クィントゥス・ポンペイウス(ラテン語: Quintus Pompeius、紀元前184年 – 没年不明)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前141年にコンスル(執政官)、紀元前131年にケンソル(監察官)を務めた。 カピトリヌスのファスティによれば、ポンペイウスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はアウルスである[1]。ポンペイウスの祖先に関する情報は、これのみである[2]。キケロによれば、ポンペイウス家は「取るに足らない、あまり知られていない家系」で[3]、彼のキャリアにおいて先祖の功績に頼ることができなかった[4]。彼の父親がフルート奏者だったという噂さえある[5][6]。従って、典型的なノウス・ホモ(父祖に高位の公職者を持たず、執政官に就任した者)である[7][8]。 早期の経歴[編集] ポンペイウスの誕生年は紀元前184年と推定されている[9]。初期の経歴に関しては不明であるが[2]、キケロは「多くの人々の敵意、最大の危険、窮乏を乗り越えて、最高の栄誉を達成した」と述べている[3]。現代の研究者は、ポンペイウスを「スキピオ派」の一員と見ている。彼らは家族や友人関係、ギリシャ文化への愛、穏健な改革思考、などで結ばれていた[10][11]。ポンペイウスはスキピオ派の指導者であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス、とほぼ年齢が同じであった[12]。 当時のウィッリウス法の規定から、ポンペイウスは遅くとも紀元前144年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[8][13]。アッピアノスは紀元前143年にローマの将軍「クィントゥス」がルシタニア人の指導者ヴィリアトゥスとヒスパニアで戦い敗北したとしている[14]。これが正しければ、ポンペイウスはプロプラエトル(前法務官)としてヒスパニアに出征したと考えられる[8]。またアッピアノスはギリシア人であることもあり、個人名のクィントゥスと氏族名のクィンクティウスを混同している、つまりこの人物はポンペイウスではないとする説もある[2]。 何れにせよ、この頃までにポンペイウスは庶民の人気を得ており、これを背景にして紀元前142年の末に、執政官を選挙に出馬して勝利した[2]。ポンペイスの政敵には、ルキウス・フリウス・ピルス[15]、グナエウスとクィントゥスのカエピオ兄弟、クィントゥスとルキウスのメテッルス兄弟、等がいた[7][16][17]。ポンペイウスは出馬の時点では、自分は当選の意思はなくスキピオ・アエミリアヌスの親友であるガイウス・ラエリウス・サピエンスを支援すると称していたが、これは偽りであった。最後の瞬間に、ポンペイウスは自分に有利な票を集めていたことが判明した。プルタルコスによれば、これを知ったスキピオ・アエミリアヌスは、「フルート奏者の助けをこんなにも待っていたのは愚かなことだ」と笑ったという[5]。その後、彼はポンペイとの友情を断固拒否した[18]。 ポンペイウスの同僚執政官は、その政敵の一人であるグナエウス・セルウィリウス・カエピオであった[19]。元老院特別令により、ポンペイウスはヒスパニア・キテリオルに派遣されることとなり、グナエウス・カエピオの担当地域はイタリア本土となった。G. Simonはこの特別例が民会からのものだった可能性を示唆している。カエピオ兄弟は間違いなくこれを防止しようとしたが、成功しなかった[17]。 ヒスパニア[編集] ポンペイウスは海路を使って任地に到着した。ケルティベリアの近くで、前任者のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスから[20]、歩兵30,000と騎兵2,000からなる軍の指揮を引き継いだ。マケドニクスは執政官、さらにはプロコンスル(前執政官)として、2年間ケルティベリア人と戦い、大きな成功を収めていた。平地部においては、ローマに服従していない都市は、ヌマンティアとテルマンティアの2つだけとなっていた。紀元前153年から反抗を続けるヌマンティアの奪取が、ポンペイウスの主任務であった[21]。 ポンペイウスはヌマンティアの近くに野営地を設営した。ある日、馬に乗って野営地から出たポンペイウスをヌマンティア軍が追尾、これを攻撃した。ローマ軍は軽微な損害を負ったが、ポンペイウスは野営地に戻った。その後直ちに軍を出撃させ、平地部に陣を敷いた。ヌマンティア軍はローマ軍に向かって下ってきたが、自軍の塹壕と柵に誘い込むため、敗走を装ってとゆっくりと後退した[22]。ローマ軍は数には勝っていたが、兵士は連日の小競り合いで疲労していた。ポンペイウスはヌマンティアを簡単に攻略することはできないと考え、目標をテルマンティアに変更した。しかし、ここでも兵700を失い、トリブヌス・ミリトゥム(高級士官)の一部隊が敗走した。ローマ軍は岩場に追い込まれ、多くの兵士や馬が崖から落ちた。残りの者はパニックに陥り、武器を持って夜を過ごした。夜明けには敵が出てきて、通常の戦いが一日中続いたが勝敗はつかなかった。やがて夜になったために戦闘は終了した[23]。ポンペイウスは勝利を宣言したものの [24]、結局は退却した[25]。 ヌマンティアの遺構 ポンペイウスはマリアの攻略を新たな目標とした。数日間の包囲の末、マリアは降伏を決意した。交渉の最中、ポンペイウスはマリアを守っていた400人のヌマンティア兵を差し出すよう要求した。マリア側はこれに同意したが、これを知ったヌマンティア兵は夜になって住民を攻撃した。この騒ぎを聞いたローマ軍は街を占領し、ラグニは破壊され、貴族は皆殺しにされた。ポンペイウスは生き残った200人のヌマンティア人を解放したが、これは一部は同情のためであり、一部はヌマンティアとの講和を望んでいたためである[26]。この年の終わりまでに、ポンペイウスはローマに友好的なセダタニア人を襲っていたタンギヌスを首領とする盗賊を討伐した。多くの盗賊たちは捕らえられ、奴隷として売られた。冬の間、ポンペイウスはエデタニアで冬営した[27]。 紀元前140年、ポンペイウスは前執政官としてインペリウム(軍事指揮権)を維持し、引き続きヌマンティアと戦うこととなった[28]。春を待って、ポンペイウスは再びヌマンティアを包囲した。今回は街を外界から完全に遮断し、食料不足による降伏を狙った。封鎖を完全なものとするため、近くを流れる川を迂回させようとした。しかしヌマンティア軍は果敢に出撃し、其の度に工事を行うローマ兵は退却を余儀なくされた。結果、完全な封鎖は実現できず、兵の消耗のため軍の戦闘力も低下していった。加えて、隷下の兵士の多くは既に6年間もヒスパニアで戦っていたため、これらベテランを経験不足の新兵と交代させねばならなかった。結局、年末までに何の成果も得ることができなかった。退却を避けるため、ポンペイウスは野営地で冬営に入ったが、これが損害を拡大した。ローマ兵は寒さ、病気、さらにヌマンティア軍からの攻撃などで大量に死んでいった。結局、ポンペイウスはは軍をいくつかの都市に撤退させなければならなかった[29]。 一方でヌマンティアとテルマンティアの住民も、長引く戦争に疲弊しており、和平交渉を望んだ。ポンペイウスは表向きは降伏を要求したが、密かに譲歩に合意した。ポンペイウスは、捕虜、脱走者、人質の引き渡し、加えて9,000枚のマント、3,000枚の皮革、800頭の軍馬、銀30タレント
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