Month: June 2019

大久保諶之丞 – Wikipedia

大久保諶之丞(胸像) 大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう、1849年10月2日(嘉永2年8月16日) – 1891年(明治24年)12月14日)は明治期日本の政治家。明治初期に四国新道(現在の国道32号、国道33号等の前身)・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる。 尽誠学園の創始者大久保彦三郎は実弟。 1849年10月2日(嘉永2年8月16日)、讃岐国三野郡財田上村戸川(現在の香川県三豊市財田町財田上字戸川)の大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。1872年(明治5年)5月財田村吏員、その後郡吏員等を経て、1888年(明治21年)に愛媛県会議員、翌年、香川県が愛媛県から分離したことに伴い香川県会議員となる。この間、私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金の貸付け、病院建設への資金の寄贈等又、讃岐鉄道・北海道移住などを提唱・実行する。1889年(明治22年)5月23日、讃岐鉄道開通式での祝辞で瀬戸大橋の構想を披露している。1891年(明治24年)、議会での演説中に倒れ、12月14日42歳で死去。 道路建設[編集] 1874年(明治7年)ごろから、私財を投じて出身地の財田上村内の道路改修を行い、延べ15.6キロメートルの道路の改修を成し遂げた。このとき、土木技術や測量技術を身につける。さらに1884年(明治17年)に四国新道の計画を立案し、道路建設では自らハンドレベルを持ち測量を行い、私財を投じて完成させた。1885年(明治18年)に起工、1890年(明治23年)に讃岐(現在の香川県)の道路延長38.382キロメートルと阿波(現在の徳島県)の道路延長31.434キロメートルが竣工している。 四国新道の最初の部分である讃岐新道について、大久保の計画書によれば、道幅は4間、両側の並木敷が1間、湿抜溝は幅5尺・深さ3尺、平均勾配は1間につき2寸4厘としており、これは1885年(明治18年)の太政官布達で出された当時の国道規格にほぼ合致し、馬車通行も想定に含まれた内容としている。 大久保が建設を推進した道路の一部は現在もそのまま残されており、大久保の銅像が建つ仲多度郡琴平町の県立琴平公園の高台からは、旧多度津街道(国道319号)から琴平町の中心街である香川県道208号大麻琴平買田線につながっている直線道路を望むことが出来る。 その他[編集] 北海道開拓移民-自ら資金を出し、毎年数百人を北海道に移住させた。 多度津港改修 エピソード[編集] 讃岐鉄道開通の祝辞では上記略歴の通り、「塩飽諸島を橋台となし(中略)架橋連絡せしめば、常に風波の憂なく(中略)南来北向、東奔西走瞬時を費さず、それ国利民福これより大なるはなし。」と瀬戸大橋構想を披露した。この構想は、大久保が提唱する2か月前の1889年3月、旅芸人杉本常太郎の一行がアメリカ興行から帰国した折りに、航海の安全参りで金刀比羅宮に石版画製でニューヨークのブルックリン橋が描かれた絵馬を奉納したことから、大久保が故郷にある金刀比羅宮でこの絵馬を見たか、あるいは杉本の属する玉木一座の誰かに会ってブルックリン橋建設の偉業を聞き知った可能性が高いのではないかと推測されている。 香川用水の計画を提唱した際に「笑わしゃんすな百早年先は財田の山から川舟出して月の世界へ往来する」という都々逸を歌っている。瀬戸大橋構想は1889年、香川用水構想は1891年。まだ明治維新から20数年しか経っていない時代のことである。 父祖から受け継いだ財産はほとんどが工事金不足の穴埋めに使われたため、残された家族は三度の食事にも事欠いたという。 大久保の構想した四国新道は、1894年(明治27年)に全道開通。香川用水は1974年(昭和49年)に、瀬戸大橋は1988年(昭和63年)に完成している。

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一目均衡表 – Wikipedia

一目均衡表(いちもくきんこうひょう)は、株式、商品、為替の取引相場の罫線表分析法の一つ。 都新聞商況部部長の細田悟一が私設研究所を設立して7年の歳月と延べ2000人の人手をかけて開発[1]、1935年(昭和10年)に「新東転換線」として同紙面で発表した。 戦後、細田悟一がペンネームを「一目山人(いちもくさんじん)」としたのに合わせて、この「新東転換線」を「一目均衡表」と改名した[2]。現在、一目均衡表は、世界に先駆けた日本発の近代的テクニカル分析手法として海外のマーケットでも高く評価され、海外の金融会社の提供するテクニカル分析ツールでも「Ichimoku」として広く利用されている[3]。 また、この「一目均衡表」は、細田の遺族が経営する株式会社経済変動総研の登録商標である。 1935年(昭和10年)、都新聞商況欄で細田悟一が「新東転換線」の名称で発表。 1950年(昭和25年)、細田悟一が知り合いの3人のみに有償で製作方法を伝授[2]。 1969年(昭和44年)8月、細田悟一が、一目山人のペンネームで「一目均衡表」を出版し、一目均衡表の製作方法を一般公開する。以降1981年までに全七部作が刊行される。(『一目均衡表 完結編』『一目均衡表 週間編』『わが最上の型譜』『一目均衡表 綜合編』『一目均衡表 綜合編 後編』『一目均衡表 真技能編』) 1991年(平成3年)、第三者による解説書が出版されたのを受けて、細田の子息が三部作(一巻から三巻)を増版する[2]。 一目均衡表は、時間論、値幅論、型譜、スパンなどで構成される。一目均衡表はスパンとクモが有名ではあるが、一目均衡表における第一は時間関係である。 時間論は、9・17・26…などの基本数値、あるいは、過去の幾波動の日数をとる対等数値、銘柄ごとに現れる習性数値に分類される日数を経過した日を変化日とするものである。 値幅論は、目標値としては、E・V・N・NT計算値、4~8Eの倍数値がある。また、相場の勢いや方向性を見定めるため、それ以外の値幅・陰陽数をも検討する。 各数値によって算出された変化日に計算値を実現した場合、相場が反転する可能性が高い。 スパンは、日々のローソク足と、次の計算式で算出した各数値をそれぞれをつないだ5本の線で構成される。 転換線=(過去9日間における最高値+同最安値)÷2

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検事霧島三郎 – Wikipedia

『検事霧島三郎』(けんじきりしまさぶろう)は、高木彬光の小説。映画化、及びテレビドラマ化されている。 この節の加筆が望まれています。 1964年11月14日公開。製作は大映。 キャスト[編集] スタッフ[編集] テレビドラマ[編集] よみうりテレビ版[編集] 1969年10月2日から12月25日まで毎週木曜日21:30 – 22:26に、よみうりテレビ制作・日本テレビ系「木曜21時」枠で放送された。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 毎日放送版[編集] 1979年4月7日から7月28日まで毎週土曜日22:00 – 22:55に、毎日放送制作・TBS系「土曜22時」枠で「高木彬光シリーズ」として放送された。全17回。 キャスト[編集] レギュラー[編集] ゲスト[編集] 第1部

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ふなっしー – Wikipedia

ふなっしーは、千葉県船橋市在住の「梨の妖精」という設定のマスコットキャラクター。着ぐるみと中の人が一体となり、地域おこし活動のほかにタレント・歌手・声優としても活躍している。 2011年11月、船橋市名産の梨をモチーフにして、いち船橋市民が「個人的に」始めたご当地キャラクターで、当初は船橋市役所などに売り込んでも受け入れてもらえなかったが、自主的に参加した地域イベントなどでの活動や、インターネット上の活動で徐々に浸透し、2013年2月の『アサヒ十六茶』の広告出演を機に人気を一気に拡大したとされている[5]。市や県からは公認されていないものの[6]、その人気と高い知名度ゆえ、船橋市のみならず千葉県や日本政府の公式なイベントや企画に起用される機会が多い。 概して「ゆるキャラ」と称されるマスコットキャラクターの着ぐるみは、PRしたいものを象徴して身につけた形状で、愛くるしい動きをすることが多い。また、着ぐるみは自ら話さず、アテンドと呼ばれるアシスタントが代弁することにより、着ぐるみの中の人が入れ替わることや複数体が同時に異なる場所でイベントに出演することを、可能にしている。 当初、他のキャラクター同様、着ぐるみの中の人がキャラクターの声で話すことはなかったが、アテンドなしで個人参加したイベントで、中の人がキャラクターを演じながら話すスタイルが始まった[7]。中の人は裏声のような甲高い声で話し[3]、その口調は饒舌で笑いを誘い、語尾や文末に「なっしー」を多用しながら、「ヒャッハー」などと奇声をあげたり、観客に「梨汁ブシャー」との言葉をかけたりする。また、「ゆるキャラらしくない俊敏な動きが人気」と地元の千葉日報が評したように[8]、様々な種類の跳躍(2段ジャンプ、回転跳び)や連続した激しい動き(ヘッドバンギング)など、特定の人物以外は中の人が務められない動作が特徴的である。このため、中の人は入れ替わることが不可能で、複数体が同時に異なる場所でイベントに出演するのも難しい。すなわち、着ぐるみと中の人が一体のタレントであるとの見方もある[9]。 顔を両手で左右から押し潰す、「マンボウ」という持ちネタがある。 着ぐるみは激しい動きなどで損傷することが多いため、新しいものに更新しており、現在は主に3号機および5号機で活動することが圧倒的に多い。古い身体はロケなどで使い分けたり、イベントで展示されたりしている。 設定[編集] ふなっしーのサイン(ふなっしーLAND 名古屋) 梨妖精界の出身。 両親は普通の梨の木で[10]、全部で274人いる兄弟のうち本人(本「梨」?)は4男であり[2]、56番目の弟にふなごろーがいる[11]。2000年に1度だけ現れる奇跡の梨の妖精という設定[10]のもと、誕生日は138年7月4日[2](梨の日[12]。2022年4月時点で1883歳)で本名はフナディウス4世[2]とされているが、船田梨男を本名としたこともあった[13]。なお、ふにゃっしーは飼い猫であるらしい。 背中のファスナーらしきものはイリュージョンといい、実際の口であり、漫画の設定では梨妖精界に繋がっている。頬にある左右2つずつの赤い斑点は鼻の穴である[14]。 ハードロック・ヘヴィメタルを好んでおり、初めて買ったCDはディープ・パープルの『マシン・ヘッド』[15]、好きな歌手はオジー・オズボーン[16]、車の中でよく聴く音楽はエアロスミス[17]、ライバルにはロブ・ハルフォードの名を挙げている[18]。その中でもパフォーマンスなどに最も影響を公言しているオジーとは、2014年12月7日放送の『行列のできる法律相談所』で対面[19]、翌2015年にはオジー主催の音楽フェス『OZZFEST JAPAN2015』にゲスト出演している[20][21]。2020年頃より刀剣の収集を始めており、2022年3月時点では約50振保有していると話している[22]。 好物は桃[2]。ラーメン、寿司、肉[23]、洋梨、ダンゴムシ[24]、セミ[25]。[26] ただし、本人曰く「虚言癖があり、言っていることの27.4%が嘘」とのことなので、いずれも真相は不明である[27]。 着ぐるみに入っている人物[編集] 人気が高まるにつれて中の人が誰なのかについての臆測がささやかれ、一部週刊誌には具体的人物を指摘するものもある[28]。もっぱら奇声だけだった初期の頃は、甲高い声やその発し方が、同じ千葉県在住のさかなクンに似ているとの指摘もあったが、身長が明らかに異なり、商標出願人が「中の人」ではないかと推察されている[29]。 テレビ番組で神奈川県横須賀市についての知識をたびたび披露していたため、中の人は横須賀出身ではないかという噂があったが、2019年5月29日放送の『今夜くらべてみました』において「“神ナシ県ナシ須賀市”ってところに」いたと発言した[30][31]。 中国語が堪能であり、台湾でのイベントに出演した際には、その最中のやり取りをすべて中国語でこなしたことがある[32]。また、英語の映画の吹き替えを行った際に「オリジナルの台詞を聞いて、(吹き替え台本の)配役が間違っていると指摘できる」程度の英語の聞き取り能力がある[33]。

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松岡由幸 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “松岡由幸” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月) 松岡 由幸(まつおか よしゆき、1955年 – )は、日本のデザイン科学研究者。慶應義塾大学教授。デザイン塾主宰。多空間デザインモデル、Mメソッド、創発デザイン、分析・発想・評価で構成されるデザイン思考モデルなどのデザイン科学の基礎となるデザイン理論・方法論を構築している。また、デザイン・設計の理論・方法論に時間軸を組み込むタイムアクシスデザインも提唱している。 1955年 山口県下関生まれ 1962年 下関市立生野小学校入学 1963年 津和野町立津和野小学校転入

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秋田総合生活文化会館・美術館 – Wikipedia

秋田総合生活文化会館・美術館(あきたせいかつぶんかかいかん・びじゅつかん)は、秋田県秋田市中通二丁目にある、文化施設とテナント部分が合築された複合施設である。愛称は「アトリオン」。管理は大星ビル管理。また4階音楽ホール、2階美術展示ホール等は厚生ビル管理が指定管理者を受託する。 事業コンペ[編集] 1982年(昭和57年)に秋田県は老朽化が著しかった「秋田県婦人会館」と「秋田県生活センター」の改築について検討を始め、1984年(昭和59年)には秋田市中通の県有地を新施設の建設予定地として定めた。だが、翌年に建設予定地の隣接した土地に秋田市が美術館を設置することを決めたため、県と市は協議の上で所有地の一体的利用の方針を定めた。 新施設は整備手法として東北初の試みとして、事業コンペティション方式を取り入れることが決定。1987年(昭和62年)1月には、3グループの応募の中から日本生命・フジタ・鹿島企業連合の事業案が採択され[1]、同年11月6日に建設が着工、1989年(平成元年)11月18日にオープンした。総事業費は114億円[2]。 フロアとテナント[編集] 「秋田総合生活文化会館」・「美術館」は地下3階・地上12階で高層と低層部分に分かれ、地下1階から地上5階までが主に文化施設、6階から11階までが企業オフィス、12階が展望施設として利用されている。地下1階の広場から中央部分は上まで吹き抜けであるほか、4階の音楽ホールには1億2千万円を費やしパイプ・オルガンが設置した[3]。このほか2階には「秋田市立千秋美術館」が入る。 2013年(平成25年)度には日本生命から秋田県、秋田市への申し入れに基づき、日生系の大星ビル管理に建物の管理を委託するほうが経費を節約でき、またアトリオンの活性化にもつながるとして、日本生命、秋田県、秋田市などが資本金2000万円で設立した管理運営にあたる秋田アトリオンビルの解散を決議している[2]。 各フロア[編集] 地下1階[編集] 赤十字アトリオン献血ルーム 秋田県物産振興会(お土産店):秋田県収入証紙売捌所 イベント広場・多目的ホール 東方交易(書道用品店) ロイヤルミンク田中(毛皮専門店) 1階[編集] リーガルシューズ秋田店(靴) エイチ・アイ・エス秋田アトリオン営業所(旅行会社) 詩仙堂ギャラリー秋田店(婦人服) 2階[編集] 秋田市立千秋美術館

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マッカートニーII – Wikipedia

『マッカートニーII』(英語: McCartney II)は、ポール・マッカートニーが1980年に発表したアルバム。 全米3位、全英1位を記録。 1979年7月、マッカートニーはサセックスの自宅スタジオでプライベートレコーディングを開始[1]。その後、スコットランドにある農場のスタジオに場所を移しレコーディングが行われた。セッションではおよそ20曲以上の曲が録音されたが、すぐには使用せず、その前に自身がボーカルを務めるバンド「ウイングス」のツアー準備を開始し、また、久々のソロ名義となるシングル曲『ワンダフル・クリスマスタイム』を発売。マッカートニーはソロ、バンド両方ともに精力的な活動を行っていた。また、翌年の1980年1月から2月にかけて、ウイングスとして日本公演を行うことも発表された。実は1975年にもウイングスの来日公演が決定していたのだが、マッカートニーに麻薬所持の前科があったために日本側がビザの発給を許可せず中止となった。こうして、ビートルズ以来のマッカートニーの来日公演が行われる予定であったが、1980年1月16日、成田空港の税関でマッカートニーがおよそ219グラムの大麻を所持していたことが発覚、大麻取締法違反(不法所持)でマッカートニーが現行犯逮捕されるという事件が起こった。翌日、正式に日本公演の全面中止がアナウンスされ、21日にはバンドメンバーも日本を離れた。マッカートニーは9日間の勾留後釈放され、国外退去処分を受けて帰国した。この事件後、ウイングスは活動休止し、マッカートニーは前年の7月にレコーディングし終えていた楽曲をアルバムとしてまとめて発売することに決定した[2]。 『ポール・マッカートニー』の個人名義でのアルバムは解散直後に発売された『マッカートニー』以来10年ぶりのことであり、本作も『マッカートニー』同様、マッカートニーが殆どの楽器を一人で演奏し制作された。録音機材は『マッカートニー』制作時に使用した4トラックから16トラックに増加し、当時の流行であったテクノを意識したサウンドや打ち込み等も使用されている。シングルカットされ、久々の大ヒット曲となった「カミング・アップ」や、ウイングスとして発表される予定だった「ウォーターフォールズ」等を収録しているほか、東洋風のインスト「フローズン・ジャパニーズ」など、他のマッカートニーの作品には見られない楽曲も多く収録されている。 ジャケットの写真はマッカートニーの顔の写真となっているが、この写真は、1979年に行われたウイングスのフォトセッションで撮影され、他メンバーの写真も撮影されている。 カミング・アップ – Coming Up テンポラリー・セクレタリー – Temporary Secretary オン・ザ・ウェイ – On The Way

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勝手に逃げろ/人生 – Wikipedia

勝手に逃げろ/人生 Sauve qui peut (la vie) 監督 ジャン=リュック・ゴダール 脚本 アンヌ=マリー・ミエヴィルジャン=クロード・カリエール 製作 アラン・サルドジャン=リュック・ゴダール 製作総指揮 マラン・カルミッツ 出演者 イザベル・ユペールジャック・デュトロンナタリー・バイ 音楽 ガブリエル・ヤレド 撮影 レナート・ベルタウィリアム・リュプチャンスキー

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新東名高速道路 – Wikipedia

新東名高速道路(しんとうめいこうそくどうろ、英語: SHIN-TOMEI EXPWY[1])は、神奈川県海老名市から静岡県を経由し愛知県豊田市へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は新東名高速(しんとうめいこうそく)、新東名(しんとうめい)、第二東名(だいにとうめい)など。国土開発幹線自動車道の路線名は第二東海自動車道、高速自動車国道としての路線名は第二東海自動車道横浜名古屋線。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、本線が伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路とともに「E1A」、清水連絡路が中部横断自動車道とともに「E52」、引佐連絡路が三遠南信自動車道とともに「E69」と各区間割り振られている[2]。 2019年(平成31年)3月現在の路線図。新東名は東名と並行する。国土開発幹線自動車道建設法における路線名は第二東海自動車道である。計画では第二東海自動車道の予定路線全線を新東名(計画時点では第二東名)とした経緯から、第二東海自動車道の起点である東京都から終点の名古屋市(名港中央IC)までの延長約330 kmを新東名高速道路として案内することもある[3]。 新東名の御殿場JCT – 浜松いなさJCT間は往復6車線で、最高速度は120 km/hに設定(画像は静岡県富士市)。 日本経済を担う大動脈として開通した東名高速道路も、モータリゼーションの進展により渋滞や速度低下に見舞われて経済の発展、維持を図ることが困難となってきたことから、東名と同等かそれ以上の高速性と輸送量を持つ道路として計画されたのが新東名高速道路である。伊勢湾岸自動車道、新名神高速道路と一体的に整備され、東京 – 名古屋 – 神戸間約500 kmの国土軸を形成する幹線高速道路の一部である。道路カラーは   オレンジ[9]。 路線は東名とほぼ並行関係を保ち、途中で数か所の連絡路を介して相互に補完、連携し合う。これによって東名の利用交通量を新東名に分散させ、慢性化していた東名の交通渋滞を解消して高速道路が本来持つ定時性と安定的な輸送体制の確保を目指している。また、新東名は東名より約10 km山側を通過するため、東海地震発生や駿河湾における高潮等の自然災害の影響を受けにくくすることで、災害発生時における東名との同時被災を回避する。特に東名が地震による震度が比較的高い海側を通過するのに対して、山側に位置する新東名は震度が低い地域を通過することから、東海道地域の交通ネットワークに対する東海地震の影響を低減する。このように新東名は、ダブルネットワークの強みを生かして一方が通行止めとなってももう一方が迂回路として機能するという、リダンダンシー(迂回路などの代替手段)の役割を担うものとされる。 道路名「新東名高速道路」は一般公衆に案内されている通称(道路名)で、法令による国土開発幹線自動車道の予定路線名では「第二東海自動車道」、高速自動車国道法に基づく正式な路線名では「第二東海自動車道横浜名古屋線」と称する。予定路線の第二東海自動車道の起点は東京都であるが、新東名高速道路は首都圏中央連絡自動車道と接続する海老名南JCTが起点となり、海老名南JCT以東の具体的な経路や開通時期は未定である。また、第二東海自動車道の終点は名古屋市(名古屋港の金城ふ頭に所在する名港中央IC[19])であるが、豊田東JCT – 名港中央IC間は、名港中央IC – 四日市JCT間と合わせ伊勢湾岸自動車道として供用中である[3]。

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とくしまマラソン – Wikipedia

ゴール 徳島市陸上競技場 とくしまマラソンは、通常年4月下旬の日曜日に徳島県と徳島市が開催する、四国最大規模のフルマラソンである。全国ランニング大会百選に選定されている。愛称はとくマラ[1]。 2008年の第1回大会は4月27日に、2009年の第2回大会は4月26日に、2010年の第3回大会は4月25日に開催された。なお第2回の開催決定に際し、2008年秋頃に競技コースのルートが一部修正・変更された。なお統一地方選挙が行われる西暦年を4で割り3余る年は、開催が3月に繰り上がる。 2008年4月5日の神戸淡路鳴門自動車道(明石海峡大橋)開通10周年を記念して、徳島県と徳島市が開催。メインキャラクターは、竹ちくわをモチーフとした徳島県のマスコット・ちっかーず。 コースは徳島県庁前国道55号起点付近を出発し、吉野川大橋を渡り、阿波市吉野町にある西条大橋で折り返す。そしてゴールの徳島市陸上競技場までの42.195kmを走る。制限時間は7時間。 スタート地点は開催当初徳島中央公園内にある鷲の門広場だったが参加人数規模拡大に伴い徳島県庁入り口に変更されたのち2017年大会より現在の場所がスタート地点になっている なお、第1回大会時の参加者は高校生を除く18歳以上の者で、当初3,000人規模と見込まれていたが、予想以上の人気で応募が殺到。調整の結果5,000人へと拡大された。 飯泉嘉門徳島県知事は、このとくしまマラソンを2010年までに実現させると知事選でマニフェストに揚げており、見事実現へと繋がった。 好評により、翌2009年に第2回大会が開催された。定員は4000人の先着順で、2008年11月22日より募集を開始したが、1週間ほどで定員に達したため申し込みが締め切られた。 続く2010年の第3回大会の定員は、前回より2000人増の6000人の先着順で、2009年12月1日より募集を開始したが、翌日12月2日の24時をもって早々定員に達し、締め切られた。エントリー枠は7000人に拡大された一方、7815人の応募を受付た。しかし12月2日21時以降に入金処理のあった815人については、システム上で受付及び決済を完了したにもかかわらず、参加を認めないとする決定が2月10日付けで通知された。。 2011年の第4回大会は、当初定員7000名に達した時点では申込者全員を対象に定員分を抽選する予定であったが、後に5000名を申込の先着順、残りの2000名は申込順にかかわらず抽選に変更されるとした。なお、統一地方選挙の関連に伴い、約1ヶ月切り上げられ、3月20日に実施される予定であった。しかし、大会直前の3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響により、5日後の3月16日に第4回大会の延期が発表された(代替開催日は11月6日となった[2])。 また、2020年大会と2021年大会および2022年大会は新型コロナウイルス蔓延の影響で中止となった[3][1][4][5]。 2016年大会以降の定員は15,000名である。 大会スポンサー[編集] 協賛企業は第2回大会(2009年)開催時のもの 特別協賛:大塚グループ(大塚製薬、大塚食品、大塚製薬工場、大鵬薬品) 協賛:JAL、ササクラスポーツ、JR四国、日本通運、四国銀行、IL RO’SA(株式会社昌栄)、そごう徳島店(そごう・西武)、阿波銀行、株式会社キョーエイ、AXAS Co./アレックススポーツ、渦の道、(徳島空港(徳島空港ビル株式会社)、Novil

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