第百三十九国立銀行(だいひゃくさんじゅうくこくりつぎんこう[1])は、1879年(明治12年)7月3日に新潟県中頸城郡高田町(高田市→現:上越市)において開業した国立銀行。 1898年(明治31年)1月1日に普通銀行の株式会社 百三十九銀行(ひゃくさんじゅうくぎんこう[2])に改組し、1943年(昭和18年)3月29日に営業譲渡する形で第四銀行に買収されるまで、上越の高田地域を代表する銀行であった。 国立銀行時代[編集] 明治時代初期の国立銀行は、1876年(明治9年)8月の国立銀行条例改正により兌換義務の廃止や紙幣発行の緩和が認められると日本各地で設立が相次ぎ、最終的には153行が誕生するに至った。第百三十九国立銀行もその一つとして発足し、百三十九銀行への改組を経て第四銀行へ統合されるまで、高田地域の金融業界を主導し続けた。 1876年8月、国立銀行条例改正と同時期に行われた秩禄処分により、旧高田藩士1,704人には総額71万1,670円の、旧椎谷藩士34人には総額1万5,330円の金禄公債が交付されたが、これらをもとに旧高田藩士の庄田直道をはじめとした旧高田・椎谷両藩の士族や保阪貞吉(戸野目村)・笠原克太郎(潟町村)など地主ら十数人が、10万円を拠出して国立銀行の設置を計画した。なお、創立に際しては最後の高田藩主であった榊原政敬も資本金に500円寄付している。1878年(明治11年)11月20日に政府から「第百三十九国立銀行」として設立許可が下りて紙幣8万円の発行が認められ、翌1879年2月26日に開業免状が下付され、7月3日に呉服町の森繁右衛門の別邸を借用して本店を置き、営業開始した。当初は頭取以下役員のほとんどが旧高田藩士であり、同行の設立目的は士族授産や金禄公債の保全だったとみられるが、役員は頭取と支配人を除き1882年(明治15年)までに士族層が取締役からすべて退き、代わりに刈羽郡や中頸城郡の大地主が就任するようになった。1886年(明治19年)上期の営業活動の内容は、高田や直江津の町人からの零細預金を地主へ貸し出すことが主であり、それ以外では官公金の取り扱いや砂糖・塩の被仕向けが多かったが、すでに預貸金高において士族の分は1割に満たなくなっていた。 開業した1879年12月には柏崎町(現:柏崎市)に、1882年12月には直江津町(直江津市→現:上越市)にそれぞれ支店が開設されたが、当時の柏崎は活発な商業活動に加えて石油産業が発展しており、直江津は海陸交通の要衝地であったことから両支店の経営は良好であった。資本金は創立時10万円だったのが、1883年(明治16年)までには35万円までに増加した。株主も1879年末には440人だったのが、支店開設による営業地盤拡大を受けて刈羽郡や中頸城郡の地主や商人を新たに株主に迎えることとなり、1884年末には883人と倍増した[注釈 1]。同年ころの第百三十九国立銀行は、下越の第四国立銀行、中越の第六十九国立銀行と並んで新潟県を三分する中心的金融機関であった。 普通銀行時代[編集] 第百三十九国立銀行は1899年(明治32年)2月25日が営業満期日であったが、国立銀行営業満期前特別処分法に基づき、その前の1897年(明治30年)9月22日に普通銀行へ転換して営業継続する認可を受け、翌1898年1月1日に「株式会社百三十九銀行」へ改組した。その際、倍額増資が行われ資本金は70万円となり、さらに1900年(明治33年)には100万円、1907年(明治40年)には200万円に達した。同時期の人事異動の結果、頭取や専務の役職にも士族に代わり地主が就くようになった。 明治時代末期から大正時代初期にかけての不況下、1907年に第13師団の高田町への誘致が実現すると同町の商工業は活性化したが、周辺地域の銀行や東京の銀行が支店や代理店を多数設置したことで上越の諸銀行の経営は苦境に陥り、百三十九銀行は資本金を1912年(明治45年)に100万円に減額し[注釈 2]、1916年(大正5年)下半期には配当率を7%から5%に引き下げた。しかし、高田へ進出した銀行はいずれも短期間で撤退し、また、第一次世界大戦による好況もあって百三十九銀行の経営はやがて回復し、支店を各地に開いたほか、同時期には、上越地方の鉄道網整備により近代産業が興るにつれて商工業者との取引や公金の取り扱いが増加し、地主偏重経営から脱するようになった[注釈 3]。 1913年(大正2年)には第13師団が満州へ渡ったことから横浜正金銀行の在満支店とコルレス契約を結び、為替網も拡げた。続いて、1924年(大正13年)7月18日には直江津商業銀行と高田商業銀行[16][17]、1929年(昭和4年)12月には新井銀行[18]、1930年(昭和5年)11月15日には柿崎銀行をそれぞれ合併し[19]、1931年(昭和6年)12月に越後銀行を買収した結果[20]、百三十九銀行の営業基盤は上越全域に拡大するに至った。 第四銀行への合併[編集] 第二次世界大戦中の戦時体制下で大蔵省が進めた一県一行主義政策では、新潟県内の銀行は第四銀行への合併・統合が指示されたが、明治初期の国立銀行以来の歴史を持ち、地元に本店を置く百三十九銀行が合併で失われることは死活問題であるとの声が高田市民の中から上がり、1942年(昭和17年)の春から合併反対運動が展開された。高田市会議員や同行役員が大蔵省や在京の有力者らに銀行を存続させるよう陳情・依頼を再三にわたり行ったほか、整理対象から外れるために柏崎銀行と合併して資本増強をはかろうとする動きもあったが、百三十九銀行は結局、1943年3月29日に新潟銀行・柏崎銀行・安塚銀行・能生銀行とともに第四銀行へ統合することが決定し、65年の歴史に幕を下ろした[注釈 4]。なお、合併に際しては、第四銀行より283万3,383円の譲り渡し代金と75万円ののれん料が支払われた。 経営規模[編集] 第四銀行との合併前、1942年12月時点での主要勘定は以下の通り。 預金
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