WWA極東ヘビー級王座 – Wikipedia

WWA極東ヘビー級王座(ダブリュー・ダブリュー・エーきょくとうヘビーきゅうおうざ)は、韓国プロレスリング連盟が管理するプロレスの王座。

大木金太郎の時代[編集]

1963年に力道山が急死した後、大木金太郎が力道山の正当な後継者であることを主張した(大木は韓国出身で力道山とは朝鮮半島出身の先輩後輩の関係になる。ただし、当時力道山が朝鮮半島出身であることは公表されていなかった)。そこでインターナショナル・ヘビー級王座を望んだ大木に対して日本プロレス首脳は、これを拒否。かわりに日本プロレスは、1965年に大木を極東ヘビー級王座に認定することとし、8月11日の韓国・ソウル大会にて王座決定戦を開催し、大木が芳の里を破って初代王者に就いた[1]

大木は韓国と日本で、カール・カールソン、リッパー・コリンズ、ジョー・スカルパ、キラー・カール・コックス、ターザン・ゾロなどを相手に防衛戦を数度行うが、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級選手権に比べて観客動員の低調ぶりと挑戦者の格の低さは明らかであった。極東ヘビー級王座に価値が無いことを察した大木は同王座を見限り、1966年12月に返上、その後も新王者決定戦などは開かれずに事実上封印された。

一方、当時の日本プロレス社長の豊登は、日本プロレス協会の会長だった児玉誉士夫らの圧力もあり、大木がNWA世界ヘビー級王座やそれに準じる王座を獲得した場合、大木に2代目力道山を襲名させることを約束する[2]。大木は1967年4月29日、ソウルにてマーク・ルーインを破り、当時NWA、AWA、WWWFと並んで世界四大タイトルのひとつと言われていたWWA世界ヘビー級王座を獲得する[3]

しかし、力道山襲名を約束した豊登は当時すでに日本プロレスを退社しており、児玉誉士夫らも警察の暴力団壊滅作戦により日本プロレスから身を引いていた[2]。また、当時の日本プロレスでは馬場と並んでアントニオ猪木もスター選手として台頭していた時期であり、さらに大木は帰国前にWWA世界ヘビー級王座から陥落していたこともあって、馬場や猪木に人気面で劣る大木の力道山襲名は、前社長(豊登)の独断によるものとして反故にされた[2]。しかし、この一件でWWAと大木に接点が生まれた。なお、大木は1960年代から大韓プロレス協会(のちの韓国プロレスリング連盟)を主宰しており、WWA世界王者ルーインの渡韓も大木のブッキングで実現した。

韓国プロレスの時代[編集]

1990年、極東ヘビー級王座は韓国プロレス界において復活された。8月11日、キム・イル(大木)派の主力の一人である李王杓(リー・ワンピョ)が王座決定戦に勝利して極東ヘビー級王者となった。この王座はダラスのプロレス団体であるGWFから認定された。しかし1996年頃以降、同王座は休止された。

2000年3月25日のキム・イル引退記念試合で、李はクルガンを破り、韓国プロレスリング連盟のヘビー級王者となる。この際、かつて大木も戴冠したことのあるロサンゼルス版WWA王座をルー・テーズが独自に復活させ、WWA世界ヘビー級王座(韓国版)となった[4]

2006年11月30日、休止していた極東ヘビー級王座の決定戦で、魯智深(ノ・ジシム)が畠中浩旭を破り、その際にWWAから認定され、WWA極東ヘビー級王座と改名された[5]。魯はTYマグナスなどの挑戦を退け、近年も王座を防衛している。