橐離国 – Wikipedia

橐離国(たくりこく、朝鮮語: 고리국)は、夫余の建国者である東明王が誕生した国である[1]

橐離国は、夫余の北に位置するとされる[2]

内藤湖南は、夫余の建国者である東明王が生まれた国家である橐離国は、松花江支流に居住していたダウール族であると指摘している[3][4]

国名表記[編集]

橐離国は史料により様々に表記される[5]

なお、夫余建国者の東明王の最も古い記録は、中国後漢の王充の『論衡』である[5]

  • 『論衡』巻二・吉験篇では、「橐離国」(たくりこく)とある。
  • 『三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』では、「槀離之国」(こうりこく)とある。
  • 『後漢書』巻八五・東夷七五・夫餘、『北史』巻九四・列伝八二・百済では、「索離国」とある。

建国説話[編集]

『三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』には以下の記述がある。

昔北方有槀離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如雞子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙嘘之,徙至馬閑,馬以氣嘘之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓撃水,魚鱉浮爲橋,東明得度,魚鱉乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。

昔、北夷の槀離之国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。 — 三国志、巻三〇

  1. ^ 赤羽目匡由『渤海王国の政治と社会』吉川弘文館、2011年10月13日、90頁。ISBN 978-4642081504。
  2. ^ 赤羽目匡由『渤海王国の政治と社会』吉川弘文館、2011年10月13日、92頁。ISBN 978-4642081504。
  3. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、76頁。ISBN 978-4000029032。
  4. ^ 内藤湖南『東北亜細亜諸国の開闢伝説』〈民族と歴史一 – 四〉、1919年4月。「東北アジア諸国、すなわち東部蒙古より以東の各民族は、朝鮮・日本へかけて一の共通せる開国伝説をもっている。すなわち太陽もしくは何か或る物の霊気に感じて、処女が子を生み、それが国の元祖となったという説であって、時としてはその伝説が変形して、その内の一部分が失われ、もしくは他の部分が附加さるるという事があるけれども、その系統を考えると、だいたいにおいて一つの伝説の分化したものであるということを推断する事が出来る。その最も古く現れたのは、夫余国の開闢説であって、その記された書は王充の『論衡』である。『論衡』は西暦一世紀頃にできた書であるが、その吉験篇に、「北夷橐離國王侍婢有娠,王欲殺之。婢對曰。有氣大如雞子,從天而下,我故有娠。後產子,捐於豬溷中,豬以口氣噓之,不死。復徙置馬欄中,欲使馬借殺之,馬復以口氣噓之,不死。王疑以為天子,令其母收取奴畜之,名東明,令牧牛馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至掩水,以弓擊水,魚鱉浮為橋。東明得渡,魚鱉解散,追兵不得渡,因都王夫餘。故北夷有夫餘國焉。」とある。『三国志』の夫余伝に『魏略』を引いてあるのも、ほぼこれと同じ事で、『後漢書』の夫余伝も、文はやや異なるけれども、事は同じである。この中に橐離国とあるはダフール種族の事である。松花江に流れ込む河にノンニーという河があり、それと合流する河にタオル河がある(ノンニー河は嫩江(一名諾尼江)、タオル河は洮児江を指す)。そのタオル河附近に居住した民族がすなわちダフール種族で、すなわち橐離国である。また夫余国というのは、今日の長春辺から西北に向って存在した国で、この伝説はダフール、夫余両国に関係したものである。」
  5. ^ a b 赤羽目匡由『渤海王国の政治と社会』吉川弘文館、2011年10月13日、110頁。ISBN 978-4642081504。

参考文献[編集]