Month: April 2020

アレーナ・フォンチ・ノヴァ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アレーナ・フォンチ・ノヴァ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年2月) アレーナ・フォンチ・ノヴァ 施設情報 所在地 ブラジル,サルヴァドール,ナザレR. Lions Club, 217-547 位置 南緯12度58分43秒 西経38度30分15秒 /

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大内青圃 – Wikipedia

  第三部(音楽・演劇・舞踊) 能楽 1948: 野口兼資 1951: 観世華雪 1953: 桜間弓川 1954: 茂山弥五郎 1960: 近藤乾三 1961: 橋岡久太郎 1963: 後藤得三 1970: 六世野村万蔵 1975: 喜多実 1977: 四世茂山千作 1980: 宝生弥一 1983: 田中幾之助 1985: 梅若雅俊 1987: 四世野村万之丞 1988: 梅若恭行・観世元正 1990: 九世片山九郎右衛門・二世野村万作 1992: 八世観世銕之丞・宝生閑

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鶴新田 – Wikipedia

鶴新田(つるしんでん)は、岡山県倉敷市水島にある地域である。本項では同区域にかつて存在した浅口郡鶴新田村(つるしんでんそん)についても述べる。連島の南西部を占める。 連島西部の西之浦の南に広がる平地で、近世における干拓地である。高梁川の東岸に位置し、対岸には玉島の乙島がある。南側には水島工業地帯の一角で、JFE西日本(川崎製鉄)がある福喜新開がある。 江戸時代、干拓により連島が島から陸続きに変わると、連島は東西高梁川の河口に位置することとなり、西之浦南側には西高梁川の影響による広大な干潟が生まれた。倉敷支配所代官がこの干潟の干拓が安永7年に計画され、翌年、生魚問屋で西之浦村庄屋であった三宅弥平次等に工事を請け負わせた。約四千間の堤防を築き、約400町歩の新田を開発し、総工費は約600貫匁ともいわれる[1][2]。 さらに安永10年からはじまった工事は、同年の大風波などにおって一旦挫折。養子の和太郎によって寛政初期から開発予定地を細分化して再度進められた[1]。 寛政5年に8町1反ほどの新田が開発されたが、次の築堤工事にかかったところで、西高梁川西側の住民から、水はけが悪くなるとして訴えられ、享和3年に新田の一部を川西の村々に無償で引き渡す条件で和解した[1]。 前述の新田を開いたのを皮切りに、文化、文政、天保、弘化年間と数度に渡り干拓が続けれ、いずれも幕府領となり倉敷代官所が管理した。文政6年に当時の倉敷代官・大草太郎右馬政郷が、東隣の亀島新田に対し鶴の字を用いて鶴新田村(つるしんでんそん)と命名した[1][2]。 天保2年、成羽藩山崎氏の所領であった北面新田村と領地交換となり、鶴新田は成羽藩領となる[2]。 鶴新田の石高の5文のほどしかない北面新田と交換した事情の詳細は不明である[2]。 幕末頃の状況は、田135町3反、畑171町9反、宅地6町6反、戸数271軒、神記王1220人であった[2]。 明治5年に西之浦村と合併し、同13村に再び分村し、鶴新田村となる。同22年6月1日に村制による鶴新田村となり、同36年1月1日に鶴新田・西之浦・亀島・連島の4村が合併し、新たな連島村(のち連島町)を新設した[3]。 水島工業地帯の造成や水島中心部の市街化で、連島の他地区同様に宅地・企業・商店の立地が著しく、地区中央部を東西に水玉ブリッジラインが造成されている。しかし、市街化する一方で、農地も未だ多く存在し、工業地としてしられる水島管内で随一とも言える農業地となっている。古くから土地質を生かして盛んであったレンコン栽培は現在でも盛んであり、当地の特産品として売り出している[3]。 人口増加に対応し、西之浦をまたぐ形で、鶴新田北西の一部に新たに鶴の浦の大字が生まれた。 小学校区 全域が連島南小学校区。 中学校区 全域が連島南中学校区。 河川 農業 高梁川の運んだ土砂による干潟を干拓したことによる土地質を生かし、近世からレンコン栽培が盛ん。現在では、当地の特産品として連島レンコンというブランドで売り出している。倉敷市が制定した倉敷ブランドにも選定された。 製造業

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朗らかな皮膚とて不服 – Wikipedia

『朗らかな皮膚とて不服』(ほがらかなひふとてふふく)は、日本の音楽ユニットずっと真夜中でいいのに。の3枚目のミニアルバムである。2020年8月5日発売[3]。発売元はEMI Records。 ずっと真夜中でいいのに。3作目のミニアルバムであり、計4枚目のアルバム。 2020年7月にYouTube上で発表され、配信シングルとしてもリリースされた新曲「MILABO」「低血ボルト」も収録される。 8月15日に追加で収録曲のHamのMVが公開された。 リリース[編集] 初回生産限定盤と通常盤の2形態でリリース。初回生産限定盤は、魔導書パッケージ仕様で、本編全曲オフボーカル(インスト音源)、オリジナル四コマ漫画冊子が特典として付属する[4]。予約開始時点では2枚組の予定であったが、1枚に変更された。初回生産限定盤・通常盤共にボーナス・トラックが収録されているが、収録曲が異なる。 形態 規格 規格品番 初回生産限定盤 CD UPCH-29366 通常盤 CD UPCH-20552 チャート成績[編集] 2020年8月3日 – 8月5日のBillboard

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小豆洗い – Wikipedia

小豆洗い(あずきあらい)または小豆とぎ(あずきとぎ)は、ショキショキと音をたてて川で小豆を洗うといわれる日本の妖怪。水木しげるのゲゲゲの鬼太郎にも登場したことがあり、鳥取県境港市の水木しげるロードに銅像があるなど、マニアの間では知名度の高い妖怪である。 山梨県笛吹市境川、藤垈の滝付近、新潟県は糸魚川、秋田県、群馬県、京都府、東京都、愛媛県など、出没地域は全国多数。日本全国で知られる妖怪だけあって別称も多岐にわたり、広島県世羅郡、山口県美祢郡(現・美祢市)、宇部市、愛媛県広見町(現・鬼北町)などでは小豆とぎ、岩手県雫石村(現・雫石町)では小豆アゲ、長野県長野市川中島では小豆ごしゃごしゃ、山梨県北巨摩郡では小豆そぎ、鳥取県因幡地方では小豆こし、岡山県都窪郡や阿哲郡(現・新見市)では小豆さらさら、香川県坂出地方では小豆ヤロなどと呼ばれる[1][2]。前述の愛媛県広見町では砂洗いとも呼ばれる[3]。 各地の伝承[編集] 長野県松本市では、木を切り倒す音や赤ん坊の泣き声をたてたという[4]。群馬県邑楽郡邑楽町や島根県では、人をさらうものといわれる[5][6]。 『白河風土記』巻四によれば、鶴生(つりう・福島県西白河郡西郷村大字)の奥地の高助という所の山中では、炭窯に宿泊する者は時として鬼魅(きみ)の怪を聞くことがあり、その怪を小豆磨(あずきとぎ)と呼ぶ。炭焼き小屋に近づいて夜中に小豆を磨ぐ音を出し、其の声をサクサクという。外に出て見てもそこには何者も無いと伝えられている[7]。 茨城県や佐渡島でいう小豆洗いは、背が低く目の大きい法師姿で、笑いながら小豆を洗っているという。これは縁起の良い妖怪といわれ、娘を持つ女性が小豆へ持って谷川へ出かけてこれを目にすると、娘は早く縁づくという[8]。 大分県では、川のほとりで「小豆洗おか、人取って喰おか」と歌いながら小豆を洗う。その音に気をとられてしまうと、知らないうちに川べりに誘導され落とされてしまうともいう[1]。音が聞こえるだけで、姿を見た者はいないともいわれる[9]。 小豆洗いの物語[編集] この妖怪の由来が物語として伝わっていることも少なくない。江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある「小豆あらい」によれば、越後国の高田(現・新潟県上越市)の法華宗の寺にいた日顕(にちげん)という小僧は、体に障害を持っていたものの、物の数を数えるのが得意で、小豆の数を一合でも一升でも間違いなく言い当てた。寺の和尚は小僧を可愛がり、いずれ住職を継がせようと考えていたが、それを妬んだ円海(えんかい)という悪僧がこの小僧を井戸に投げ込んで殺した。以来、小僧の霊が夜な夜な雨戸に小豆を投げつけ、夕暮れ時には近くの川で小豆を洗って数を数えるようになった。円海は後に死罪となり、その後は日顕の死んだ井戸で日顕と円海の霊が言い争う声が聞こえるようになったという。 東京都檜原村では小豆あらいど(あずきあらいど)といって、ある女が小豆に小石が混ざっていたと姑に叱られたことから川に身を投げて以来、その川から小豆をとぐ音が聞こえるようになったという[2][11]。愛媛県松山市に伝わる小豆洗いの話では、明治初期に川の洗い場に50歳ほどの女性が小豆と米を洗っていたため、そこには誰も洗濯に寄らず、その女はやがて死に去ったという[12]。 小豆洗いの正体を小動物とする地方もあり、新潟県刈羽郡小国町(現・長岡市)では山道でイタチが尻尾で小豆の音を立てているものが正体だといい[13]、新潟県十日町市でもワイサコキイタチという悪戯イタチの仕業とされる[13]。長野県上水内郡小川村でも小豆洗いはイタチの鳴き声とされる[14]。大分県東国東郡国東町(現・国東市)でもイタチが口を鳴らす音が正体とされ[9]、福島県大沼郡金山町でも同様にイタチといわれる[15]。 岡山県赤磐郡(現・岡山市)では小豆洗い狐(あずきあらいぎつね)といって、川辺でキツネが小豆の音をたてるという[2]。長野県伊那市や山梨県上野原市でもキツネが正体といわれる[16][17]。京都府北桑田郡美山町(現・南丹市)ではシクマ狸という化け狸の仕業とされるほか、風で竹の葉が擦りあう音が正体ともいう[18]。香川県観音寺市でもタヌキが小豆を磨いているといわれ[19]、香川県丸亀市では豆狸の仕業といわれる[6]。広島県ではカワウソが正体といわれる[2]。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』ではムジナが正体とされる[20]。 秋田県では大きなガマガエルが体を揺する音といわれる[21]。福島県ではヒキガエルの背と背をすり合わせることで疣が擦れ合った音が小豆洗いだともいい[22]、根岸鎮衛の随筆『耳嚢』でもガマガエルが正体とされている[20]。 新潟県では、糸魚川近辺の海岸は小砂利浜であり、夏にここに海水浴に来る人間が砂浜を歩く「ザクザク」という音が小豆を研ぐ音に酷似していたため、これが伝承の元となったともいう[23]。山形県西置賜郡白鷹町でも、小川の水が小豆の音に聞こえるものといわれる[24]。 また江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされる[25]。昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる[1]。また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう[1]。新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという[26]。 長野県下諏訪などではこうした妖怪の噂に乗じ、男性が仲間の者を小豆洗いに仕立て上げ、女性と連れ立って歩いているときに付近の川原で小豆洗いの音を立てさせ、怖がった女性が男性に抱きつくことを楽しんだという話もある[27]。 茨城県那珂郡額田地区の伝承の小豆洗いは女性であり、その正体は、400年以上前の額田佐竹氏が太田の佐竹本家と江戸氏の連合軍に攻め立てられて落城する前日に出陣し、帰らぬ旅路についた城主の父に対し、出陣祝いの小豆飯を炊いて進ぜた姫君の姿であるとする(大録義行編 『那珂の伝説 上』 筑波書林

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ウィリアム・ダグラス (初代クイーンズベリー公爵) – Wikipedia

初代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラス(英: William Douglas, 1st Duke of Queensberry、1637年 – 1695年3月28日)は、スコットランドの政治家、貴族。 1671年に第3代クイーンズベリー伯爵位を継承し、1682年にクイーンズベリー侯爵、1684年にクイーンズベリー公爵に叙せられる。 1637年に第2代クイーンズベリー伯爵ジェイムズ・ダグラスとその後妻マーガレット(初代トラクエア伯爵(英語版)ジョン・ステュワート(英語版)の娘)の間の長男として生まれる[1][2][3]。 1664年から1667年までダンフリーズのシェリフと検死官を務める[1]。1671年に父が死去し、第3代クイーンズベリー伯爵位を継承する[1]。1680年6月にスコットランド最高刑事裁判所長官(英語版)に就任[1]。1682年2月にはクイーンズベリー侯爵に叙せられ、同年5月にスコットランド大蔵卿(英語版)、同年9月にエディンバラ城総督(英語版)に任じられる[1]。 1684年2月にクイーンズベリー公爵に叙される[1]。1685年のスコットランド議会では国王代理(英語版)を務めた[1]。長老派としてジェームズ1世(ジェームズ7世)のカトリック教会建設に反対したが、カトリックの第4代パース伯爵ジェームズ・ドラモンドから悪政を行ったと追及されるようになった[1]。そのため1686年2月にスコットランド大蔵卿のポストが委員会制になり、彼はその委員長に転じたが、結局同年9月に全官職を剥奪された[1]。 その後、名誉革命で王位についたメアリー2世とウィリアム3世をしぶしぶ支持した[1]。 1695年3月28日に死去した[1]。爵位は長男ジェイムズ・ダグラスに継承された[1][2]。 爵位[編集] 1671年の父の死により以下の爵位を継承した[1][4] 第3代クイーンズベリー伯爵 (3rd Earl

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ガイウス・スエトニウス・パウリヌス – Wikipedia

ガイウス・スエトニウス・パウリヌス(ラテン語: Gaius Suetonius Paulinus)は、ローマ帝国の軍総督。ブーディカの反乱を鎮圧した指揮官として有名であり、66年に執政官(コンスル)となった。パウッリヌス(Paullinus)とも表記される。 目次 1 生涯 1.1 ブリタンニア 1.2 ワトリング街道の戦い 1.3 内戦期 2 脚注 プラエトル(法務官)として政務に当たっていたスエトニウスは、42年にレガトゥス・レギオニス(ローマ軍団の司令官)の任に就き、北アフリカにあったマウレタニア王国の反乱鎮圧に当たった。また、ローマ人としては初めてアトラス山脈を越えた人物でもあり、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』執筆の際、スエトニウスの説明を引用[1]している。 ブリタンニア[編集] 59年、死亡したクィントゥス・ウェラニウス(en)の後を受け、ローマ支配下のブリタンニア長官に任命された。彼はウェラニウスの方針を引き継ぎ現在のウェールズ地域にあった諸部族を制圧し、これを赴任後2年で完遂した。彼の高まった名声はグナエウス・ドミティウス・コルブロと並び称され、将来ブリタンニア長官ともなる二人の男が配下に加わった。クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスは使節使として第9軍団ヒスパナに、グナエウス・ユリウス・アグリコラはトリブヌスとして第2軍団アウグスタに配置された。 ワトリング街道の戦い[編集] 「ワトリング街道の戦い」も参照

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国鉄の特殊狭軌線 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年10月) 国鉄の特殊狭軌線(こくてつのとくしゅきょうきせん)では、内閣鉄道院・鉄道省・運輸通信省・運輸省・日本国有鉄道が運営した日本の国有鉄道の路線のうち、特殊狭軌である762mm (2ft6in) 規格の路線群について記述する。 これらの路線群に対しては、「国鉄狭軌軽便線」をはじめとしてさまざまな呼称がなされているが、公式に統一された名称は存在しない。 元来、国有鉄道には1067mm (3ft6in) 以外の軌間を持つ路線は存在しなかった。1906年の鉄道国有法による大規模な私鉄国有化でも、私設鉄道法の影響で各会社の軌間が1067mmに揃っていたため、結果的に路線網に別の軌間が入り込む余地はなかった。 ただし、例外として湧別軽便線(後の石北本線・名寄本線の各一部)が1914年に建設された際、一部が762mm (2ft6in) 軌間で建設された。新規路線としてナローゲージが採用された唯一の例外である。 しかし新規に敷設されることはなくとも、大正時代から昭和初期にかけて敷設予定線区に存在する既存私鉄の買収を次々と行った結果、762mm軌間の路線が国有鉄道の路線網に混じる現象が発生した。これらの路線に対し国有鉄道は一時的にそのまま762mm軌間の特殊狭軌線として運営し、その後一部を除き改軌および改修を行って路線網に編入する処置を取った。 特殊狭軌線の存在期間は一部の路線を除けば基本的に短く、短いものでは1年、長くても10年未満だった。このため路線の消長が激しく、総路線数や総路線距離は断続的に増減を繰り返していたが、それでも昭和に入ると買収私鉄そのものの増加から総路線数・総路線距離ともに増大し、1936年から1938年にかけては総路線数6本、総路線距離184.2kmと最大値を記録した。しかし戦時中になると改軌を完了する路線が増えて急速な減少に転じ、戦後は釜石西線のみとなった。最終的に1950年の釜石西線改軌完了をもって、37年間の歴史に幕を下ろした。 次の1線のみである。石北本線・名寄本線の項も参照のこと。 湧別軽便線[編集] 元々は北海道の鉄道敷設に関する予定を定めた北海道鉄道敷設法に名寄駅 – 下湧別駅(のちの湧別駅)間の予定線としてあった路線で、本来は着工する予定のないものであったが、開拓を急ぐ声から着工が具体化した。 この時に内閣鉄道院が用いたのが「軽便線」の制度である。軽便線は鉄道敷設法やそれに類する法律で敷設が予定されていない路線に適用される路線規格で、軽便鉄道法に準拠し施設の簡易な支線として建設することを条件に、帝国議会で予算承認を得るだけで建設できた。そのため、これをうまく使ってこの急な建設具体化に対応しようとしたのである。その結果、当線は網走本線(のちの池北線全線、石北本線・釧網本線の各一部)の支線に変更して「軽便線」として着工されることになった。 これに際し、財政逼迫を理由として留辺蘂駅から先は1067mmではなく762mm軌間で建設することになり、1915年11月1日に社名淵駅(のちの開盛駅)まで開業。その先、下湧別までもそのまま762mm軌間で着工しかかっていた。

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小田の池 – Wikipedia

小田の池(おだのいけ)は、大分県由布市湯布院町にある湖。 阿蘇くじゅう国立公園内のやまなみハイウェイ沿いに位置する標高約770m、面積14.3haの大分県では数少ない天然湖。西側には人造湖で小田の池よりもやや大きな山下湖が隣接する。 小田の池は日本の重要湿地500に選定されている。池の南東側のほとりは泥炭層が堆積した湿原となっており、大分県の固有植物であるツクシボウフウをはじめサギソウやシラヒゲソウなどの希少な植物が自生している。 周囲からの旧石器時代から古墳時代にかけての石器や土器が出土しており、小田の池周辺が古代から人間の生活の場となっていたことが明らかになっている。 外部リンク[編集] 大分県自然ガイドブック-小田の池と湿原 日本の重要湿地500 No.400 小田の池 表 話 編 歴 日本の湖沼 北海道 阿寒湖 厚岸湖 網走湖 ウトナイ湖 生花苗沼

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通勤形車両 (鉄道) – Wikipedia

通勤形車両(つうきんがたしゃりょう)とは、通勤・通学者を主な乗客と想定し、近距離列車のうち大量輸送に最適化された接客設備と走行性能を有する鉄道車両を指す用語である。 本来は日本国有鉄道(国鉄)・JRが定めた車両区分の一種であるが、国鉄・JR以外においても同種の用途である車両のことを通勤形車両と称する場合があり、当項目ではそれを含めて解説する。 特徴[編集] JR西日本321系の側面(左)と室内(右)。通勤形車両は多くの利用客が乗車できるように乗降性を重視した設計となっている。 日本の鉄道における一般的な特徴として、車内のほとんどがロングシートで、多数のつり革を設置しており、座席数よりも立席面積の確保を優先してラッシュ輸送に対応している傾向がある。ドア数も片側3ドアや4ドアを基本とし、なかには5ドアや6ドアのバリエーションもあるが、いずれも乗降性を重視した設計となっている。 定義[編集] 狭義では通勤用に特化した車両であるが、優等列車(特に特別急行列車)専用[注 1]以外の車両を指す場合もある[2]。 日本国有鉄道・JR[編集] 国鉄では明確に規定されており、車両規定によれば「客室に出入り口を有し、縦型座席(いわゆるロングシート)を備え、通勤輸送に適した性能を有する車両形式のもの」とされている[3][4][5]。 国鉄では、1944年に登場した63系以降の片側4ドア形電車を「通勤形電車」として規定しており(例外的に3ドア車もあった)、3ドアでクロスシートを装備した近郊形車両とは設備・性能とも区別されていたが、JR移行後は両者の区分が曖昧となり、このカテゴリー分けは崩れつつある。 気動車では片側3ドアでロングシートを装備するキハ35系やJR北海道キハ201系が通勤形として製作されているが、国鉄時代の特急形・急行形以外の普通列車用気動車は明確な分類がなく、どの形式がどの分類に属するか文献により相違がみられたため、形の上では通勤形・近郊形と謳った車両であっても一般形の概念に含まれるものとされている[6]。その他にも元準急用キハ55系の旧一等車や、急行形キハ58系をオールロングシート化した車両も過去に存在した。気動車では国鉄時代の液体式気動車は特急形を除いて互換性が重視されており、実際の運用では特急形を除く気動車との混結も少なくはなく、電車と異なり車種による運用の区別は明確ではなかった[7]。 10系以前の客車(旧型客車)については車両上の区分を厳密に定めていないが[注 2]、戦後の車両不足の時期に対処する形で製作された戦災復旧車である70系は実質的な通勤形客車であり、室内はロングシートで必要最小限の設備を設けた程度である。その車内設備の悪さから本来の旅客車の増備につれて早い内に荷物車などに改造され、後に救援車などの事業用車に再改造された。後に旧二等車や鋼体化改造車である60系の一部で通勤形化改造と称するロングシート化した車両もあったが[注 3]、日本の客車において通勤形は普及していない。これは国鉄の客車に対する考え方にもよるが、客車の新車の投入は長距離列車で使用することが多く、優等列車が優先されていたことや動力集中方式は運転時分の短縮が難しいこと、動力近代化計画の取り組みでは静粛性が追求される夜行列車用を除いて動力分散方式又は全電動車方式を推進していたことから普通列車用の客車の製造に消極的だったことなどが挙げられる[10]。国鉄が最後に製造した客車である50系は通勤輸送を主目的としているが、地方での実情を反映して室内はセミクロスシートとしたため、通勤形として製造した場合、前述の通りロングシートが原則であったため、「通勤形でも近郊形でもない」車両であることから一般形に分類していた[11][12]。 広義では通勤輸送のために開発された車両を意味し、前述の50系客車はもとより、新幹線電車であるE1系とE4系、ライナー列車向けの近郊形電車である215系といった2階建車両も通勤輸送のために開発されており、これらも通勤形に含まれる概念となる[13]。 鉄道車両の形式は新性能電車について、国鉄時代は車両形式区分の第2位(十の位)の数字が原則として「0」が通勤形に割り当てられていたが、JR化後はそれ以外の数字も使われている。北海道旅客鉄道(JR北海道)では「3」を通勤形としつつある。西日本旅客鉄道(JR西日本)では2005年(平成17年)度以降に新製された普通列車用の車両については車両形式区分の第2位(十の位)の数字「0 – 3、5、6」を通勤形及び近郊形としたが[14]、2017年(平成29年)時点では321系、323系のみの使用に留まっており、実際のところは車両形式区分の第1位(一の位)の数字「3」を通勤形としつつある。 民営化後の特徴として、地方都市で運用されていたセミクロスシートの近郊形車両をロングシートの通勤形車両に置き換えるケースが増えている。これはセミクロスシート3〜4両編成の近郊形車両をロングシート2〜3両編成の通勤形車両に置き換えることで、所要車両数削減による導入・固定経費減少を図る狙いがある[注

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