新潮社の写真週刊誌『FOCUS』が神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年の顔写真を掲載するなど、過去に法務局から再発防止の勧告を受けていたケースを挙げて実名報道したのは悪質であると判断。慰謝料に200万円、弁護士費用に50万円を算定し、計250万円の支払いを命じた。謝罪広告掲載の請求は棄却した[11]。 2000年(平成12年)2月29日、大阪高等裁判所は少年法61条について、罰則を規定していないことなどから、表現の自由に優先するものではなく、社会の自主規制に委ねたものであり、表現が社会の正当な関心事で不当でなければ、プライバシーの侵害に当たらない、と条件付きながら実名報道を容認する判断を示した。そして今回の記事について違法性はなく、少年の権利侵害には当たらない、そして男性の更生の妨げになることを男性側は立証していないとして、賠償を命じた一審・大阪地裁判決を破棄し、男側の訴えを棄却した。加害者が未成年であっても、場合によっては実名報道出来る初めての判決となった[12]。 少年側は、最高裁判所に上告するも「間違った行為を許す気になった」として、男性が12月に上告を取り下げ、新潮社側の勝訴が確定判決となった[13]。 2001年(平成13年)1月9日、少年は新潮社編集長らへの刑事告訴を取り下げた。12日、大阪地方検察庁は2人を不起訴処分とした[14]。 ^ a b 「堺の路上で通り魔 女児刺され死亡 母と女子高生も重傷 容疑の少年逮捕/大阪」読売新聞大阪夕刊、1998年1月8日、1頁。

Continue reading

熊野町 (瀬戸市) – Wikipedia

熊野町(くまのちょう)は、愛知県瀬戸市陶原連区の町名。丁番を持たない単独町名である。 学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。また、公立高等学校普通科に通う場合の学区は以下の通りとなる[9]。 町名の由来[編集] 熊野神社があることによって名付けられたといわれる[10]。 沿革[編集] 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[4]。 人口の変遷[編集] 国勢調査による人口の推移 世帯数の変遷[編集] 国勢調査による世帯数の推移。 1995年(平成7年) 147世帯 [11] 2000年(平成12年) 162世帯 [12] 2005年(平成17年) 159世帯

Continue reading

余因子展開 – Wikipedia

数学の線型代数学における余因子展開(よいんしてんかい、英: cofactor expansion)、あるいはピエール・シモン・ラプラスの名に因んでラプラス展開とは、n次正方行列 A の行列式 |A| の、n 個の A の (n − 1)次小行列式の重み付き和としての表示である。余因子展開は行列式を見るいくつかの方法の一つとして理論的に興味深いし、行列式の実際の計算においても有用である。 A の (i, j)余因子(英語版)とは、次で定義されるスカラーである: a~i,j=(−1)i+jMi,j{displaystyle {widetilde {a}}_{i,j}=(-1)^{i+j}M_{i,j}}

Continue reading

代替酸化酵素 – Wikipedia

代替酸化酵素(だいたいさんかこうそ、alternative oxidase (AOX)、オルタナティブオキシダーゼ)は、様々な真核生物においてミトコンドリア電子伝達系を構成する酵素の1つである[1][2]。そのホモログは原核生物のゲノム中にも見出されている[3][4]。 代替酸化酵素は呼吸毒であるシアン化物に対して耐性であることから見出された[5]。 酸素呼吸において通常シトクロムcオキシダーゼ(複合体IV)が最終的に電子を酸素へ受け渡すが、代替酸化酵素はキノールを酸素で酸化することで複合体IIIと複合体IVをバイパスする。複合体IIIと複合体IVがプロトン輸送能を持つのに対し、代替酸化酵素はプロトン輸送を行わないため、この経路が利用されるとATP産生能は低下する。 呼吸鎖の概略図。代替酸化酵素(AOX)はキノール(Q)から電子を受け取り酸素を還元することで、複合体IIIと複合体IVをバイパスする。 植物では寒さ、活性酸素、感染などのストレスに応答して発現する[6][7]。 この代替経路の利点は明らかでないが、これらのストレスへ抵抗するにあたり酸化ストレスを抑える意味があるのかもしれない[8]。 アフリカ睡眠病の病原体であるブルーストリパノソーマは、血流中では解糖系に依存してATP産生を行っているが、そこで生じるNADHの再酸化のために代替酸化酵素が必須である[9][10]。 この点は宿主と大きく異なるため、トリパノソーマの代替酸化酵素は薬剤標的として魅力的である[11][12]。 代替酸化酵素の阻害剤の中でもアスコフラノンは酵素を阻害するだけでなく感染マウスを治癒させることができる[13][14]。 アゾキシストロビンの構造式 真菌では、代替酸化酵素により呼吸鎖をバイパスできることにより、抗真菌剤への耐性に寄与していることが知られている。アゾキシストロビン、ピコキシストロビン(Picoxystrobin)、フルオキサストロビン(Fluoxastrobin)といったストロビルリン(英語版)系の殺菌剤は呼吸鎖複合体IIIを阻害するが、代替酸化酵素が呼吸鎖をバイパスすることで真菌は生き延びることができる[15]。 ただし胞子の発芽には多量のエネルギーが必要なため、ATP産生量が少ない代替経路では賄いきれず、したがってこれらの殺菌剤は発芽の抑制には効果を発揮する[16]。 構造と反応機構[編集] 代替酸化酵素は膜表在性タンパク質で、ミトコンドリア内膜のマトリックス側表面に結合している[17]。 グルタミン酸4つとヒスチジン2つから成る配列保存的モチーフがあることから、二核鉄中心を持つ事が予想されていた[18]。 また電子スピン共鳴を用いたシロイヌナズナ代替酸化酵素の研究から、混合原子価二核鉄中心の存在が示されている[19]。 この二核鉄中心とタンパク質(おそらくチロシン残基)に由来するフリーラジカルが反応に関与していると想定されている[20]。 関連項目[編集]

Continue reading

佐瀧本店・別邸 – Wikipedia

佐瀧別邸 (2019年3月) 佐瀧本店・別邸(さたきほんてん・べってい)は、1924年(大正14年)に酒類雑貨商の店舗および住居別棟として、青森県三戸町に建設されたもので、現在も店舗・住居として使用されている。佐瀧本店は1997年(平成9年)に、佐瀧別邸は2000年(平成12年)に国の登録有形文化財となっている。 佐瀧本店 (2019年3月) 1924年(大正14年)に建設された佐瀧本店は、1885年(明治19年)に主に酒類を取り扱う雑貨商として創業しており、当時の店舗は八角形の望楼を有する擬洋風建築だったといわれているが、1922年(大正12年)に発生した三戸大火により旧店舗が焼失したことから、耐火建築として鉄筋コンクリートを用いることにして建築された。外観は大正期に日本国内で流行していたセセッション様式となっており、特に正面右側の鐘楼風バルコニーが印象的な建物となっている。また、1階店舗部分の天井高さが約4.5メートルあり、カウンターが備え付けられ、階段や梁、天井縁の装飾など、全体的に銀行風のデザインをモチーフにしたといわれている。 同年に建設された佐瀧別邸は、店舗とは様相が異なり、当時ドイツで流行していた建築様式(ユーゲントシュティール)を基にしたデザインとなっている洋風部分と、数奇屋造りの和風部分の和洋折衷建物である。特に、八角形3階建てにドーム屋根の望楼や妻・玄関庇の意匠、1階のステンドガラスが印象的となっている。当館は、1921年(大正11年)から着工していたものの、翌年の大火による本店焼失をうけて、本店再建と並行して工事が進められ、本店と一緒に竣工に至っている。 両建物とも、設計・施工を堀江佐吉が興した堀江組が請け負っており、佐吉の六男である堀江金蔵が主となって設計されている。家具や調度品もよく保存されているほか、両建物と同時期に施工された門及び塀、旧店舗時代から受け継がれている文蔵庫、土蔵も国の登録有形文化財となっている。 なお、佐瀧本店は、青森県内に現存する最も古い鉄筋コンクリート建築物でもある。 建築概要[編集] 交通アクセス[編集] 参考文献[編集] 『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々:青森県史叢書』2007年 青森県 『青森県の近代化遺産-近代化遺産総合調査報告書-』2000年3月 青森県教育庁 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

Continue reading

4-ピロン-2,6-ジカルボン酸 – Wikipedia

4-ピロン-2,6-ジカルボン酸(英語、4-pyrone-2,6-dicarboxylic acid)は、有機酸の1種である。クサノオウ(Chelidonium majus)にも含有されることから、ケリドン酸(英語、Chelidonic acid)とも言う。 構造と性質[編集] 4-ピロン-2,6-ジカルボン酸の線角構造式。 4-ピロン-2,6-ジカルボン酸の分子式はC7H4O6で [1][2] 、分子量は約184.11 である [1] 。 4-ピロン-2,6-ジカルボン酸は、ピロン(別名、ピラノン)の構造異性体の1種である4-ピロンの複素環を構成する酸素原子の両隣の炭素原子に結合している水素が、それぞれカルボキシ基に置換された構造をしている。純粋な4-ピロン-2,6-ジカルボン酸は、常温常圧で針状晶の固体であり、融点は約262 ℃である [2] 。 この結晶は、熱水には溶解し [2][1] 、エタノールには溶けにくい [2]

Continue reading

幡瀬川邦七郎 – Wikipedia

幡瀬川 邦七郎(はたせがわ くにしちろう、1905年6月1日 – 1974年5月12日)は、秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)出身の元大相撲力士。本名は大野 邦七郎(おおの くにしちろう)(旧姓:佐藤)[1]。 怪童、入門[編集] 1905年6月1日に秋田県雄勝郡幡野村(現:秋田県湯沢市)で小作農家を営む家に生まれる。子供の時から骨太の体格で、運動神経が良いために動きも俊敏で度胸があり、幡野小学校で相撲を取り始めた。県内の小学校対抗試合でも高等科の生徒を向こうに回して圧勝したが、負けず嫌いの性格だったために決勝戦で敗れると悔しさのあまり泣くほどだった。小兵ながら宮相撲で圧倒的な強さを誇っており、家業でも大人顔負けの作業量を引き受けて周囲を驚かせた。やがて、米の納入先である酒屋「両関」に出入りした際に米商人から力士転向を勧められ、同郷の清瀬川敬之助がいる楯山部屋へ入門した。四股名は故郷・秋田県幡野村と「清瀬川」に因んで命名した。 1922年5月場所で初土俵を踏み、負け越しが一度も無いままで1926年5月場所で新十両昇進、1928年3月場所で新入幕を果たした。これによって、実質的な師匠でありながら現役であった清瀬川と同時に幕内を務める快挙を成し遂げた。その後、清瀬川の引退・伊勢ヶ濱襲名によって所属が伊勢ヶ濱部屋へ変更されている。 関脇昇進~新・相撲の神様[編集] 体重が僅か80kg台の軽量でありながら腰が小さく非力だったが、肩幅が広いために柔軟な体格で幕内上位で活躍した。当初は掛け投げを得意としていたが、序二段時代に足を負傷したことで平蜘蛛仕切りで立ち、肘と手首を用いて外へ突き上げるように突っ張り、いなしなどを交えて相手を左右に揺さぶってから千変万化の取り口を見せた。特に出し投げからの小股掬いの切れ味は抜群で、十分に警戒していてもいつ技を仕掛けられたのか判らないほどに鮮やかだった[1]。 これによって「相撲の神様[2]」の異名を得て男女ノ川登三には大関時代に3連勝(通算3勝3敗)と強豪キラーぶりを発揮した。特に、新しい「相撲の神様」誕生のきっかけとなった大ノ里萬助戦では通算6勝3敗と大きく勝ち越しており、大勝ちこそ無かったものの上位陣を苦しめ、1932年2月場所では春秋園事件の繰り上げでありながら関脇へ昇進した。元々稽古熱心でありながら心臓病を患って以降は四股すら踏まず、いつも本場所の一番相撲に懸けていたが、それでも勝利したことで「神様」の名を高めたとも言える。 引退~晩年[編集] 1940年1月場所で3勝12敗と大きく負け越したことで体力の限界を感じ、この場所を最後に現役を引退、年寄・千賀ノ浦を襲名、のちに楯山として後進の指導にあたった。現役時代に技能派力士として活躍した経験を踏まえて、伊勢ヶ濱部屋の隆盛に尽くした。特に同郷出身である照國萬藏は一旦人員整理されて泣きながら帰郷している所を助けた[3]縁で育成し、「照國は私の最高の芸術作品だ」と自慢していた。なお、照國が大関へ昇進した1942年に養子縁組をしているが、照國自身が清瀬川の縁戚に当たることから、清瀬川は激怒したという[1]。 1968年1月には停年退職を待たずに廃業し、相撲評論家「魚雷亭主人」というペンネームにて辛口の批評で知られた。特に、当時大人気だった大鵬幸喜の横綱土俵入りの形に注文を付けて前傾姿勢を批判したが、それが大鵬の相撲の強さに繋がっていることも同時に指摘した。1974年5月12日、食道がんのため神奈川県大磯町で死去。68歳没。 小兵で軽量ながら持ち前の柔軟さで、外へ突き上げるような突っ張りから千変万化の取り口を見せる技能派力士。朗らかな性格で口数が多く、解説者・評論家としても独自の技術論で解説や評論を行っていた[1]。 笠置山によれば「必ず相手の欠点を突いてきた。あらゆる人の欠点を全部知っていて、一人ひとりに対して作戦を立てていた」とのこと[4]。 仕事がない日などは、洋服を着て銀座のカフェやダンスホールへ出かけていた。 主な成績[編集]

Continue reading

閉眼目 – Wikipedia

閉眼目(へいがんもく、Myopsida)は、イカの分類群の一つ。閉眼亜目(へいがんあもく、Myopsina)とされることもある。 開眼目と容易に区別できる点として、瞼がないことが挙げられる。閉眼目の眼は透明な角膜に覆われ、開口部は前方の微視的な孔のみである。吸盤は輪状筋を有し、鈎状になることはない。口器周辺にも吸盤を持つ[1]。触腕掌部は単純な形態で、基部に固着器はない。軟甲はよく発達し、外套膜の全長にわたって伸びる。また、雌は卵包腺の横に開眼類にはない付属卵包腺 (accessory nidamental gland) を持つ。開眼類は1対の輸卵管を持つが、閉眼類は右の輸卵管を欠く。開眼類が浮遊性卵を産むのに対し、閉眼類は卵塊を基質に付着させる[2]。 全世界の沿岸域で見られる。底生であり、海底近くで摂餌する[1][2]。 大きさは様々で、成体でも外套長2cm程度にしかならないピックフォードイカ・Australiteuthis aldrichi 等から、90cmに達するヨーロッパオオヤリイカまで存在する[1][2]。 2科に12属46種が属する[3]。和名は「世界イカ類図鑑」による[4]。 Australiteuthidae C. C. Lu, 2005 – 1種 Australiteuthis aldrichi

Continue reading

ウメノキゴケ – Wikipedia

ソメイヨシノの幹に着生したウメノキゴケ ウメノキゴケ(梅の木苔、Parmotrema tinctorum)は地衣類の一種。灰緑色の葉状地衣類で、樹皮や岩に着生する。世界の熱帯および温帯の一部に広く分布する。 その葉状体は薄く広がって樹木の幹や枝の表面に生える。差し渡しが10cm程度のものは珍しくなく、比較的大柄な部類に入る。全体の形は不規則な楕円形だが、これは周囲の状況によって大いに変化する。周囲は丸く波打ち、これは個々には周囲が円形に近いサジ状の裂片に分かれているためである。個々の裂片は幅が約1cm、周辺は丸く滑らかで、縁は基盤からやや浮いている。 表面は灰色っぽい水色で、全体に滑らかだが、ある程度以上大きいものでは縁からやや内側まではすべすべしているのに対して、それより内側ははっきりとつや消しになっている。これは、その表面に細かい粒状の裂芽が密生するからである。 裏面は、縁が淡褐色、それより内側の新しい部分は白っぽく、さらにその内側では濃い褐色となり、偽根がまばらに出る。 日本では、日本海側豪雪地などを除く東北地方以南に分布し、これらの地方の平地では最もありふれた地衣類である。比較的乾燥した場所に生育しやすい。都市部にはないが、田舎では庭先から森林まで見られる。主として樹皮につき、名前(梅の木苔)の通り、ウメにもよく見られる。しかし、他の樹皮にもよく見られる他、岩の上に生えることもあり、石垣などでも見られる。 排気ガスには弱いので都市中心部には少なく、大気汚染の指標とされている。 中心部の子実体を拡大 成長は比較的早く、裂片一枚がほぼ一年分とのこと。繁殖は主として無性生殖による。上記のように、葉状体の中央表面には裂芽を密生し、主な繁殖はこれによって行われるらしい。周辺部に出ないのは、時間が経たないと作り始めない、ということで、恐らく三年目くらいから作り始めるらしい。 有性生殖は知られているがあまり行われない。野外で子器を見ることはほとんど無いと言う。 本種はごく普通種であるが、似た種は少なくない。他の種は裂片がより小さいものが多い。また、縁が滑らかで、ごく細かい裂芽の密生を除けば表面がほぼ滑らかなことなどが他種と区別できる特徴である。 ただし一般に名が知られているのはこの種だけであり、専門家以外がこの名を使用する場合、実際には多くの場合に類似の複数種を一緒に扱っていると思われる。 園芸、盆栽では樹皮にウメノキゴケのついた梅や松が古くから珍重され、生け花にも使われる。リトマス試験紙に使う色素リトマスを抽出することもできるが、実用にはされていない。また草木染めにも使われる。 参考文献[編集] 中村俊彦・古木達郎・原田浩、『野外観察ハンドブック 校庭のコケ』、(2002)、全国農村教育協会

Continue reading