Month: September 2019

近畿地方 – Wikipedia

この項目では、日本の近畿地方について説明しています。放送局における地域区分(近畿広域圏)については「広域放送」をご覧ください。 近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に位置する日本の地域である。「関西地方(かんさいちほう)」ともいう。かつて令制国における畿内とその周辺地域から構成される。難波宮、平城宮、平安宮以降東京奠都までの王城の地で、今日でも関東地方に次ぐ日本第二の都市圏・経済圏であり、西日本の中核である。 近畿地方の範囲について法律上の明確な定義はないが[注釈 1]、主要な百科事典では大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・三重県・滋賀県・和歌山県の2府5県(7府県)を指すことが多く[2]、当項でも特記がある場合を除いてこの範囲で説明する。尚、三重県については東海地方にも含まれる。 「近畿」は古代律令制における広域行政区画「畿内」に由来する語である。畿すなわち都とその近隣地域という意味で、現代語に置き換えると「首都圏」と同義である。主に歴史・文化用語で用いられる「上方」は「皇居のある方角」という語義を持つ。 「近畿」という名称は明治時代に地理の教科書で採用されて広まったものである。1898年(明治31年)に『中外地理学 内国之部』で「近畿区」として、翌年に『日本地理』で「近畿地方」として使われたのが最初で(どちらも中学校教科書)、1903年(明治36年)の第1期国定教科書『小学地理』で確立された[3]。なお、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』には「畿内(五畿内)」の同義語として「京畿」と「近畿」が挙げられており、「近畿」という言葉自体は近世にも存在していたことが分かる[3]。 近畿と関西[編集] 関東地方と対置して「関西」が「近畿」の類義語として多用されるが、行政機関名や気象情報など公的な場面では「近畿」が多用される。 英文呼称・国際的観点[編集] 「近畿」と発音が類似する英語の “kinky” に「ねじれた」「変態の」といった意味があり、国際化の進展で対外的な問題となったことから、近畿大学が2016年4月から、英文名称を「KINKI UNIVERSITY」から「KINDAI UNIVERSITY」に変更した[4][5]。近畿経済産業局は英文表記に “Kansai”を用いており、近畿運輸局も2015年から英文表記に “Kansai” を必要に応じて使っている[6]。また、近畿商工会議所連合会が2015年7月22日に「関西商工会議所連合会」に名称変更した[7]。2014年秋には、関西経済連合会が国に対し、出先機関の名称の「関西」への統一などを求めている[6]。ちなみに2003年6月28日には大手私鉄の近畿日本鉄道の英語名もKinki Nippon Railway

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宇宙基本法 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 宇宙基本法(うちゅうきほんほう、平成20年5月28日法律第43号)は、日本における宇宙開発・利用の基本的枠組みを定める日本の基本法(法律)である。 内閣に宇宙開発戦略本部を設け、宇宙開発の推進にかかる基本的な方針、宇宙開発にあたって総合的・計画的に実施すべき施策を宇宙基本計画として策定する。宇宙開発戦略本部の本部長は内閣総理大臣であり、副本部長として、内閣官房長官および宇宙開発担当大臣が充てられることとなる。 第1章 総則(第1条―第12条) 第2章 基本的施策(第13条―第23条) 第3章 宇宙基本計画(第24条) 第4章 宇宙開発戦略本部(第25条―第34条) 第5章 宇宙活動に関する法制の整備(第35条) 附則 目的[編集] かつての米ソ冷戦時代は、両国主導で宇宙開発が推進されてきたのに対し、冷戦後はヨーロッパ・中華人民共和国・インドなどが、独自の宇宙開発を発展させている。かつて海洋を制した大国が世界を制したように、宇宙空間や月面の利用は、大国間のパワーバランスを大きく左右する。また、衛星の製造・運用・ロケットの打ち上げなどが民間に移管され、国際市場を通じた調達が一般化しているなど、グローバル化も進んでいる。 一方、日本の宇宙開発の基本方針は、本法案の策定時点では文部科学省の宇宙開発委員会で定められていた。これは旧科学技術庁が推進してきた実用目的の宇宙開発と、東京大学に端を発する宇宙科学研究が、省庁再編で文部科学省に統合されたことによる。このため、日本の宇宙開発は主に新技術の開発と実用化、宇宙科学の研究といった視点から進められてきた。この結果、多額の税金を投入して開発した技術であっても商業的な競争力が乏しく、衛星やロケットは日本政府以外からはほとんど受注できていなかった。日本国内の企業であっても、外国から衛星を購入し、外国のロケットで打ち上げている(実際には、衛星メーカーがロケット打ち上げごと契約することが多い)など、日本の宇宙開発が必ずしも国民生活の向上や経済の発展に貢献できていない現状にあった。 このような状況から、日本における宇宙開発のリーダーを文部科学省から内閣総理大臣に移し、国家的な宇宙開発戦略を推進する体制を構築することが、本法の目的である。 また、情報収集衛星の打ち上げ運用の開始など、国際情勢の変化を受け、それまで昭和44年(1969年)国会決議[1]により、軍事以外の目的(「平和の目的」)に限定されていた宇宙開発・利用の制限を、明示的に緩和した。 審議経過[編集]

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但田裕介 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “但田裕介” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年9月) 但田 裕介 基本情報 国籍 日本 出身地 東京都小平市小金井 生年月日 (1951-04-27) 1951年4月27日(70歳) 身長体重

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高橋勝四郎 – Wikipedia

高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)12月9日 – 1972年(昭和47年))は、日本の獣医師。馬産家として名高い。岩手県胆沢郡南下幅村(現在の奥州市)出身。父の高橋音四郎は南都田村の村議会議員。 幼少期・少年時代[編集] 生家は農家で、馬の飼育も手掛けていた。そのことから勝四郎は幼少の頃から馬と身近に接しながら育った。当時の慣例[1]により5歳の時に南下幅尋常小学校に入学。卒業後農業補習科に3年通い、水沢尋常高等小学校の高等科4年生に編入。卒業後は師範学校に進学するつもりであったが13歳だった勝四郎は入学年齢に達しておらず、入学年齢に達するまでの間、母校の南下幅尋常小学校に代用教員として勤務することになった[2]。 馬の道へ進む[編集] 尋常小学校勤務時代に近所の獣医師・石川孝七郎の勧めを受けて馬の品種改良事業に携わることを志すようになり、現 岩手県立盛岡農業高等学校(旧・岩手県立農学校)獣医科に入学。首席で卒業した。勝四郎は盛岡高等農林学校への進学を希望したが、入学年齢に達していなかったことから岩手県立農学校の助手を務めつつ開業獣医として馬の装蹄に携わった。勝四郎は入学年齢に達した後は盛岡高等農林学校を受験するつもりでいたが、1903年(明治36年)に農学校から青森県の奥羽種馬牧場の勤務獣医師となるよう推薦を受け、同牧場に勤務することになった。1906年(明治39年)に馬政局が発足すると勝四郎は奥羽種馬牧場に勤務したまま、同局の技手となった。 小岩井農場時代[編集] 1907年(明治40年)、勝四郎は馬政局の命を受けて岩崎家が所有する小岩井農場へ出向した[3][4]。 小岩井農場で、勝四郎はサラブレッド競走馬[5]の生産に従事した。その間、小岩井農場が生産したサラブレッドは競馬の競走において好成績を収め、藤波言忠をして「走る馬は小岩井にかぎる」と言わしめるほどの活躍を見せた。また勝四郎が考案した小岩井ハクニー種[6]は中間種として高い評価を受け、中間種の改良をアングロノルマンによって行う方針を立てた馬政局によって生産を制限されるまでの間、市場において優れた売れ行きを見せた。1920年代には馬産家としての勝四郎の名声は「小岩井の高橋か、高橋の小岩井か」と言われるほどに高まっていた。 小岩井農場を退職[編集] 勝四郎は1916年(大正5年)から小岩井農場長となった戸田務との折り合いが悪く、戸田に疎んじられた。戸田は自身と同じ農科大学(現在の東京大学農学部)出身の石塚栄五郎を引立て、1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけてイギリスからの種牡馬導入の任務にあたらせ[7]、さらに勝四郎より若いにもかかわらず勝四郎の上役に抜擢した。これらの処遇に不満を募らせた勝四郎は1930年(昭和5年)、小岩井農場を退職した。 小岩井農場を退職した勝四郎は、自ら牧場を運営して競走馬を生産することを夢見た。すでに馬産家として名声を得ていた勝四郎を雇おうとする牧場経営者は多かったが、しがらみに押される形で小林長兵衛が経営する東北牧場の場長に就任した。勝四郎は破産寸前の状態にあった東北牧場を徐々に立て直したが、太平洋戦争の激化によって競馬が衰退したことを受け1945年(昭和20年)に小林は牧場を売却。勝四郎は故郷に戻った。 太平洋戦争終戦後、勝四郎は牧場に雇用されたものの物価の高騰と農地改革の影響から競走馬の生産を行うことは困難な状況で、もっぱら牧場の管理にあたる日々を送った。1952年(昭和27年)に職を失い、岩手へ帰郷。間もなく勝四郎を師と仰いでいた馬喰の佐野玉吉に勧められ、佐野とともに北海道や東北の競走馬生産牧場を巡る旅に出た。勝四郎は各地でそれまでに培った知識と競走馬生産への情熱を披露し、優れた馬産家として再認識されるようになった。 千明牧場場長に就任[編集] 1956年(昭和31年)、群馬県利根郡片品村の千明牧場から場長就任の要請を受け、受諾。同牧場は第7回東京優駿競走(日本ダービー)に優勝したスゲヌマなどを輩出した名門牧場であったが太平洋戦争中に閉鎖され、前年に再開したばかりで、勝四郎が赴任した当初は放牧地は荒れ果て、2頭の繁殖牝馬と2頭の1歳馬しかいない状態であった。勝四郎は牧草地や調教コースの整備、牧場周辺に多く生息していたアブの駆除などから牧場づくりを始め、限られた資源を用いて二冠馬メイズイ、天皇賞を優勝したコレヒサ、コレヒデの兄弟などを輩出し、千明牧場の立て直しに成功した。勝四郎はなおも馬産への情熱を燃やしていたが、千明牧場のオーナーであった千明康に「老いぼれ」呼ばわりされたことに憤慨し、1966年(昭和41年)に退職して故郷に戻り、その後は死去まで馬産に携わらなかった。 勝四郎の馬産理論[編集]

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竹内弘一のズキュ〜ン♡ – Wikipedia

『竹内弘一のズキュ~ン♡』(たけうちこういちのずきゅ~ん)は、KBS京都ラジオで火曜日14:00-17:00に放送中の番組。 番組概要[編集] KBS京都ラジオで毎週火曜日の14時から17時に生放送しているワイド番組。 KBS京都テレビの報道番組「京bizX」のメインキャスターである竹内弘一アナウンサーがメインパーソナリティを務める。明るい普段着トークと社会派キャスターとしてのジャーナリズムを持ち併せた「竹内カラー」を全面に、聴いて楽しいお喋りや音楽、知りたい情報を盛り込んで、リスナーの心に響く夕方のプログラムをめざす番組。 2012年9月末まで放送していた帯番組『音楽わいど ラジオ・ビュー』の火曜日番組「イケメン?凸凹・チューズデイ」のパーソナリティを務めていた竹内が、同時間帯で放送開始となった新番組でそのままメインパーソナリティを継続する形となった。 パーソナリティ[編集] メインパーソナリティ アシスタント コーナー[編集] 放送中のコーナー[編集] 竹内弘一のズキュ~ン♡ネットワーク - 日々の取材活動の中からのエピソードトークなどを行う。 竹内弘一のエナジーズキュ~ン♡ – 竹内が元気が出る1曲、エナジーミュージックをセレクトする。 KyoBizキューン!! – KBS京都テレビ「京bizX」とのコラボ企画。様々経営者を招いて深い話を聞く。 ネスカフェアンバサダーに、ズキュ〜ン!!

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アントニー・D・スミス – Wikipedia

アントニー・D・スミス(Anthony David Stephen Smith、1939年9月23日 – 2016年7月19日)は、イギリスの社会学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。 ロンドン出身。オックスフォード大学を卒業し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号取得。 ナショナリズム研究を専門とし、国民(ネイション)およびナショナリズムを近代特有の産物とみるエリック・ホブズボームやアーネスト・ゲルナーの議論に対して、それ以前から存在する文化的共同体(エトニ、エスニーとも訳される)との連続性を重視する立場をとる。 単著[編集] Social Change: Social Theory and Historical Processes, (Longman, 1976). Nationalism in

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松平君山 – Wikipedia

松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) – 天明3年4月18日(1783年5月18日))は、江戸時代中期の尾張藩士・儒学者(古註学派)・地理学者。諱は秀雲。字は士竜、幼名は弥之助・太郎助、通称は太郎右衛門(太郎左衛門?)。号は君山の他に竜吟子・富春山人・吏隠亭・群芳洞・盍簪窩主人。尾張藩士千村秀信の四男、母は堀忘斎の三女。松平久忠の娘・阿艶を正室としてその婿養子となった。 名古屋にて生まれる。儒学者として知られる堀杏庵の血をひく(孫)である母の影響で学問に励んだ。宝永6年(1709年)、その才能を見込んだ松平久忠に請われてその婿養子となる。ただし、8歳年下の妻・阿艶は当時まだ5歳であったことから、正式に縁組が承認されたのはその3年後の正徳2年(1712年)のことであった。享保2年(1717年)に藩主徳川継友に拝謁を許され、同9年(1724年)に養父の死に伴って、遺領300石の内250石を相続して馬廻組に属した。 独学で博覧強記、17歳頃から漢詩を作り、諸子百家から野史稗説に至るまで各種の蔵書を集めて、後に宝暦6年(1756年)になって吏隠亭という書庫を作り、蔵書1200部余り、3700冊近くに及んだ(ただし、母方の堀家からの借用500冊を含む)。寛保2年(1742年)に著した『年中行事故実考』などが評価され、同3年(1743年)に藩の書物奉行に任じられて以後38年にわたって同職にあった。延享3年(1746年)に藩命で外祖父忘斎が編纂していた『朝林』を補遺・献上し、翌年には同じく忘斎が編纂していた尾張藩士の系譜をきした『士林泝洄』を補遺・献上し、私撰地誌『岐阜志略』を著した。宝暦元年(1752年)には巾下学問所の講師を兼ね、同2年(1753年)には藩主徳川宗勝の命で千村伯済とともに編纂していた官撰地誌『張州府志』30を修撰してその功によって50石を加増された。更に同6年(1756年)には『濃陽志略』、同7年(1757年)には『吉蘇志略』を執筆する。続いて、領内の河川巡検の成果をまとめた『巡河日課』・『河渠図』を作成した。明和7年(1770年)には漢詩集『幣帚集』を刊行、安永5年(1776年)には『本草正譌』を著して尾張藩における本草学の先鞭をつけた。更に寛延元年(1748年)と明和元年(1764年)の2度の朝鮮通信使の名古屋滞在の際には子の霍山・孫の南山とともに宿舎であった城下の性高院にて会見を行っている。 安永6年(1777年)に正室・阿艶が死去、同8年(1779年)には書物奉行としての最大の功績であった『馬場御文庫御蔵書目録』を完成させている。これを機に翌天明元年(1781年)には隠居を行うが、長年父親を公私にわたり補佐してきた嫡男の霍山も病弱を理由に同時に隠居したために孫の南山が家督を継いだ。2年後に死去した。 生涯に前述の書の他に儒学の注釈書などその著作は62種が伝えられ、この他にも他人のための詩や序文・跋文が多く伝わる。特に吉見幸和・横井也有・太田東作らと親しく、岡田新川ら多くの門人を育てて。その門流は「君山学派」とも称された。蔵書は天保年間に藩に献上されて後世に伝えられた。 墓は性高院にあるが、後に同寺が名古屋市千種区に移転されたことにより、墓地の移転・改葬が行われている。 参考文献[編集] 山本祐子「松平君山」(家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年) ISBN 978-4-404-01503-7) 小島広次「松平君山」(『国史大辞典 13』(吉川弘文館、1992年) ISBN 978-4-642-00513-5)

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荻野周史 – Wikipedia

荻野 周史(おぎの しゅうじ、Shuji Ogino、1968年-)は、兵庫県明石市出身の分子病理疫学者 (molecular pathological epidemiologist) かつ病理学医師、分子遺伝病理学(molecular genetic pathology)超専門医である。現在、ダナ・ファーバー癌研究所、ブリガム・アンド・ウィメンズ病院、ハーバード大学医学大学院病理学教授およびハーバード大学公衆衛生学大学院疫学部教授。ブリガム・アンド・ウィメンズ病院病理部分子病理疫学部門長かつ、マサチューセッツ工科大学とハーバードのブロード研究所(Broad Institute)のアソシエイトメンバーでもある。  従来の疫学および病理学を、分子生物学および生物統計学的手法を駆使して統合した分子病理疫学分野(Molecular pathological epidemiology[1]、略してMPE)の提唱者かつ先駆者として知られる。2013年より国際分子病理疫学会議 (international MPE Meeting Series) を主宰、座長を務めており、その第2回と第3回会議が2014年及び2016年にボストンにて開催された[2][3][4]。 病理学医師として[編集]

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セイラム (ニューハンプシャー州) – Wikipedia

セイラム (英: Salem)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ロッキンガム郡で人口第2の自治体(町)である。2010年国勢調査では、人口28,776 人だった[1]。ボストンの北にあって地域市場と物流の中心であり、アミューズメントパークのカノビー湖パークや、大型ショッピングモールのモール・アット・ロッキンガム・パークがある。 セイラムとなった地域への入植は1652年に始まった。1736年には既に、マサチューセッツのマスーアン市の「北教区」あるいは「マスーアン地区」となっていた。1741年、マサチューセッツとニューハンプシャーの境界が設定されたときに、「北教区」はニューハンプシャーの一部となり、近くにあるマサチューセッツのセイラムから、この町もセイラムと名付けられた。1750年には植民地総督のベニング・ウェントワースによって法人化された。 「ザ・スクエア」、1908年 1902年、マサチューセッツ北東路面鉄道会社がセイラムにカノビー湖パークを設立し、その運行する路面電車でのレジャー小旅行を奨励した。近くにある工業町のマサチューセッツ州ヘイブリル、ローレンス、ローウェル、マスーアン、ニューハンプシャー州マンチェスターやナシュアなど地域全域から観衆が押し寄せた。工場労働者たちは花壇や湖畔の間にある街路樹のある遊歩道で、ゆったりとした散策を楽しめた。乗馬、ゲームセンター、ダンスホールが生き生きとした娯楽を提供した。しかし、自動車の増加によって路面電車は衰退した。現在は数少なくなった私鉄沿線のアミューズメント・リゾートとして、カノビー湖パークは今も残っており、人気を保っている[2]。 セイラムの観光業の歴史には、ニューイングランド初の競馬場であるロッキンガム・パーク・レーストラック、好奇心を誘う「アメリカのストーンヘンジ」(元は「ミステリーの丘」)もある。最近ではスケート場の「アイセンター」もできた。 セイラムは1950年代からボストン都市圏の一部として急速に発展し、郊外型の住宅地やニューハンプシャー州道28号線に沿って開発された長い帯状の商業地などがある。2006年頃から商業施設は28号線の他に州間高速道路93号線2番出口周辺に集中している。 セイラムの町政は町政委員会と町マネジャーの組み合わせである。ニューハンプシャー州上院議員第22選挙区に属し、下院議員は9人を送り出しており、空席1議席を除いて全て共和党が独占している。上院議員は上院議長のチャック・モース(共和党)である。 2012年11月時点での町内有権者登録数[3] アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、町域全面積は25.9平方マイル (67 km2)であり、このうち陸地24.7平方マイル (64 km2)、水域は1.2平方マイル (3.1 km2)で水域率は4.49%である。町内をスピケット川とポリシー・ブルックが流れている。カノビー湖が西の境界であり、アーリントン・ミル貯水池が北に、ワールドエンド池が南東にある。町内最高地点は、標高380フィート (120 m)

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