Month: April 2020

パウロ・ロベルト・ジャメーリ・ジュニオール – Wikipedia

パウロ・ロベルト・ジャメーリ・ジュニオール(Paulo Roberto Jamelli Júnior、1974年7月22日 – )は、ブラジル・サンパウロ出身の元サッカー選手。 1.5列目の位置からのパスやシュートを得意とするアタッカー。U-22ブラジル代表では中心選手としてアトランタオリンピック南米予選を戦うが、本大会ではオーバーエイジ枠選手の加入もあり直前にメンバー落ちした。 サントスFCで若くしてキャプテンを務めた後、1997年にJリーグの柏レイソルに移籍、4月19日のアビスパ福岡戦での決勝ゴールがJリーグ初ゴールとなった[1]。エジウソンとのコンビで14ゴールを決めるなど[1]、活躍。1998年からはスペインに渡りリーガ・エスパニョーラで5シーズン半にわたり活躍。レアル・サラゴサに在籍し、コパ・デル・レイ獲得に貢献した。 2004年には7年ぶりのJリーグに復帰、清水エスパルスに移籍したが、3試合0得点と結果を残せなかった[1]。2004-05シーズンから2シーズンをスペイン2部のUDアルメリアで過ごし、2006年にブラジルに帰国。同年前半はアトレチコ・ミネイロに所属した。 現役引退後は、サンパウロ州2部リーグで監督を務めるなど指導者として活動する傍ら、2012年以後のインテルラゴス・サーキットで行われるF1・ブラジルグランプリにて毎年コースマーシャルとして活動している姿が紹介されている[2][3]。 個人成績[編集] U-22、U-23ブラジル代表(1995年、1996年) ^ a b c “ジャメーリ”. /data.j-league. 2020年4月23日閲覧。 ^

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リチャード・ボウディッチ・ウィグルスワース – Wikipedia

リチャード・ボウディッチ・ウィグルスワース リチャード・ボウディッチ・ウィグルスワース(Richard Bowditch Wigglesworth, 1891年4月25日 – 1960年10月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。共和党に所属し、連邦下院議員を16期32年連続で務めた。 1891年4月25日、リチャード・ボウディッチ・ウィグルスワースはマサチューセッツ州ボストンにおいて誕生した[1]。ウィグルスワースは1908年にミルトン・アカデミーを卒業した。ウィグルスワースは1912年にハーバード大学を卒業、1916年に同法科大学院を修了した。ウィグルスワースは1916年にマサチューセッツ州で弁護士として認可を受け、ボストン市内で弁護士業を開業した。 ウィグルスワースは1913年にフィリピン総督の私設秘書補佐官を務めた。第一次世界大戦中は1917年から1919年までアメリカ陸軍に所属し、海外に派遣された。ウィグルスワースは第76師団の第303野戦砲兵隊で大尉を務めた。ウィグルスワースはE砲兵隊を指揮し、また第一大隊の部隊長も任された。 ウィグルスワースは1922年から1924年まで財務次官補の法律顧問を務めた。ウィグルスワースは外国からの借款の返済や、鉄道敷設の代金支払いなどの管理を任された。またウィグルスワースは同じく1922年から1924年まで、連邦政府の戦債委員会で秘書官も務めた。ウィグルスワースは1924年から1927年まで共和政ドイツに駐在し、戦争賠償の請求代理人補佐官を務めた。ウィグルスワースは1927年から1928年まで、ドーズ案に基づく執行委員会において、法務顧問およびパリ代理人を務めた[2]。 1928年、ウィグルスワースはマサチューセッツ州選出連邦下院議員ルイス・アダムズ・フロシンガムの死去に伴い欠員補充で、連邦下院議員に選出された。ウィグルスワースは1928年11月6日に着任し、その後1958年11月13日に辞任するまで16期32年連続で連邦下院議員を務めた。ウィグルスワースは1928年から1933年まではマサチューセッツ州第14選挙区の選出議員として、1933年から1958年まではマサチューセッツ州第13選挙区の選出議員として、活動した[1]。ウィグルスワースは1948年の共和党全国大会に、マサチューセッツ州の代表代理として出席した。 ウィグルスワースは1958年10月29日に駐カナダ大使として指名を受けた。ウィグルスワースは1958年12月15日に信任状を奉呈して着任したが、上院休会中の任命であったため、1959年1月29日に改めて上院の再承認を受けた。ウィグルスワースは1960年10月19日に駐カナダ大使を辞任した[3]。 1960年10月22日、ウィグルスワースはマサチューセッツ州ボストン市内の病因において、循環器疾患により死亡した[4]。ウィグルスワースの遺体はアーリントン国立墓地の第2セクションに埋葬された[5]。 外部リンク[編集]

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空と君のあいだに/ファイト! – Wikipedia

「空と君のあいだに/ファイト!」(そらときみのあいだに/ファイト!)は、1994年5月14日に発売された中島みゆきの31作目のシングル。両A面シングルとして発売された。 ドラマ『家なき子』が高視聴率だったこともあり、オリコンの集計において、シングルでは「浅い眠り」に続いて2作目のミリオンセラーを達成した。オリコンの集計の上では中島最大のヒット曲である。 またこのシングルのオリコンシングルチャート1位獲得で、3つの西暦10年代(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」)にわたって同一名義で同チャート1位を獲得した史上初の歌手となった。 中島のシングルでは、このシングルからCDのみの発売となった。 空と君のあいだに 日本テレビ系ドラマ『家なき子』主題歌[1]。 歌詞は同ドラマの主人公すずの愛犬リュウの目線から歌ったもの。そのためミュージック・ビデオにも多数の犬が登場する。また、中島が主題歌を依頼された時点で設定が「犬を連れた家のない少女が主人公」しか決まっておらず、唯一の手掛かりである犬の写真だけでイメージを膨らませて曲を書いた。中島曰く「犬の気持ちで見れば、犬が見えているのは『空』と『君』しかないんです」[2]。 同年に発表されたアルバム『LOVE OR NOTHING』にはストリングスを取り入れたバージョンが収録されている。 1995年のツアー『中島みゆきCONCERT’95「LOVE OR NOTHING」』では中盤で披露され、アルバム・バージョンで始まり、途中からシングル・バージョンに移行するというアレンジで演奏された。 ファイト! 1994年の住友生命「ウィニングライフ」CMソング。その後2012年には大塚製薬「カロリーメイト」[注釈 1]の、2020年にはユニクロ「ヒートテック」のCMでも起用。 元々は、1983年に発表されたアルバム『予感』の収録曲。CM曲として起用されたためシングルカットされた。 中島みゆきのオールナイトニッポンの仕事での様々な経験が基になっていると言われる。ペンネーム“私だって高校行きたかった”(当時17歳の少女、事務員)からの「勤務先で『あの子は中卒だから事務は任せられない』というのを聞いて悔しくて泣きたかった。家のこと考えたら私立に行くと言えなかったし、高校に入る自信も無かった」という内容の投稿など[3]。 タイトルの「!」だけ、白抜きで表記されている[4]。 阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こった1995年、自身のコンサート『中島みゆきCONCERT’95「LOVE

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ベンジャミン・ボアズ – Wikipedia

ベンジャミン・ボアズ(Benjamin Boas, 1983年 – )は、アメリカ合衆国出身の国際コミュニケーション・コンサルタント[1]、翻訳家、作家[2]、麻雀研究家[3]。ブラウン大学卒業[4]。慶應義塾大学訪問研究員、内閣府クールジャパン戦略のクールジャパン・アンバサダー[2]。中野区観光大使[5]。アニメ・漫画・ゲームなどのサブカルチャーの他に合気道や坐禅を嗜み、作務衣姿を普段着とする[6]。東京都中野区在住。 1983年、ニューヨーク州に生まれる[7]。ファミコンや『らんま1/2』などの日本の漫画を通じて日本の文化に興味を持ち、日本語を学ぶようになった[8][9]。 2004年、ヒマラヤ山脈旅行中に一泊したチベットの修道院で麻雀に出会い、その後来日した際に日本の麻雀文化に影響を受ける[4][10]。短期来日を繰り返す中で、『近代麻雀』で紹介される[11]。ブラウン大学に論文「牌に映るもの」を提出し、優等卒業[4]。2007年からフルブライト奨学金を得て京都大学人文科学研究所にて「麻雀と社会」について研究。 2007年、第2回オープン欧州麻雀選手権(欧州麻雀協会、コペンハーゲン、国際ルール麻雀)で3位入賞[11][12]。翌年、第1回欧州リーチ麻雀選手権(同協会、ハノーファー、日本式リーチ麻雀)で2位入賞[10]。2010年から、文部科学省奨学生として東京大学で「ゲームと社会」について研究[4]。 翻訳家・ライターとして活動する傍ら、2015年に青柳ちかとともにコミックエッセイ『日本のことは、マンガとゲームで学びました。』(小学館)を刊行[8][13]。中野区の名所を紹介する活動[14]などを通じて、同年に一般社団法人中野区観光協会の観光大使に就任[5]。 2016年には、内閣府などが推進する「クールジャパン戦略官民協働イニシアティブ」に基づく「クールジャパン・アンバサダー」に選出[15]。日本のポップカルチャーやクールジャパンのあり方について発信する活動を行っている[16][17][18]。 ベンジャミン・ボアズ文、青柳ちか 画 『日本のことは、マンガとゲームで学びました。』 小学館、2015年 ISBN 978-4-09-388395-5 ベンジャミン・ボアズ著、青柳ちか マンガ・イラスト 『大人のためのやり直し英会話』小学館、2016年 ISBN

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第91回天皇杯・第82回皇后杯 全日本総合バスケットボール選手権大会 – Wikipedia

二回戦、三菱電機対明治大学 二回戦、国士舘大学対筑波大学 東日本大震災復興支援 第91回天皇杯・第82回皇后杯 全日本総合バスケットボール選手権大会 は、2016年1月1日から11日の期間に開催された全日本総合バスケットボール選手権大会である。大会の正式呼称はオールジャパン2016。 男子はアイシンシーホース三河が5年振り9回目の優勝を果たし、女子はJX-ENEOSサンフラワーズが3年連続20回目の優勝を果たした。 今大会も前回に引き続き、国立代々木競技場第一体育館、第二体育館と駒沢体育館、大田区総合体育館の4ヶ所で開催され、トーナメント方式により優勝を決定する。1チームの選手数は日本バスケットボール協会に競技者登録された16名以内で、外国籍選手の出場は同時間帯につき1名まで(オン・ザ・コート・ワン)[1]。 参加資格があるチームは日本バスケットボール協会に加盟登録されたチームで、男子は次の計36チーム。 女子は次の計32チーム。 WJBLより推薦された11チーム(前シーズンのリーグ戦結果により推薦順位を決定) 全日本大学連盟から推薦された8チーム 全日本社会人選手権より推薦された3チーム 全国高校選手権より推薦された1チーム 地方ブロック協会より推薦された9チーム 出場チーム[編集] 男子[編集] NBL NBDL 学生

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アルハザードの発狂 – Wikipedia

『アルハザードの発狂』(アルハザードのはっきょう、原題:英: Why Abdul Alhazred Went Mad)は、イギリスのSF愛好家D・R・スミスが1950年に発表した短編小説。経歴不詳の作者によるクトゥルフ神話作品で、『The Nekromantikon』1950年秋季号を初出とし、Crypt of Cthulhuの1988年ユール号に再掲された後、ケイオシアムから刊行されたThe Necronomiconに収録された。[1]東雅夫は『クトゥルー神話事典』にて「アブドゥル・アルハザードが狂乱のうちに綴ったという、知られざる『ネクロノミコン』最終章の修正版と銘打たれた超異色作。クトゥルーやヨグ=ソトースを生み出した(!)とされるを、ローマ軍の豪傑が、思いもよらぬ手段で滅ぼした顛末を描く。」と解説している。[2]。 クトゥルフ神話作品において、架空の文献「ネクロノミコン」からの引用は頻出する。またネクロノミコンの中身を描いた作品もあり、本作もその一つである。作者は本名をドナルド・レイモンド・スミスといい、1917年生まれ。主に1940年代に英国のファンジンで活動していた。[3]本作は青心社文庫のシリーズに正式収録されているが、クトゥルフ神話関連書籍・二次資料などではほとんど取り上げられることがない。 マルクス・アントニウスがアルプス山中で飢餓に遭った逸話を元ネタとしており、作中冒頭でも核心部はシェイクスピアの舞台劇の台詞として公共に知られていると説明がある。フィクションクトゥルフ神話のアルハザードと、現実のローマ史のアントニーについて、歴史の真実を暴くというような体裁をとっている。ダーレス神話の旧神vs旧支配者設定を採用し、さらに独自に突き進めている。 著者[編集] アブドゥル・アルハザード – 狂えるアラブ人。クトゥルフ、ヨグ=ソトース、などを崇拝する。 わたし – アルハザードは正気であったが最終章を書いたことで発狂したと主張する。アルハザードの狂気や主観を排除したと前置きして、最終章の修正版=本作を発表する。 登場人物[編集]

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京都市歌 – Wikipedia

「京都市歌」(きょうとしか)は日本の政令指定都市の1市で、京都府の府庁所在地である京都市の市歌。以下の4曲が存在する。 1898年(明治31年)発表。作詞・黒川真頼、作曲・上真行。 1906年(明治39年)発表。作詞・池辺義象、作曲・吉田恒三。 1915年(大正4年)発表。作詞・柏木亀三、作曲・田村虎蔵。 1951年(昭和26年)7月15日制定。作詞・藤山於菟路、作曲・諸井三郎。 現在の市歌は4.である。本項では、京都市へ編入された市町村が制定していた各種の市町村歌についても解説する。 現在の京都市歌は1950年(昭和25年)の京都国際文化観光都市建設法施行を記念し、歌詞の一般公募を経て制定された[1]。慣例上のもの(1.〜3.)を含めた歴代の市歌としては4代目であるが、制定の告示を経た正式な市歌としてはこの市歌が「初代」とされている[2]。1959年(昭和34年)には、ビクターレコード(のちJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)がA面/B面にそれぞれ京都市立音楽短期大学合唱団と京都市立醒泉小学校児童合唱団の斉唱を吹き込んだSPレコードを製造した。 京都府に限らず東京府・大阪府を含めた三府はいずれも戦前に府歌を制定しなかった経緯があり[注 1]、1984年(昭和59年)に「京都府の歌」が制定されるまではこの京都市歌が府歌の代替曲として紹介される場合があった[3]。 歴代の京都市歌[編集] 現在の京都市歌が制定されるまでに以下の3代の市歌が作られたが、いずれも制定の告示が無く「慣例上の市歌」とされていた[2]。以下の3曲については制定告示のある京都市歌と区別するため、表題から「市歌」を除いて単に「京都」とする文献もみられる[4]。 初代(1898年)[編集] 黒川真頼が作詞、上真行が作曲をそれぞれ手掛けた初代の京都市歌は京都市小学校長会が選定したもので、1898年(明治31年)1月29日に発表された[5]。現存する最古の市歌とされる1909年(明治42年)制定の横浜市歌より11年早く発表されており「日本最古の市歌」とされるが[5]、8年後には2代目の市歌が発表され短命に終わっている。 初代「京都市歌」は、歌詞・旋律とも著作権の保護期間を満了している(パブリックドメイン)。 一、 ちとせの昔(むかし) さだめたる 平(たひら)のみやの みやどころ ちとせの後(のち)も たひらかに かくぞさかゆる 宮(みや)どころ 二、 山(やま)もうるはし 宮(みや)どころ 川(かは)もさやけし 宮(みや)どころ 花(はな)ももみぢも 山川(やまかは)の きよしうるはし 宮(みや)どころ

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ペーテル・ケイセル – Wikipedia

ピーテル・ディルクスゾーン・ケイセルまたはペーテル・ケイザー(オランダ語: Pieter Dirkszoon Keyser、ラテン語:ペトルス・テオドリ Petrus Theodori またはテオドルス Petrus Theodorus 、1540年 – 1596年9月)は、オランダ(ネーデルラント)の航海士である。南半球からみえる恒星の星図を作ったことで知られる。ミドルネームは父ディーデリック(オランダ語:Diederik 、ラテン語:Theodorus 、Theodori は属格)にちなむ父称である。 航海と天体観測[編集] 天体観測と東インド諸島の航海以外の彼の生涯についてはほとんど知られていない[1]。 1595年4月2日、ケイセルは、コルネリス・デ・ハウトマンの指揮の下にオランダ最初の東インド諸島への航海としてテセルから出航した4隻の艦隊に、航海長として参加した。彼は、地図製作者ペトルス・プランシウスに数学と天文学の教えを受けていた。プランシウスはオランダの東インド諸島遠征の推進者であり、ケイセルに当時ほとんど空白となっていた南天の星図作成について手ほどきをしていた[1][2]。9月13日にマダガスカル島で新鮮な補給を受けるまでの間に、主に脚気によって248人の水夫の内71名が死亡していた。マダガスカル島で回復と修理のために数ヶ月滞在した間に、ケイセルは大半の観測をおこなったと考えられている。観測には、フレデリック・デ・ハウトマンとフェフテル・ヴィレムス(Vechter Willemsz)の助力があった。1596年2月にマダガスカルを出航した4ヶ月後、スマトラからジャワ島のバンタムに到着した。おそらくポルトガルによる妨害や経験不足から取引はうまくいかず、艦隊は飲料水と補給品を探すためにスンダ海峡を横断しなければならなかった。この航海中にケイセルは死亡したらしい。1597年8月14日、ハウトマンを含む生き残った81人はテセルに帰還し、ケイセルの観測結果はハウトマンからプランシウスに渡されたと考えられている。 ケイセルとハウトマンの観測結果からプランシウスは、現代になお引き継がれる南天の12の新しい星座を発表した。星座のほとんどは、16世紀に航海者たちが南半球で遭遇した新しい動物や事物(極楽鳥、カメレオン、オオハシ、トビウオ)に因んで命名された。これらは、1597年後半に大ヨドクス・ホンディウス(Jodocus

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ي – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 ي 語末形 語中形 語頭形 ـي ـيـ يـ ي 語末形 語中形 語頭形 ـي ـيـ يـ ي (ヤー, ياء)はアラビア文字の28番目に位置する文字。硬口蓋接近音 /j/ を表すほか、長母音

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警察予備隊 – Wikipedia

警察予備隊(けいさつよびたい、英語表記:Japan Police Reserve Corps(J.P.R)又は、National Police Reserve)は、日本において1950年(昭和25年)8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された準軍事組織。1952年(昭和27年)10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組された。 日本の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するため、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うものとして設けられた。その活動は警察の任務の範囲に限られるべきものであると定められていたが、実質的には対反乱作戦を遂行するための準軍事組織もしくは軍隊であり、装備はM1ガーランド小銃、戦車(当時の呼称は言い換えにより「特車」)など重武装であった。組織としては総理府の外局扱いとされ、警察とは独立して内閣総理大臣の指揮を受けた。 同時期に存在した「警視庁予備隊」と混同されることがあるが、警視庁予備隊は後に警視庁機動隊となる部隊であり、警察予備隊とは関連しない。 創設までの経緯[編集] 警察予備隊総隊総監部 1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなった。その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団(第1騎兵・第7歩兵・第24歩兵・第25歩兵)であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始している。その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。 7月8日、マッカーサー元帥は吉田茂首相に対し、「日本警察力の増強に関する書簡」を提示した。この書簡においては、「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」の創設が要望されていた。公表された書簡では左記の表記が採用されていたが、GHQ部内資料である「日本の安全保障諸機関の増強」(Increase in Japanese Security Agencies) においては「Constabulary」(警察軍)と称されており、アメリカが第2次大戦前にフィリピンで創設していたフィリピン警察軍(英語版) (PC)、アメリカ軍政庁統治下の南朝鮮で創設していた南朝鮮国防警備隊(現在の大韓民国陸軍)のような対反乱作戦部隊を想定していたものと考えられている[1]。

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