マティルデ・ディ・サヴォイア – Wikipedia
マティルデ・ディ・サヴォイア(イタリア語:Matilde di Savoia, 1390年ごろ – 1438年5月14日)は、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世の妃。 マティルデはピエモンテ領主およびアカイア公のアメデーオ・ディ・サヴォイアとカトリーヌ・ド・ジュネーヴの娘である[1]。母カトリーヌはヴィエノワのドーファンであるアンベール1世(英語版)とアンヌ・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ公ユーグ3世の曽孫)の間の娘である[2]。アカイア公アメデーオはピエモンテ領主ジャコモとその3番目の妃マルグリット・ド・ボージュー(1346年 – 1402年)の間の息子である[3]。マルグリット・ド・ボージューはエドゥアール1世・ド・ボージューとマリー・ド・ティルの娘であった[4]。 1402年5月7日、マティルデの父アメデーオが死去し、ピネローロの聖フランチェスコ教会に埋葬された[5]。アメデーオには娘しかいなかったため、弟ルドヴィーコが継承した[6]。 マティルデは母カトリーヌと共に親族のサヴォイア伯アメデーオ8世がジュネーブ公領を売却することに反対していたが、1407年に母カトリーヌが死去すると、マティルデは自身の権利をアメデーオ8世に譲渡した。アメデーオ8世は1416年に初代サヴォイア公となった。 叔父ルドヴィーコはマティルデとヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世との結婚を決めた。婚姻契約は1417年11月30日に結ばれ[7]、同日にピネローロの城でマティルデとルートヴィヒ3世の結婚式も行われた。ルートヴィヒ3世はローマ王ループレヒトとエリーザベト・フォン・ニュルンベルクの間の息子であった。 ルートヴィヒ3世にとってマティルデとの結婚は2度めで、最初にブランシュ・オブ・イングランドと結婚し1子ループレヒト(1406年 – 1426年)をもうけていた。 1436年にルートヴィヒ3世が死去した。その2年後の1438年5月14日にマティルデはゲルマースハイムで死去し、ハイデルベルクの聖霊教会に埋葬された。 ^ Histoire généalogique de
Continue reading
Recent Comments