大岩寺 – Wikipedia
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大岩寺” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年1月) 大岩寺(だいがんじ)は愛知県豊橋市大岩町(おおいわちょう)にある曹洞宗の寺院である。山号は亀見山。境外仏堂として、天平2年(730年)に行基の開基と伝える岩屋観音(いわやかんのん)がある。本尊は千手観世音菩薩坐像。 「三河国岩窟観音図」 伝承によれば奈良時代の僧行基により、岩屋観音が建立されたという。大岩寺は観音堂の塔頭の6坊のひとつで岩屋山の山麓にあった。6坊のうち大岩寺のみが残り、観音堂を奉仕管理していた。時は下り、三河国渥美郡雲谷(うのや)の高野山真言宗船形山普門寺の末寺に置かれるようになった。元和8年(1622年)、遠江国宿芦寺の通山宗達が曹洞宗に改宗させ再興。 大岩寺のある大岩集落が移転すると共に寺も東方に移転。大岩(おおいわ)集落が二川宿の一部となり、宿場町の寺院となり除地7石を領した。現在の本堂は昭和47年(1972年)に再建されたものであるが、それ以前は東観音寺(同県同市小松原町)の堂を移築したものを焼失するまで本堂としていた。 歴代住職は備前国岡山藩(岡山県岡山市)池田氏と親しく、池田家一行の大名行列が二川宿に着くと住職が本陣まで出向き対談する慣習があった。また、寺子屋を開いていた。歴史的には岩屋観音のもとに大岩寺があったが、明治維新を迎えると岩屋観音は大岩寺の境外仏堂となった。 岩屋観音[編集] 伝承によれば天平2年(730年)に、全国を行脚する行基が1尺1寸の木造の千手観音を彫り岩穴に祀ったという[1]。これが大岩寺の境外仏堂岩屋観音の始まりであり、岩屋観音の1坊であった大岩寺の起源とされる。天正13年(1585年)、岩屋山が炎上し、観音堂以下、寺は衰退した。 天正18年(1590年)、天下人関白豊臣秀吉により神君関八州移封となり、東三河に池田照政(後の輝政)が封じられた。三河国吉田城主となった照政は岩屋観音を信心していたと伝わる。 宝永4年(1707年)旧暦10月、宝永地震が発生する直前、遠江国白須賀宿に泊まった輝政の曾孫である池田綱政の夢枕に観世音菩薩が現れ今後起きる地震や津波の難を告げたという。綱政一行は急ぎ、海道を西に上り、三河国二川宿へ入った。マグニチュード8.4とも推定される大地震が起こり、東海から九州にかけて大津波が襲い白須賀宿は南から来た海水の前に飲み込まれて壊滅した。命拾いをした綱政は観音の冥加と考え、岩屋観音に帰依した。綱政が寄進した観音経1巻、絵馬4枚、黄金灯籠1対は、豊橋市の指定有形文化財となっている[2]。 観音像[編集] 現在、国道1号の岩屋下交差点の東の小山(岩屋山、78.2m)の上に約2.9m(9尺6寸)の正観音(聖観音)像が立っている。
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