Month: October 2020

海老名弾正 – Wikipedia

海老名 弾正(えびな だんじょう、改名前は喜三郎、安政3年8月20日[1](1856年9月18日) – 昭和12年(1937年)5月22日[1])は、日本の思想家・教育者・キリスト教の伝道者・牧師・説教家。小崎弘道、宮川経輝と共に「組合教会の三元老」と呼ばれた。熊本バンドのメンバーで同志社総長となった最後の人物である。 1902年頃の本郷教会幹部(前列左から2人目が海老名弾正) 同志社総長時代の海老名弾正(1927年) 初期[編集] 筑後国柳川藩の藩士で六組給人(石高100石、小野勘解由組)の海老名平馬助の長男として生まれる。祖父は海老名弾右衛門。 熊本バンド[編集] 熊本洋学校に学び、明治9年(1876年)花岡山の誓約に加わり、L・L・ジェーンズから洗礼を受ける。その集団が後に熊本バンドと呼ばれるようになる。 その年の秋に同志社英学校余科(神学科)に移り、新島襄の薫陶を受ける。翌明治10年(1877年)に新島襄の勧めで上州安中へ夏期伝道に赴き、聖書講義を行った。評判が良く50-60人の青年が集まった。さらに、明治11年(1878年)にも安中伝道を行った。新島襄を迎えて30名の人が洗礼を受け、安中教会が誕生した。 牧師時代[編集] 明治12年(1879年)同志社を卒業すると、安中教会の正式な牧師となり、新島から按手礼を受ける。 明治15年(1882年)横井小楠の長女みや子と結婚する。明治16年(1883年)5月に上京して、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。 明治17年(1884年)に前橋へ転居して、前橋教会を創立する。明治19年(1886年)に東京伝道を志し、本郷湯島で伝道を開始して本郷教会を創立する。本郷教会は義兄の横井時雄に委ね、熊本に戻る。そこで、熊本英学校、熊本女学校を創立する。 明治23年(1890年)に海老名は日本基督教伝道会社の社長に就任し、アメリカから財政、神学的独立のために尽力した。明治26年(1893年)に神戸教会の牧師に就任するが、明治30年(1897年)に同教会を辞任し、東京に移る。 「キリスト同志会」をつくり本郷教会牧師の再建を図る。明治33年(1900年)に雑誌『新人』を発行する。吉野作造、内ヶ崎作三郎、深田康算、鈴木文治などが加わり、日本の思想界、キリスト教界の注目を集めた。明治42年(1909年)には姉妹誌『新女界』を創刊し、安井てつ、海老名みや子などが健筆をふるった。 明治41年(1908年)、第3回万国会衆教会大会(エディンバラ)に日本組合教会を代表して参加。その旅の途中で米国カリフォルニア州で余生を送っていたかつての恩師ジェーンズとの再会を果たした。 この頃、吉野の教え子のひとりである帝大法科の学生中島重と出会い、のちに帝大を卒業したばかりの彼を同志社大学に教員として採用するよう推挙する。

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幻仔譚じゃのめ – Wikipedia

『幻仔譚じゃのめ』(げんしたんじゃのめ)は梅田阿比による日本の漫画作品。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)2008年49号より2010年12号まで連載された。妖怪を題材とした漫画作品。作者によれば、「蛇女房」という昔話をモチーフにしているという。 あらすじ[編集] 中学2年生の少女・朝灯は、父・陽の再婚相手と共に暮らすために、彼女たちの住む神緒町(かみおちょう)に引っ越してくる。その町には不思議な民間伝承があり、人と動物の精霊が婚姻するという「異類婚」が一昔前まで続けられており、今もなおその子孫が残る、と言われる土地であった。そこを訪れた朝灯は、突然激痛の発作に苦しむことに。発作に苦しむ中、陽の再婚相手・巴の連れ子である邑と出会い、その原因を巡って朝灯は母子の不思議な能力を知る事に… 登場人物[編集] 伊原家関係者[編集] 伊原 朝灯(いはら あさひ) ヒロイン。中学2年生。父である陽の再婚相手の住む神緒町へ、陽と共にやってくる。幼い頃に母親を病気で亡くしており、以来原因不明の激痛の発作に襲われるようになった。明るく前向きな性格で、陽の再婚にも乗り気であるが、内面では無理をしているのではないかと陽には気遣われている。邑との関わりの中で、自らの体に走る激痛の原因を知る。その激痛の正体は、母を亡くした幼い朝灯の心に棲み付いた妖・「虹蛔」の仕業だった。巴と邑により妖は退治されるが、妖の最後の悪あがきで右眼を失い、肉体も傷付き瀕死となるが、巴の眼球をその身に受け継ぐことで回復し、生き永らえる。また巴の眼球を舐めることで舌に模様があらわれ力がやどる。ただし数日たつと力が消えるため再度舐める必要がある。巳緒が3歳の時に右眼を巴に返還した模様。 伊原 邑(いはら ゆう) 主人公。中学2年生。朝灯の義弟。旧姓・境(さかい)。母親の巴と共に神緒町に暮らしている。人見知りが激しく、他人に心を開かず、トラブルも起こすと言われる問題児であり、学校でも気味悪がられており友人はいない。再婚にも乗り気でなかったが、朝灯と出会い、彼女を受け入れていく。蛇(ヤマカガシ)の精霊の血を引いており、巴の眼球をしゃぶることで特殊な力を引き出せる。また奥歯で噛むことで毒を浴びせる。左目の奥に「覚鱗」と呼ばれる母親の鱗が数枚挟み込まれており、有り余る力をセーブしている。覚鱗は自分では外せないので巴か朝灯に舌で舐め取ってもらわないといけない。 伊原 陽(いはら あきら) 朝灯の父親。最近まで精霊の力のことを知らなかった。巴、邑母子や朝灯の秘密を逡巡なく受け入れ、家族としての絆をより深めることのできる博愛的で器の大きい人物。兵梧に巴、邑母子への仕打ちを抗議しに行った時、最強の霊力を持つ兵梧に「人間としての強さ」を思い知らせた。 伊原 巴(いはら ともえ)

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豊橋鉄道モハ200形電車 – Wikipedia

豊橋鉄道モハ200形電車(とよはしてつどうモハ200かたでんしゃ)は、かつて豊橋鉄道が保有していた路面電車用の電車である。 1949年(昭和24年)に市内線で運転を開始した車両である。元は北海道の路面電車である旭川市街軌道が保有していた車両で、中古車ながら市内線では23年ぶりの新型車両になった。単車であり、ボギー車の増備にともなって1965年(昭和40年)に廃車された。 廃車の前年、形式称号がモハ200形からモ200形に変更されている。 1949年(昭和24年)2月25日付で旭川市街軌道から購入した車両である。4両(車両番号は201から204まで)導入された。旭川市街軌道時代の番号は順に24・27・12・13で、24・27は1930年(昭和5年)8月汽車製造製、12・13は1929年(昭和4年)7月川崎車輌製である。 車両は半鋼製の低床車であった。幅が広く角ばった車体であり、幅の広さゆえの収容力を活かしてラッシュ時や団体輸送で重宝された。車体側面には前後1か所ずつのドアと戸袋窓、それに6枚の客室窓が並んだ。登場時の塗装は戦後の暗い雰囲気を和らげるようなスカイブルー一色であったが、のちに緑と黄のツートーンへと塗り替えられた。また、屋根上に取り付けられたお椀形のベンチレーターも特徴の一つであった。 集電装置は当初トロリーポールを使用していたが、1954年(昭和29年)8月3日に204がビューゲルに取り替えたのを皮切りに、10月までに全車のビューゲル化が完了した。ビューゲルは中央の1か所のみであったが、トロリーポールは前後の2か所に取り付けられ、折り返し時のポール回しを省略していた。 1963年(昭和38年)に名古屋市電からボギー車が大量に転入すると単車のモハ200形は余剰になり、このころから休車状態となった。1964年(昭和39年)7月22日付の形式称号改定でモハ200形からモ200形に変わったが、その翌年の1965年(昭和40年)5月24日付で廃車された。うち2両の車体が赤岩口車庫に1980年頃まで残されていた[1]。 主要諸元[編集] 廃車時点の諸元を示す。メーカー・製造年の違いで、一部が異なる。 201・202(元旭川市街軌道 24・27) 製造者:汽車製造東京支店 定員:44人(座席定員 20人) 自重:8.74トン 最大寸法 長:8,350mm 幅:2,438mm 高:3,726mm 台車:汽車製造製

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アイスキャンディー – Wikipedia

緑色のアイスキャンディー アイスキャンディーは、棒状の氷菓を指し、日本ではアイスバーとも呼ばれる。英語ではアイスポップ (ice pop) とするのが一般的であり、また、アメリカ合衆国では登録商標のポップシクル (Popsicle) が一般名称化している。フィリピンなど東南アジアでアイスキャンディー (ice candy) と言えば、主に自家製氷菓を指し、原料液をアイスキャンディー専用の細長いビニール製の袋に流し込み、口を縛って冷凍するだけの簡素な物で、棒などは差さず袋からそのまま食する。 水・果汁・牛乳などに、砂糖などの甘味料・香料・着色料、固形の原料などを加えて、型に流し込み、木製やプラスチック製の棒を差し入れて凍らせたもの。固形の原料としては、果肉、小豆やチョコレートなどが使われる。凍らせたあとで、溶かしたチョコレートやアーモンドクリームなどに漬けて、表面を覆う場合もある。 形状は直方体のものが多く円筒形の場合もある。 販売方法[編集] アイスクリームに比べ、より安価・簡単につくれ、また屋外での飲食に便利な形状から、夏の野外での小売がさかんに行われた。氷旗を立てたクーラーボックスを自転車に載せ、カランカランと手で鐘を鳴らす「アイスキャンディー売り」は、かつてどこにでも見られた夏の風物詩だった。人出の多いビーチや公園などでは、今も見かけられる。 小売店の軒先に電気式の保冷庫が置かれるようになると、最も身近な氷菓子となる。中でもコストを抑えて安価に造られたものは、駄菓子として子供達の間に定着した。 商品によっては、棒が2本刺してあり、2等分でき、2人で分けて食べたり、ひとりで2本食べたりして楽しめるものもある。これらは子供達が楽しめるよう、工夫されたものである。 現在、氷菓子の加工技術の向上によって、他にも安価で多様な形態の氷菓子が供されており、かつて程ではなくなったが、低価格帯で根強い人気商品として、今も広く販売されている。 当たり棒[編集] アイスキャンディーに使用される棒には「あたり」「はずれ」の焼き印が押されたものもあり、「あたり」が出ると販売した店舗などでアイスキャンディーと交換してもらえる、または製造販売元に郵送することでノベルティグッズが当たる製品といったキャンペーンが行われることがある。 なお、当たり棒を偽造して詐欺未遂で逮捕された事例も存在する[1]。

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司馬歆 – Wikipedia

司馬 歆(しば きん、? – 303年)は、西晋の皇族。字は弘舒。扶風武王司馬駿の子で、司馬懿の孫にあたる。 286年、父がこの世を去って長兄の司馬暢が扶風王を継ぐと、司馬暢は封国を司馬歆に分け与える様朝廷へ請うた。289年11月、武帝司馬炎は詔を下し、司馬歆を新野県公に封じ、食邑1800戸を与え、儀礼は県王と同等のものとした。司馬歆はまだ少年にも関わらず財産があり身分は高かったが、自らを律して道義を履行していた。彼の母である臧太妃がこの世を去った時、喪に服する様は礼制を超えており、その孝行振りで評判となった。後に散騎常侍に任じられた。 301年1月、趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬歆は南中郎将に任じられた。3月、斉王司馬冏が司馬倫討伐の兵を挙げると、州郡に檄文を送った。司馬歆はどちらにつけばいいか分からず困惑していたが、司馬歆の側近である王綏は「趙王は公の近親で強盛であり、斉王は疎遠で弱小である事から、趙王に従うべきです」と勧めたが、参軍孫詢は衆人へ向けて大声で「趙王は凶逆であり、天下が共同で討伐しようとしているのです。大義の為には親族の情は顧みないのが、古代からの賢明なる掟です」と述べた。司馬歆はこれに同意し、兵を興して司馬冏の補佐に当たった。また、司馬歆は孫詢を司馬冏の下に派遣すると、司馬冏は彼を迎え入れてその手を取り「我が大節を成し遂げさせるのは、新野公である」と喜んだ。 司馬冏が司馬倫軍を破って洛陽に入ると、司馬歆は自ら甲冑を身に纏って部下を率い、その先導役となった。司馬歆は今回の功績により、新野郡王に進封され、食邑2万戸を与えられた。さらに、使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。 司馬歆は赴任する前に、司馬冏と共に車で陵墓へ拝謁しに行った。その時、機会を見つけて司馬冏へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟であり、さらに大功を立てております。洛陽に留まらせて共に輔政するか、それができないなら兵権を奪うべきです」と進言したが、司馬冏は聞き入れなかった。 302年12月、河間王司馬顒は恵帝へ上表し、司馬冏が帝位簒奪を目論んでいるとして、司馬歆・成都王司馬穎・范陽王司馬虓を洛陽に集結させ、また司馬冏を免官して屋敷に戻すよう請うた。長沙王司馬乂が司馬冏を殺害すると、司馬歆は禍を大いに恐れ、積極的に司馬穎と交流を深めた。 司馬歆の治政は厳格で過酷であったので、少数民族はみなこれを恨んだ。303年5月、義陽の蛮人である張昌が江夏で反乱を起こすと、司馬歆は騎督靳満に迎撃を命じたが、靳満は敗走した。司馬歆は上表して「妖賊犬羊は万人を数えており、絳頭(赤い頭)と毛面(髭顔)で刀戟を持って動き回り、誰も勢いを止めることができません。願わくば朝廷には三道から討伐の兵を出していただきたく」と述べて救援を請うた。当時、司馬乂が執政していたが、司馬穎と対立していた事から、司馬歆と司馬穎の企みではないかと疑い、討伐軍を派遣しなかった。張昌の勢力は日に日に強大化したので、従事中郎孫詢は司馬歆へ「古人の言葉には、1日悪に対して寛容であれば、数代にもわたる憂患となるとあります。公は地方の主として王室の防壁となる重任を担っており、朝廷を助ける重要な位置であります。既に上書した以上、実際に行動を起こしても罪になる事がありましょうか。姦凶は日に日に勢いを増しており、既に予測がつかない状況です。よもやこれが王室の妨げにならない事があるとお思いですか!」と述べ、出兵を勧めた。しかし、司馬歆が出兵しようとすると、王綏は「張昌のような小賊を征服するには、偏将・裨将であれば十分です。詔による許可も得ていないのに、どうして自ら矢石の危険に臨むというのですか!」と反対したので、取りやめとなった。 張昌軍が樊城へ襲来すると、司馬歆は自ら出陣して迎撃したが、大敗を喫して軍は崩壊し、張昌により殺害された。朝廷は驃騎将軍を追贈し、荘王と諡した。 参考文献[編集]

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エイヤ=リーサ・アハティラ – Wikipedia

エイヤ=リーサ・アハティラ(Eija-Liisa Ahtila、1959年 – )は、フィンランドのアーティスト。おもにビデオ・アーティスト、フォトグラファーとして知られる。カナ転写はエイヤ=リーサ・アッティラとも。 目次 1 経歴 1.1 教育 1.2 展示・受賞 2 作品 3 収蔵状況 4 出典・脚注 5 外部リンク 教育[編集]

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メンデレス川 – Wikipedia

メンデレス川とハンチャラル橋(デニズリ県チャル近郊) メンデレス川(トルコ語: Büyük Menderes Nehri)、古名マイアンドロス(古代ギリシア語: Μαίανδρος / Maíandros、現代ギリシャ語ではメアンドロス)はトルコ南部の川。トルコにはもうひとつ同名のメンデレス川(Küçük Menderes)があり、本記事の川を「大メンデレス川」(ビュユックメンデレス川)、もうひとつの川を「小メンデレス川」(キュチュックメンデレス川)と呼ぶことも多い。流れのあちこちが蛇行しており、英単語meander(曲流する)はこの川の名に由来する。 トルコ中央部の西側、ディナール(Dinar)付近を水源とする。イシュクル湖(Işıklı)を出て蛇行しながら西方向に流れ、アドゥギュゼル・ダム(Adıgüzel Barajı)に入る。このダムでハマム川(Hamamçayı)と合流する。ダムを出るとさらに西に流れてチュリュクス川(Çürüksu Çayı)と合流し、さらにダンダラス川(Dandalas Çayı)、アクチャイ川(Akçay)、チネ川(Çine Çayı)、チャムルルウルジャ川(Çamurluılıca Çayı)、サル川(Sarı Çayı)、チャミチ・ギョリュ川(Çamiçi Gölü Çayı、バファ湖の流出河川)と合流して最終的には古代イオニアのミレトス付近でエーゲ海に注ぐ。 古代文献への登場[編集] メンデレス川はアナトリア半島で古代にイオニア人が住んでいたカリア地方を流れていた川としてマイアンドロス川の名で有名である。早くもヘシオドスの『神統記』に名前が見え[1]、トロイア戦争について歌ったホメロスの叙事詩『イリアス』でもミレトス市と共に登場する[2]。

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兪海濬 – Wikipedia

兪 海濬(ユ・ヘジュン、유해준、1917年12月 – 1986年)は日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の軍人。 1917年12月、忠清南道唐津に兪鎭瓚の次男として生まれる[1]。合徳普通公立学校卒業[1]。禮山公立農業学校[2] を3年で修了した後、1935年、中国に亡命した[1]。奉天と上海を経て南京に着き、1936年、朝鮮民族革命党に入党[1]。1937年、民族革命党を離党して杭州に移動し、韓国独立党に入党[1]。同年、広東中山大学に入学したが、日中戦争勃発時に韓国独立党に復帰して杭州に残留していた人員を搬送した[1]。 1938年1月、中央陸軍軍官学校第15期入学。第1総隊砲兵大隊第2隊配属[3]。1940年7月、中央陸軍軍官学校第15期卒業。光復軍が創設されると総司令部参謀、西安総司令部暫定部署幹部、第2支隊幹部を歴任。1942年、高雲起と池達洙と共に綏遠省で召募工作活動を行った[1]。1943年、綏遠省包頭に潜入し、内蒙軍に仮入隊した[1]。召募した韓国人の密告によって日本の憲兵に逮捕されて日本に移送後、懲役2年、執行猶予3年を宣告される[1]。終戦の3か月前に釈放される[4]。終戦後は光復軍駐北平暫編支隊(支隊長:崔用徳)参謀(政訓部長[5])および北平地区特派団員として活動した。 1946年1月28日付で軍事英語学校を卒業して中尉に任官(軍番10036番)。第1連隊の創設に参加、同連隊勤務中隊(中隊長:張錫倫大尉)小隊長。1949年6月20日、第25連隊長(中領)。1949年12月24日、隷下の第2大隊第7中隊第2小隊及び第3小隊が住民を虐殺する聞慶虐殺事件が起き、1950年1月に直接責任を負って連隊長を解任され、陸軍歩兵学校に転属となった。 朝鮮戦争勃発時、陸軍歩兵学校学生隊長。臨時編成した教導連隊の連隊長となり臨津江で防御していた第1師団(師団長:白善燁大領)の増援に向かった[11]。白師団長は教導連隊を解体して主力は師団予備とし、歩兵学校大隊を第11連隊(連隊長:崔慶禄大領)に、陸士大隊の2個中隊を第13連隊(連隊長:金益烈大領)に配属し、連隊本部の幹部は師団司令部要員となった。6月27日午後、兪は、切羽詰まった戦況からせめて部隊を指揮して一戦を交えたいと念願し、白師団長はこれを受け入れて、各連隊に分属されていた教導隊の配属を解いた。兪は約300人を集めて、白師団長はこれを師団予備とした。6月28日、師団の反撃作戦に参加、抵抗を受けることなく前進して主抵抗線を回復した。さらに南下する人民軍を発見して、これに猛射を浴びせて45ミリ対戦車砲を鹵獲した。ソウルが陥落したことにより第1師団は後退するが、前線にいた兪の部隊に後退命令が届かず、師団司令部が下がった後に撤退を知り、敵中を切り抜けて南下した。 歩兵学校混成連隊長として漢江の戦いに参加[16]。1950年7月7日、新編第9連隊長[17]。釜山橋頭堡の戦いでは第25連隊長として杞渓・安康の戦いに投入されるが損害を受けたので更迭される。 1952年、南部地区警備司令部副司令官。 1953年、南部地区警備司令官[19]。 朝鮮戦争休戦後は陸軍歩兵学校校長、政訓監(1959年6月[20])、陸軍大学総長(1962年3月[21])、第1軍副司令官などを歴任[1]。 1967年8月21日[22]、少将で予備役編入。 1967年8月23日、水資源開発公社理事[23] 1977年、建国勲章独立章授与[1]。 参考文献[編集] 韓詩俊 (1993). 韓國光復軍研究.

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悪魔の棲む家・最終章/ザ・ポルターガイスト – Wikipedia

悪魔の棲む家・最終章/ザ・ポルターガイスト Amityville Dollhouse 監督 スティーヴ・ホワイト 脚本 ジョシュア・マイケル・スターン 製作 スティーヴ・ホワイトゼイン・W・レヴィットマーク・イェレン 製作総指揮 デヴィッド・ニューロン 出演者 ロビン・トーマススター・アンドレフレイチェル・ダンカン 音楽 レイ・コルコード 撮影 トム・キャラウェイ 編集 カート・ヴァンダーミューレン 製作会社

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ジャスティン・ワッツ – Wikipedia

ジャスティン・ワッツ(Justin Watts、1990年7月1日 – )はアメリカ合衆国の男子バスケットボール選手。ポジションはシューティングガード/スモールフォワード。ウルグアイリーグのデフェンソール・スポルティング所属。 ノースカロライナ州のダーラム出身。いとこにNFLで8シーズンプレーしたハンク・ポーティート(英語版)が居る[1]。Charles E. Jordanハイスクールに進学し、シニアの年(3年時)にはキャプテンを務める[1]。Pac-6カンファレンスのプレーヤー・オブ・ザ・イヤー、カンファレンス選抜などに選出されている。 カレッジ[編集] ノースカロライナ大学進学後、フレッシュマンの2008-09シーズンにNCAA男子バスケットボールトーナメント優勝チームのメンバーとなった。シーズン27試合に出場し、1試合平均0.7得点。シーズンハイはマウイで行われたチャミネード大学戦での9得点、4リバウンド[1][2]。 ソフモアの2009-10シーズンは出場機会がわずかに増えた。2009年12月12日のプレスビティリアン大学戦で初めて先発出場し、キャリアハイの22分間の出場で9得点、4リバウンド、3アシスト、2スティール。シーズン計23試合1試合平均6.2分の出場で1.7得点[1][2]。 ジュニアの2010-11シーズンは出場機会はさらに増えた。ホフストラ大学戦で6本のシュートをすべて決めてキャリアハイかつ初の二桁13得点を記録。シーズン計では34試合1試合平均9.2分の出場で1.9得点、1.9リバウンド[1][2]。 シニアの2011-12シーズンの出場機会は少し減少した。38試合1試合平均7.2分間の出場で1.2得点、1.3リバウンド[2]。 彼はNBAからドラフトされる多数の有力選手と一緒のチームに所属していたため出場機会は限られていたが、大学でのキャリアを通じて共同キャプテンを務めており、またポイントガードからパワーフォワードの多様なポジションをプレーしてインパクトを残した[3]。 プロフェッショナル[編集] 大学卒業後の2012-13シーズンはプレーせず、2013年3月にオーストラリア・QBLのロックハンプトン・ロケッツに加入[3]。18試合で22.3得点、7.3リバウンド、3.3アシストの成績で優勝に貢献した[4][5]。 2014年3月、メキシコ・CIBACOPAのカボルカに入団。17試合に出場して24.1得点(リーグ1位)、5.7リバウンド、2.7アシスト、1.5スティールを記録[6][7]。 2014-15シーズンはbjリーグの高松ファイブアローズと契約[8][7]。公式戦初出場した10月4日のバンビシャス奈良戦で17得点、4アシストをマーク。ダンクシュートを5本決めた[9]。跳躍力を活かしたスラムダンクで観客を魅了し、地元スポーツメディアから「AIR KAGAWA」とも呼ばれた[10]。2015年1月、bjリーグオールスターゲームに出場した。 シーズン チーム

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